1. 封印解放

 後ろから「待って!」と叫ぶ声が追ってくる。男は無視して大股で歩き続けた。
「待って! 待って! 待って! 待って!」
 金切り声にいかにも必死の響きをにじませ、それでもどれほど早足で歩こうが、その声はいっかな遠ざかってはいかなかった。
 くそっ! 胸の中で毒づくと男は重く肩にくいこむ荷をゆすりあげ、左腰に下がっている手槍を鞘ごとぐいと後ろに回し、体を前傾させて走り出した。
 はっはっと規則正しい息をつぎながら、石がちらばる荒れた街道を走っていく。街道と言っても道の先にあった炭坑が閉鎖されてからというものこれは捨てられた道で、近くの街で大規模な改装工事がおこなわれた時、舗装の石はのきなみはがされて持ち去られた。おかげで、石のかけらが散乱し、妙なでこぼこのまま踏み固められた道は、くぼみに足をとられて歩きづらいことこの上ない。
 そこをひょいひょいとよけながら、男はたやすく速度をあげていく。たちまち、普通の人間ならば荷がなくとも追いつけないほどの速さに至り、風切って走りながら、背後からの声が途絶えたことに満足した。
 乱れのない呼吸のなか、唇だけをにやりと歪ませる。よし、よし、これで厄介払い──
 頭上で羽音がしたのは、その時だった。
 空気を叩く音をきいた瞬間、咄嗟にとびすさった男の前に、影がくるりと一転して着地した。膝をぐんと曲げて着地の衝撃を吸収し、それは立ち上がりながら唇をとがらせる。
「待って!」
「‥‥飛べたのか」
 男は心なしか青ざめて、後ろにずりっと下がった。目の前にいるシロモノから目は離さず、腰の槍に手をやろうとする。
「みたいだね?」
 他人事のような返事が戻ってきた。実際、「それ」は首をかしげている。その背中にはいつのまにか奇妙な形の翼が生えていた。爬虫類の鱗模様が全体にびっしりついた、まるで巨大でうすっぺらい手のひらのような、それは「翼」というより「ひれ」に近い。
 そのいびつさは、だが、そこに立つ「それ」の全体に漂う歪んだ印象にはしっくりなじんでいた。
「それ」が何なのか、男にはよくわからない。妖物、というものだろうか。だが、各地の遺跡や墓にしのびこんで呪物や宝玉を盗み出してきた暮らしの中で妖物はさまざま見たが、こんなものははじめてだった。
 基本的には人の形態をしている。人を、思いきり縦長にしたように、骨格はひどく細長いが。足は二本、胴は長く、腕も二本。今は背中に一対の翼(まがい)がゆらゆらと揺れている。さっきまで確かに羽などなかったはずの場所に。
 腰から折れたように上体が大きく前にのめり、長い腕をだらりと地面まで垂らしているが、手をついてはいない。斜めに下がった肩の間から首がぐいっと長く──いささか長すぎる──上にのび、短い毛が覆った獰猛な顔が彼を見つめていた。くりんとした目は愛嬌があると言って言えなくもないが、暗い琥珀色の瞳は、人よりは爬虫類のような無機質の印象を受ける。口は肉食獣のもののように大きく耳元まで裂けていた。
 服は着ていない。体を覆うのは、毛と鱗がまだらに入り交じった肌だった。両足をひらいて立っているため、見るともなく股間が目に入り、これはとりあえず「雄」と言えるのだろうなとうんざりした頭で男は考える。
 妖物憑きの人間だろうか。だが、聖光の護符をふりかざしても、これはまったく動じなかったのだ。百年を経た強大な朽ち者を祓ったこともある、効力あらかたな護符がきかなかった段階で、男は自分の命が尽きたことを悟った。
 捨てられた炭坑の奥の奥に、老いた坑夫だけが知っている隠された「道」がある──と、そんな情報をかきあつめ、その先にこっそり埋め戻された聖遺跡が存在すると確信して、男はいさんでやってきた。そこまではよかった。道をひらくことにも成功した。中にはやはり古代の遺跡があり、見たこともない宝玉も見つけた。気分は最高だった。
 ‥‥仕掛けをといてたどりついた最後の部屋、その中央に飾られていたひときわ大きく美しい石にふれるまでは。いや、ふらふらと引き寄せられるようにそれを手にし、何を思ったか、床に叩きつけて粉々に割るまでは‥‥
 何であんなことをしたのだろうと、男は頭をかきむしりたかった。それがどれほど高価に見えようと、遺跡で「一番美しいもの」や「一番古いもの」には決して手を付けないのが、男が一度も曲げたことのない主義であり、絶対的な規則だった。古代の遺跡には人の手にあまるものが多く存在する。その危険を知り、敬意を払い、あぶなそうなものはよける。それだけで、自分の身にふりかかる危険を半減できる。それでずっとやってきたのに。
 あんなふうに祀られている石に手をふれるなんて、正気ではない。だが自分が石に「呼ばれた」のだと、今ではわかっていた。石というより、その中に封じられていた目の前の「コレ」に。そしてこの手で、封印を解いてしまったのだった。
 部屋中の闇があつまって、得体のしれない何かがビシャリと床に濡れた足音を叩きつけた時、男は「食われる」と思った。
 だが、長い沈黙の後、それは、何か舌足らずな言葉で男に「話しかけて」きた。
 意味がわからず男が呆然としていると、また何か別のことを言った。また別のことを。声の響きがどんどん変わり、男は、相手が色々な言葉をためしているのだと気がついた。どの言葉で男に通じるか、探っているのだ。これには知能がある。ぞっとして下がろうとしたが、足が鉛になったように動けなかった。
 少しして、何となく聞きなれた響きが言葉にまじり、さらにいくつかためしてから、ついに「それ」は言った。
「ごはん」


 ごはん、ごはん、ごはん。
 そう連呼されて、少しまた呆然としてから、男は死に物狂いの勢いで荷物の中から旅の食料をひっぱりだした。干し肉、塩漬け肉、干しイチジク、干しなつめ、石のように固く焼きしめたパン。どんどん放り投げる。それらを次々丸のみして平らげても、まだ空腹そうな相手を見て、岩塩のかたまりまでやった。自分が食われる前に相手を腹いっぱいにしないとならないと思った。
 そんなわけで、うれしそうに耳まで裂ける口の中へ、食料は全部消えたのだった。


 ──くそっ。
 街道に立って相手の口を眺めながら、それを思い出して、男は歯がみする。近くの街まで歩いて三日。食料なしで歩き通すことを思うと、腹立たしかった。あの時は「命が助かるなら食い物は全部やる」と祈ったものだが、現金なもので、命が助かった今となってはその祈りを撤回したい。
 男の腹がぐぅと大きな音を立てた。
「畜生」
 低くつぶやいて、男は歩きだそうとする。時間を無駄にしている余裕はない。その前へ一歩よって、「それ」は背中の翼をひらひらさせながら、笑みのようなものをつくった。
「ごはん?」
「うるせえ!」
「ごはん!」
 言うなり、ぱっと空中へとびあがって、風に巻かれるように飛んでいってしまう。ぼうっとそれを見送ったが、男は一つ首を振って、道をたどりはじめた。食べ物がないとわかって、別のどこかへ行ったのだろう。わけはわからなかったが、厄介払いできたと思う足取りは軽かった。
 ほんの200歩もいかないうちに、また羽音が上からふってくるまでは。
 凍りついた男の目の前に、湯気をあげそうな獲物をどさりとおろして、それはうれしそうに笑った。だんだん表情が人間に似てきている気がして、男はぶきみな思いでその顔をながめた。
「ごはん、ごはん」
「‥‥」
 地面に落とされた野ウサギを見る。ぴくりともしない獲物の首すじに小さな血の痕がついている。丸々と太った、やけに肉のやわらかそうなウサギだった。
「ごっはん」
「‥‥」
「ごはん!」
 ぐう、と男の腹が鳴った。


 内臓も使った野ウサギのスープに、塩をすり込んだ肉を入れる。塩はもう食べ尽くした──食べ尽くされた──後だったので、味はなし。胡椒もなし。そのままだと生臭すぎるので、肉は一度炙り焼いてから鍋に入れた。
 「ごはん!」連呼の相手に嫌がらせのつもりでスプーンを渡してみると、器用に右手でつかみ、鍋からスープをすくって食べている。自分の分は椀によそって食べながら、男は溜息をついた。
「‥‥なあ」
「ん?」
 うれしそうにスプーンをくわえて、それは大きな口のかたすみから返事をする。お前いったい何物だ、と言いかかって、男はぎょっと目をみひらいた。
「お前!」
「ん?」
「耳!」
 さっきまで爬虫類のようにひらたくて何もなかった後頭部に、たしかに耳が生えていた。それもふさふさの、ウサギの耳だ。まるで、たった今食べたばかりのウサギのような。
 ぱたぱたと、ウサギの仕種で、耳がたがいちがいに左右に振れた。
「よく聞こえる」
 満足そうにうなずく。男はあけっぱなしになっていた口を、用心深くとじた。食べ終わった椀を地面に置く。
「‥‥お前、もう俺についてくるな」
 食事を都合してもらったばかりの身でえらそうなことは言いづらかったが、言い切った。まあ、食料がなくなったのはこいつのせいなので、このくらい言う権利はあるだろう。
「あの部屋に戻れ」
「せっかく出してくれたのに?」
「じゃあどこか好きなところへ行け!」
 お前を退治できる誰かのいるところに、と、心の中でつけくわえる。その声が聞こえたかのようにじろりと見られて、一瞬、身がすくんだ。
 ぱくん、と、それはスプーンを口の中へ放り込んだ。それは食い物じゃない!と注意するより早く、木の匙はばりばりと音をたてて砕け、ごっくんと飲み下されていた。ぷはっと息をつき、
「どこにも行けない」
「どうしてだ。立派な羽があるだろうが」
「ないよ」
 しょんぼりしてみせる、その背中にはたしかにいつのまにか羽はない。頭痛がしたが、男は声を平坦に保った。とにかくこんなものをつれては街に帰れない。大騒ぎになるだろうし、場合によっては彼もとばっちりをうけて「妖物使い」として処刑されかねない。
「足もあるだろうが。とにかく、どっか行け。自分で獲物取れるなら、俺に飯ねだるな!」
「だって。だって」
「何だ!」
 精一杯、威嚇する顔をしてみせる。妖物(なのか?)相手に人間が凄んでもきくとは思えないが、とにかく気合いだけでも見せておかないといけない気がした。
 その気合いが通じたのかどうなのか、相手は奇妙にしょぼくれた顔になった。
「最初に見ちゃったんだもん。最初に会っちゃったんだもん」
「は?」
「はじめての相手についていくもんだって、ハカセが言ってたもん!」
「だめだ!」
 はじめてって何事だ、とか、ハカセって誰だ、とか頭を横切ったが、そのあたりを聞くとやぶへびになりそうだったので、あえてきっぱりと無視する。
 脅すように大声を出すと、相手は一回りちぢんだ。文字通り、少し小さくなって、しおしおと毛なみと鱗の色があせた。不気味でもあるが、なんだか不憫でもある。いやいやこれは化け物なのだ。心にもたげかかった憐憫の情を、男は問答無用で押しやった。
「とにかく俺はやめろ。迷惑だ」
「何で?」
「‥‥お前な。自分の姿を見たことあるか? まるっきり化け物だぞ。お前みたいなのをつれて歩いたら、俺の身まで危険だ」
「どういう姿ならいいの?」
「最低、人間でないとな」
 情けなさそうな声で聞かれて、ついそう返したのがまずかった。
「ああ」
 何かをこころえたかのような返事が戻ってきて、嫌な予感がした。のそっと起き上がった相手に、思わずじりりと下がろうとするが、尻が地面から上がる前につめよられてそれ以上の動きがとれなくなる。
「おいっ」
「サンプル採取」
 と言うなり、目の前の口がかぱっとひらいた。巨大な赤い口の中にぬめぬめとした粘膜がうねり、牙ともトゲともつかない凶暴なものがびっしりと生えている。ああ、これは喰われる‥‥と脱力しかかった瞬間、牙の奥から触手めいた大きな舌がのびてきて、べろんと男の口をなめた。
「おいっ!」
 あわてた声をあげたが、これは大失敗だった。口の中に触手──舌?──が入りこみ、うねるように口腔をなめまわす。いつのまにか肩をがっちりとつかまれてわずかも動けず、口をこじあけるように入りこんだ触手に舌の裏まで丁寧になめあげられて、くぐもった悲鳴が喉からあがった。
「‥‥ふぅん」
 顔を離し、それは何か納得したようにつぶやいた。男は体を二つに折り、地面にぺっぺっと唾を吐き捨てながら、自分でもわけのわからない悪態をわめきちらした。
「あああああああ!」
 しまいには悪態がきれて、何の意味もない叫びをあげる。水筒を取り、水を含んでまた吐き出した。口の中がまだ生あたたかい。
「何するんだてめぇ──」
 憤怒の顔を上げた瞬間、声が途切れた。
 目の前に裸の少年が座っていた。
 右を見て、左を見る。それから正面を見ると、目があった相手がにっこりした。人間というには少し首が長く、手が細い。とりあえず人間の形をとってみた、と言うように見える。
 男をつぶらに見つめる目は──暗い琥珀色。見覚えがある色に、これはやっぱり、と男はがっくりした。
「お前‥‥か?」
「?」
 意味がわからないように小首をかしげる。男はため息をついて、たずねた。
「ごはん?」
「ごはん!」
 うれしそうに返事が戻ってくる。これで疑惑が完全に確信にかわり、男はがっくりと膝に頭をのせた。脱力した声でつぶやく。
「お前‥‥何なんだよ!」
「知らない。待ってろって言われて、ずっと待ってたの。でも誰もきてくれなくって、すごくさびしかった。一人でいるのは嫌い。大嫌い」
「言われたって、誰にだ」
「ハカセ」
「って誰だよ、だから」
「すごくえらい人。もうじき星を落とすって言ってた。もしかして落ちちゃったのかな。それで迎えにきてくれなかったのかな」
「‥‥」
 何を言っているのかわからない。頭をかかえこんで、男はこれ以上相手と会話をするべきなのかどうか、不毛な問いを自分にしていた。目下のところ生命の危機はなさそうだが、どうやってこれから逃げたらいいのだろう?
 ふっと目の前に影がゆらぎ、顔をぐいと引き上げられたかと思うと、少年が顔を近づけて男の唇をなめた。その舌は先刻までの触手じみた舌とちがって人間の舌だったが、少し長い。
「何をする、離せ!」
「やだ。もう少しサンプルがほしい」
「何の話か、さっぱり──」
 小柄なくせにとんでもない力で後ろへ押し倒されて、男はもがいたが、少年の裸の手足がからみつくように動きを封じて、唇をなめた。内側へ入ってくる舌を、男は歯をくいしばって拒否する。するとあっさりあきらめて、犬のように顔をなめはじめた。
 ぴちゃぴちゃと舌を鳴らしているうちに少年の髪が赤みをおび、ゆるい巻き毛になる。それが自分と同じ髪の色だと気付いて男が目をみひらくと、少年が顔をあげてにっこりした。──顔まで少し、男に──その少年時代に──似てきている。ぞっとしてつきとばそうとしたが、体はがっちり組み伏せられていた。
「ぼく、学習速度は早いよ。がんばって人間の格好するから、つれてって。きっと役に立つし、迷惑なんかかけないようにするよ。だめでもいっしょについてくから。だってはじめて見て、はじめてごはんくれた人だもん。絶対ご主人なんだよ」
「‥‥」
 一方的にまくしたてられて、うんとも言えずに無駄にもがいていると、少年の右手が男の体を這いまわりはじめた。男は自由になった右手を動かそうとするが、少年が左手をぐるりと男の体に回して右手までも封じた。どう考えても普通の人間の手より長くのびているが、それを気にする余裕は男にはなかった。
「その前にもうちょっと学習しないとね」
 うれしそうに言って、少年は男のベルトを外し、ズボンの前をひらいて中から牡をひっぱりだす。
「何をするっ!」
「ごはん」
「喰うのか!?」
 悲鳴のように叫んだ彼をちらっと見上げて、少年は笑った。その口が一瞬、耳まで裂ける。
「サンプル。新鮮で、いきがいい」
 うっとりした様子で言うと、少年は顔をよせ、男のそれを口に含んだ。舌に萎えた茎をなめあげられて、男はぐっと息をつめたが、次の瞬間、口から狼狽した声がはじけた。
「わあっ!?」
 一本の舌だけではない、数本の触手のようなものが男のそれをつつみ、ばらばらな動きで茎をこすってはつつくような動きをはじめた。人の舌や手では感じたことのない自在な動きに翻弄され、腰がそる。少年の口の中の粘膜は牡にぴたりと吸い付き、全体をぬめるように刺激しながら、触手が敏感な先端をしつこくつついた。
 やわらかく擦られて、大きな呻きをあげていた。やめろ、と言おうとした先から新しい快楽を与えられ、みっともない声が口からこぼれる。男のものは限界まで固く勃ちあがり、腰が沸騰するような快感に首がのけぞって、気がつけば地面に倒れた体勢で、上にかがみこむ少年の顔に腰を押し付けていた。
「ひあっ、あっ──」
 放出しようとした瞬間、先端の孔からするりと細い触手が入りこむ。せきとめられて、目の前が白くくらんだ。茎の内側に入ったものが彼の中を擦っている。いや、舐めている。獣の舌のように。男は腰をゆらして声もなくあえいだ。耐えられない。こんな度を越した快感は、痛みと同じだった。
 どれほど責めあげられたのだろう。内側から触手が抜け、同時に強く吸われて、男は少年の口の中へ熱い精液をあふれさせていた。どんどん吸い出されて体がからっぽになってしまうような気がする。痛みとも快楽ともつかない強烈な感覚に体中を痙攣させ、絶叫した。
 気がつくと、ご機嫌に笑っている少年の顔が見えた。まだ半分茫然とした意識のままの男に手を貸して、上体をおこさせる。あわてふためいて自分の服をとりつくろいベルトをしめる男の前に、ちょこんと座り込む少年の姿は、もうどこからどう見ても人間のものだった。
「ごはん、おいしい。大好き」
「‥‥」
 めまいを覚えながら男は水筒から水を飲み、口元に唾液が垂れているのに気がついてあわてて拭った。みっともないと思う一方で、まだ体に残る快楽の残滓がゆらいで、小さく身震いする。
 その横に少年が座り込んで、子供っぽい仕種で男によりかかったが、もうそれを払う力もなかった。体の中が粉々になったように疲弊し、舌がまるで紙でできているように不自然で、動かせない。
「ごはん」
 うれしそうにつぶやいて、少年は男の左腕にしがみつく。空腹をうったえている様子ではなかった。ただうれしいらしい。そう思いながら、いつしか相手の言葉の微妙なニュアンスまで感じとりはじめた自分自身に、男は気付いていなかった。


 ──夢だ。これは、悪夢だと思おう。


 そう信じ込んで、野営の場所をつくり、へばりついてくる少年を無視して毛布をかぶった。少年もごそごそと彼の横にもぐりこみ、丸くなる。まだ裸のままの体がぴったりとよせられて、男は溜息をついた。
 邪魔だと思いながら眠りについたが、荒野の夜は寒い。朝方にはその小さなぬくもりを自分でかかえこんでいた。
「‥‥」
 未明の空の下で目を覚まし、男は長い間、そばで眠るあどけない寝顔を見つめていた。あれほど祈ったのに、悪夢は消えてくれなかったらしい。さすがに裸で少し寒いのか──毛皮も鱗ももう生えていない──少年は、男の温度の残る毛布をかかえこみながら、丸くなった。
 長い溜息をつくと、男は自分の荷物を引き寄せ、中を探りはじめた。
「んー‥‥」
 寝返りを打って、少年がもぞもぞと起き上がる。寝ぼけた顔に、男は自分の着替えをばさっとかぶせた。
「着ろ。でかいが、なんとかなるだろ」
 少年はしばらく布を裏表にいじりながらためつすがめつしている。やがて顔をあげて、にっこりした。
「これ、何?」
 男はがっくりと肩を落としながら、少年に服の着方を教えはじめた。とにかく現状をしのいでいくしかない。
(──悪夢が醒めるまで)
 そう、この悪い夢が消えるまで。それまでのことだ。
 ただし、いつ醒めてくれるのか、それが最大の問題だった。


[END]

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