シンクロ。互いに浸透していく。
感覚のラインがからみあい、融けあって、神経から走る電気信号が混線をはじめる。急降下しながらスピンするようなめまいとともに樹状神経が仮想の癒着を深めた。息と、心臓の脈一つまでも、シナプスを駆け抜ける生体電流のわずかなゆらぎ──そんなものまでも。一瞬ごとに。ぴたりと重なり合い、同調していく。
それはまるで互いを喰いあうようだった。互いのもつ記憶──情報が互いに互いをはかり、それぞれの差異をフィードバックして均質化していく。暴力的な眩暈と陶酔。削られ、増殖させられる。体と精神に割り込まれる強引な感覚に強い吐き気をおぼえ、次の瞬間、それは融合と再構成の快感に変わってゆく。
際限のないくりかえし、とけあっては同質化していく、たたみかけるような拒否反応と渇望。シナプスは二人分の感覚を受けとめようとしながら過熱して悲鳴にきしむが、欲望はおかまいなしに暴走して、ふれるものすべてを吸収しようとする。もっと、もっと、と。
貫かれて快感に呻く、その自分の体を貫く快感が同時に流れこんでくる。鏡うつしのように増幅されつづける愉悦に理性をかなぐり捨て、たえかねた呻きを上げながら、相手の体を求めて激しい欲望をぶつける。自分の体の奥を擦り上げる怒張。相手の体を貫き、たぎる熱をダイレクトに受けとめる快感。二重写しになった体は、同時に抱かれながら抱いている。己の体がどれほど快感に狂って熱いのか、貫く動きにからみつく貪欲な奥をペニスに感じる。
「もっと──」
呻く。頭を振り、力強い動きで突き上げる相手の腰を太腿でしめつける。自分で自分の声がほとんどききとれないほど、それはかすれていびつな哀願だったが、相手はその意味を汲んだ。一気に容赦なく貫かれ、頭の芯がスパークして悲鳴をあげる。わずかに遅れて、組みしいた相手を貫く快感がなだれこんできて息がつまった。まだシンクロは完全ではない。そのもどかしさが余計に情欲を炙る。
「ああっ! ああぁっ、イヴァ──」
たてつづけに深く犯されて、叫びが途切れた。背中にからみついた指先がするどく爪をたてる──いやこれは自分の指か。なら、ひらいた脚をかかえるこの腕は? 首すじを這う唇、受け入れて淫らに揺らぐ腰、短い叫び、もつれた息づかい、重み、肌の熱──どれがどちらのものかわからない。くりかえし、くりかえし、快感を求める動きの中でフィードバックが感覚をゆさぶり、自分を失っていく。ただ犯される者と犯す者、その二重写しの快感が神経を灼く。
「ん‥‥あぁあ、お願い‥‥」
すすり泣きながら呻く。もう互いの体の区別がつかない。求めているとも求められているともわからないまま尻を揺すり、その奥を凶暴に突き上げる。愉楽が体中を迷走し、息をつまらせた。
「名前を──‥‥呼んで、くれ‥‥」
一瞬、自分が見えた。視覚までもがシンクロしたのだ。濡れた肌を上気させて、荒い息と哀願に唇をひらき、完全に溺れた目でこちらを──彼を──見ている。肌の上にいくつかの咬み傷が刻まれている。所有の証とでも言うように。
あからさまな裸体をよじるようにして、また呻いた。
「たのむ、から‥‥っ」
視覚のシンクロに気付いた相手の動きがゆるんだ。ゆっくりと視線が肌の上を這い出す。その視覚情報が送り込まれてくる。表情、汗に濡れてからんだ黒髪、息にヒクつく喉元のゆらぎ、赤くとがった乳首、愛撫の痕を残した胸元から腹部へと──なぞるように、なぶるように。
視線の一つ一つを、ほとんど愛撫そのもののように感じた。肌の上を丁寧な視線が這うたびに、息がつまる。
組みしいた裸体はひどく淫らだった。視覚は眼球にうつった単なる映像ではなく、脳につたえられてきた電気信号が視覚野で関連づけられ、再構成され、脳の中で意味を持ったイメージとして認識される。脳を通じて、人は物を見る。
彼が見る自分はこれほど淫らなのだ。
彼が感じる、彼の目にうつる──
口をあけて大きくあえいだ。
「イヴァ‥‥」
視線はゆっくりとおり、脇腹の締まったラインをなぞって丸くでっぱった腰骨をかすめ、ぴんと筋肉のはりつめた太腿ににじみだす汗を見る。脚は大きく左右に押しひらかれて、しっかりと腕でかかえられ、股間の茂みから赤く鬱血したペニスがそそりたっているのが見えた。見た瞬間、体の芯がはじかれたような快感に、屹立の先端から露があふれだして肉茎をつたった。
体の奥でゆっくりと硬いものが動く。視線が動いた。自分の奥から彼の屹立が引き抜かれていくのが見えた。ジェルで念入りにほぐされた粘膜が、濡れ光るペニスに絡みつくように引かれ、硬くふくらんだ男のものはまたゆっくりと貫きもどされていく。犯される、自分自身を犯している、その視覚と感覚に気が狂いそうになりながら腰をゆすった。
「んぁっ、ああああっ‥‥、ああっ!」
いきなり性感を突き上げられて息がつまる。その瞬間、視覚の重なりがとぎれた。暗闇に投げ出されたように心細くなるが、見開いた目には、自分の体の上で荒い息をつく彼の姿が見えている。腕をのばしてすがろうとするが、汗にすべってやっとのことで右手に彼の腕をつかむ。
「イヴァ、イヴァ‥‥っ!」
「ヴィク」
低くかすれた声が囁いた。同時にまた深く突き上げ、全身を荒々しくゆさぶるように激しく動きはじめる。熱くスパークするような快感がどちらのものなのかもう区別がつかない。フィードバックの中でほとんど限界まで快感がふくれあがり、神経のすみずみまでも暴力的な熱と衝撃に満たされて、苦痛と快感の区別がまるでなくなっていく。ただ強烈に。神経が灼ける。
「あああっ! もっと──」
叫んだと思った瞬間、目をあけていた。一瞬にして現実が押しよせてきて、それを拒否する精神がパニックをおこす。混乱と恐怖。二人分だった感覚が切り離されて一人に分断され、まるで、体という牢獄の中に小さく押し込められて鍵をかけられたような圧迫感に息が出来なくなる。
頭の中が真っ白に灼きつくされたようだった。まだ現実は無理に体の支配を取り戻そうとして、彼の神経に押し入ってくる。さらりとした感触のシーツの襞が体の下でよじれている。低い空調の音。ひえびえとした独特の匂いのする空気──
あえいで、体を短く痙攣させる彼を、別の腕が抑えた。
「大丈夫だ、ヴィク。大丈夫──」
その声が、その知らない響きが、彼をまた怯えさせる。世界にむきだしでさらけだされた神経がヒリヒリと痛みをうったえる。
ふいに首すじからすずしいものが流れこみ、息づかいが少しずつ収まってくる。静けさが肌から体にしみこみ、薬でつくりあげられた偽物のおだやかさが世界を膜で包む。どんよりとした膜の向こうで、世界が鈍く動きを失っていく。耐えられるほどに。
過熱した神経がバルビツール酸の作用で丸くなっていく中、彼は目をあけた。
「‥‥あんた、こんなこと続けてたら死んでしまうよ」
同じ声だった。彼は重い頭をごろりと横に倒して、そちらを見やる。
ベッドの上に、裸の男が座っていた。ダウナーのアンプルを金属ケースの中にしまっている。ヴィクは頭をゆっくり振って、世界が着地をはじめる感覚に慣れようとした。薬は薄い。痙攣を抑えるためだけに使われただけだ。意識は明瞭だった。
「君‥‥」
「オーガスト。あんたはいつも、人の名前を忘れる。ま、あんたが "セックスしてる" のは俺じゃないからしょうがないか」
「‥‥‥」
黒いシーツに体を投げ出し、ヴィクは天井を眺めている。あれほど満たされていると思った、あの快感をもう追うすべがない。どんよりとした重苦しさが体の芯に澱のように溜まってくる。
オーガストはアンプルケースを置き、首の後ろのジャックから硝子色の接直コードを抜いた。ベッドサイドに置かれたコンバーターの上にコネクタを傷つけないようコードを置き、ヴィクの上に身をかぶせるようにして、彼の首の後ろからもコードを抜く。人工皮膚のスリットが自動的に降りて延髄部のコネクタを隠した。
ヴィクは死んだような目を天井に向けたまま、動かない。クリーム色の天井の中央には格子状の換気口があり、その内側で換気扇の羽根がゆっくりと回っているのが見えた。肌がベタついて気持ちが悪い。体の下は、吸湿性のいいシーツのおかげでさらりとしているが、それ以外の部分は汗と体液で濡れて、冷えはじめていた。
オーガストが裸の体をかぶせてくる。同じように汗に濡れた体がうっとうしくて、ヴィクは力の入らない両手で彼を押しやった。
「やめてくれ‥‥」
動きをとめ、大きく息をつくと、オーガストは体を倒してヴィクの隣へ寝転がった。
「あんたは "記憶" ごしにしか人とセックスしようとしない。俺が電脳化してなきゃ、俺を誘ったりはしないんだろ?」
「‥‥‥」
「誰の記憶なんだ、アレは。あんたは、イヴァ──とか呼んでたけど」
声にからかいと苛立ちがまじっていた。ヴィクは動かない。体の奥にやっとじんじんとした痛みと熱を感じはじめていた。オーガストの精液が、脚の奥からぬるりとつたいおちていくのを感じて、ゆるい吐き気をもよおした。
「なあ。ヴィク。俺が何回ここに来たか、知ってるか。五回だ、今日で五回目。──あんたは、"俺" にはふれようともしない」
「嫌ならもういい。出てってくれ‥‥」
「そうできればな」
その声があまりに苦々しかったので、ヴィクは額にのせていた手をおろしてオーガストを見た。男は起き上がり、ベッドの上にあぐらをかいてヴィクを見おろしていた。たくましく肩の張った体のあちこちに噛んだような傷がある。それが自分のつけたものだとヴィクはわかっていたし、男の腹の部分に拭いきれていない精液の汚れも見えたが、それでも、この男とセックスをしたという実感はまるでなかった。
オーガストは眉をしかめて、困惑したような表情で彼を見ている。平たいあごに古傷の痕がかすかにくぼみ、頬の上にも似たような痕がある。傷そのものはほとんど消えていたが、行為で上気した肌にうっすらと浮かび上がる、遠い名残り。
声はやさしかった。
「俺が出てけば、あんたは別のヤツをウィステリアで拾うだけだろ。それともほかのバーかな。それでまた、そいつにあの記憶を咬ませるわけだ」
「‥‥‥」
「なあ」
右膝を立てて腕をのせ、オーガストは心配そうにヴィクを見つめた。
「あれは誰なんだ? あんたの恋人か?」
ヴィクは溜息をつく。こわばった肩の力を抜いて、涼しい感触のベッドに頭を沈みこませた。
「‥‥そう」
「今も?」
「いや」
「別れたのか」
「死んだんだ」
重いものを吐き出すように言った。相手がたじろぐ気配があった。
「‥‥すまない」
「‥‥‥」
疲労にそれ以上口を動かす気にもなれず、かすかに首を振る。この話をしようとすると喉元に何かがつまって、どうしたらいいのかわからなくなる。悲しいとか、つらいとか、そういう感覚すらない。何もかもが遠く、意味も熱もない影のようにその息吹を失って、世界がモノクロームに凍りつく。自分が小さな虫けらになったような気がした。この無力さの前に、なすすべもない。
額にあたたかいものがふれ、彼はびくりと身をふるわせた。肌をなでる指はその反応に一瞬たじろいだが、ゆっくりと顔をなで、髪をかきあげて、彼の顔のやせた輪郭をなぞった。
オーガストがじっと顔をのぞきこみ、ゆっくりした口調で言った。
「そんなに自分を痛めつけるもんじゃない」
「‥‥楽しんでるんだ。それだけだ。あんただって、楽しんだだろう。しかも‥‥」
「金になる」
小さくうなずいたが、皮肉に傷ついた様子はない。ちらっと子供っぽい笑みが口元をかすめた。思ったより若い、とヴィクはぼんやり考える。
オーガストの指が唇をなでた。
「たしかに強烈だけどな。俺は、生身のあんたを抱きたいよ」
素直なほどにあっさりと言われた言葉に、ギクリと身をこわばらせる。そんな彼をなだめるように、唇にふれたままオーガストが小さく笑った。
「用心しなくていい。レイプは趣味じゃない」
「‥‥‥」
「なあ。キスしていいか?」
言われた意味が一瞬わからずに、ヴィクは重い目蓋を動かしてまたたいた。視界をさえぎるように男の姿がかぶさり、ヴィクの頬を指先でなでながら顔を近づけた。少し斜めの角度に首を傾け、唇を重ねる。
唇の上に吐息を感じ、ヴィクは目をとじた。その唇を男の唇がなぞり、舌先で割って舌が内へ入りこんでくる。
素直にひらいた歯の内側へオーガストの舌が入りこみ、動かないヴィクの舌をやわらかくなぶった。優しく、どこか執拗な動きに肌の内がざわめいて、ヴィクが溜息をつく。
彼はそんなふうなキスはしなかった、と頭のすみで思った。彼はいつでもむさぼるようにヴィクを抱いた。名前すら、滅多に呼ぼうとしなかった。まるで言葉もかわさずに体をむさぼりあうだけで休暇をつぶしたこともある。欲望と恋情と、その二つが彼らを結びつけ、狂わせた。あの春──
オーガストが顔をはなし、ヴィクの顔をのぞきこみながら頬をなでている。それを見上げながら、ヴィクは自分が泣いていることに気付いたが、何故泣いているのかはわからなかった。ただ男はだまって彼の顔をなで、目があうと、微笑した。
ヴィクのまなざしが揺れる。耳に聞こえる自分の声はしわがれて聞き取りづらかった。
「‥‥移民船に、乗っていったんだ」
オーガストがまばたきする。小さくうなずいた。
「ああ、生きているんだな。そんな嘘、つかない方がいいよ」
「今ごろはコールドスリープだ。あっちが目覚めた時には、もうこっちの寿命が尽きている。お互い、死んだようなものだ‥‥そうは思わないか?」
「あんたは行かなかったんだな」
それは問いではなかったが、ひどく優しい声音にヴィクは胸がしめつけられるような気がする。こんなことを誰かに話したことはない。何故話しているかもわからなかった。
「私は、DNAに傷があったんだ。‥‥個体の発現には問題がないが、そのエラーのせいではじかれた。彼は‥‥優生遺伝子の継承を受けていたから、移民の権利を持っていた。はじめから、移民を目的として育てられたのだ、と言っていた。そういう家系がセントラルにいるのを知ってたか?」
オーガストの指が濡れたヴィクの頬を拭った。一瞬ためらって、口にする。
「俺は、移民希望リストには名前をのせていないよ。ここが好きなんだ」
「‥‥‥」
「ヴィク」
「呼ばないでくれ」
ヴィクは呻くと、体を横倒しにして丸まり、オーガストの視線から自分の顔をかくした。
「呼ばないでくれ、そんなふうには‥‥」
「‥‥わかった」
毛布が裸の体にかけられる。シャワーを借りる、とオーガストがつぶやくように言い残し、足音がはなれていくと、ヴィクは顔を覆って声をたてずに泣きはじめた。
涙ではれた目蓋に気付いただろうが、それには何も言わず、オーガストはベッドのヴィクに身をかがめておだやかなキスを唇に残した。
「また来る。‥‥来てもいいだろう?」
自分を見下ろす顔を、ヴィクはぼんやりと見上げる。相手の表情にある物が何なのか、そこにある優しさが本物なのか、一瞬の同情なのか、何かたしかなものを見ようとして、すぐにあきらめた。そんなものを求めるつもりはない。彼が求めているのは、ただ──
肘を後ろについて気怠い上体をおこし、彼は低く言う。
「あれをリプレイしてくれるなら」
一瞬、刃で切りつけられたようにオーガストがひるむ、そのためらいと嫌悪をヴィクは口の中に苦く感じ取る。精製されたプレイ用の記憶ならともかく、フィルターなしのレアの記憶を自分の電脳で再生させられるのだ。大抵の相手は三度はいかずに神経をすりへらして逃げていた。
ヴィクが見つめていると、オーガストはぐっとあごに力をこめて小さくうなずいた。
「わかったよ。かわりに一つ、約束してくれ」
「‥‥何」
「ほかの奴を誘うな」
おかしなことを言う、と思う。互いに電脳の記憶をまとい、記憶をなぞりながらするセックスに、相手が「誰」であるかは重要なことではない。ただ投影する肉体が必要なだけだ。
だが、理屈にあわないと思いながらも、どこか心の深みを揺さぶられたような気がして、ヴィクはのろのろとうなずいた。
「わかった。‥‥べつに、誰でもいいんだ」
わざわざつけくわえられた言葉にオーガストは何かを言い返そうとしたようだったが、一度開けた口を結んだ。ひらりとヴィクへ手を振って、部屋のドアパネルをスライドさせ、細く暗い廊下へと出ていく。
男がエレベータを通って玄関から出ていったのを壁のホームパネルで確認し、ヴィクは冷えはじめた体を毛布の下で丸めた。いつもの空虚な感覚が体中に満ちて、ひどくみじめな気分だった。その後の会話がさらに気を滅入らせている。
生身で誰かにふれたいなどとは思わない。彼のほかには、誰とのセックスも望まない。だが彼の記憶をくりかえしなぞるたび、自分の体がただうつろになっていくのはわかっていた。
今ごろ恋人はカプセルの中に横たわってコールドスリープの最中だ。体温は22度まで下げられ、脳の活動は生命活動を保つためだけに20%にまで抑えられ、無重力の中で時おり筋電流が流されて筋肉を衰えさせないよう保ち続ける。夢は見ない。死に近い眠り。
そして残された自分は、死者と寝るように中味のない記憶と行為をくりかえす。いつまでこんなことをつづけるのだろうと、彼は下向きに身をきつく丸め、敷布に頭を押しつけた。
(生身の‥‥)
そう。ふれた唇は、たしかにあたたかかった。
「‥‥ああ」
ひとりごとを口に出してつぶやく。
「金を、払い忘れた‥‥な」
そのまましばらく動けずにいた。身の奥がきしむように痛んだ。痛んでいるのが体なのかどうか、ヴィクには区別がつかない。
右手をシーツについてのろのろと起き上がった時、来客を知らせる小さな音が鳴った。ホームパネルへ目をはしらせる。手のひら大のパネルの上部に映しだされた小さな顔にとまどったが、ヴィクは手をのばしてパネルにふれ、玄関のロックをといた。
ややあってから、廊下につながるドアパネルが開き、オーガストが入ってきた。大柄な割りにあまり足音を立てない。兵士のような歩き方をすると、ふと思ったが、ヴィクはベッドに座り込んだまま曖昧なまなざしで男の姿を見ていた。
ベッドのそばに立ち、オーガストが肩をすくめる。
「金をもらってくのを忘れた」
「‥‥‥」
少しの間、ヴィクは無表情に男を見ていた。それからうなずいて、重い体を引きずるように立ち上がろうとする。ベッドから床にたよりない足をおろしたところで、オーガストが立ち上がりかけた彼の体を上から抱きこんだ。
「‥‥すまない。嘘だ」
「嘘‥‥?」
「わざと忘れた。戻ってくる口実にしようと思ったから。お節介かもしれないが‥‥あんたは一人でいないほうがいい。今は」
「‥‥‥」
強く抱きしめられて、ヴィクは少しもがいたが、オーガストが力をゆるめずに裸の背中をなでていると、ふいにその体から力が抜けた。オーガストは両腕を回したまま、寝台に腰をおろしてヴィクの体を腕の中に抱きすくめる。裸の肌に男がまとったコートのざらついた感触があたったが、その下にある体の息づかいがつたわってくるほど、その抱擁は強かった。
「俺、今日は夜まで時間があるんだ。飯でも食いにいかないか」
無言がはりつめるように体の中に満ちて、とても声を出すことができない。腕をといて、オーガストがヴィクの顔をのぞきこんだ。
「嫌いなものは?」
「‥‥ない」
「そりゃよかった。俺たちにも、気の合うものが一つくらいはあるってことだな」
かすかな声でやっとつぶやいたヴィクを見つめて、オーガストはニコッと人懐っこい笑みを見せた。