【2】

 斜面を這う道を、ゆっくりとした足取りでのぼってゆく。
 あまり人の通ることのない古い道は、だが、意識せずとも足が勝手にたどっていくような、ふしぎと心に添う道だった。
 ここを行く者は、どれほどの数になるのだろう。丘の上には館がひとつあるのみで、主は時おりにこの道を通る。丘のふもとにうずくまって大地を覆う森に棲む森の民もまた、時おりに館を訪れ、主の身の回りの面倒を見る。だがそのほかに、ここを歩く者はさして多くはない。
 かつて館に棲んだ主たちの多くは、黒い技を商ったと言う。彼らは黒魔呪の道具や毒を商い、それを求める者たちがこの道をたどったが、今はそれもない。館に棲む今の主は施癒の技を使うが、薬や施癒用の魔呪具は森の民に街まで運ばせていたし、自分の技が必要とされる時は館の外へ足をはこぶ方が多かった。館を訪れる客の数は多くはない。
 それでも道は、館へと続いて、足を迷わせることがない。1歩ずつ、静かに、のぼってゆく。
 やがて、目の上の斜面がゆるやかに引き、黒い影の色をした館が、地面から浮き上がるように見えてきた。


 毛裏のついたマントをはおり、腰の後ろへ長剣を吊った騎士は、黒館を見上げて一瞬、足をとめた。
 おだやかな顔に、読みとれるような表情はない。灰色の冬の空を背後に、館は凍るように静謐だった。
 しばらく見つめていたが、騎士はふたたび歩きはじめる。斜面をのぼりきり、道の脇にある、時経て古びた石の像を通りすぎ、足取りをかえぬまま扉へ歩みよった。黒い鉄枠が打たれた頑丈でひややかな樫の扉。
 あけようとのばした手が、とまった。
 扉が軽いきしみをあげ、内側からひらいていく。1歩さがって、彼はゆっくりと動く扉を見つめた。
 黒い影がひっそりと満たす館の中から、全身を灰色のマントにつつんだ施癒師が、足音もなく表へ歩み出た。優雅な足取りは、闇の中から浮かび上がってきたかのようだった。小さな革袋を下げている。その背後で、ふれもしないままに扉がとじた。
 その場に足をとめ、騎士は施癒師の姿を眺めている。施癒師が物問いたげに睫毛をあげた。
 丘を抜ける風が、2人のマントと髪をかすかにたなびかせた。どちらも何も言わなかった。
 見つめたまま歩みをつめ、騎士は施癒師の前へ立つ。のばした両手に相手の肩を引き寄せ、優しく唇をかさねた。


 抱いた腕をゆっくりと肩から背中へおろし、その輪郭を丁寧にたしかめて、ほそい体を抱きよせる。唇はおだやかで、やわらかく、節度をもったくちづけだったが、腕にこもった力は強かった。
 吐息が互いの唇の内側にこぼれる。レイヴァートはまだイユキアの体に腕を回したまま、唇を離し、余韻に目を伏せたイユキアの顔をのぞきこんだ。
「イユキア」
「‥‥‥」
 イユキアは、頭半分ほど高いレイヴァートを見上げるようにして、微笑した。いつも彼が漂わせている淋しげな微笑ではなく、澄んだ、あかるい笑みだった。
「レイヴァート。かわりなく?」
「何も」
「それはよかった」
 形式的な挨拶のやりとりだが、イユキアは本心からのようにうなずいた。静かな声に、やわらかなひびきがあった。額へおちる銀の髪が朝の陽をうけて白くひかっている。
 その顔を見つめていたが、レイヴァートは不意に深い溜息をつき、もう1度唇を重ねた。強く、激しく、むさぼるようにイユキアの唇を愛撫する。回した両腕に乱暴なほどの力をこめながら、イユキアの体を扉へ押しつけ、熱烈に唇を求めた。イユキアがかすかにもがいたが、歯の上から舌で強くなぞられると喉の奥から呻きを洩らし、口をあけた。イユキアの手から荷物が落ちる。
 熱い舌と荒々しい愛撫を受け入れながら、イユキアは背をそらすようにしてレイヴァートへ体を押し付け、すがる腕を背へ回した。狂おしいほどの指先で、レイヴァートのマントを乱すようにしながら応じる。
 互いに互いを求めるくちづけは深く、濡れた音と時おりの荒い息をこぼし、強く体を重ねあわせながら、果てなく続いた。口腔の熱をうつしながら舌がからみあい、濡れた唇を押し付けるように、体を支配する熱い衝動のまま欲深く求めつづける。息も鼓動も乱れて、互いの存在以外が消え去った。ふれる肌の感触と舌のいざないと、互いの間できしむ衣擦れの音。
 イユキアが、喉をそらせて長い呻きをあげる。
 レイヴァートが唇を離した。彼は荒い息をついてイユキアの首すじに頭をあずけ、ふたりは身を寄せたまま、扉へよりかかる。そのままどちらも動かなかった。
 しばらくしてから、イユキアがかすれた声でつぶやいた。
「冬長には、いつもこんなことを?」
 イユキアを抱きしめたまま、レイヴァートが小さく笑った。
「そう、毎年。今年が一番いい」
 体を離し、イユキアを見つめる。もう1度時間をかけてくちづけ、濡れた唇を指でぬぐってやると、イユキアがゆっくりと首をふった。白い頬が淡く色づいて、目の奥に明るいかがやきがあった。からかうように、
「あなたは出発する気があるんですか、それとも、このまま春を待つつもりだとか?」
 レイヴァートは笑みを返して、イユキアの荷を拾い上げ、丘を下る道を歩き出した。イユキアがすぐに追いついて、黙ったまま荷物を取る。レイヴァートは従って荷物を渡し、のばした指でイユキアの髪をかるく梳いてやった。細い編みこみの入った銀の髪は、くちづけの間に乱れたままだ。
「サーエシア様は?」
「サーエはもう5日前からあちらに行っている。色々と、仕事もあるのでな」
「仕事‥‥?」
「荘園の管理は妹にまかせてある。あれは俺よりずっと数字に強い」
 イユキアがまばたきした。
「それは、あなたが数字に弱いということではなくて?」
 レイヴァートがちらっと横目でまなざしを投げた。
「聞きようによっては失礼な物言いだな」
「いえ、その──それは」
 イユキアはつまった。何かでごまかそうとしているようだが、うまく次の言葉が出てこず、ぱっと頬が赤らんだ。くちづけの時よりもよほど色が強い。
 こらえきれなくなってレイヴァートが笑い出した。笑いが次の笑いを呼んで幾度か呼吸を継いだが、ついに立ちどまると、わきあがってくる笑いに肩をふるわせながら身を折った。
 イユキアが眉をしかめて数歩先から振り返る。
「レイヴァート──」
「いや、すまん‥‥あんまり困ったような顔をするから」
 いったん笑いやんで体をのばしたが、また体をかしがせて笑った。横腹を押さえながら笑い続ける彼を見ていたが、イユキアはついと身を翻して丘をくだりはじめた。
 さくさくと土を踏んで歩いていると、レイヴァートの足音が追ってきた。
「イユキア」
 横へならび、レイヴァートはイユキアへ意味ありげな視線をおくる。イユキアはちらっと見返して、苦笑した。その首へ手を回し、レイヴァートは頬へかすめるように軽くくちづけた。
「すまんな。俺は少し、浮かれているようだ」
「何でです?」
 これこそ何かの冗談かとレイヴァートはイユキアの顔を見たが、イユキアは特に意味をもってたずねたわけではないようだった。単純に、疑問を口にしただけだ。
 ──まったく。これだから。
 と、レイヴァートは苦笑まじりの溜息を胸の内で押し殺す。物を知っているようでいて、イユキアは己へ向けられる人の心の動きには非常にうとい。意地の悪いことのひとつやふたつ、言いたくもなろうというものだ。
 はっきりと、告げた。
「お前と一緒にすごせるからだ」
 前を向いたまま、イユキアが表情を一瞬こわばらせた。それが、本心をとりつくろおうとしている時の彼の癖なのだと、レイヴァートは知っている。横を歩きながら、のばした手で肩をなでた。
「何日? 4日? 5日?」
「──4日‥‥」
「雪がふることを祈ろう」
 雪の多い地方ではないが、つもったならば、イユキアは館へ戻ってはこられない。
 反論するかと思ったが、イユキアはレイヴァートを見やって、ふっと微笑をうかべた。
「あなたも王城へ帰れない」
 レイヴァートは何故か、胸がつまるような痛みをおぼえる。同時にひどく愛しくなって、囁くように名を呼んだ。
「イユキア」
 イユキアの唇を、のばした指でゆっくりとなでる。イユキアが小さな吐息をこぼした。
 それきりどちらも言葉はなく、レイヴァートが騎乗獣をつないでいる丘のふもとまで、無言で歩いた。イユキアは曖昧な光が遠く満ちた空へ、まなざしを投げる。冬はきた。だが雪は遠い。互いに、それはわかっていた。

【END】