冬は海からやってくる。
黒館の建つ丘から海は見えないが、冬が近づくにつれ海の方角の空が鈍い色となり、雲は不透明な白さを内に溜めて、どこか不機嫌そうに低い空にわだかまりはじめる。空の色を追うように、森の木々は枝の色を鈍らせ、葉を落とし、身をすくめて訪れる寒さを待つ。
──海は、あの空の色をうつして、鈍い色をしているのだろうか。
時おり、イユキアはそんなことを思い、金の光を秘めた暗い色の瞳で遠い空を見やった。いつものように、瞳には水薬で暗い色をつけてある。金の眸を隠すのは、故郷を去ってからのイユキアのならいになっていた。
風はちりちりと肌を刺し、その奥で声のない囁きをかわしている。冬がくる、すぐそこにもう冬がきている、と。
土すらその色を、変えて。みずみずしかった豊かな黒さはぼんやりと褪せ、生えた草も色を失い、大地はおだやかな眠りに沈んでいっているようだ。秋口の、息を呑むほどに絢爛だった森の豊かさも、生命にあふれた息づかいも、すべてがゆっくりと失われてゆく。
海から冬が訪れ、大地と森に眠りをもたらす‥‥
(冬がくる)
まるで巨大な翼が世界を覆っていくように。
飛ぶ鳥の数もへり、朝な夕なに息は白く、水を使えば指が痺れる。
冬の訪れとともに、イユキアはセグリタの手を借りて、いくつかの薬を館の奥で仕込んだ。森の民の少年はイユキアを喜んで手伝ったが、ひとつひとつ教えながらのことなので、作業は時間がかかる。イユキアはセグリタに薬草の効用と用い方を教え、セグリタはイユキアに森の民がその草をどう使うのか教えた。
イユキアが黒館を訪れて、これが2度目の冬になる。その間に新しく知った材料もある。秋までに集めた薬草や鉱石、虫の体や動物の爪に角。さまざまなものを、あれこれと。考え合わせて黒館の左の翼棟で作業し、100をこえる壺につめ、中味を細かく書き記して整理するのに5日ほどを要した。
冬は毎日その深さをまし、暖炉で燃える炎は華やぎをました。
黒館には、商人の訪れもあった。珍しいことではあるが、2年目ともなれば黒館の主が施癒師であることはそれなりに知られている。去年、国ざかいの村でおこったはやり病を施療したのもイユキアであり、商人はそれを聞きつけて訪れたようだった。
館の主が客を拒むことは滅多にない。客を歓迎することも滅多になかったが。
冬至の日には、王城のみならず、あちこちの集落で太陽を送る祭りがある。1年間、彼らに恵みを与えてくれた太陽をねぎらい、ふたたび目覚めてくれるよう祈り、春への力をたくわえるために贄を捧げる。羊や山羊を屠って祭りの宴に供することもあるし、動物に似せた型を火に放りこんでその替わりとすることもある。
その贄型を作るのも、イユキアの仕事のひとつだった。型そのものは、森の民が上手に木を編んで作る。イユキアはそれにまじないをかけ、護符の紋様をしるした細長い紙をくくりつける。オークの枝で作った小さな葉束に柊の葉を刺した冬至の守りも、森の民の手からイユキアへ渡され、まじないと祈りをこめて戻された。
(冬が‥‥)
空の色を見ては、暦をかぞえて。
それなりに忙しくしながら、黒館の主は時おりに目を細め、見えない海の方角を眺めていた。
海のない国で育ったためだろうか。海というものをじかに知ることなく育ったイユキアは、海に惹かれている。──畏れてもいる、おそらくは。
イユキアの育った地では、冬はここよりはるかに早い。夏は短く、秋には雪がふりはじめ、冬至には、石造りの家はしんとふかい雪の中に沈みこむ。凍てつきながら、人々は春を待つ。冬はただ硬くつめたく、彼らを虜のようにとざし、まるで永遠のように長く続いた。
ここ、アシュトス・キナースの地に、雪は少ない。山あいにゆけば斜面はすでに雪に覆われているとも言うが、王城に雪がふるのはほんの限られた時期だけだと言う。
(雪は、海にもふるのだろうか──)
あの鈍色の、果てなくつらなる重苦しい波の上に、空がはがれたような無数の薄片が落ちて。落ちて、呑まれ、それは海へ還ってゆくのだろうか。くり返し、くり返し。空から、海へ。
王の指が水盤の水にふれ、つめたい雫を白い砂の上に散らした。砂がひろげられた石の皿を左右から少女たちがうやうやしく捧げ持っている。少女たちは膝を折り、頭を垂れた。
「冬長の、我らに優しからんことを」
「冬長の、眠りの深きこと、目覚めのおだやかなることを」
硝子のふれるように透明な声で唱和して、少女たちは砂の皿を手に下がった。後で、この砂は領主や荘主に分けられ、それぞれが己の土地や畑へまく。王城よりの、冬の祝福として。近衛の列に並んで壁を背にしたレイヴァート自身、一匙の砂と塩を王城より下賜されることになっていた。
冬至の日から数えて10日の間を「冬長」と称する。それは冬を迎え、太陽をねぎらい、厳しい大地と空の慈悲を祈る日々。かつて冬長の間、王は陽光の入らない王城の底にこもったとも言うが、今はその慣習はなく、冬長の王城はおだやかにその時間をすごす。王城に属する者以外の多くが所領へ引き取り、王城はきわめて静かになるのが常だった。
夜明けからはじまった冬長の儀は、すでに終わりへさしかかっていた。いつもの黒衣の上に緋裏を打った黒いマントをまとった王が、祭儀者の1人へ手をさしのべた。
「森へ住まい森につかえる王城の友よ。こちらへ」
足元まで長い灰色の衣をまとった森の民が王の前へ歩み出た。森の民は小柄であり、森の長であるその人影も王より頭ひとつ小さい。皴のかたく刻みこまれたきびしい顔には、人を統べる者特有のするどい威厳があった。
王の前へ歩んだ森長は頭をかるく下げたが、膝もつかず、右手を折った臣下の礼も取らなかった。森は王城と対等であって、王冠に従う必要はない。
「王へ、森から冬をお届けいたす」
低い、遠くから響いてくるような声で告げると、森長は両手に持った白い枝を王へさし出した。それは樹皮を剥かれて洗われ、骨のように白くなった枝で、両端は巧みな細工で丸められていた。
王は両手でうやうやしく受け取り、おごそかに答えた。
「森を訪れる冬の静かならんことを」
いつもなら、これで終わる。王が頭を下げたが、森長はこたえずに王を見上げていた。そのまま、動こうとしない。
小さなたじろぎの波が、参列者の間に流れた。レイヴァートは、向かいの壁際に立つヒルザスとチラッと視線を交わす。細長い儀礼堂はさして広くない。レイヴァートとヒルザスの立つ場所から、王までは大股で5歩。何かあったらいつでも走り出せるよう、左足へわずかに力をのせ、レイヴァートは王と森長の様子を見つめた。
王は表情を変えずに、すっと背すじをのばした。その仕種ひとつで、ざわつきかかった城内の空気がしんと静まり返る。
それをたしかめるように間を置いてから、森長へたずねた。
「この冬長に何か心にかかることをお持ちか、森の長よ?」
「‥‥森は王城の護りであり、黒館は我らをつなぐ要である」
森長は、低いがよく通る声で言った。
思わぬところで出た黒館の名に、またもや人々の間を無音のたじろぎが渡った。
レイヴァートは、波立った気持ちを気取られぬよう、そっと息を吸う。黒館の主の顔が、胸の深いところをよぎった。今何をしているのだろう、と思う。冬がくる、あの丘で。彼は、この国の冬は短すぎると言った。‥‥そして、優しすぎると。
王がうなずく仕種が、レイヴァートの注意を引き戻した。面影をふり払い、心を弓のように引き絞って眼前の光景に意識を集中する。
王の声はやわらかだった。
「まさしく言われるが通り。この冬長にも変わりなく、我らの絆が続くことを願うもの」
「王よ。我らは王城を見捨てぬ。王城が我らを見捨てぬうちは」
はっきりと、森長はそう言い切った。今度こそ人々の間から息を呑む音が上がった。
その眸は挑むように王を見据えている。
王は何の動揺も見せることなく、するどい視線を受けとめた。ふいに、儀式張った仕種が全身からはがれおちるように失せ、親しみのある笑みをうかべた。
「王城はそなたらを裏切らぬ。我らは誓約に因ってある。我が言葉を重ねて申し上げよう。王城は誓いを裏切らぬ」
森長は長い間──長すぎるのではないかと言うほどの間、王を見つめていた。レイヴァートをはじめとする近衛の緊張も、成り行きに息をつめる人々のくいいるような視線も、森長と王にはとどかぬようであった。
静かに、森長は頭を下げた。儀式どおり、応じの言葉をつぶやく。王はうなずき、何事もないかのように結びの儀へとうつった。
イユキアの指が、透きとおった水の内側で揺れる。水は痛いほどにつめたく、指の感覚はあっというまに失せた。
泳がせるような仕種に、青白い硬質な水面がゆらいだ。ほのかな光の向こうに、淡くうつる自分の影が見える。
「冬長のこの地にひそやかならんことを」
囁いて、彼は、水の中で色を失ってゆく指を見おろした。氷よりもはるかにつめたい、凍らぬ水。水の形をしているが、魔呪によって組み上げられた「律」のひとつだ。律だけでこのように形あるものを作り出すのは、簡単な技ではない。
つめたさに、痛みすら麻痺し、すでに指がそこにあるという感覚すらない。見つめていると、セグリタがあわててイユキアの手首をつかみ、水から引き上げた。指は爪の先まで真っ青にこごえていた。
布で拭いながら、森の民の少年は怒ったように言った。
「こんなことしちゃ駄目だ、イユキア!」
「大丈夫ですよ」
布ごと少年から手を引いて、イユキアは氷のようにつめたくなった指を左手でつつむ。自分の体であるという感覚が失せていく。生きたものであるという実感もなくなる。このまま放っておいたら、全身がこごえて、雪のように消えていく気がした。
無論そんな筈はない。すぐに、感覚を取り戻しはじめた指がズキズキと痛みはじめた。その痛みを無視して、イユキアは琺瑯で内側を覆った水盤から細首の壺へ、水をそっくりうつしかえた。
壺の口を油紙で覆い、セグリタへ手渡す。
「森長が王城から戻ってきたら、渡して下さい。この水は冬中、凍らないから」
「わかった」
うなずいて、セグリタは用心深く壺を持ち上げたが、それほどつめたい水が入っているのに壺の温度は常温だった。壺には、あらかじめ魔呪をかけてある。
裏庭から、黒館の表扉までセグリタを送っていったが、イユキアはふとつぶやくように言った。
「私は数日、留守にします。約束があるので。何かあったら、長が呼び方をご存知ですので、心配なく」
表情の読みとれない白い貌を、セグリタがちらっと見上げた。少年は何か言いたそうにしたが、イユキアはいつもの微笑を浮かべてかるく礼をする。セグリタは口を結んだままうなずいて、丘を確かな足取りでおりていった。
見送るイユキアは、痛む指を左手で覆ったまま扉によりかかっていたが、少年が斜面の向こうへ消えると空を見上げた。空はぼんやりとした光に覆われて、にぶい色の雲がゆっくりと流れていく。冬の雲だった。