その夜の恋人は、上機嫌な美貌の下にするどい毒の棘をはやしていた。
それは、まあいい。珍しいことでもない。棘に刺されるのも慣れているし、電子屋メビウスによれば、エースは「痛覚がないんじゃないか」と言うほどに自覚なく我慢強い。‥‥こと恋人に関しては。
問題は、サーペントの不機嫌の原因が、自分らしいということだった。
黒いフェイクレザーのタートルをまとい、ゴシック風の髑髏がつらなった金鎖のチョーカーを首に巻き、細い体にぴったりとしたエナメルのパンツと金のピンヒールを合わせ、中性的な美貌に淡い化粧をほどこしたサーペントは、ニッコリ笑って音楽に合わないタップのリズムを踏む。「ついで」にエースの足を思いきり踏みこんだ。
ピンヒールのするどい踵が、正確に足の甲の急所にえぐりこまれる。
「つっ」
エースの呻きが聞こえないふりで、淡いラベンダーの眸が彼を凝視した。澄んだ目には、何の表情もない。唇にはやわらかな、だが、とんでもなく冷たい笑みが浮いていた。
そのまま踵を返し、さっさと人ごみの中へまぎれていってしまう。髪はチョーカーに合わせて髑髏のついたスティックでゆるく巻き上げられ、垂れたクリームブロンドがサーペントの勢いのままにはねた。
「‥‥‥」
無言のまま見送って、エースは手にしたシャンパンに口をつける。ゆったりと漂う音楽に合わせて適当にフロアを歩いた。一人でじっと立っていると悪目立ちしそうだ。周囲の客のほとんどは、顔を寄せあって歓談したり、たがいの体に腕を回してゆるやかにダンスのステップを踏んでいる。天井全体が音楽にあわせてゆるやかに発光し、甘い色の陰影を彼らの顔に落とした。
店のフロアには甘い香りが漂っていた。耳に聞こえる音楽の裏で、人の可聴範囲に入らないある種の「音」も流れている。人の心をひらき、くつろがせるような一定のリズム。それを聞き流しながら人をさけて窓際に寄り、エースは、サーペント相手に何かやらかしたかどうか、真剣に考えはじめた。このままでは足の甲がもたない。いや、それよりも、足の甲で気をすませているうちはまだいいが‥‥
サーペントは美しい顔に似合わない鋼鉄の神経を持っているが、その一方、コーヒーの味がどうのとかチェスで自分が馬鹿な手を打ったとか、通りすがりの猫にガン付けられたとか、ささいすぎることで簡単に機嫌を悪くする。何か彼の気分を斜めにするような「ささい」なことを探しだそうと、ここ数日の会話からそれこそベッドの中のことまで細かく思い出したが、相手があれこれ言い散らした非人道的な言葉──幸い、その大半はエース宛ではないが──はざくざく掘り出せたものの、自分の言動に思い当たるところはなかった。
‥‥覚えが無い。
しかし、あの眸は怒っている。
小さな吐息を口の中で殺し、エースはシガレットケースを取りだして細い紙巻きをくわえた。いつからああだったのか、一つずつ記憶をさぐってみる。
朝。今朝は早かった。早めに売り飛ばさなければならない情報があって、そのディスクの受け渡しをした。その時は特に何事もなかったと思う。サーペントは普通にふるまっていたし、取引相手が約束を破ってつれてきたガードを陽気に半殺しにしておとなしく引き上げた。
昼。大して思い出せることはない。部屋にひっくりかえって、サーペントはのどかに雑誌を読んでいた。エースはサーペントが作ったパズルを相手に遊んでいた。縦横に区切られたマスの外に書かれた数字をヒントに黒マスを割りだして埋めていくパズルだが、サーペントが作ったものはいくつかのパズルを立体的につなげてあって、なかなか歯ごたえがある。「解いてみろ」と言われて渡されたのだが、結局出かけるまでには間に合わなかった。
その時はまだ、なごやかだったと思う。紅茶など飲んで。軽いキスを一つ、二つ。それから今夜のパーティの話をした。何を着ていくかとか、有名人がくるかなとか、そんな他愛もないことばかり。パーティの進行についての話も少し。おかしな料理が出るらしいとか──
エースは眉をしかめた。
何かが記憶をかすめた。
(──御免だな‥‥)
煙草の煙が喉にかかる。あの時、ちらっと彼を見たサーペントのまなざしは、確かに笑っていなかった。
あれか? あんなささいな、他愛もない軽口?
そんな馬鹿な──と思った時、音楽が一気にボリュームを増して盛り上がり、全員の目が天井に吸い寄せられた。巨大なミラーボールのような銀球がキラキラと光りながら下がってくる。ボーイ達がしなやかな身ごなしで集まって、球の下にいる人々を慣れた様子でどかし、白布をかけたテーブルを据えた。
降りてきた球を五人がかりでとらえ、テーブルに載せて、吊っていたワイヤーを外す。二メートルはありそうな球のどこかを操作すると、球体は花が開くように六つに裂けた。
注視する人々の間をどよめきが渡っていく。球の中から現れたのは、全裸の女性であった。
肌は白く、髪は半透明の琥珀色。右目は鮮やかなエメラルドグリーン、左目は燃え立つようなルビーレッド。唇は淡いピンクに濡れ光り、すらりとした全身の肌はうすい輝きにつつまれていた。両手を翼のように後ろへのばし、首を優雅にそらせている。今にも地を飛び立ちそうな軽やかさが全身に満ちていた。
「へえ」
すぐ横で小馬鹿にしたような声がした。エースがちらりと横目で見る。襞のついた銀のボディスーツを着こんだ少年が彼の横の壁にもたれ、目をほそめてニヤッと笑った。
「うまそーぉ」
「足から食べるか頭から食べるか、性格が出そうだな」
エースは煙を吐き出して笑いかえした。少年は、一見少女のような華奢な体つきで、赤を基調にしたひどく毒々しいメイクを顔に施している。見つめると瞳が揺れているのがわかった。何かキメてるな、とエースは気がつく。大して酔ってはいないようだが。
少年は、エースの方へふらっと一歩寄った。顔を近づけ、はあっと息を吹きかける。
「あんたはどっから食べんの?」
「あれでは食欲はわかんな」
エースは素っ気無く答え、あごで女性の像をさした。
サモトラケのニケを真似た全裸の女性像は、このパーティに饗された「目玉料理」のひとつだった。その体は砂糖やメレンゲを駆使してつくりあげられ、髪は細い糸状にのばした飴、唇には甘いゼリーが塗り重ねられている。目は、透明なゼリーの奥へ赤や緑の着色ゼリーをくるんであった。これから客達が「彼女」を食べるのだ。
今日の午後、サーペントとエースはこの「出し物」の話になって、エースはこれを「悪趣味だ」と切り捨てたのだった。「カニバリズムみたいで素敵じゃないか」とサーペントは笑った。それから──
"彼女"の周りをかこんで口々にほめそやす人垣の向こうに、サーペントの姿があった。表情は影になって見えないが、唇は笑っているように見える。
エースは煙草を捨て、少年へ目を戻した。きついメイクの下の顔立ちを眺める。また少し整形したようで、目の形と頬のラインが変わっているが、目鼻の位置と背丈は情報と合致した。
「きみは? どこから食べる?」
「股の間」
少年はぺろっと舌を出した。染料で染めたか、舌は異様に赤い。
「いい趣味だ」
からかうように小さく笑って、エースはブレスレットをいじるふりをして目を落とした。プラチナ色の金属の表面にやわらかな色の文字が動く。一定の角度から見ると可視になる液晶がかぶせてあるのだ。そこに「correct」の文字を読んだ。
(──声紋確認終了)
小さく唇だけ動かした。サーペントは見ているはずだ。
肩になまあたたかいものがかぶさるようにふれた。奇妙にやわらかな仕種で、背中へ手がのびてくる。
「ねえ。あんた、林檎持ってる?」
「‥‥ほしいのか」
低い声で問い返すと、少年は金属的な響きのある声でふふっと笑った。
「ほしいって言ったら? くれる?」
「資本主義」
「どういうこと」
また音楽が変わった。皆様、お手元のクジを御覧ください、というやわらかなアナウンスが流れる。そう言えば店へ入る時にカードを一枚もらったが、あれがクジだったらしい。周りの人間がかざした半透明のカードには、いつのまにか数字が浮かび上がっていた。
いくつかの数字が呼ばれ、そのカードを手にした者たちが前へ出て像をかこむ。照明が明滅した。エースはつぶやく。
「売り物には値段がついてるってことさ」
「ああ」
少年はうなずいた。赤い舌でちらっと唇のはじをなめる。
「どんな“値段”?」
「何で払う」
エースの背中で少年の手がからみつくように動いた。
像をかこんだ者たちの手がのびる。白い肌へ手がめりこむ。女から塊をひきちぎって、彼らは共犯者のように笑いあうと、口にそれを運んでむさぼるように食べはじめた。会場に漂う香りが濃厚な甘さを増した。次の数字を引いた者たちがふらふらと寄っていく。
「‥‥どう?」
寄り添って顔を見上げた少年へ、エースは薄い笑みをかえした。からみつく手はひどく淫靡で、慣れを感じさせる。なるほど、よく仕込んだものだと内心でつぶやいた。
“林檎”は、最近はやりのドラッグキャンディの名称だ。林檎という名は、それをなめて陥る一時的な昏睡状態が「毒林檎を食べた白雪姫のように」見えることからついたあだ名で、その間にひどくサイケデリックで神秘的な夢を見る。どういうわけか市場に流れる量が少ない、噂先行のドラッグだが。
この少年が「林檎」に目がないと聞いたメビウスが、「林檎売り」が出るという噂をこの少年に聞かせて彼をおびきだしたのだった。
エースは静かに囁いた。
「何でも売るか? ‥‥代償は、思ったより高くつくかも知れんぞ」
女の首が台に落ちた。ひょいとのびた手がくずれた女の顔から目をえぐった。
二本の指で赤い目を口にはこんで、のばした舌にゼリーの目玉をのせ、サーペントはにっこり笑ってそれを呑みこんだ。横に立つ男が何か囁くと、サーペントはエースを見たまま男へ何か呟き返した。男が手をのばし、サーペントの唇についたゼリーを指でぬぐい、自分の口へはこんだ。
(──‥‥が死んでたら?)
サーペントの問いがちらっと頭のすみをはしった。あんなことで怒るなんて、まったくどうかしてる。本当に、どうかしてる‥‥。そう思いながら、エースは耳に熱い息が吹きかかるのを感じて少年の顔へ目を戻した。少年の両目が欲望の光をたたえて彼を見つめている。
「いいよ。‥‥好きに買って」
「潔いことだ。交渉成立だな」
少年の背を片手でなでおろし、軽く体をふるわせておいて、エースは歩きだした。
少年の気配と足音がついてくる。店の奥にある細い扉から奥へ向かう彼らを、とめる者はいなかった。客がくつろげる空間を供することもまた、この店の「サービス」の一つなのだ。エースは地下につながる迷路のようなトンネルをくだっていく。トンネルのあちこちにとざされた扉があった。空室のしるしにノブにかかった天使像の鎖を取り、エースはその一室に少年を押しこんだ。
室内は暗く、洞穴のようにごつごつとした低い天井が斜めに垂れ下がっている。床には長い毛足の真紅のファーが敷かれているが、調度品と言えるものはそれだけで、壁にうめこまれた照明は薄暗かった。
「どうするの?」
少年は敷布に膝をつき、エサをねだる猫のような目つきでエースを見上げる。エースは手に下げた天使像を無言のまま少年の唇へ押し当てた。少年は素直に口をひらき、赤い舌を銀色の天使へからめ、見せつけるようにねぶった。
「人のものを与えられるだけ受け入れて。愉しいか、リリシア・カルシェラ?」
「!」
とびのこうとした少年のあごを、エースの手が鋼鉄のような強さでつかんだ。天使を口にくわえたまま、少年は驚愕に息をつまらせる。エースは青い目に何の感情も浮かべず、少年の目の恐怖を受けとめた。
「そう。お迎えだ、リリシア」
「‥‥っ‥‥」
あいている右手を少年の首へのばし、識別信号をしこんだチップを皮膚の下へ刺した。少年の体がふるえる。汗が肌ににじむのが指先にわかった。汗からかすかな甘い香りが漂う。この少年の汗には、媚薬の効果があるという話だった。もっとも彼らに通用するようなシロモノではないが。
部屋の扉が開き、サーペントが顔をのぞかせた。エースがうなずくと、サーペントは男を一人引きずるように狭い室内へ入ってくる。男の足をすくいながらつきとばし、その体を床へ倒すと、後頭部をつかんで顔面から床へ叩きつけた。
容赦のない一撃に、男の口から呻きが洩れた。ファーのおかげで骨は折れずにすんだらしい。そのまま毛の中へ頭を押し付け、サーペントは少年の顔を見上げた。
「逃げるならもっと徹底して逃げないとねえ」
透きとおった微笑をうかべる。
エースが少年のあごから手を離すと、少年は咳込み、よだれまみれの天使を床へ吐き出した。恐怖と怒りのいりまじった目でサーペントをにらむ。エースではなくサーペントを相手に選んだのは、繊細で華奢な顔をした彼の方が汲みやすしと判断したからだろう。まちがえているんだがな、とエースは煙草に火をつけながら目をほそめた。
少年が強気な声を出す。
「ぼくは‥‥ディラの──」
「うん。ディラに自分を売ったんだって? だめじゃないか。あれは怖いヒトだよ。こんな用心棒みたいなのをピッタリはりつけてさ」
サーペントは片手で押さえこんだままの男へチラッと目をおとした。
ディラ──ディラ・サヴァーニは、武器商人の一人として名前が囁かれる存在だ。それが一人の男の名前なのか、組織の総称なのかもわからない。ひどく危険な名前であることだけが確かだった。
リリシアの「主人」は、表と裏の財界にくいこんだ男だ。「裏」の顔の一つが、この少年の支配者である。
リリシアは幾度もその「主人」の元を逃げ出し、そのたびに連れ戻されていた。ついに最後の手段として、彼はディラに身を売ったのだ。さしもの「主人」もディラに喧嘩を売るような真似はできないだろうと──それはこの街を混沌に陥れかねない──、危険な賭けに打って出た。事実、「主人」はそれまでのように直接手をのばして彼をつれもどすわけには、いかなくなった。
「ぼくをどうにかしたら、ディラは放っておかない‥‥」
「君はコドモだなあ」
優雅な表情を白い貌にたたえ、サーペントは頭に回した手でヘアスティックを外した。淡いブロンドがはらりと背に流れ落ちる。その間も男をおさえこんだ手はゆらがない。男は動こうとしなかった。賢明だ、とエースはするどい目を投げる。今は勝ち目がないと悟って、反撃の機をうかがっているのだろう。
軽く頭をふって、髪を流し、サーペントはひどく優しい目を少年へ向ける。
「ディラが本当に君を守ると? 君にそこまでの価値があると? 手を焼いてまで? ためしてみようか」
手の力がゆるんだ。男がサーペントの手を払ってはねおき、顔面へ拳を叩き込もうとする。それを片手で流しざま相手の肘を外から抱え、サーペントは一気に力をこめた。肘を強引に逆へ折る。靭帯がちぎれる嫌な音がして、苦鳴を洩らした男の口へ丸めたハンカチを素早く押し込む。肋骨へのせた膝へ軽く体重をかけた。
「動いたら折るからね」
それまでと同じ、優しい声だった。男はくぐもった声で呻いたが、動かずにいた。
サーペントがチラッとエースを見た。
エースは、煙草をくわえたまま、少年の体に後ろから手を回し、抱き込むように押さえた。暴れられると面倒だ。その様子をたしかめてから、サーペントは少年へ淡い色の瞳を向けた。温度のない微笑をうかべて、
「目をしっかりあけておくんだよ」
そっと言い置き、男の体に身を傾けると、右手の指を男の眼窩へ一気にうずめた。男の全身が激しく痙攣し、くぐもった絶叫が口から洩れる。折れていない手を上げようとしたが、サーペントがすでに逆の膝で押さえ込んでいた。
眼窩からは大量の鮮血があふれて指を濡らす。微笑を浮かべたまま、サーペントは眼球を二本の指でかき出した。血まみれの眼球につながって引きずりだされる神経繊維の束を手首のスナップでひきちぎり、手のひらにのせた赤いかたまりを少年へ見せる。
少年の口から嘔吐のような声が漏れ、彼は幾度か体を激しくゆすったが、吐き出されるものは何もなかった。逃れようともがく体はエースの腕で抱き留められている。あえいで苦しげに表情を歪めた彼へ、サーペントはにこやかに言った。
「これをディラへ送る。ディラが君を取り戻すようなら、君の周りにいる人間にまた同じことが起きる。ずっと、君が戻るまで」
「‥‥ひどい‥‥」
「そうだね。ディラもそう思ってくれれば、丸くおさまる。最後には彼の目玉を支払う覚悟がないかぎり、君はディラにとって邪魔な存在でしかなくなる」
「‥‥‥」
気絶しそうに青ざめた少年の顔は、赤を基調にした毒々しいメイクにふしぎと映えて美しかった。サーペントは防水の小さな袋を取りだして眼球をその中へおさめる。唇に浮いたままの微笑につめたいものがしのびこんだ。
「それとも、ほかの人間を見つける? 片目を失っても君を守るような人間を。それもいいだろうね。でも、そんな相手が味わう苦痛に、君自身は堪えられるかな? まあそういう関係も、悪くはなさそうだ」
「悪魔──」
呻いた少年をエースが立たせた。倒れた男の体はびくびくと苦痛に時おりはねあがる。その首へサーペントの手がのび、頚動脈をおさえられた男はたちまち意識を失った。
指にしたたる血をぬぐい、サーペントは優雅な動作で立ち上がる。無駄のない肉食獣のような動き。やはり肉食獣のような容赦のない目で少年を射貫き、凍るような微笑を投げた。
「君がさせたことだよ」
「ちがう!」
「そうかなぁ。まあそうかもね、今回はね。でも次があれば、それは君がさせることだ。次、誰かが目玉をなくしたら、それは俺じゃない。君がしたことだよ」
「──」
少年は怒りと勇気をかきあつめ、濡れた目で気丈にサーペントをにらんだ。片手が動いたが、サーペントへ殴りかかる前にエースがすばやくその手首をとらえた。少年は、サーペントの顔へ唾を吐きかける。
サーペントは表情一つ揺らがせない。淡い光をたたえたラベンダーの瞳で少年の目を見つめ返し、やわらかな微笑のまま静かに立っていた。その目の中に何を見たのか、少年の全身を強い痙攣が走り抜け、彼はがっくりと首を垂れた。低いすすり泣きが口から洩れた。
攻撃的な流線形のフォルムを誇るリーア・スカラッティ。そのハンドルを上機嫌で握り、サーペントは車の流れへ車体をなめらかにすべりこませる。夜の街を彩る喧騒を走り抜ける間、少年は後部座席のエースの横でうつむき、膝の上で握りしめた両手を見つめて無言だった。
チラッとサーペントがミラーへ視線をはしらせると、エースは表情をうかべずに窓の外を眺めていた。ふ、とサーペントの口元が刺すような微笑をたたえる。
車が繁華街を離れ、静かな暗闇の輸送道を走り出すと、少年は押し殺した声を洩らした。
「ぼくはあいつのオモチャなんだ。あいつの‥‥」
サーペントもエースも答えない。答えに窮したからというわけではなく、二人ともきわめて穏やかに苦しげな言葉を無視した。
少年が「主人」によって子供の時に買われ、さまざまな欲求を満たす性的玩具として育てられたことは知っている。人身売買は無論どこの都市でも違法だが、顧客がいる限り暗いマーケットは常に存在しつづけ、欲望のためにあらゆるものが売り買いし続けられる。臓器として切り売りされなかっただけでも幸運だったのだが、それを言われたところで少年が今さら喜ぶとも思えなかった。少年の躰には、さまざまに忌まわしい外科的な手術すらほどこされているという話で、「主人」は彼を品物のように他人に貸し与えているらしかったが、サーペントにもエースにもどうでもいい話だった。
彼らにとって、メビウスに頼まれた仕事を頼まれた通りに片づける、それだけの夜でしかない。
二人の沈黙は、少年を激昂させた。ヒステリックな怒りがにじむ声を悲鳴のようにはりあげる。
「ずっとこんなことが続くってのか!? ずっと!? 他人の股ぐらに頭をうずめて年をとってくってわけか!?」
「目玉を取られて文句を言わない相手に出会えればいいねぇ」
サーペントが喉の奥でくすくす笑った。
少年はわかっていない。今回の脅しが、少年が保護をたのむディラにではなく、少年自身に向けて放たれた矢であり、その身を縛る鎖になると言うことが。ディラは、誰の眼球が奪われようがひとかけらの興味も持たないだろう。少年に対してオモチャ以上の興味を持たないのと同じように。
いつかそんなふうに心を捨てれば、他者の眼球に何の想いももたなくなれば、この少年も自由になれるかもしれない。捨てた代償に見合うものを手に入れるほど、世の中がうるわしいとも思えないが。
笑いがとまらない。
「元から目のない相手に惚れてみるのもいいだろう‥‥」
義眼の技術は、もはや「見た目」だけなら本物と見分けのつかない目をつくることができる。光に応じて瞳孔が収縮し、疲労によってかすかに充血してみせたりもするのだ。だが、視神経の再生技術はきわめて高価かつ困難な技術にとどまり、サーペントが男へしたように眼球が奪われれば、犠牲者が失った視界を取り戻す可能性は低い。
少年が憎しみのこもったまなざしをサーペントへ向ける。殺気のような鋭い気配が肌を刺す、その感覚を愉しみながら、サーペントは車のスピードを上げて、微笑んだままつぶやいた。
「一つ、忠告しておこう。本気で抜け出したいのなら、他人に救いを求めないこと。自分の力のみをたよること。そして、必ず、何をするにも徹底的にためらわずやりきること」
ちらっとエースが考え深げな目を動かしたが、何も言わなかった。サーペントは平坦につづける。
「行動しなければならない時には、決して迷わずに。──力をつけて、己の手で抜け出しな。さもなきゃ一生ケツを振ってるんだね。悪くはなかろう、愉しめばいいことだ」
「‥‥あんたは知らないんだ──」
「わかってもらおうなんて泣きゴト言ってるようじゃ、一生鎖でつながれてるのがお似合いさ」
車体をかすかにきしませて、サーペントはリーア・スカラッティの車体を細い路地へ入れた。倉庫街。冷ややかに立ち並ぶ建物を抜けた先で少年を渡す。それで完了。
少年は、唇を噛みしめてじっと両手を見下ろしていたが、やがてぽつりと呟いた。
「自分の手で?」
「待って、じっとして、時を見計らって、徹底的に」
歌うように、奇妙な節回しでサーペントが言う。小さく笑った。
「──待っていれば時がくる。チャンスは存在する。必ず」
「‥‥この手で‥‥」
「目には目をって言葉、知ってるかい?」
タイヤがきしむ。約束の時間、約束の場所。少年ははりつめた光を目の奥に溜め、エースはかすかな吐息に口元を曇らせたが、一言も言わずに窓の外の闇を見ていた。そのエースの顔をミラーごしに眺め、サーペントはぐいとアクセルを踏みこんだ。
少年の身柄の確認と引き渡しは一瞬で終わり、血まみれの眼球も共に受取り手へゆだねた。
車を街なかへ戻し、余計な「しっぽ」──尾行──がついていないことを確認してから、サーペントは車を今夜の寝ぐらへ向ける。助手席へ移ったエースは座席を倒し、眠るように目をとじていた。
しばらく沈黙が流れてから、エースがふいに言った。
「あのガキ、そのうち〈主人〉を殺すぞ」
「そう?」
「わかってるくせに──」
「つまんないこと言うくらいなら、黙ってなよ」
真綿に針をくるんだような口調で、サーペントは前を向いたまま言った。唇には微笑があるが、目も声も笑ってなどいなかった。
しばらく車内には沈黙だけが漂っていたが、突然、はじけるようにサーペントが笑いだした。
エースは白い横顔をまぶたの下から物憂げに眺め、目をとじる。サーペントを抱きしめたいと思ったが、今やると刺されそうな気もして、どうしようかと思案をめぐらせるうちに笑い声はやがてとだえ、車はホテルの駐車場へすべりこんだ。