どこに行く、と聞いてもシゼはやがてわかると言うように答えない。イーツェンはあくびをし、マントを体に巻き付けるようにしてシゼの足取りを追うが、まだ陽ものぼっていない未明の道は暗く、空気はひえびえとしていた。首の輪の上には狐の毛皮で裏打ちした帯を巻いているので、旅の間のように首から刺すような冷気が入ってくることはなくなっていて助かる。
朝はまだだったが、夜はもう終わりかかっていて、夜空は全体に青っぽくぼんやりと薄曇りのような半端な暗さをたたえていた。シゼが持つ足元用の吊り手燭の明かりの向こうにも、建物の輪郭がぼんやりと浮かんでいて、道に迷うほどではない。
寝ていたイーツェンを揺り起こして、シゼはさっさと着替えさせると、突如として「散歩に行こう」と外へつれ出した。
何だろうな、と静かな道を歩きながらイーツェンはふしぎに思う。石畳の道を折れると、今度は踏み固められた土の道に入り、二人の足音が時おり重なった。単純にシゼと一緒にこうして歩けるのがうれしくて問いただす気にもなれず、いぶかしくも思いながらイーツェンはシゼに続いた。
あと二日たてば、一行はゼルニエレードを出立してリグをめざす旅路に着く。雑事もあってイーツェンは町歩きに出かける時間もあまりなく、ハンサイたちもイーツェンを目の届かないところには出したくないらしい。首を隠しているとはいっても奴隷であるとわかれば街中でいらざる騒ぎに巻きこまれることもないとは言えず、結果、イーツェンは出歩くのは避けていた。
シゼはそれを気にしてつれ出してくれたのだろうかと思ったが、何故こんな夜明け前なのかはわからない。
港町だけに朝が早いのか、どこかしらざわついた気配が感じられた。それでも町全体はまだ人影もほとんどなく、ぼんやりと眠りに覆われている。
「こっちへ」
シゼにうながされながら横道をいくつか曲がり、水路にかかる短い橋を渡って、二人がたどりついたのは川辺の土手だった。
川の支流がゼルニエレードの町に流れ込み、水路が人々の生活用水になっているということだったが、支流と言えども充分な幅があって薄闇の中では向こう岸など見えない。せり上がった土手のあぜ道を用心深く歩いていると、前を行くシゼがイーツェンに右手をさし出した。
とまどいつつ、イーツェンはその手を握り返す。シゼはいつも右手をあけておくので、こういうことは珍しい。きっと左手に手燭を下げているからだろうが、それでもあまりないことだった。少しざらついた手でイーツェンの手を握り、シゼはゆっくりと歩いていく。
ぱしゃっ、と暗闇から水音がして、イーツェンはビクッとした。シゼがなだめるように指に力をこめる。
波音ではない。何かが水に落ちるような──それとも水からはばたくような。イーツェンは音の方向へ目をこらそうとする。
──ぱしゃん。
川風の中、シゼは危なげのない足取りで土手の中腹までおりた。結構な大きさの岩があちこちに転がっていて、イーツェンはシゼの手を支えにおりていく。
薄布を一枚ずつはぐように、空はゆっくりと白みつつあった。シゼは枯れ草の上にイーツェンを座らせると、自分も横に腰をおろした。手燭を吹き消す。
──ぱしゃん。
「イーツェン」
座った後、二人の手は離れていた。その右手で、シゼが川の方を指す。イーツェンはまた目をこらそうとして、景色がずっと明るく見えてきているのに気づいた。影ばかりなのはまだ変わらないが、影の中を影が動いていくその濃淡が見える。
川の上に、何かが大きくひろがって、イーツェンは目をみはった。
淡い影のようなものが水面に落ちてぱしゃんと水音をたてる。ついさっきまで水面は一色の闇を流したようだったのに、今は影が折り重なって、薄い絹を幾重にも重ねたように見えた。
川の流れはゆるやかで、とまっているようにすら感じられる。その中に人影が立ち、宙に何かを投げ上げていた。蝶が羽根をひろげるようにやわらかなものがひろがって水面へふわりと落ちていく。
「ああ」
やっと思い当たって、イーツェンは小さく合点の声を上げた。投網だ。川渡の途中でも、幾度か船や岸から漁師が網を投げているのは見た。
だが、これは‥‥
陽の最初のひとすじが川面に光る。網を投げる人影は、暁の光を受けてさっきよりも黒々と、投げた網を手際よくたぐった。網から魚を外しているのか、ひょいひょいと手が素早く動き、網を一振りして水を払ったかと思うとまた宙へ網を投げかける。ただ投げ出されたと見える網が波打ちながら一瞬にしてひろがっていく、それは見事な手さばきだった。
暁の光に、あたりの景色が照らし出されてくる。気づけば数人が同じように川の中に立って漁をしていた。喫水の低い川船が、荷をのせてゆったりと川上へのぼっていく。闇の中から突如として人のいる景色が浮かび上がってきたようで、イーツェンは驚いた。
「‥‥冷たいだろうに」
膝まで水に浸かって網を打つ人々を見て、思わず呟く。独り言に近かったが、シゼは答えた。
「今の時期は、夜明け前までのわずかな時間しか許されていない漁だそうで。どっちにしてもこの水に立つのは半刻が限度だと」
「へえ」
半刻も立っていられるだけで凄い。感心して、イーツェンはもっとも確かな手さばきで網を宙へくり出している若者を見つめた。網は一体どうやって編まれたものなのか、水を吸っている筈なのに軽々と舞って水面へひろがる。それとも投げる者の技なのか。
若者はたぐりよせた網に刺さっている小魚を手早く選別し、すぐそばに浮かべた浮き籠へひょいひょいと魚を放りこんだ。小さすぎるのか、それとも食べられないものなのか、数匹は遠くに投げて捨ててしまう。
暁の光がすうっとすべるようにのびてきて水面を照らし、冬の空が白々と明けはじめていた。イーツェンは白い息を指に吹きかけた。一人、また一人と網をたたんで漁を切り上げていく。残念だったが、珍しいものが見られた嬉しさでイーツェンの心はほんのりとあたたかかった。
その時、すぐそばで岩が動いた。
「わっ」
転がり落ちそうになったイーツェンをシゼが片腕で抱きとめるが、イーツェンはそれに気づく余裕すらなく、のそのそと動き出した岩を大きな目で見つめた。
「シゼ! 岩が歩いてる!」
「亀ですよ」
「嘘だろう──」
ぎゃあぎゃあと騒ぐイーツェンをシゼが一言でたしなめる。始めはイーツェンを支えた筈の腕だったが、もはやその場から逃げ出そうとするイーツェンを引きとめるように巻き付いている。
「あんなデカい亀がいるか!」
悲鳴に近い声をイーツェンが立てると、耳元でシゼが声をあげて笑った。イーツェンはほとんど涙目だ。赤ん坊よりも大きな岩の塊がのっそりと、ゆっくり、ゆっくり歩いている。ありえない。
確かに暁の光でよく見ると、岩からは亀の──大きな──首がつき出しているし、手足もある。岩というよりは甲羅の模様に見えなくもない。言われてみれば、亀かもしれない。
だが──大きい。両手で抱えるほどはあるか。リグではせいぜい手のひらほどの大きさの亀しか知らないイーツェンとしてはその大きさだけで怖くて仕方なかった。
「本当はもう海に帰っている頃なんですが、どうしてかここ数年、一匹だけ遅くまであたりに残る亀がいるそうで」
港で働いている時に聞いた話だと、シゼはまだ笑いを含む声で説明した。シゼの腕にしがみつきながら、イーツェンはまた動かなくなった大きな岩──亀──を凝視する。
「でも、じきにこれもいなくなるだろうと。もっと暖かい海の向こうへ行くようです」
「‥‥どうやって?」
「泳いで」
当然のように答えられて、うっかり気が遠くなりそうだった。イーツェンたちが船で渡ってきたあの見渡す限り何もない海原を、こんな亀が泳いでどこかへいこうというのが信じられない。
ふうっと息をついて目を戻すと、川はすっかり明るくなり、網を打っていた人々はもう岸へ上がって魚の入った籠をかつぎながら去っていくところだった。土手に座った二人の脇を網を肩にかけた若者が通りすぎながら、ちらっと白い歯を見せて笑った。イーツェンの様子がおかしかったのかもしれないが、底のないきれいな笑顔だった。
「戻ろう」
そうシゼにうながされて、やがてイーツェンも立ち上がった。亀に最後の一瞥を投げ、彼はおそるおそる歩き出す。シゼがまた右手をさし出し、イーツェンはその手を握って土手の斜面をのぼっていった。
この朝のことを、イーツェンは後になってから何度も思い出した。結局シゼの目的は何だったのか──網打ちか亀か、ほかの何かだったのか──わからずじまいで、イーツェンも聞きはしなかった。イーツェンの気晴らしにつれ出してくれたのだろうと思って、この時はただうれしかった。
だが、本当は何のためだったのだろう。
シゼにとって、先の読めぬ日々だったことはわかっていた。だがイーツェンは心のどこかで、シゼはずっと自分のそばにいてくれると深く信じていたような気がする。明日は何がおこるかわからないが、それでもその未来にはシゼがいるのだと。この日の朝のようにただイーツェンのそばにいつまでもいてくれると。
だがシゼはあの時、どう思っていたのだろう。一緒に川を照らす朝日を眺め、亀にうろたえるイーツェンを笑いながら、彼はもしかしたら、もっと遠い何かを見ていたのかもしれなかった。
あの朝、耳のそばにひびいた短い笑い声を、つないだ手の小さなぬくもりを、イーツェンは何度も思い出した。次の冬も、その次の冬も。
END