重い雨音が肌をざわつかせる。くり返し、雨は天から地へふりそそぎ、濡れた地面がはじかれたような音を鳴らす。雨音のさざめきは歌のようだが、耳をかたむけようとしても、曖昧な旋律のゆくえを追うことはできない。崩れて、消えては、また大地のどこかから立ち上がるように音楽が聞こえてくる。いびつな、決して完成することのないメロディ。
重い雨音が体をざわつかせる。肌の内側をざわつかせ、骨をふるわせ、その音に臓腑をつかまれて今にも身の内から何かが引きずり出されてしまいそうになる。肌を裂いて、何かがあらわれてしまいそうになる。
空気は、じっとりと湿気を含んで体に粘りつくようだ。肌が汗をはらんで熱い。「水の中のようだな」と男は肌が湿る雨季の湿気を笑ったが、水の中ならばこれほど苦しくはないだろう。喉にあたる空気はいつでも焼けるように苦しい。こんな雨の日でさえ、体の奥は乾いている。
もう何日、降りつづいただろう。もうどれだけ、地面を打つ滴の音を聞きつづけただろう。終わることがないかのような雨に世界はけぶり、かすみのごとく遠ざかった。世界の実体がなくなって、すべてが雨とともにどこかへ流れていってしまいそうだ。
身じろごうとしたが、手足は信じられないほど重かった。薬を盛られた、と頭のどこかで意識がそう囁く。そのこともどうでもいいほどに気怠い。ただ雨音だけが体にひびいて、どうしようもなく切ない。肌は雨の音が旋律をかなでようとするたびに震え、その旋律が無数の雨の向こうに崩れて消えるたび、骨の引き攣るような痛みをおぼえた。
水が大地とこんな音をたてるなんて、ずっと知らなかった。海にふる雨しか知らなかった。大地に生きることを覚えるまで、雨はただ波に呑みこまれ、海へと還り落ちている無数の滴りでしかなかった。
どれほどの水が、地面をめがけてこぼれ落ちてきているのだろう。天はすべてを沈めようかというほどの雨をふらせ、大地はそのすべてを貪欲に呑みほしながら、水にまみれて濡れそぼっている。雨音は、天と地が互いを喰らおうとする激しい争いの音のようだった。
「大丈夫か?」
そっと声をかけられるまで、彼がすぐそばまで来ていることに気付かなかった。足音が雨にまぎれて聞こえなかったのか、それともわかっていなかっただけで、ずっとそばにいたのだろうか。
あとどれだけふる、と聞きたかったが、やめた。たずねたこともあったが、人間にはわからないという返事を以前にもらってあきらめていた。明日やむのか、10日つづくのか、100日つづくのか。100日つづけば大地は海のようになるだろうかと、ぼんやりと熱によどんだ頭で考えたが、この大地が海と化した様子などまるで想像がつかなかった。雨がふればふるだけ大地からたちのぼる土の匂いは濃密で、木々の葉からあふれ出すするどい緑の匂いと入り混じり、貪欲なまでに荒々しい匂いは、時に喉をつまらせる。
あの風景が、生命にあふれた匂いが、なすすべなく水に沈んでいくなどということがあるのだろうか。水の底にこの世界が沈んだならば、あの緑の木々は水の向こうからさしてくる青めいた光に照らされて、どんな景色をつくるのだろう。
ざらついた感触が額を撫でる。やさしい手が額をなで、乱れた髪を丁寧に払った。
「すまないな。薬が多かったか?」
「どうして‥‥」
何故薬を呑ませた、という苛立ちが唇からかすれた呻きになってこぼれ落ちた。はじめはそうではなかった。身をよせあって雨を見つめていた。2人で雨の中を歩きもした。いつから、こんなことが普通になったのだろう。
聞こえてきた声はひどく静かで、雨音に呑みこまれてしまいそうだった。
「俺はお前を失うのが怖い。雨がふるたびに、お前は戻っていきそうになる。雨音の向こうに、海の音を聞いている」
そうだろうか。彼の体を喰いやぶって雨音の中へと出ていこうとしているものは、海を求める思いなのだろうか。耳の中に鳴る雨の音は、ざわざわと引いては返すあの波の囁きとは、まるでちがう音なのに。
「泣くな」
額をなでていた指が頬をなぞり、目尻から涙を拭った。
「海にいた時からそんなに泣き虫だったのか?」
その声はやさしい。重い頭をゆっくりと左右に振ると、溜息のような音がきこえた。息づかいが近づいて、彼の匂いが唇にふれる。一瞬の短いくちづけを味わおうと唇をひらいて、舌と舌がふれあったその熱に、ぞくりとした痺れを感じた。
熱がうつった唇がひどく火照って、彼は唇をひらいたまま何度か細い息をくり返した。その唇を男の指がなでて、相変わらずやさしい声が囁く。
「‥‥お前を苦しめるつもりはなかった。お前を幸せにしてやりたかった。なのに、雨のたびにお前をとじこめて、薬を呑ませている」
帰れるわけがない。そう言いたかったが、喉がからからに乾いてうまく声が出なかった。海を離れたあの日から、それは代償のひとつ。人としての姿を得てしまえば、もう戻ることはできない。
2人で海を離れ、ただただ遠ざかり、海という名すらも知らぬ者が住む山あいの地へとのがれてきた。それでもまだ、亡霊のように海の記憶ばかりが追いかけてくるのか。身の内の飢えに苦しみつづけるほかに、ともに生きるすべはないのだろうか。
手をのばして、取りすがろうとした。その手を男が両手ではさむようにつかむ。火傷するかと思うほどに、人の熱は強い。痛みにも似た熱にかまわず、彼はその手を唇に引きよせてくちづけた。この手を離せずに、海を捨て、あの波の音を忘れようとした。それなのに雨がふる。
この大地のどこかに雨のふらない、乾ききった地があるならば。その地にたどりつけばもはや追われることもなく、この男に薬を盛らせることもなくなるのだろうか。水のない大地ならば、彼らはもう、雨に苦しめられることもなくなるのだろうか。
だがそんな場所ではきっと生きていけないだろう。人の姿に身を変えてはいるが、この身を保つのにも多くの水が必要だ。あたりが雨に満ちた今でさえ、空気は肌にも喉にも乾いて、灼けたような体の芯は水をつねに求めている。その飢えを2人にはどうすることもできない。帰ることさえできなかった。1度海を離れてしまえば、もう戻ることはできない。2度と、身をくねらせながら水中を自在に舞うように泳ぎかうすべはない。彼はもう人でもなければ、海の種族でもないのだ。それがさだめだ。
戻れない。すべてを振り払い、そう決心して海を離れたと言うのに、雨音が心の奥底にこびりつくものを呼びさます。ざわざわと体の奥で水の音がざわめいて、心と体を喰いやぶりそうになる。
頬にふれる人間の手は熱い。いつでもそうだ。その熱に惹かれ、今でもその熱を恋しているのに、その熱さと乾きにふれられるのが苦しい。
「眠れるか?」
耳元で低く囁かれて、かすかに睫毛だけを動かした。指が髪をなでている。その熱が愛しくもあり、つらくもある。そっと額にふれた唇の感触は、まるで烙印のような熱さをそこにともしていた。
雨の音が世界を満たし、大地に濡れた音をたてつづけている。
100日ふりつづけば、世界は海のようになるだろうか。1000日ふれば、あのなつかしい波の音が世界を満たし、雨はただ海にふりそそいでいくだけになるのだろうか。だがそんな世界で、この恋しい男も自分も生きていけまい。
──2人して、深い水の底へ沈むか。
それとも、雨のふらない乾ききった大地を探して、さまよい続けるのか。
まるで罪のような夢がどろどろと雨音と入り混じり、体の奥の飢えが小さく身じろいだ。水の音を体の内と外に聞きながら、意識がさざ波のようなまどろみの中に溶けはじめる。ふわりと体が浮いたような感覚に小さな呻きをあげると、彼をかかえあげながら、男の声がそっと囁いた。
「眠っていい」
やせた体を両腕に抱きあげて、男は雨の中へと歩み出る。肌を水が叩き、彼は悲鳴のように口をあけて一瞬身をひきつらせたが、すぐに力を抜いて男の腕に崩れた。したたりおちる雫が体中を濡らし、風の匂いを含んだ雨が肌を流れ落ち、すべてが雨音のひびきに呑みこまれていく。
「どこまで行こうか。お前と」
男が呟いた、その声に聞き返すことはもうできなかった。体の奥にまでみっしりと雨の香りが満ち、音が肌をふるわせて、息ができない。そのまま、眠るように意識を失っていた。
END