丘の上から、冴えた空気の朝には遠く海がのぞめるという。その丘に建つ黒館の主が病に伏したのは、早い秋の嵐がすぎていった後だった。
嵐は港町クーホリアを襲い、街は高潮に浸された。潮は数日で引いたが、街路には壊れたボートや家具の木切れが山積みとなり、港の波間には船の残骸が漂っていた。おろかにも岸に近づきすぎて座礁した帆船が陸へ傾いて乗り上げ、離れた水面に、折れたマストが浮き沈みしながらおだやかな波に揺れている。
レイヴァートは、いつもは海から離れたアシュトス・キナースの王城都市に暮らしている。
だが、この嵐でクーホリアの街が傷んだと聞いた王は、被害を調べるための役人団を街へつかわした。彼らの護衛役に任じられたのが、レイヴァートをはじめとする〈王の盾〉の一団だった。王城と港町は人の足で半日程度の距離だが、街への見舞金を運ぶ彼らを狙って盗賊が出ないとも限らない。
レイヴァート自身、護衛のほかに、王からあれこれと非公式な用をおびていた。一つ一つは大したものではないが、煩雑な取引もまじっている。護衛の任を果たして王使をクーホリアへ送り届け、用命を果たし、数日を港町でついやしてから王城へ戻った。
その彼を待っていたのは、丘にある孤独な家に孤独に住む施癒師イユキア──黒館の主が、病に倒れたという噂であった。
イユキアの館までは、王城都市の西門を出て、人の足なら三時間。レイヴァートの歩幅ならもっと早い。径は、ひとたび森の中へ入り、細くなりながら茂みや木の影をくねって抜けていく。森は深く、ざわめく風はまるで警告のように、茂みを揺らして消えていく。立ったまま朽ちかかる楡の古木を通りすぎ、木漏れ日の下をしばらくたどる、やがて目の前は明るくひらけ、小高い丘の下へ出た。
目前の地面に、白い杖が突き刺さっていた。
「‥‥‥」
レイヴァートは無言で見下ろす。なめらかに磨かれ、ふしぎに湿った白色の杖は、傾きかかった陽射しに照らされて、凛然と潔癖に、地面から生えるように立っていた。やわらかな丸みをおびてふくらむ先端に、鱗を持つ生き物の形が精緻な浮彫りに刻まれていた。
──骨の杖。
巨大な動物の骨から削りだされたその杖を、レイヴァートはイユキアの居室で見たことがあった。うすぐらい部屋のかたすみに、まるで打ち捨てられたようにころがっていた。
「警告だ。──近づくな、と」
背後で声がした。驚いた様子もなく、レイヴァートはふりむく。静かなまなざしの先、森が途切れる境界の向こうに、細身の少年がレイヴァートをにらむように立っていた。
体をゆるく沿いながらつつみこむ灰色の衣。布の表には深い色の糸で複雑な紋様が縫い取りしてある。青年の頬にも、緋色の樹液で同じような複雑な紋様と読めない文字がしるされていた。
──森の民だ。
王権の及ばぬ種族の少年は、するどい眸のままニヤリと笑った。険のある顔が、子供っぽい愛嬌をおびる。
「久しぶり、レイヴァート」
「セグリタ」
挨拶を返すかわりに、レイヴァートは相手の名を呼んだ。深い、静かな声と、落ちついたまなざしを相手へまっすぐに向けて。
セグリタは苦笑した。
「イユキアの警告を無視する気かい? ──人にうつる病かもしれないから、警告を立てたのかもしれないのに」
「‥‥‥」
無言のまま、レイヴァートは数回まばたきするほどの間、セグリタを見ていた。厳しく彫りの深い顔は、普段からあまり表情を読ませない。凝視されて、セグリタは顔をしかめた。
「知ってんだろ。森の民は、イユキアを守るしイユキアの意志を尊重する」
「だから館を訪れる者を脅して帰し、イユキアが病だと噂をひろめたか?」
「病は本当のことだ!」
怒りが声にはじけた。レイヴァートは表情ひとすじ動かさずにセグリタを見ている。
ふっと息を吐き出し、セグリタは脇に下げていた皮袋を差し出した。
「どうせ、行くんだろ。あんたを腕っぷしでとめようとするほどこっちも馬鹿じゃない。これをイユキアへ持っていってくれ。‥‥俺たち森の民は、誓約があるからイユキアの結界を越えられないんだ」
無言のまま、手をのばしてレイヴァートは皮の袋を受けとった。ずしりと重い。かるく頭を下げた。
「わかった。すまんな」
「やかましい。さっさと行きな!」
ひらりと手を振り、身を翻して森へ駆けこむとたちまちセグリタの姿は、木々の落とす影と木漏れ日の迷宮へ溶けるように消えた。わずかに二呼吸ばかり、それを見おくって、レイヴァートは森へ背を向けると白い骨杖に目もくれずに通りすぎ、丘をのぼるゆるやかな道をたどりはじめた。
丘の上に一つだけ建つには、奇妙に大きな館であった。周囲を取り巻く庭も柵も、外門すらない。ただ消えかかった道の左右に、標石のように小さな石像がうずくまっているだけだ。それも苔に覆われ、雨と風に丸みを帯び、注意深い者でなければ存在にも気付くまい。
館は時経て古いもので、いったいいつからそこに建つのか、王城の歴史をひもといてもしかとはわからなかった。王が館の修繕のために職人をよこしたと云う一番古い記録が、120年前。それより前から館はここにあったらしい。だが建てた者の名も、はじめに住んだ者の名も杳として知れない。レイヴァートにはあまり興味のないことだった。
丘の尽きる手前に、暗鬱な館がうずくまっている。傾斜のきつい屋根と左右にのびる両翼をもつ、黒屋根の屋敷。両翼の窓はいつも鎧戸が落とされているが、本棟の窓の鎧戸も落ちているのを見てレイヴァートは眉を動かした。
名を記した札のひとつもなく、住む者の正体をしめす物は何一つない。鉛で枠を打たれた黒樫の扉は、暗鬱にとざされていた。呼び鈴もない。そんなものがなくとも、イユキアは来訪者を知るし、レイヴァートの知るかぎり扉には鍵などなかった。
なのに、引き開けようとノブをつかんだ手は、びくとも動かなかった。
レイヴァートは数回こころみたが、扉は身じろぎもしない。イユキアは家をまるごと封じてしまったらしい。少し考えてから、思案含みでつぶやいた。
「イユキア。開けろ。俺は‥‥帰らんぞ」
そう言ってから、もう一度ためしたが、扉はやはり動かなかった。まあそうだろう。もっとうまく脅したり説得できればいいのだが、あいにくとレイヴァートはそう言った方面に不得手だ。たたずんだまま次の言葉を探してはみたが、言いたいことはさっきの言葉で言い尽くしていた。
一瞬考えこんで、すぐに彼は肚をきめる。言葉が無理なら、行動しかない。
荷を扉の脇へおろし、腰の剣帯を外すと長剣の鞘をかかえて荷の横へ座りこんだ。イユキアの意志がどうあれ帰るつもりはない。だがイユキアが人を入れる気がないのなら、仕方がなかった。
晩夏の陽はゆるやかに傾きだし、風は夜の予感をはらんでかすかに涼しい。マントを体によせてうずくまり、レイヴァートは身じろぎもせずそこに座っていた。苔色の目はじっと目の前の地面を見ている。表情はおだやかに揺らがない。
──きしむ音がした。
レイヴァートは鞘を手に立ち上がる。待っている間、あたりには夕暮れがしのびより出していた。
ふたたびためすと、扉はいつものように重くひらいた。
がらんと大きなホールへ歩み入ったレイヴァートは、周りを見もせず廊下へつづく垂れ幕をくぐり、くすんだ廊下を大股に歩き抜けて奥へ折れ、イユキアの部屋へ向かった。左にはとざされた扉が並び、右の窓はすべて鎧戸が落とされて暗いが、天井近くに開けられた小さな明かり取りの窓から、夕暮れのわずかな光がしのびこんでいる。
その奥にイユキアの寝所があった。
部屋の扉は、ふれると抵抗なく開いた。中はほとんど闇。
その闇からかわいた声が漂った。
「‥‥あなたを呼んだおぼえはない」
部屋に入ると、荷と剣を戸口へおろし、レイヴァートは奥の寝台へ歩みよる。闇に目がなれてきたとは言え、すべては影のようだ。その中に横たわる人の形。
「イユキア‥‥」
囁いて、手をのばした。指先で人影にふれる。細いあご、やわらかな唇。だが、いつもは氷のようにひややかな肌は、炎を呑んだように熱かった。
「イユキア」
ふたたび、囁く。もつれた髪をかきあげてやると、相手はかすれた吐息を洩らした。
「帰って下さい」
「骨の警告を立てて、7日たつそうだな。‥‥すまない、知るのが遅れた」
注意ぶかい指先で、熱い額と頬からからむ髪をかきあげ、手のひらでそっとイユキアの頬をつつんだ。いつもと同じように淡々とした、乾いた口調だったが、レイヴァートの手は壊れものへふれるように優しかった。
手のひらをイユキアの頬にやわらかにそわせ、親指で頬骨をかすめるように撫でる。静かな仕種でイユキアの存在をたしかめるように。そうしていると、闇の中でもイユキアの姿をあざやかに思い描くことができた。淡い銀の髪を繻子のクッションに乱し、もろいほど端麗な貌に表情をうかべず、どこか遠くを見るような眸をうつろわせているのだろう。
この青年は、表情を動かすことがあまりなかった。習い性なのか、時おり淋しげな微笑を唇に溜めたが、笑っているようでもないし、当人も自分の表情に気付いているふうではなかった。
「何か欲しいものはないか? 水か何か飲まなくていいのか」
「‥‥王の近衛はお忙しいでしょう。こんなところへいては、いけない‥‥」
「大丈夫だ」
「もしも、感染する病だったらどうするつもりなのです──」
「お前に治してもらう」
「‥‥‥」
イユキアは無言だったが、頬にふれているレイヴァートの手に、小さな笑いがつたわってきた。その笑みを、イユキアが彼の存在を受け入れた証と取って、レイヴァートは身をかがめ、イユキアの額へくちづけをおとした。熱を呑んだ肌は唇にすら熱い。そのまま、呟いた。
「ずっと一人でいたのか?」
「‥‥‥」
「すまない」
「‥‥‥」
イユキアは、何か言おうと唇をうごかしたようだったが、声も言葉もなく、小さな吐息だけを洩らした。その頬を指先でたしかめながら、レイヴァートはかすめるくちづけを額にくりかえし、ただ優しいだけの唇で肌にやわらかくふれる。
まぶたへ唇がおりると、イユキアはまた吐息を洩らし、目をとじた。レイヴァートの唇は乾いていたが、イユキアの肌の熱をうつして熱かった。
頬をかすめ、イユキアの唇のそばへ静かにくちづけると、レイヴァートは身を離す。右手はイユキアの頬にふれたまま、寝台のはじに腰をかけた。無言で、イユキアを見守るようにまなざしを落とす。イユキアの表情は闇にかくれて見えないが、指先でたしかめる頬はやわらかく、やがて、静かな寝息がきこえてきた。
しばらくイユキアの頬にふれていたが、完全に眠りに落ちたと判断してレイヴァートは手を引いた。注意深く、イユキアを起こさぬように立ち上がり、寝室に置かれた小さめのソファへ歩みよる。暗闇はますます深さを増し、ぼんやりとした物の形程度しか見えないが、大体何がどこにあるかは知っていた。
記憶通りの場所にあるソファへ、音をたてないように身を沈める。部屋のすみにあるはずの油燭のことを考えたが、炎がイユキアを起こすかもしれない。それはさけたかった。まあ、いい。闇に慣れていないわけではない。足を組み、背もたれによりかかって、レイヴァートは目をとじた。
港から戻ってきてすぐに王に目通りし、報告を終え、屋敷へ戻る途中でイユキアの病の噂を聞いた。そのまま、うっとうしい正装を着替えただけで取るものも取りあえずこの館へ向かったのだ。さしもに、軽い疲労があった。
浅い眠りにうつらうつらしていると、短い悲鳴がきこえた。ソファからはねおきる。右手が腰の後ろの短剣をさぐった時、それがイユキアの声なのに気がついた。室内にほかの気配はない。
イユキアが、苦痛に揺れる声で呻いた。
「‥‥や‥‥だめだ、ラマルス‥‥やめ──」
荒く強い息を吐き出す。毛布が激しく乱れる音がした。
レイヴァートは手をのばして油燭と火口箱をつかみ、炎をともした。小さな炎は、だが闇に慣れた目には花火のようだった。一瞬、目がくらむ。
室内がうつろな炎に浮かび上がった。壁には無数の古びた本の頁が鉄鋲で留められ、小さな骨や鬱金色の鎖などがいくつも吊り下がって、それぞれに不吉な色で炎をうつす。
壁に寄せて据えられた、飾り気のない寝台の上で、イユキアが乱れた敷布に身を丸めていた。髪が顔を半ば覆っている。激しく首をふった。
「やめてくれ‥‥」
レイヴァートは油燭を手に、大股に歩みよった。イユキアをするどい目で見おろす。誰かにまじないか何かをかけられている様子はない。イユキアは以前、森の魔呪使いから使い魔を送りこまれたことがあるが、それともちがうようだ。悪夢は外からではなく、イユキアの内側から彼をさいなんでいるようだった。
頭を敷布にうずめるようにしたまま、イユキアが背を弓のようにのけぞらせる。色の失せた膚はにじむ汗に光っていた。
壁の鉤へ油燭を架け、レイヴァートは身をかがめてイユキアの肩をつかんだ。
強い痛みがはしった。イユキアがレイヴァートの手首をつかみ、外そうともがく。力まかせに膚へ爪をくいこませ、彼は激しくもがいた。
「やっ‥‥!」
苦しげな拒否を吐き出す。レイヴァートは表情もかえず、イユキアが血のにじむ手首をかきむしるのにまかせながら、左腕をイユキアの体の下へ回した。細い体がますます暴れる。
「‥‥ら、私を──」
「イユキア」
自分を抱いているのが誰なのかわからぬ様子で、まるで血を吐くような叫びをあげた。
「私を、殺せ‥‥!」
「イユキア」
名を呼んで、レイヴァートはイユキアの背に回した左腕で細い体を抱きおこした。強く引きよせる。暴れる体へ両腕を回し、すっぽりと胸にかかえこんだ。イユキアは、のたうち回る魚のように身を左右へよじらせたが、騎士であり名のある剣士でもあるレイヴァートにかなうはずもない。ほとんど絶望的な叫びを上げて、身をのけぞらせた。その全身を強い痙攣がはしりぬける。悲鳴は幾度か途切れてつづいた。
イユキアの体が、がくりと力を失う。レイヴァートは崩れる彼を抱きとめ、そっと髪にくちづけた。抱いた体は小刻みにふるえていたが、背をさすっていると、荒かった呼吸は徐々に平坦にもどってゆく。汗に濡れた髪をかきあげると、イユキアの顔がかすかに上がった。
目が、うつろに開いてレイヴァートを見る。イユキアの目。金色の、獣のような魔の色。炎をうつしただけではない、深いところからの妖しいかがやきがレイヴァートを見上げた。レイヴァートはおだやかに見つめ返し、頬から唇へはりつく銀の髪をやさしい指先で払った。
「イユキア。俺がわかるか?」
「‥‥レイ‥‥」
「そうだ。大丈夫か?」
「‥‥‥」
目を伏せたイユキアの頭に手を回し、レイヴァートは細い体をきつく抱きしめる。腕の中で、イユキアがくぐもった呟きを洩らした。
「血の匂いがする。‥‥あなたを、傷つけた?」
「かすり傷だ」
「‥‥だから、帰れと言ったのに‥‥」
「言うだけ無駄だ」
抱いた力をゆるめると、イユキアはぐったりとレイヴァートへもたれかかった。その身へ腕を回したまま、レイヴァートは寝台へともに身を横たえる。イユキアの頭の下で左腕を枕にしてやりながら、右手で乱れた毛布を引き上げた。右手首を、なまぬるい感触がつたう。血がイユキアを汚さぬよう、レイヴァートは傷を軽くなめた。怪我には慣れている。
イユキアは引き寄せられるまま、彼の胸に頭を寄せた。レイヴァートが呟く。
「二度と、帰れとは言うな。言ったところで、俺は帰らん」
「‥‥あなたを傷つけたくはない。こんなふうに‥‥」
「お前を一人で残すほうが、俺には痛い」
「‥‥‥」
「イユキア。病の原因は、その夢か?」
左腕で抱き寄せたイユキアの髪の内へ、そっとくちづけた。答えはなかったが、もともと答えを求めての問いではない。
イユキアが目をとじ、頭をかたむけてレイヴァートへ深くもたれた。
「レイヴァート‥‥」
「何だ?」
「‥‥このまま、眠ってもいいですか? こうして、そばにいてもらっても‥‥?」
「ああ」
抱いた左腕に一瞬だけ力をこめてやると、イユキアはひどく小さな声で何かを呟いて、体から力を抜いた。そのまま、あっけないほど短い時間で眠りにおちる。静かな寝息がきこえてきた。
そんなささいな願いすら、イユキアはためらい、怖がる。熱をおびた細い体を腕の中に抱きながら、レイヴァートはじっと暗い天井を見上げていた。
眠りは深かった。
悪夢にうかされて昼も夜も区別なくどろどろと漂うばかりの、暗いまどろみではない。音のない、あたたかな水にたゆとうような、安らいだ眠り。
あまりに穏やかに目をさましたので、イユキアはしばらく、自分が目覚めたことに気がつかなかった。まだ眠っているような思いのまま、ぼんやりと横たわる。
油燭の炎は消えていた。明るみが、廊下からわずかにさしいってくる。廊下にうがたれた小さな明かり取りの窓からこぼれる、遠い陽光。つまり、知らないうちに夜が明けているということだ。
「‥‥‥」
身の内に、熱が残したかるい酩酊はあったが、高熱は引いていた。レイヴァートの呼吸が耳元に聞こえてくる。そのリズムと、よりそった体からつたわるぬくもりが、ひどく心地よい。ふたたび眠りに引きもどされそうになりながら、その思いを払って、イユキアはゆっくりと身をおこした。レイヴァートを起こさぬように。
座りこんで、レイヴァートの寝顔を見おろす。男は、いつもの揺るぎない表情のまま眠っていた。レイヴァートはまだ若いし、顔つきもしなやかな体つきも若々しいのだが、落ちついた表情と物腰のためによく年長に見られるらしい。べつに、当人は感情を殺しているわけではないが、表情の変化が小さいので、たいていの人間はレイヴァートがもつ繊細さに気付かない。
見つめていると、彼はかすかに身じろいだ。からになった左腕、まだイユキアを抱いた形で投げ出された腕がぴくりと動く。長い吐息を洩らした。
イユキアは、のばした指でレイヴァートの髪にふれる。イユキアのからまりやすい細い銀髪とはちがう、まっすぐで素直な黒髪。指先を髪にくぐらせ、しばらくレイヴァートの寝顔を見つめていたが、イユキアはふいに手を引いた。指先を見下ろす。爪が血で汚れていた。
「‥‥‥」
イユキアは無言で爪をなぞる。
その時、またレイヴァートの左腕がうごき、そこに横たわる者のいないことに気付いたか、なにかをたぐるようにしてから、彼は目をあけた。
「‥‥イユキア」
呟いて、少し眠そうにイユキアを見上げる。ふっと微笑した。左手をのばし、イユキアの手を包むように自分の手をかぶせた。
「眠れたか?」
「‥‥‥」
無言で、イユキアはうなずく。その手を引いて、レイヴァートはイユキアの体を抱き寄せた。やわらかに受けとめたイユキアの体を敷布に横たえる。上から肘をついてかぶさり、優しく唇をかさねた。わずかな短いくちづけ。それだけで熱に疲労した身の内に甘い感覚が揺れ、イユキアは伏せたまぶたの下で目をそらした。
流されてしまいそうになる。この優しさに。
「水を飲むか?」
問われて、うなずいた。見おろしてくるまなざしから、のがれたかった。
レイヴァートは身を引き、寝台から降りる。鉤から油燭を取って焦げた芯を切り捨て、ふたたび炎を灯した。脇机の上へ置く。その明かりをたよりに、寝台の頭側へ置かれた水差しをとったが、水は入っていなかった。レイヴァートは自分の荷物へ戻ったが、水筒を忘れている。水を汲みに出ようとしたところで、セグリタにもらった皮袋を思い出した。口の紐をほどくと、拳ほどの大きさのサナの実がいくつも入っていた。
サナの果肉は食べられないが、完熟した実は中に甘い果汁を溜める。セグリタがよこしたサナの実は、そのやわらかさからしてほどよく熟れていた。レイヴァートは短剣の先を使って果実のヘタ近くへ小さな穴を開けた。起き上がったイユキアへ果実を手渡す。
「飲め。セグリタがくれた。俺は水を汲んでくる」
「‥‥セグリタに、会いましたか」
「怒っているようだったぞ」
「私に、それともあなたに?」
「両方だろうな」
水差しを手に立ち上がり、出ていこうとしたレイヴァートはふと振り返った。
「しめだすなよ。無駄だ」
「わかりましたよ」
かすかな苦笑を唇に溜め、イユキアはレイヴァートを見送る。果実にあいた穴を口にあてて傾けると、サナの甘い果汁がかわいた喉にしたたった。飢えたように飲み干して、吐息をつき、彼は膝をかかえて寝台にうずくまった。
ついでに厨房にあった大きな水がめも肩にかつぎ──これも空だった──、森へ入るとレイヴァートは近くの泉へ向かった。黒館には井戸もあるが、人が飲むには向かない水だ。
泉まで、さしたる距離ではないが、足取りは早い。イユキアを一人でおいておくのが不安だった。
出会った時から、イユキアは、どこかこの世のものではないようだった。存在が淡い。ふっと遠くを見る時、その目がどこを見ているのか、レイヴァートにはわからない。イユキアは、ふいに消えてしまいそうな顔をすることがあった。
だから、イユキアが病に倒れたと聞いた時、レイヴァートは自分でも驚くほど狼狽した。病がイユキアをつかんでどこか知らない場所へ消してしまうような──そして、イユキアがそれに逆らわずどこかへ去っていくような、そんな理屈にならない恐怖に心が揺らいだ。
朝露が光らせる草を踏みしだいて泉に歩みよった。澄んだ水に水がめを浸し、中を洗って水を満たす。水差しを洗っている時、背後に草の音がして、セグリタの気配が近づいてきた。
「イユキアは?」
「熱は峠をこしたようだ」
「そーか。それ持つよ」
身をかがめ、セグリタは水がめをかかえあげる。たいていの森の民と同じく彼も、小柄な見かけにそぐわぬ力を持っている。
ちらっと見やって、レイヴァートは水差しを手に歩きだした。セグリタが肩に水がめをかつぎ、木漏れ日の影を踏みながら横を歩く。
「病気は何? まさかただの風邪とかじゃぁないんだろ」
「わからん。イユキアは、前にも病で骨の結界を張ったことがあるか?」
「病だっつのは、コレがはじめてだなあ。っても、これまで引きこもってた時が病じゃなかったとは言い切れないけどね。でもたいてい骨をたてるのは、蝕の時とか星辰が合う時とか、理由がある時だけだよ」
「そうか」
つぶやいて、ふとレイヴァートはセグリタを見た。
「嵐は大丈夫だったか?」
「誰? イユキア?」
「いや、お前たちだよ。何か被害は出なかったか?」
ぷっとセグリタは吹きだした。明るい笑い声をあげる。
「王城の人間に心配されるほど、森の民はやわじゃねえよ。嵐だって森に訪れる客だ、災いもあれば恵みもある。古い木が嵐で倒れれば、そこは新しい芽の萌える場所になるだけさ。あんたたちみたいに、いちいち騷いだりはしない」
「失礼なことを聞いたようだな。悪かった」
「いいさ、あんたは王城の人だ」
二人が森の境界へたどりつくと、セグリタはレイヴァートへ水がめを渡した。レイヴァートは水がめをかついで、
「サナの実をありがとう。イユキアが飲んでいた」
「あっ、そう?」
ぱっと朝日が当たったようにセグリタは表情をかがやかせた。
「あれ、うまいよ。俺しか知らないとっときの木から採ったんだ。あんたも飲んでみなよ」
「ああ」
ちらっと笑みのようなものを投げて、レイヴァートは骨の杖を通りすぎる。背後でセグリタがしばらく見送っている視線を感じたが、丘の中腹へさしかかったところで小さく振り向くと、もう森の少年の姿はなかった。
寝室へ入ると、横たわっているイユキアの姿が見えた。眠るように目をとじているが、眠っていないのはわかる。だが、彼はレイヴァートへ目を向けようとはしなかった。
水差しを寝台の頭部分へ置いて、レイヴァートは荷物の中から布をとった。水で布の一部を湿し、イユキアの手を取る。爪と指先を汚す血を丁寧に拭った。
「イユキア」
「‥‥‥」
「何の夢を見ていた? 何がお前を病になるほど苦しめる?」
「あなたにはどうしようもないことですよ。──私にもね」
イユキアのまぶたがあがる。内に光をはらむ金色の目で、ぼんやりと天井を眺めた。無表情だったが、奇妙にはりつめたものを感じて、レイヴァートは血を拭いおえた布を置いた。イユキアの手をかるく撫でる。
「その目のことか?」
「‥‥聞いてどうしようというのです。どうにもならないことなのに。もう、何もかも終わってしまった‥‥」
「だがお前は苦しんでいる」
「私は‥‥」
「イユキア」
「あなたには、わからない。‥‥罪を犯した人間のことは」
イユキアの口元をかすかな笑みがかすめた。
「あなたは陽の当たる場所の人間だ。もう帰って下さい、レイヴァート。こんな時にあなたを見るのはつらい。己の暗闇ばかりが見えてくる‥‥」
「俺は、そんな立派な人間ではない」
やわらかに、レイヴァートは返す。本気でそう言っているのがわかって、イユキアは苦笑した。レイヴァートは自分が持っているまっすぐさ、内に秘めた強さをわかっていない。
はじめて出会った時から、イユキアはレイヴァートのおだやかな強さに惹かれ、同時に苦痛をおぼえてきた。日溜まりはたしかに心地よいが、そこから闇に戻った時の深さは前より深い。
レイヴァートはイユキアの顔を撫で、身をかぶせる。頬にやわらかく唇をおとした。
「イユキア‥‥」
この声も、唇も、肩から腕へたしかめるようにふれる手も、ただ優しい。いたたまれず、イユキアは顔をそむけた。
レイヴァートが身を起こし、イユキアの頭のそばへ肘をついて見下ろした。
「何故苦しむ? お前は時おり、自ら望んで苦しんでいるようにすら見える」
「‥‥おかしいですか?」
「つらそうだ」
「たしかに、あまり楽しくはありませんけどね。でも、あなたにどうにかできるわけでもない」
「──」
「あなたは、夢が病の原因かとたずねたが、それはちがう。この夢は、私の病そのものなのです。‥‥私を、ずっと追っている。たまに、逃げ切れなくなって、追いつかれる。そのうちまた去ります。放っておいてもらえるのが、一番いいんです」
目を合わせずに、イユキアはつぶやいた。レイヴァートはじっとその顔を見つめていたが、イユキアの唇へ指でふれる。
「お前が病に伏したと聞いて、俺は息がとまりそうになった」
「‥‥‥」
「俺に、何ができるとも思えない。だがここに来る以外のことは考えられなかった。お前の顔を見て、お前のそばにいたい」
指がやわらかに動いた。
「それと同じだ。何もできないが、お前を放ってはおけない。俺には何の力もないし、何もできないが、お前を苦しめているものが何なのか知りたい」
「昔の夢です。‥‥それだけのことですよ」
「そうか」
微笑して、レイヴァートは身をおこした。水差しを手に取る。
「もういい。水を飲んで、少し眠れ。何か食べるか?」
「‥‥‥」
抱き起こされ、レイヴァートの腕によりかかって、イユキアは首を振った。ゆっくりと水を飲み干すと、レイヴァートがその手から空のグラスを取り上げる。
体をささえる腕のぬくもりがつたわってきた。身の内に凝っていた悪夢の残滓が溶けていくのがわかる。身をはなそうとしたが、レイヴァートはイユキアを背中から抱いたまま、腕をとこうとしなかった。
目をとじて、レイヴァートに全身を預け、イユキアはのばした手にレイヴァートの手首の傷をさぐった。
「次はきっと、もっと深く傷つけてしまいますよ。だから、もう‥‥ふれないでください」
「‥‥‥」
無言のまま、レイヴァートはイユキアが眠りにおちるまで静かに抱きしめていた。
イユキアが目をさますと、レイヴァートはいなかった。さぐってみたが、家のどこにも彼の気配はない。
自分の内側がからっぽになったような心持ちで、イユキアは起き上がった。熱はほとんど引いている。もともと熱は、単に体が心の悪夢に感応して発熱しただけで、それ自体は病ではない。目覚めた身に残ったのは、奇妙な痛みだけだった。
それが体の痛みなのか、心の痛みなのか、イユキアには判別できない。どうでもいいことだった。
レイヴァートが帰ったのなら、それは喜ばしい、と思う。彼はそもそもここにいるような、いていいような人間ではない。王城に住む王の近衛が、薄暗い噂のまつわりつく施癒師の黒館にいること自体、おかしなことだ。
レイヴァートには病の妹がいて、イユキアはその病のための薬草を出している。だが、そんな目的があってさえ、この黒館にレイヴァートが来ることをあれこれそしる人間が絶えないことを、イユキアは知っていた。レイヴァート自身はほとんど意に介した様子がなかったが。
(彼は、強い‥‥)
寝台に寄せられた脇机に、穴を開けたサナの実がふたつ置かれている。レイヴァートが用意していったものだろう。何も考えぬまま手に取って唇につけると、涼しい果汁が喉をうるおした。ふたつとも飲み干して、体がひどく飢えていることに気付いたが、食欲はかけらもなかった。だが眠りたくもない。
立ち上がって、かるい革のサンダルを履き、イユキアは寝室を出る。時は昼下がり。もうじき陽が傾く。
隣の部屋へ入って、汗に湿った服を替えた。ゆったりとした足首までの長衣をまとい、絹の腰帯をしめる。
窓の鎧戸を少しあげ、さしこむ細い光にも痛む目をほそめながら、ぼんやりと暦を取り上げて眺めた。伏しては起きて薬草を飲み下すような日々をつづけたので、今が何日なのか把握していないが、まあいい。次の新月にはセグリタにたのんで森の奥へ特殊な草を採りにいかねばならない。
壁に吊るしてある籠から乾燥させたカラムスの根とイヌハッカを一つずつ取り、くわえて噛みながら、イユキアは館の扉へ向かって歩きだした。薬草のかすかな苦味と酸味を噛んでいると、気だるい体から空腹と脱力感がゆっくりと引いていく。森へおりていって、セグリタと新月の話をしておくのもいいだろうと思った。何もしないでこの館に一人でいることに、堪えられそうもなかった。
扉を開けると、何もかもが白くくらんだ。目の前にあふれた光のあまりのまぶしさにたちすくむ。ずっと暗闇の中にいた身は、昼下がりの太陽に堪えられない。薬草を吐きだし、ずきずきとしためまいを覚えてうずくまる。
あわてた声が彼を呼んだ。
「イユキア!」
「‥‥‥」
イユキアは目をほそめて、顔をあげる。光の中からふいに影が踊り出したようだった。やっと焦点をむすんだ目の前に、レイヴァートが息をはずませて立ち、心配そうにイユキアをのぞきこんでいた。
「大丈夫か? 何だ、どこかに行きたいのか?」
「‥‥‥」
首を振って、さしだされた手を断り、イユキアは柱によりかかって立ち上がる。やっとかすかに目が慣れてきたが、まだ瞳の奥が痛い。まぶたを伏せて、つぶやいた。
「レイヴァート‥‥帰ったのでは?」
「俺が、どうして」
珍しく、レイヴァートはきょとんとしたような表情をうかべた。本気でわからないらしい。イユキアは溜息をついて、たずねた。
「どこへ?」
「ああ、セグリタに手伝ってもらって、森でウズラを狩ってきた」
「ウズラ‥‥」
「腹がへってな」
真面目な顔で言った。
「あわてていたから、自分の食糧を持ってくるのを忘れた‥‥。すまんが、厨房の火を借りていいか?」
「どうぞ」
イユキアは小さくうなずいた。その髪をレイヴァートの手がかきあげ、まっすぐに顔をのぞきこんだ。
「イユキア。大丈夫か?」
「少し、陽がまぶしくて‥‥」
「目薬をさしていないだろう」
「‥‥‥」
一瞬、イユキアは言葉を失った。イユキアの金色の目──それは〈獣の目〉と呼ばれる目だ。イユキアは人前に出る時、その目に自分で調合した水薬をさして色を隠しているのだが、同時に、それは光を少しばかり暗くする。目薬を忘れて表へ出ようとしたのだから、慣れない明るさだったのも当然だった。
首を振って、イユキアは溜息をつく。
「‥‥忘れてました」
「そんなに急いで、森に用か?」
「ええ‥‥でも、もういいんです」
「そうか」
うなずき、レイヴァートはイユキアを片手でうながして館へ入ると扉をしめた。紐でくくった包みと野草の束を左手に下げ、本棟の右にある厨房へ向かう彼を、イユキアは何となしぼんやりと追ってゆく。そのことをまるで当然のように、歩きながらレイヴァートが語を継いだ。
「ここは、嵐は大丈夫だったのか?」
「そうですね。特に被害はなかったようですよ」
「風が凄かっただろう」
「それほどでも‥‥この家は、表の気配をあまり通さないので」
「嵐もか?」
「ええ」
イユキアはうなずいた。この黒館は外界と微妙なかかわりあいかたをしている。昔この館を建てた魔呪師の呪律や結界が半端に残っているためだろう、と彼は思っていたが、実際のところはよくわからなかった。どんな魔呪がひそむにせよ、この館の壁が悪夢から彼を守るわけではない。
厨房へ踏み入って、レイヴァートは窓の鎧戸を上げた。斜めの光がさしこむとイユキアを振り返る。
「まぶしいか?」
「大丈夫ですよ」
イユキアは微笑した。
レイヴァートは、下げていた包みをテーブルの上でほどく。大きな葉でくるんで蔦でくくった包みの中から赤い獣肉を取り出しながら、
「森でさばいてきた。セグリタにも足を持たせてな」
脚つきの鉄鍋を壁の鉤から外し、炉に乗せて、煉瓦の炉にたてかけてある薪を取った。 焚き付けが見当たらないので、いつも身につけている短剣で薪を細く削り落として手早く作り、火口箱を取ってレイヴァートは手早く火をおこした。
その様子を眺めながら、イユキアは壁際に置かれた木の丸椅子へ腰をおろす。厨房へ入ったのなどいつ以来だろう。数日に一度、森の民の娘が訪れてイユキアの食事の世話や簡単な掃除をしていくが、イユキア自身がここへ来たことはほとんどなかった。
レイヴァートは鍋をあたため、棚から油をとって垂らすと慣れた手つきで肉を焼きはじめた。香ばしい音をたてて肉が焼ける間、棚にならんだ陶の壺をあけては中の香りをたしかめ、スパイスを二、三種つかみとって肉へ手早くふる。
「料理、するんですか?」
「ああ。野営になれば、食事は自分で作っていたからな。今でもたまに家で作る。サーエが外聞が悪いと言って嫌がるから、人には内緒だが」
「おたずねするのが遅くなりましたが、サーエシア様のお加減は‥‥」
「いい。近ごろ、夕暮れに庭を散歩したりもしている。お前のおかげだ」
鍋に水を注ぎ入れると、激しい音ともうもうたる湯気が沸き上がった。塩を放りこんで木杓子でかきまぜ、レイヴァートは肩ごしに笑みを投げた。サーエシアは彼の妹の名だ。生まれた時から特殊な病にとらわれている。彼女の治療に手がないかとこの館を訪れたのが、イユキアとのそもそもの出会いであった。
イユキアは微笑して、背中を壁にもたせた。
「薬など、気休めに近いもの。人を本当に癒すのは、その人の力と‥‥その人を想う、心の強さですよ」
「人を癒すのが人だというのは、同感だ」
テーブルの上に置いておいた野草の束を取り、適当にちぎってレイヴァートはそれを鍋へ放りこむ。蓋をのせた。
イユキアをふりむく。
「俺は、時おり思うのだ。お前はその力で多くの者を癒す。──だが、お前は誰が癒すのだろうな」
「‥‥私は、たしかに病んでいるかもしれません。でも癒しを必要とはしていない」
小さく、イユキアはあるかなしかの微笑を唇に溜めた。
「あなたも言ったでしょう、私は望んで苦しんでいるようだと。そうだと思いますよ。私は望んでこの館で悪夢を見ている。癒される必要はない」
膝を引き寄せて椅子へ身を丸めたイユキアを、レイヴァートは火のそばに立って見ていた。思案含みの表情が顔をよぎる。少しの間だまっていたが、やがて静かに言った。
「イユキア。俺は五年前の戦役の時、剣を取り、多くの敵を殺した。陛下のためだ。それを悔やんだこともないし、王の敵を滅すことを今でも心の底から望んでいるが、彼ら一人一人の死を望んでいたわけではない。殺さずにすむならそうしたいという望みもあった。だが‥‥人から見たら、俺は好んで彼らを殺していたように見えただろう」
「‥‥‥」
「人の望みは、決して単純なものではない。そこには、外からはわからない色々な理由や側面がある」
「あなたはそれで」
イユキアが、小さな声でたずねた。
「人殺しを楽しんだことがある?」
「ある」
あっさりと、レイヴァートは認め、鉄鉤のついた棒を使って鍋の蓋をあけた。白い湯気が吐きだされる。棚の壺から固く焼きしめた黒パンをとりだし、ほぐして鍋へ放りこみはじめた。声は淡々と、
「戦いの中で、自分を見失いそうなほど昂揚したのを覚えている。‥‥俺は立派な人間ではないぞ、イユキア」
それでもレイヴァートは悪夢を──汚れた夢を見ることはないのだろう、とイユキアは思った。彼の目はまっすぐ未来へ向いている。自分の身を汚して王を守り、この国を、妹を守る。そのことに何のためらいも言い訳も持たないまま。罪を負って頭を垂れることはなく、逃げることもなく。昂然と、汚れた己を認めて病むことがない。
「──たとえ血まみれでも、あなたは誇り高い人ですよ。私は‥‥そんなふうに、強くなりたかった」
イユキアはつぶやく。レイヴァートがふりむいた。
「俺にとっては、人を癒す力をもつ者の方がずっと凄いし、うらやましい。だからお前を尊敬している」
にこりともせずまっすぐにイユキアを見て、レイヴァートはそう告げた。
イユキアが二の句を告げずにいる間、鍋の方へ向き直った彼はさっさと味見を終え、一人で納得したようにうなずくと、鍋を火から上げ、石の作業台にのせた。深皿を取って料理を盛る。
皿はふたつ用意されていた。レイヴァートはその片方を持って、まだ言葉を探しているイユキアへ歩みよった。
「かるいスープだ。少しでいい、食べてくれ」
「‥‥‥」
手渡された皿を、イユキアは少し困ったように見おろす。食欲はない。レイヴァートが「一口でいいから」とうながすと、スープを一匙すくってためらいがちに口へ運んだ。
熱いスープが舌の上へひろがる。パンを入れてとろみをつけたスープは数種類のスパイスで味をととのえられ、ちぎって入れられた青い茎葉の香りが、さわやかに口の中に香り立った。レモンのような酸味のある葉のかけらを、イユキアは舌先で味わってみる。ピリッとした酸味があった。その涼しさがスープの香ばしさを引き立てている。
「おいしい‥‥」
「ん。結構うまくできた」
レイヴァートも自分の皿を手に食べはじめた。一口がじつに大きい。豪快に自分の皿を空にして、二杯目を取りに鍋へ向かう。
イユキアは、ゆっくりと数口のスープを味わった。熱さが腹の内へしみわたっていくようだ。食べれば食べるだけ、次の一口を求めるように、体の奥へ飢えがひろがる。皿に盛られているウズラ肉にスプーンの先をのばした。
肉はやわらかに裂け、小さな一口をイユキアが噛むと、肉汁とスープの入り交じった熱い汁が口にひろがった。噛みしめて、飲み下し、イユキアは残りの肉をためらわず口へはこんだ。肉の脂が舌にとける。いつもは好まない鳥獣の肉が、これほど香ばしいと思ったことはなかった。ほとんど夢中になって、彼は皿の残りをからにした。その様子をほっとしたレイヴァートが眺める。
レイヴァートは森で獲ったウズラをさばいただけでなく、短剣の裏を使って丹念に生肉を叩いた後、あらかじめここから拝借していったスパイスと塩を肉にすりこんでいた。やわらかく、臭みがない方が食べやすかろうと、イユキアを考えてのことだ。イユキアが食事を好まないこと、特にこういう時はいつもにも増して食べたがらないだろうことは知っているが、食べなければ体だけではなく心が弱る。
なにより、イユキアの体は食事を求めて飢えているはずだった。当人はそのことに気付こうとしない。むしろ、気付けばより自制しかねない。イユキアが、己を律っすることで何を償っているのかわからないが、このままではイユキアは自分を追い込むだけだ。どんどん追いつめられ、悪夢にとらわれて身と心を病む。そういう人間を、レイヴァートは戦場で何人も知っていた。
食べ終えたイユキアが、ほっと小さな息をついた。まだ未練がありそうに見ている皿を、レイヴァートはのばした手で引き取る。
「あとで、また食べよう。一度に食べると負担がかかる」
「‥‥あなたが料理が上手だとは意外でした」
「ほめてもらって光栄だ。準備の時間が取れれば、もっといいものを作れるのだがな」
床に作られた流し口の手前で身をかがめ、汲んできたばかりの水で皿を洗うと、レイヴァートはイユキアへ歩みよった。どこかぼんやりとしているイユキアのあごを指でかるく持ち上げ、顔をのぞきこむ。
「ああ、顔色はずっとよくなった‥‥。熱はさがったな」
熱いスープを飲み干したイユキアの頬にはかすかな、だが艶っぽい紅色が浮いて、いつになく血色がいい。美しい顔はレイヴァートの指先に抵抗なく持ち上がり、金の瞳がまぶしそうに自分を見上げてまばたきした一瞬、レイヴァートは激しい衝動にかられた。病と聞いてからずっと焦っていた気持ちの緊張がとけた解放感に、狩りで高ぶっていた血の名残りが重なり、彼の強い自制を押し流しそうになる。
イユキアが物問いたげにまぶたをあげた。
「レイヴァート?」
「‥‥サナの実を取ってくる。食後にちょうどいいだろう」
かるく頬へくちづけし、引こうとした腕の袖をイユキアがつかんだ。レイヴァートの動きがとまる。男の目を見上げながら、イユキアが小さな声で言った。
「ウズラを獲ってきたのは、私のためでしょう。‥‥ありがとう、レイヴァート」
「‥‥‥」
真剣な顔でイユキアを見つめていたが、レイヴァートは身をかがめて唇を重ねた。イユキアの背なへ回した手で細い体を抱きしめながら、はじめは優しい唇は、すぐに強く奪うようなくちづけに変わる。求められて、イユキアの口がかすかにひらいた。歯の間からレイヴァートの舌が荒々しい強さで入りこみ、イユキアの舌をむさぼり、角度を変えたくちづけが唇を濡らした。
いったんからめた舌をほどき、レイヴァートの舌先はイユキアの口腔をさぐりぬく。歯裏から上あごをぞろりと執拗にねぶりあげられると、体の中心を甘いうねりが走り抜けて、イユキアは言葉にならない呻きを洩らした。
「‥‥っ‥‥」
その吐息が、レイヴァートの奥深い熱を煽る。自分が丸ごと押し流されそうな、強烈な衝動。それをギリギリに押しとどめて唇を離し、レイヴァートはイユキアを見つめた。
「イユキア‥‥」
いつも淡々としている彼の声がかすれて、熱い。囁かれ、イユキアは自分の内側が溶けていくような熱さに目を伏せた。レイヴァートの欲望が直接体の奥に感じ取れるようだった。レイヴァートの強くまっすぐなまなざしを見ていると、見てはいけない夢を見そうになる。この目はイユキアだけを見ている。だが彼は、イユキアのものではない。手にしてはいけない。
‥‥それでも。
肌の内を流れる血の一滴までもが熱い。くちづけに酔ったように、くらくらと身の内が揺らいだ。男のまなざしを感じるだけで全身が甘い痺れをおびてゆくのを、イユキアにはとめられない。恐れるように深くうつむいた。
顔をふせたまま沈黙したイユキアを見つめていたが、レイヴァートは手をのばしてぽんぽんとイユキアの頭をなでた。子供をなぐさめるように。
「火にあたってあたたまってろ。実を取ってくる」
「‥‥‥」
体を引こうとした時、イユキアの手がレイヴァートの手首へふれた。顔を伏せたまま、イユキアがつぶやく。
「傷を‥‥」
「え?」
「傷を見せてください」
「‥‥‥」
一瞬、困ったような顔をしたが、レイヴァートは袖をめくって右腕をイユキアへ見せた。手首に蛇がのたくるような赤黒い傷が幾本も交差して走り、ところどころ肉が盛り上がって傷をふさいでいる。
イユキアは顔をふせたまま、レイヴァートの手を取った。じっと傷を見つめる。
ゆっくり唇をよせて、傷へくちづけ、泣きだしそうな声でつぶやいた。
「‥‥次は、きっともっと深く‥‥」
「イユキア。俺を信じろ」
「‥‥‥」
「これでも、人より丈夫なほうだ。こんな猫の傷程度ではこたえん」
真面目な顔で言ったレイヴァートを見上げ、イユキアは濡れた目のまま、小さな声をたてて笑い出した。レイヴァートは冗談や気休めを言ったつもりはないらしく、心外な顔をしている。それがまたおかしくて、イユキアは笑いつづける。その頭をレイヴァートが胸へ抱き寄せた。
身がきしむほどきつく抱きしめられた。男の肌の匂いがつつむ。強靱な背へ手を回しながら、イユキアはつぶやいた。
「あなたは、馬鹿なのかもしれない。少しはこりてもいい頃なのに」
「そうか?」
レイヴァートの指が首すじから髪の内側へ入りこみ、髪をかき乱し、指先でそろりとうなじをなで上げる。からかうように、耳元で声が囁いた。
「こりない馬鹿は嫌いか」
「‥‥意地も悪い‥‥」
顔をかすかに上げ、イユキアはレイヴァートの首すじへ唇をよせる。舌をはわせて、かるく噛んだ。レイヴァートが熱い吐息を洩らし、イユキアの体を両手に抱き上げる。運ばれていく先に気がついて、イユキアは拒む声をあげた。
「寝室は‥‥やめてください──」
かすかに歪んだ表情を見下ろし、イユキアの内側に漂う恐れに気付いたが、レイヴァートは静かな声で囁いた。
「悪夢など怖がるな」
「嫌っ──」
イユキアはレイヴァートを見上げて訴えたが、力強い腕とおだやかなまなざしの前に抵抗は無力だった。
うす暗い寝室の寝台へ横たえられ、イユキアはまた細い声をあげた。
「レイ、お願いだから──ここじゃなくて‥‥」
「夢のことは忘れろ、イユキア‥‥」
レイヴァートの唇がイユキアの首すじをゆっくりとなぞる。それだけで甘い波が全身にひろがり、下肢が痺れて力が抜けた。イユキアは呻いてもがいたが、レイヴァートの腕は彼を抱いてのがさなかった。
忘れてしまうだろう。レイヴァートの腕の中で、悪夢が生々しく漂うこの部屋で、熱に乱れて自分はきっと悪夢を忘れる。それが怖い。そんなことが許される身ではない。今はただ悪夢にさいなまれるだけの身に、レイヴァートが与えようとしている夢の甘さが恐ろしかった。そこに溺れようとする己が、ひどく浅ましく思える。
レイヴァートの手はイユキアの腰帯をほどき、服の前を乱してしのびこむ。肌をすべる指の感触にイユキアの身がのけぞった。ふれられる場所からひろがる熱い愉悦が、意識を大きくゆすっていく。こらえきれず、泣きだしそうな声で呻いた。
「やぁっ‥‥あっ‥‥」
「忘れていいんだ」
強い声が耳元に囁いた。
「お前は、今、ここにいるんだから。俺の腕の中にいるんだから、今は、忘れてもいいんだ、イユキア‥‥」
「ん‥‥っ」
右手が肌をすべり、脇腹を撫でた。長い衣裳が左右にはだけられ、薄闇にあらわにした白い肌へレイヴァートは熱い唇を這わせる。胸の突起を含むと、イユキアの全身にびくりとした痙攣がはしった。わななく唇から声が洩れる。
「あ‥‥ん‥‥や、嫌、レイ──」
レイヴァートは哀願を無視した。舌で突起をねぶられ、次々と与えられる快感が体の芯をとかしていく。イユキアは口元を手で覆って声を殺そうとしたが、息は熱く乱れた。
執拗に舌で肌を愛撫しながら、レイヴァートは麻の長袖をもどかしく脱ぎ捨てた。素肌が重なる瞬間、互いの口から熱い息がこぼれた。求めあう欲望は隠しようもなく、それでもイユキアはくらむ頭を振る。
「レイ‥‥お願い‥‥」
固くなった乳首へカリ、と歯をあてられた。口をおさえた指の間から切ない声がこぼれる。
「ああっ‥‥んっ、だめ‥‥あっ」
かすめた歯はやわらかな舌にとってかわり、甘くねぶった。時おりかすかに歯の先端がふれ、ゆるやかにこする。刺激の予感だけで焦らしながら、レイヴァートの手がするりと肌をすべった。イユキアの体の線をなぞりながら脚のつけねへおりていく。
一瞬身をすくませたイユキアの抵抗は、からめたレイヴァートの足に封じられていた。レイヴァートの手のひらがイユキアの中心をつつみこみ、五指で楔を擦りあげた。直接的な快感が体の芯をつきぬける。飢えた体を押し流しそうな狂おしい高熱が次々と与えられる。
イユキアはのけぞってあえいだ。
「あ‥‥はっ‥‥嫌ぁ‥‥やめっ‥‥!」
「俺のことだけ考えろ、イユキア」
手をイユキアのそれへ沿わせたまま、ゆるやかな愛撫を与えながら、レイヴァートは耳元へ囁く。左手でイユキアが口に当てている手をつかんで外すと、イユキアは潤んだ金色の眸でレイヴァートを見た。切なげに何かを訴えようとする唇を、レイヴァートは長いくちづけでふさぐ。
深くイユキアを味わい、誘うように引いた舌をイユキアの舌が追った。強く吸って、レイヴァートは唇をはなす。イユキアの口元をひとすじの透明な液がつたっていた。のばした舌でなめとる。
楔を人さし指でそろりとなで上げると、美しい顔が苦しげに歪んだ。
「愛している、お前を」
レイヴァートは、金の瞳を見つめて囁く。イユキアの目から涙がこぼれた。
「私には‥‥そんな‥‥」
「信じろ、イユキア。今だけでいい」
レイヴァートの右手がイユキアの楔を強く握りこみ、ツッと爪先が裏をすべる。強弱をつけて擦りあげる巧みな動きにイユキアの唇から熱い声がとめどなくこぼれた。くちづけでそれを呑み、指先と手のひらでイユキアを追いこみながら、レイヴァートはほそい首すじへ唇を這わせた。耳朶をやわらかく噛みながら、かすれた囁きをおとす。
「昔のことも、夢のことも。ほかのことは、忘れろ‥‥」
「‥‥んっ‥‥あああっ‥‥!」
何も考えられぬほどの愉悦が体を翻弄し、イユキアはうるむ視界にレイヴァートのまなざしを感じた。レイヴァートの、深い緑の瞳はイユキアを間近にのぞきこみ、瞳の奥までもつらぬくように見つめている。そのまなざしの熱さは、イユキアの半身を容赦ない愛撫で追いつめる手よりはるかに淫靡で、イユキアの頬がはげしく赤らんだ。ドクンと心臓が耳の奥に脈を打つ。快感がはじけかかった。
指先につかんだ敷布を握りしめ、イユキアは首をのけぞらせる。下肢からつきあがる強烈な愉悦が次々と体の芯を貫いた。こらえようとしたのも一瞬、ささいな抵抗は強弱をつけられた鮮烈な刺激に押し流され、イユキアは甘い叫びを上げて快楽の飛沫をときはなっていた。
吐息はどこまでも熱い。
執拗なほどに与えられた愛撫に、全身は灼けるようだった。レイヴァートの指と舌が肌にふれるたび、快感の波がぞろりと体の奥をとおりぬける。手のひらが下腹から腿へ這うゆっくりとした動きに、思わず腰が泳いだ。ひとたびのぼりつめた体は、男の愛撫の一つ一つに狂おしいほど感じて、淫らに踊った。
「ん‥‥あぁ‥‥、ふっ、レイ‥‥」
首から肩口、なだらかな曲線へレイヴァートが歯をたてる。肩の骨にそって歯先をすべらせた。弱いところを責められて、すがるように男の名を呻きながら、イユキアは華奢な腕をレイヴァートの首へ回した。強く肌を吸われる。痛みとも快感ともつかないものに体の芯をはじかれたようで、イユキアは乱れた声をあげていた。
もうどれほどこうして翻弄されているかわからない。時間の感覚など溶け去り、打ち寄せてはひく悦楽の波に溺れ、イユキアはただレイヴァートの存在を、自分を抱きしめ時に意地悪く弄ぶ手を、己に重なる肌と汗の匂いを、くりかえし肌を愛する唇だけを感じていた。
熱は体の深奥に渦を巻き、かきたてられる快楽が出口もなく肌の内を灼く。深く、もっと深く。求めながら焦れる体は、与えられる快感をむさぼって、どんどん貪欲になってゆく。
深く、もっと深く‥‥
「‥‥レイ‥‥んっ‥‥」
下肢のつけ根をそろりと爪先がすべったが、快楽にはりつめたイユキアの熱い楔にはふれず、指は脚の外側を擦って脇腹を胸元へなぞりあげる。感じやすくなった肌からしびれの波がひろがって、イユキアは強くあえいだ。レイヴァートの名を途切れ途切れに呼ぶ。濡れた目が闇をさまよってレイヴァートを求めた。
レイヴァートのうなじにかかったイユキアの手に、力がこもる。引かれるまま胸元から頭をおこして顔を寄せ、レイヴァートはイユキアを見おろした。白い、抜けるような肌は上気してところどころ強い紅潮を散らし、汗とレイヴァートの唾液に濡れ、唇は快楽の吐息にかすかに開いている。細い銀の髪が乱れて頬へからみつき、揺れる睫毛の下からうるんだ金の目ですがるようにレイヴァートを見つめるイユキアの貌は、とてつもなく淫らで、美しかった。
「レ‥‥、あっ!」
懇願するように名を呼びかかったが、乳首を爪で擦ると喉をそらせた。どこまでも彼を溺れさせたいと、レイヴァートはきしむほどの欲望をおぼえる。イユキアを乱れさせて、すがらせて。彼のすべてを自分の腕の中へおさめたい。一瞬だけでも。罪に似た背徳の恋だとしても、たぎる熱の中へすべてを失ってしまいたい。
「イユキア‥‥」
名を呼んで、唇で睫毛にふれるとイユキアはふるえる目をとじた。目じりから透明な涙のすじがこぼれて、紅潮した頬をつたう。まぶたの上を舌先でねぶると、イユキアがつまったような声を上げた。
「‥‥レイ‥‥もう‥‥、もっ‥‥」
「もう?」
耳元へ囁く。息のかかる感触に、そして言葉の含むからかうような響きに、びくりとイユキアの身がはねた。固くなった乳首を指の腹で強くこねあげると、唇が激しく乱れ、切れ切れにあえぐ口のはじから唾液がこぼれる。
「ふっ‥‥ん‥‥ああっ、レイ‥‥、レイっ‥‥」
レイヴァートの首すじへ回されたイユキアの指がうなじから後頭部をまさぐった。しなやかな脚の膝を折ってレイヴァートの脚へからめ、汗にまみれた肌を擦り上げる。誘うようにイユキアの腰がくねった。
「レイ‥‥っ」
切ない声がレイヴァートの理性へからみつく。このままでは溺れるのは俺の方だな、と白泥にとけかかる頭のすみで思いながら、レイヴァートはイユキアの背に腕を回し、熱く息づく肢体を裏返した。イユキアはなされるがままに敷布の襞に全身を投げ出し、甘い呻きを洩らす。そのうなじから白い背中の丸みを指先が平坦に撫でおろした。
「っ‥‥!」
力なく放り出された両手が敷布をきつくつかみ、イユキアは声を殺した。素っ気なくすべっていくだけの指先は、愛撫とも言えぬ乾いた感触を与えたが、とろけた体にはそれすらもとめどない快楽をかきたてる。
まっすぐに背骨をつたう指は、谷間をすべって内腿へ入りこんだ。ぐいと左の腿をすくうように足をひらかせながら、レイヴァートはもう片手で抱くように、イユキアの腰を持ち上げる。膝をたて、腰を高く上げさせられ、イユキアはかきあつめた布の襞へ顔をうずめた。
腿の内側をそろりと爪がなであげる。耳をゆるく噛まれた。
「もっとだ、イユキア。‥‥もっと、足を開いて」
「‥‥んっ‥‥」
こらえきれない羞恥と快楽に背がわなないた。だが抵抗などとうに投げ出していた。今はただ、レイヴァートをもっと強く、体の深いところに感じたくて仕方がない。泣くような声を洩らして、イユキアは腰を掲げたまま、膝を開いた。途端、ぐいと足首をつかまれて強くひろげられる。
「うあっ!?」
体の芯がじんと熱く乱れ、イユキアは切ない叫びを上げていた。掲げられた谷間をレイヴァートの濡れた舌が這う。汗ばんだ肌をむさぼる舌と唇は、奥をさぐり、谷間の奥にひそむイユキアの秘奥をねぶった。熱い舌が肉襞を這い、襞の内をあばくように執拗な舌先がなめあげる。イユキアの腰が逃げるように、あるいは誘うようにくねった。すぼめた舌先をちろりと奥にさしいれると、背がひくりと揺らぐ。
唾液を舌にからめて淫猥に濡れた音をたてながら、レイヴァートの手が足の間にのび、はりつめたイユキアの楔にふれた。優しげな愛撫をくわえる。イユキアの呻きがレイヴァートの手の律動に重なった。
「あ‥‥ああっ‥‥あ‥‥っ‥‥」
熱い茎にからめた指に力をこめれば、イユキアは恍惚に酔ったような声をあげ、後ろの襞を深く責めれば息をつめて腰を揺らす。快感に耐えかねたイユキアの左手が敷布を乱し、布の擦れる音がきしむほど強く握りしめた。右拳の背は口元へあて、盛り上がった骨の形を強く噛む。はしる痛みが快楽をのがすためのものなのか、煽るためのものなのか、イユキア自身にもとうにわからなくなっている。だがそうでもしないと、世界を失って堕ちていきそうだった。
欲望を追いつめることなく、レイヴァートの愛撫がイユキアから離れた。腰を高く上げたまま頬を布にうずめ、イユキアは荒い息をこぼす。甘い溜息が耳にとどいて、レイヴァートの口元に笑みがはしった。そうして狂おしく乱れるイユキアが愛しいと思う。もっと乱して、知らない彼を見たい。イユキアを深く感じて、イユキアの深みへ己を刻みつけたい。灼けるような欲望がつのった。
イユキアの谷間をなでおろす。奥へ落とした指先で肉襞をやわらかくなでると、焦れたイユキアが腰を左右へくねらせた。
「‥‥レイっ‥‥」
レイヴァートの指が秘奥の内へ沈んでいく。一瞬拒むように固かった入り口は、だが、すぐに熱く指先を受け入れた。裡襞が強く指をしめつける。熱い奥へゆっくりとうずめた。
「イユキア」
名を呼んで、肩にくちづける。イユキアは布の波へ顔を沈め、頭を左右へふった。
「んっ‥‥あああっ‥‥」
自分へ入ってくる指の、ひとつひとつの動きを体の芯で感じる。かすかな動きが奥に生まれるたび、わきおこる官能がイユキアの身をゆすった。
指はいったん奥へ沈み、ゆっくりと引いていく。幾度も、単調なほどにその動きをくりかえした。そのたびごとに生みだされる甘美なうねりに意識をさらわれそうで、イユキアは布を噛んで声をこらえた。とてつもなく乱れてしまいそうだった。
もっとたぎる熱が欲しいと思う。あさましいほどにレイヴァートが欲しい。だが己の欲望が怖い。この嵐が自分をどこへさらっていくのかが恐ろしい。思わず呻いた。
「嫌っ‥‥」
二本目の指が内側を擦り上げる。脈打つ襞は指を呑みこみ、じれったいほどの愛撫に蕩けるような熱さでからみついた。レイヴァートは指をゆっくりと抜き入れしながら、唇をイユキアの背中へはしらせる。愛しげに囁いた。
「イユキア‥‥」
「だ‥‥め、んっ、ああ‥‥っ‥‥はあっ!」
ふいに指先がぐるりと回され、強く中を擦った。角度を変えながら内襞を責める。深みの一点をなぶった瞬間、はじかれたようにイユキアの身がはねた。
「あああっ、ああっ‥‥ん‥‥っ、あっ、‥‥」
指は荒々しいほどの動きをしめしてイユキアの後ろを翻弄する。肉襞を突き崩すように責め、時にやわらかに、時に強引に奥をえぐった。いつのまにか指の数は増え、かき乱される快楽にイユキアのあえぎはとまらない。
敷布を乱して左手が狂おしくはねる。布を握ってはまた逃れるように指をのばし、きつく布襞をつかんだ。色を失うほどに強く、指先が痛むほどに布へ指をくいこませる。だがその痛みすら、快楽の火へ油をそそぐだけだった。体をささえることができず、法悦の呻きを洩らして膝がくずれかかった。イユキアの腰へ手を回して体を支え、レイヴァートはゆるやかに指を抜く。
イユキアの口から名残りおしげなあえぎが洩れた。汗に濡れた体を布の海へ崩し、火照った息をあえがせながら、彼は身の内に残る熱さに惑乱される。しどけなく投げ出された下肢はうずいたまま、まるで力が入らない。体の奥底にたぎる情欲が肌をさいなんだ。まだのぼりつめて、まだ欲しい。与えられれば与えられるだけ、もっと深くもっと強く感じたくなる。
「んっ‥‥」
呻いて、イユキアは涙をこぼした。レイヴァートが背に腕を回し、イユキアを抱き寄せる。汗ばんだ肌のふれあいに陶酔した吐息を洩らして、イユキアは男へ体をあずけた。レイヴァートの胸は荒く上下し、寄せた耳にきこえる鼓動はひどく早い。レイヴァートもまたこの熱さを感じているのかと思うと、体の芯がとろけるほどに乱れた。
熱い息をつめたイユキアの耳元で、レイヴァートが囁く。
「イユキア。‥‥愛している」
「‥‥‥」
イユキアは唇を噛んだ。
応えることはできない。この言葉に応えたことはない。それは約束のようで。してしまえば、失うことを恐れるしかない約束のようで。
言葉にはできない。一度言ってしまえば、きっと自分は溺れる。心に、かなわない望みをかける。
黙ったままのイユキアを、レイヴァートは強く抱きしめた。熱くしめった体を、乱れた布に横たえる。イユキアの頭の横に両肘をつき、顔をのぞきこむと、頬を濡らす涙のすじを親指でぬぐいながら彼は小さくわらった。
「お前は、自分がどんな目をしているか知っているか?」
「‥‥え‥‥?」
「俺が、愛していると言うたびに。その金の目は、お前の言葉よりも沈黙よりも、正直だ」
「な‥‥」
顔をそむけるイユキアの耳元から首すじへ、彼の涙に濡れたレイヴァートの指がつうっとすべった。イユキアが体をふるわせ、恍惚の吐息を洩らす。レイヴァートは囁いた。
「イユキア‥‥」
「‥‥っ」
指はそのまま鎖骨を這い、肩口の丸みを爪でなぶり、胸の突起をかすめて脇腹を撫でる。甘い声をたてて、イユキアの体がしなった。視界が涙にくらむ。頭をゆるく振った。
「は‥‥っ、レイ‥‥っ」
腰がぐいと手で抱かれ、引き上げられる。レイヴァートの熱を脚の間に感じて、イユキアはもどかしげに膝を立て、足をひらいた。体の芯に熟れた情欲がたぎって、もうたまらなかった。深く、もっと深くへレイヴァートを感じたい。膝の裏へレイヴァートの手がさしこまれ、下肢をさらに大きくひらかれた。中心をさらけだされる羞恥が身をはしりぬけたが、それは甘い期待も秘めていた。
熱い怒張が後ろに押しあてられる。息をつめた瞬間、レイヴァートの楔が入ってきた。愉悦に酔った体にレイヴァートを呑みこみながら、イユキアは背をのけぞらせる。体の芯をゆっくりと貫き入ってくる圧倒的な熱に、下肢が蕩けそうだった。かすかにともなう痛みはかえって快楽を高めただけで、法悦に思わず腰をゆすりあげる。
だが、中途で熱は引いた。レイヴァートが侵入をやめ、軽く腰をもどす。
「んっ‥‥」
抗議するような甘い声に小さな笑みをおとして、レイヴァートは一気に最奥まで貫いた。イユキアが高い声を放つ。
「ああああっ!」
イユキアの内へと身を沈めたレイヴァートも、からみつく中の熱さにめまいをおぼえた。恍惚が腰からぞくぞくと這い上がって、意識が呑まれそうになる。快楽を求めて腰を動かしはじめた。もっとゆっくり高めていきたいが、もう自制がきかなかった。イユキアの深く、もっと深くへと腰をうちつける。たぎる欲望へ身をゆだねた。
イユキアの体を白熱したうねりが貫いた。官能が脈をうちながら体の芯を駆け抜けていく。幾度も幾度も、レイヴァートの楔が肉の奥底を貫くたびにイユキアの全身が波打った。満たされる快感に、望んでいた灼熱に、口をあけて陶然とあえぐ。
「あっ‥‥ああっ、んっ、レ‥‥イ‥‥っ!」
「イユキア‥‥」
レイヴァートが、耳元へ熱い囁きをおとした。深い声の愛しげな響きが、イユキアの体をぞくりと抜けた。痺れるような快感に、体が小さく痙攣した。レイヴァートが深奥を貫いたまま動きをとめる。イユキアが強く感じるたびに肉襞が脈打ち、レイヴァートへからみついた。
「ん‥‥っ、ああ‥‥」
頭をふって、イユキアは腰を揺らす。奥へ呑みこんだレイヴァートの熱さは、力強く彼を満たしていた。体が快美な脈を打つたびに、己を貫く楔をしめあげ、さらに熱く感じてしまう。逃れようと身をそらせたが、腰はなけなしの理性を裏切り、誘うように淫らにくねった。その動きがさらに強い官能を生む。
レイヴァートは動いていないのに、どんどん感じてのぼりつめる己の体が信じられず、イユキアは悲鳴のような声をあげた。気が狂いそうな思いで頭をふる。天井のない快楽に、どうにかなってしまいそうだった。
「レイっ‥‥!」
「怖がるな」
イユキアへ身を重ね、レイヴァートは細い体を抱いた。
「‥‥な‥‥んっ、や‥‥っ、いやぁあっ‥‥!」
「俺をもっと感じろ、イユキア」
唇を重ねてあえぎを吸いとった。陶然としたくちづけの間からこぼれおちるぬめりが、イユキアのあごをつたっていく。
レイヴァートはうるむ金の瞳をのぞきこんだ。イユキアの、快楽にくらんだまなざしをとらえる。イユキアを満たすものよりもなお熱い声で、囁いた。
「愛している──」
「ん‥‥っ‥‥あああ‥‥っ、あっ!」
奥へみなぎるレイヴァートの楔を自分の快楽の脈でしめあげ、呑みこんで、イユキアの唇から乱れた叫びがほとばしった。レイヴァートがゆるやかに腰を回すと、信じられないほどに鮮烈な波がイユキアの全身を呑みこんだ。足先が強く布をかきみだし、しなる指が布地を引き攣らせる。こらえるように敷布をつかむイユキアの右手を、レイヴァートの手がさぐりあて、ほどき、強く互いの指をからめた。
イユキアの脈動へ息をあわせ、レイヴァートはゆっくりと動きはじめる。イユキアはもうさからわなかった。身をさらう灼熱の波に意識をゆだね、白い肢体は快楽のままに乱れる。求めることしか頭になかった。レイヴァートへの強い欲望に押し流され、体も心も淫らにとけていく。
求める強さのままに与えられた。レイヴァートが激しくつきあげるたび、深みをえぐる熱さに世界が白くくらむ。嵐のような快美の奔流にすべてが砕け散った。
声に、やがてすすり泣くような快楽のあえぎがまじり、互いの名を呼ぶ声がひびいた。暗がりに法悦の呻きが長く尾を引き、ふっつりと途切れると、深い沈黙が覆うように落ちた。
銀色の睫毛がうごき、まどろんでいたイユキアの目蓋があがった。うっすらと光る金の瞳があらわれる。
ぼんやりとまなざしが漂う様子を、レイヴァートは隣に横たわって眺めていた。イユキアはしばらくうつろな表情をしていたが、ふと顔がうごき、レイヴァートを見てつぶやいた。
「レイ‥‥」
かすれた声に、甘えたような響きが残っている。レイヴァートは華奢な体へ手を回し、抱き寄せた。情事の名残りがけだるく漂う体をよせあって、ふたりは静かなくちづけを交わした。
レイヴァートの胸に頭をのせ、イユキアは天井を見上げた。暗がりを縦横に太い梁の影がつらぬいている。それは彼に、闇色の檻を思わせた。
「‥‥レイ」
名前を呼んで、頬をレイヴァートの胸によせた。レイヴァートは無言のまま、抱き寄せた左手にあたたかな力をこめる。
闇を見上げて黙っていたが、イユキアは、小さな声でつぶやいた。
「私は‥‥殺してはいけない人を、殺したことがあるんです」
「‥‥殺したくない相手ということか?」
低い、錆をおびた声で、レイヴァートはたずねる。イユキアの顔は見えなかったが、胸元にあずけられた頭がかすかにうなずいた。
「決して裏切らないと誓った相手を。‥‥自分の命よりも大切だと思っていた‥‥」
「──」
レイヴァートはイユキアの頭へ手をすべらせ、胸に強く抱いた。髪をなでる。イユキアは溜息をついて目をとじた。
もう二度と、誰かのことを大切にしたくはない。誰のことも守りたくはない。守るほどの力も意志の強さも己にはそなわってないと、思い知った今は。
‥‥二度と、想いを誓ったりはしない──
そう心にくりかえしながら、イユキアは、レイヴァートの胸へ頬をよせ、心臓の音に静かに耳をかたむける。レイヴァートの胸板が呼吸に上下するたび、かすかに頭が持ちあげられ、沈みこむ。彼は騎士にしては細作りだったが、無駄なく体を覆った筋肉は強靱で、はずむような勁さを秘めていた。
レイヴァートの持つ勁さはそのまま彼の命の強さだと、イユキアは思う。彼の中には激しい命の力がある。それに惹かれて、それをこうして与えられ、味わって。満たされるような一瞬がすぎれば、ただやるせない。それでも、つたわるぬくもりにすがってしまう。自分の弱さのままに。求めてしまう。愚かしく。
レイヴァートの肌を頬に感じながら、イユキアはつぶやいた。
「その夢を見ていました‥‥何度も、何度も。迷路のように」
「そうか」
レイヴァートはイユキアの髪をなでながら、静かにこたえる。手に優しい力がこもった。
「イユキア」
「‥‥何です?」
「時を戻すことはできないぞ。世界は、無慈悲なものだ」
「ええ‥‥」
「──お前の傷は‥‥」
呟くように言って、レイヴァートの手がイユキアの頬をそっと撫で、あごを持ち上げた。自分の方へ向け、優しく唇をかさねた。イユキアは目をとじてくちづけを受ける。
その頭をふたたび胸に寄せ、レイヴァートはイユキアの体へ手を回して、一瞬強く抱きしめた。
「もう少し、眠れ」
「‥‥ええ」
目をとじたままうなずいて、イユキアはレイヴァートの鼓動に耳をかたむける。命の音。体にしみわたるような、あたたかな脈動。今はそれだけでよかった。やがて、やわらかい眠りが訪れ、意識をつつんだ。夢もなく。
イユキアは翌日の帰城をすすめたが、レイヴァートはイユキアの館へもう一夜逗留し、イユキアの熱が完全に引いたのをたしかめてから、次の昼に発った。
「怒られますよ、王城を長く留守にすると」
イユキアは、レイヴァートの妹用の薬草を油紙に小分けして包みながら、おっとりとした口調で言う。その表情からも立ち居振舞いからも、病の翳は跡形もなく抜けていた。
客間がわりに使われる六角形の部屋は、おだやかにさしこむ陽光に満ちてあかるい。窓辺によりかかったレイヴァートは、腕組みをしてイユキアを見た。
「気にするな。怒られてもかまわん」
「あなたには大切なものがあるのだから、そんなことではいけませんよ」
溜息まじりにイユキアは細い糸で紙包みをくくった。細く切った紙に青いインクで薬草の名を記し、それを糸へくくりつける。
「陛下のことか?」
「サーエシア様と」
王と妹と、ふたつのものはレイヴァートが生涯かけて守るものだ。そう告げて、イユキアは油紙の包みをまとめて布でくるんだ。その様子をながめて、レイヴァートは何か言いたそうにしたが、先手を打ってイユキアが立ち上がった。包みを手渡す。
「こちらを、サーエシア様に。ヒヨスは決して多くお使いにならないよう。頭痛がひどい時のために量は入れてありますが、お体にはよくありませんので」
「わかった」
受け取って、レイヴァートはそれを荷物の中へ入れた。
イユキアは先に立って歩き出す。扉を抜け、長い廊下を二度折れて玄関ホールへ出ると、外への扉を開けた。さしいる陽がイユキアの輪郭を淡く照らし、背へゆるく編まれた銀の髪が、まるで細い光のようにきらめいた。
その背へレイヴァートが声をかける。
「イユキア──」
「次は」
断ち切るように、イユキアが言った。背を向けたまま。声は静かだったが、刃のようなするどさを秘めていた。
「私が病に伏しても、来ないでください。来ないと‥‥約束してください」
「それはできない」
「私は」
ふりむいたイユキアの顔は冴え冴えと白く、金の瞳にかすかな怒りがきらめいた。
「嫌です。病に倒れて‥‥あなたを待ったりしたくはない。だから、来ないと約束してください。でないと私は待ってしまう。あなたが来てくれるのではないかと」
「──」
「あなたには守らねばならないものがある。私とはいる世界がちがう。どうにもならないことがある。それはわかっているから‥‥だから、せめて、来ないと」
声が低くなった。
「約束を、レイヴァート」
「何故?」
レイヴァートは手をのばす。イユキアは、頬にふれようとした手をゆるく払った。
首をふる。
「あなたは優しすぎる。‥‥お願いだ、レイ。約束してください‥‥。でないと私は‥‥」
「約束はしない」
「レイ‥‥」
訴えるような声がつまった。イユキアは顔を伏せて長い溜息をつく。レイヴァートはもう一度手をのばし、細い体を抱きこんだ。
「イユキア。俺は来る。だから、信じろ」
「‥‥‥」
あごを指ですくうと、イユキアはかすかに濡れた目でレイヴァートを見上げた。青いかがやきをおびる銀の髪がゆるやかに額から頬へ落ち、華奢な貌にうすい影をおとしている。その唇へ、そっとくちづけ、レイヴァートは目を見つめたままもう一度言った。
「信じろ」
「‥‥‥」
淋しげな微笑を唇に溜めて、イユキアはレイヴァートの手をはずし、ゆっくりと首をふった。
歩き出し、扉をくぐって外へ出る後ろ姿を、レイヴァートは荷を肩にかけて追った。
館の前から見下ろす丘陵はやわらかな緑に覆われて、ところどころ地面の窪みに木の葉が溜まっている。秋の嵐で吹き寄せられたのだろう。左右へうねる道の先は、なだらかな斜面を回って消えていた。その向こうを眺めやれば、黒い森がうっすらと青い霞をまとってひろがっている。
王城は、ここからでは森が邪魔になって見えない。だがイユキアが見ているのはその王城の方向だった。
「イユキア」
「さようなら。‥‥ありがとう」
つぶやくように言って、イユキアは踵を返し、すばやい身のこなしで館の中へ入っていった。手もふれないのに扉がとじ、彼の姿を隠した。
レイヴァートはしばらくたたずんで扉の黒い表面を見つめていた。冷ややかな黒い木が彼の視線をはねかえす。
落ちついた声をかけた。
「また来る」
それから、彼はゆっくりと丘の道をくだりはじめた。
レイヴァートの気配が館から遠ざかるまで、イユキアは扉にもたれて目をとじていた。
感覚をひろげれば、丘を出るところまでは感じとれるが、その思いを断ち切って歩き出す。無意味なことだ。歩みをすすめていると、自分の足音がやけに大きく廊下にひびくような気がした。
「‥‥‥」
溜息をついて、足取りを早める。どこへ行こうというのではなく、足は自然と奥の寝室へ向かっていた。何日も悪夢にとらわれていた場所で、もう一度どろどろと悪夢にまみれて苦しみたいと、心のどこかが思った。体も心もうつろになってしまった気がする。何を失ったわけでもないのに。
まだしも悪夢の方がいい‥‥
扉をあけ、薄暗がりの寝所へもつれるような足取りで入り、寝台へ体を投げこむ。目をとじた。
(愛している‥‥)
両手で顔を覆った。耳にレイヴァートの囁きがよみがえる。悪夢よりもなお悪い。手に入らないものの夢など見たくはない。だが意識はレイヴァートのことだけに流れ、イユキアは毛布の上できつく身を丸めた。
レイヴァートは嘘はつかない。本気で愛を誓っている。だが、彼は知っているだろうか。そんな言葉に何の意味もないことを。
人は時に愛を裏切り、愛する者を裏切る‥‥
手をその血に染めてまで。
(ラマルス──)
自分が殺めた者の名をつぶやいて、貫く痛みに息をつまらせた。永遠に彼を離さない愛の亡霊。痛みは堪えがたく心臓をつかんだ。考えることをやめて心の深みに沈みこんでいると、悪夢と夢のはざまに意識が漂いだす。そのまま暗いまどろみの檻へ落ちていこうとした瞬間、レイヴァートのくちづけのあたたかさが鮮やかに唇によみがえって、イユキアは起き上がった。
「‥‥‥」
名を呼びかかって、口をとざす。愚かしいと頭をふった時、ふと、寝台の頭側の台へ置かれた短剣へ目がとまった。
骨柄を銅線で装飾したその短剣に、イユキアは見覚えがあった。レイヴァートがいつも身につけているものだ。そもそもは彼が子供のころに尊敬している伯父からもらったもので、それ以来守り刀にしていると、彼は語ったことがあった。
こんな大切なものを何故──と、レイヴァートらしからぬ忘れ物に眉をひそめて取り上げると、下からひらりと紙片がおちた。それを指にはさみ、イユキアは立ち上がって油燭に火をともした。黄色い光の輪に紙をかざす。
それは、手紙だった。
レイヴァートの、角張ってやや右上がりの癖のある文字で、たった一行。
──すまんが、預かっておいてくれ。
無言で見下ろし、数回読み返してから、短剣に目をおとした。
しばらく短剣を見つめていたが、やがてイユキアは手紙を細く折り、幌の隙間から油燭の炎へくべた。燃えあがる紙片の一瞬の炎が尽きるまで見とどけて、彼は小さな微笑をうかべる。淋しげだったが、静かな笑みだった。
また来ると、だから待っていろと、その約束の証を置いていったのだろう、彼は。
‥‥言葉よりも、雄弁に。大事なものを残して。
イユキアは、短剣の柄頭にそっとくちづけると、その鞘に壁から下がる鎖をまきつけ、壁に留めた。信じてはいけないと、たよってはいけないと思っても、甘い夢を見そうになる。ぼんやりと寝台に座りこんで、かかえた膝へあごをうずめ、目をきつくとじた。
白い骨の杖が立つ手前で、レイヴァートは足をとめた。
森の切れ目に生えた胡桃の木の枝、目の高さの少し上にセグリタが座りこんで、裸足の片足を宙にぶらぶらと揺らしていた。
レイヴァートを見下ろすと、にやりと笑って口に噛んでいた木の実を吐き出し、地面へとびおりる。
「帰るんだ?」
「ああ」
骨の杖に片手をかけ、レイヴァートはうなずいた。磨かれた骨は手にひやりと冷たく、吸いつくような感触をつたえてくる。一瞬身が総毛立った。中に含まれた魔呪のせいだとわかっているが、気持ちのいいものではない。息をつめ、彼は骨を地面から引き抜いた。
ふっと息をついて、それを地面へ横たえる。
「これでお前もここを越えられるだろう。明日、イユキアにこの杖を持っていってくれ。何やら新月の話がしたいと言っていた」
「ふーん。採集の話かな。わかった」
うなずいたセグリタの目がレイヴァートの右手に流れた。杖を抜いた動作で袖が引かれ、手首にまいた布があらわになっている。
「怪我したの?」
「もう治る」
素っ気無く言って、レイヴァートは歩き出したが、セグリタのそばで足をとめた。
「セグリタ。イユキアを頼む。俺はまた月が変わるまではこられん」
「あんたに頼まれなくても、ちゃんと俺はあの人のことを気にしてるんだよ」
ムッとした顔で言い返したセグリタの顔を眺め、レイヴァートは真面目な表情でうなずいた。
「そうだな。悪かった」
「‥‥いいけどさ。あ、あのウズラ、うまかったよ、ありがと」
「それはよかった」
「気をつけて帰んな。ま、あんたじゃ狼どもも返り討ちだろうけど」
ひらっと手を振って、森の民の少年は、木をすばやくかけのぼるようにのぼっていく。あっというまに元の枝へ腰をおちつけ、袋からとりだした木の実を口に頬張った。そこに陣取って、イユキアの門番のつもりなのだろう。病が快癒したとはっきりわかるまで。
レイヴァートは丘をふりむいたが、イユキアの館は手前のなだらかな丘陵にさえぎられて見ることができなかった。見上げる顔はいつものように平静だったが、目の奥をはっきりした痛みがよぎる。
「‥‥‥」
静かに踵を返し、彼はゆっくりと森の径を歩きはじめた。木々の重なりからこぼれた光と影は、地面で陽光を照り返すさざなみのようだった。遠く鳥の声がする。一歩ごと、身を切られるような思いを抱いたまま、レイヴァートはまっすぐ目を据えて歩きつづけ、施癒師と、彼が主として棲まう黒の館から遠ざかりつづけた。