帰るべき地のある者は幸いだ。
心の内にふるさとを持つ者は‥‥
くちびるにかかった歌を途切らせ、彼は頭をふる。帰るべき地、帰るべき地? ばかばかしい。そんなもの、ない方が幸せにきまっている。なければこんな思いはしない。これほどに心を迷わされることもない。
──あの地は、彼を待ちはしない。
彼のすべてを奪い尽くした、あの地は‥‥
だが心はそうは思っても、魂に刻まれたように消えないものがある。忘れ去ったと、あきらめたと思っていても。
(──約束を)
夜の空を見上げる。あと内海を一つ渡れば、クーホリアの港町へゆきつく。そこから王城アシュトス・キナースまではわずかな距離だ。あっけないほどに近い。ここまで帰るのに、二年かかった。
(果たしに帰ろうか‥‥)
遠い誓約を裏切り、捨てたと思ってなお忘れられない。あの約束が果たされることなどもうないと思っていた。あの約束を、相手はとうに忘れ去っているだろうと思っていた。だからあの地を捨て、なにもかもを裏切ったのだ。
よろめくように暗い路地を抜けていると、バタバタと軽い足音が近づいてきて、ぼんやりしていた彼の腰へドンとぶつかった。倒れかかる小さな体を抱きとめて、間近にのぞきこむ。涙に濡れて彼を見上げたのは、まだ幼い子供の顔だった。誰かに殴られたのか、両頬が赤く腫れ上がっている。唇のはじが乾いたかさぶたに膨れ、青黒くなっていた。
「!」
虚を突かれた彼の腕から、子供はするりと逃げていく。一瞬にして闇へ消え、焦げたような臭いだけがうしろに残った。足音の中に煮つめたような恐慌を聞きとって、あの小さな影を追おうかと思う。何ができると言うわけではないが。
その時、ふっと強い異臭を嗅いだ。子供が走ってきた方角だ。早足にそちらへ向かった。
狭い路地を抜け、やや大きめの通りへ出る。背の高い建物がゆったりした構えを見せる並びにひときわ大きな聖堂があるが、円形伽藍を持つ豪奢な建物の足元から、メラメラと黄色い炎がたちのぼっていた。
呆然として立ちすくむ。どうするべきかと考えをめぐらせた時、人が走り寄ってくる気配があって、後ろからぐいと腕をつかまれるや否応もなくねじ伏せられた。夜警だ。数人いる。火事だ、と叫ぶ声をききながら、彼は石畳へ押し付けられていた。容赦なく石が顔を擦り、呻く。
ぐいとゆすられ、怒鳴られた。
「貴様だな、火をつけたのは?」
「‥‥‥」
首を振ろうとして、さっきの子供の顔が脳裏にうかんだ。泣いていた。痩せた体からは奇妙に焦げくさい、炎の残り香がした。
どこから逃げてきたのだろう。何から逃げて、どこへ行くのだろう。
「聖堂に火をつけたな!」
溜息をつく。力を抜き、目をとじて、うなずいた。
「名前は?」
「ジャクィン‥‥」
つぶやく声は、自分の耳にもほとんど聞こえなかった。
クーホリアの街は、東へ向いたルキ湾の弧の内側やや北寄りに位置する。帆船が停泊する港を中心に、赤茶けた煉瓦の建物がひしめいて、港の近くへ行けば荒くれた船乗りが怒鳴りながら帆を上げたり、一杯きこしめした酔いどれの喧嘩がきこえてくる。荷を山のように積んだ荷獣や異装の旅人が大通りを行き交い、商人がそれを呼び留めては当人いわくの「いい取引」を持ちかける、それも常の風景だった。
街は大きな円形の街壁にかこまれ、街門からのびる街道は点々と茂みのちらばる赤い粘土質の大地を抜け、森に覆われた低い山へと消えていく。その山を越え、道は王城都市アシュトス・キナースへと続いていた。
王の座す地へ。
煉瓦の敷かれた街路に踵を鳴らし、騎士が早足に道を抜けていく。艶のある上衣の胸元は双頭の鳥の縫い取りが金にかがやき、あざやかな青地のマントが背にひるがえった。全員がアシュトス・キナースの紋章を身につけ、腰の後ろに直剣の鞘を帯びている。
人々は、彼らの行く手から波のように引き、道の左右に寄って彼らを通した。それには目もくれずに通りすぎ、騎士は港への道を曲がって消えた。王城の騎士が港町へ来るのは珍しくはなかったが、10人近くの騎士装の者たちが隊列を組んでゆくのはやはり日常滅多にないことで、見送る人々はたちまちに顔を見合わせて噂話に花を咲かせはじめた。
「港についた船から罪人が逃げ出したんだって──」
「海にとびこんで沈んだんじゃないの?」
「いや、切れた縄だけが浮かんできたらしい。本人はきっとどこかに‥‥」
「どうかなあ、もう秋も終わるもの、海は結構つめたいよ?」
「何した人なの」
「‥‥さあ‥‥わざわざ王城に運ぼうとするくらいだから、重罪人じゃないの?」
「やあねえ、怖いわ」
不安げと言うよりは、むしろ喜ぶような声がかわされている。大体の者がこの騒ぎをおもしろがっていた。クーホリアの人間は全体に派手好みで、おもしろいことや奇妙なことを好む。
「あのくらい目立てばいいだろう」
道に面したパン屋から魚のパイを買いながら、若い男がつぶやいた。鼻梁が高く涼しげな顔立ちで、くせのある黒髪を洒落た色の組み紐で一つにたばねている。背がすらりと高く、平織りのマントにくたびれた革の胴着をまとっていた。黒い目は細いがはっとするような切れ長で、時おりこの男は、人の心を読むような目つきで人を見る。
王城騎士団の一員、二刀使いのヒルザス。今は旅人のなりで、無邪気な顔でパイをほおばっている。大口あけてかぶりついたそれをもぐもぐと飲み下し、横にいる男へくぐもった相づちを求めた。
「なあ、レイ」
「‥‥そううまくいくか?」
隣で同じように腹ごしらえをしている男が、低い声で答えた。背丈はヒルザスにわずかに足りない。体つきはすっきりとして細身とすら見えるが、そうして立つ姿にもしなやかな力を秘めた男であった。革の腰帯に短剣をさしこみ、左腰には長剣をおさめた革鞘を吊っている。強靱な線を見せる顔にあまり表情と言えるものは浮かんでいなかったが、深緑色の目には人を引きこむ静かな意志が満ちていた。くせの少ない黒髪は短めに切っているが、近ごろのびたそれを、うるさげな左手で額から払った。
ヒルザスと同じ王城騎士団員、レイヴァート。王の近衛でもある。
彼は大きな一口でパイの残りを食べ終えると、指についたかすを払い落とした。
ヒルザスがニヤッと口のはじを上げる。
「騎士団があれだけ派手にうろついてちゃ、ジャクィンもそうそう街には出られんだろ。どこかにじっとしてるさ。おとなしくマキアを頼ってくれば、それはそれでこっちのもんだしな」
「あのお人は、それほどわかりやすい人ではないと思うが。‥‥マキアを落とすほうが早い」
つぶやいて、レイヴァートは一歩動いた。今いた場所を子供がいきおいよく駆け抜けていく。背中に革の袋を背負った、港と商館をつなぐ伝使の子供だ。当人は前を見ているつもりでも、慣れないうちはあちこちかまわずに走りこんで人にぶつかるのだった。
子供を見おくるレイヴァートの顔を、ヒルザスがちらっと見やった。
「そうか、お前はあのお人の扉付きだったことがあるか。俺は顔しか知らん。それも七年前だ。一度だけ、練兵場でお手合わせいただいてな。音師の修業をされていたそうだが、剣も巧みな方であったな」
「‥‥‥」
レイヴァートは無言で高くそびえる塔を見やった。港に面して立つ塔の屋根から、赤い旗が長くたなびいている。数は二つ。時とともに増える刻の旗で、あれが五本になると港は閉ざされ、船は入港を禁じられる。まだ夕刻までには大分間がありそうだった。
その目がふっと動いた。二人は、十字路に面した広場の隅の屋台で食事を取っていたが、広場の向こう側にある何かが彼の目を引いた。レイヴァートの鋭いまなざしが噂話に花を咲かせる群衆をかすめ、建物をつなぐ空橋の下にたむろする子供たちに一瞬留まって、横へ流れる。二階が大きく張り出した店の下、歩道のすみの暗がりに、ひっそりと歩く人影があった。
全身を灰色のフードとマントに覆っている。それは珍しくはない。人里をきらう森の民が街に出る時も、同じような色のフードをすっぽりとまとう。森の民にしては少し背が高いように見えたが、異国の人間が近いなりをすることもあるだろう。
何が気になるのか、と目を凝らした瞬間、人影はあっというまに細い路地を曲がって消えてしまった。
そちらを向いたままのレイヴァートの背中を、ヒルザスがつついた。
「どうした、まさか、見つけたか?」
「いや‥‥何でもない」
「そうか。とりあえず、マキアのとこに行こうぜ。昼間なのが残念だがな」
ニヤッとしてヒルザスは歩きだし、レイヴァートは気持ちを切り替えて友の後ろ姿を追った。何かが心にかかっているのだが、それを見きわめる時間はない。とにかく今は王命を果たさねばならなかった。
クーホリアの港町をつらぬく大通りの左右には、二階部分を大きく宙に押しだした店がたちならび、けばけばしいほどの色とりどりの看板が人目を呼んでいた。
ヒルザスとレイヴァートは大通りをそれ、水路にかかる橋を渡った。あたりには船のさまざまな部材を作る職人の工舎がたちならび、男たちが忙しく仕事に精を出している。木くずがとびかう間を、子供らが水や濡れふきんを持ってとびかい、男たちの汗を拭いたり道具を運んだりしていた。
道に向かって大きく口を開け放した工舎の中では、男たちが五人がかりで太いロープを撚っている。ロープのはじは大きな鉤にくくられて機械に通され、二人の男がレバーを回すたびにぐいとロープがねじられた。逆のはじを三人の男が力いっぱい引き、撚りあわせるための繊維をぴんと張っている。ロープは船にはかかせないものだ。
リズミカルな掛け声に重ねて、あちこちから木を削ったり釘を打ち込んだりする音がひびき、焼いた鉄ゴテが材木に押しあてられると焦げた煙がたちのぼった。
道端に座りこんで休憩している数人の男が、歩きすぎていく二人へ推し量るような目を向ける。ヒルザスとレイヴァートの風体はよくある剣士の装いだが、特にヒルザスの早足できびきびとした身ごなしが人目を引くらしい。ヒルザスを注意しようとして、レイヴァートは口をつぐんだ。もともとヒルザスは立ち居振舞いが派手な男である。今さら言ってもはじまるまい。無言のまま、歩き続けた。
職人街の中途から道は細くなり、くねる街路の左右には、間口の狭い建物がかぶさるように建ちならぶ。食事や飲み物を売る声が雑踏に響き、道に面した大きな店の窓から香ばしい匂いが強くたちのぼった。魚、パン、鴨、豚。このあたりは、職人や船乗りが食事と酒にありつくための一画だ。
細い路地を歩く二人の頭上に、大きな帆布が垂れ下がっていた。マキアの店へはこの路地から袋小路に入り、道からのぼれる狭い外階段を上がる。黄身がかった漆喰で覆われた飾り気のない建物であった。
二階の外廊下を一度折れ、建物の壁の切れ目に入って道からは見えないくぐり戸を押すと、あざやかな緋色に彩られた店内が二人を迎えた。
深緋に金の唐草を織り出した絨毯が敷きつめられ、背もたれのない長椅子が二つずつ二列に並べられている。壁のあちこちに架かった金の額に飾られている絵も、全体に色調が赤い。窓は顔も出せないほど小さなものが二つあるきりで、室内は天井から吊られた油燭の炎にぼんやりと照らされていた。赤みをおびた空気と、黄昏を思わせるにごった光の中に、肌もあらわな五人の娘たちが座っていた。
やわらかで扇情的なまなざしが、歩み入った二人へからみつく。娘たちの笑顔にはとりあわず、二人は部屋の奥のテーブルへ向かった。壁ぎわの低い書き物机の前に座りこんでいる太った女が、彼らを見上げ、目尻を下げてニヤッと笑った。
「おや、お久しぶり。二人で何か、おもしろい遊びでもお探しかえ?」
「それはまた今度」
ヒルザスが笑みをかえし、廊下の奥へあごをしゃくった。その仕種に肩をすくめて立ち上がり、マキアは長椅子の女の一人を呼ぶ。
「シャルース! ここ、見てな」
「はぁい」
気だるい声を返し、襞をたっぷりとった黒布で豊満な肢体を斜めに覆った女が、ゆったりと立ちあがった。足元に置かれた硝子の香炉をよけ、マキアが座っていた場所を替わる。
マキアは二人を手招くと、廊下のカーテンをからげて奥の仕事部屋へ案内した。やや手狭なつくりの部屋は、四方をやわらかな薄緋の布で覆われている。棚には酒瓶と帳面がならべられ、黒檀の円卓の両側に低い椅子が置かれていた。二人へすすめもせずに自分だけ向こう側の椅子へさっさと腰をかけ、マキアは足を組んだ。
「何かあったのかえ?」
浮彫りがほどこされた銀の長煙管を手にし、油燭にかざして先端に火をともす。二人を煙管ごしに眺めやった。
太ってはいるが、もとの美しさは決してそこなわれてはいない。肉厚の唇に紅をさし、褐色の髪を頭上でまとめあげ、毛皮の襟回りのついた長いガウンをまとっている。胸元にゆったりとした黄色い絹の襞が揺れていた。
耳には黄水晶のピアス。──娼婦のあかしだ。
この店は、マキアが切り回す娼館であった。王の認可を受けた公娼の館で、馬鹿にならない値段を取り、それなりに客を選ぶ。マキア自身も今は客を取らないが、かつて娼婦だったことがある。
そして彼女は、二人の素性を知っていた。二人ともに王城付きの騎士であり、王の近衛であると。だが二人を立たせたまま、自らは椅子に座って眺めやる態度に怯えや畏怖はなく、手つきや視線には投げやりな横柄さが感じられた。
「二人そろって御用とは。客じゃないなら、なんとな?」
「ロゼナギースが罪人として国へ戻された」
低い声で、レイヴァートが言った。マキアが目を見張り、けたたましい声をあげて笑いだす。
「悪い冗談じゃ──」
「マキア」
ヒルザスが伝法な口調で彼女の名前を呼んだ。
「冗談じゃねえんだ」
「ふうん‥‥」
マキアは、すぼめた唇から細い煙を吐く。にやっとした。
「そんな古い名前、持ちだされても困るの。何だと言うのじゃ? 馬鹿馬鹿しい、おとといおいで。あのお人をどうしようと、今さら私にかかわりがあるとでも?」
「彼は、船から逃げた」
レイヴァートが淡々と言った。
「夜の海へとびこんでな。二日前の夜、湾の外での話だ。夜漁の漁師の小舟まで泳ぎ着いて、朝方に港へ入った。そこまではわかっている」
漁師を脅して、早朝の港へ船を戻させたのだ。漁師がとどけを出し、そのことはすぐさま王城へ知らされた。ロゼナギースが帆船から逃げた段階でクーホリアの街門に見張りを立て、出る者を徹底して調べているので、まだ彼は街の外へ出ていない筈だった。
知らせが王城に届いてすぐ、王はレイヴァートとヒルザスを呼び、王城騎士団を率いてクーホリアへ行くよう命じた。どんな手段を用いても、ロゼナギースを探しだせと。短く厳しい命令であったが、その王の心にあるものが冷酷だとは、レイヴァートには断じられない。王は、彼らが騎乗獣フィンカに乗って走り出すのを王塔の露台でじっと見つめていた。
マキアは丸いあごをそらせ、ふっと煙をふきあげた。ゆらりと踊る白いもやを見つめながら、
「なるほどの。あの方がここに来るとでも? 今さら私をたよるとお思いかね。あなた方もたいがい愚かしいとしか言い様のないことを考えるものだの」
「悪いが、店に見張りを置きたい」
マキアの言葉にも表情ひとすじ動かさずに、レイヴァートが言った。ヒルザスはあからさまに顔をしかめ、あさっての方を向いて舌打ちしている。マキアは喉の奥で笑った。
「客以外の男にいられると迷惑じゃ。それとも居座るか? 王に御勝手状をいただいたこのマキアの店に? それは王がマキアに下された約定をたがえるとの覚悟と受け取ってよいのじゃな、近衛殿」
「早まるなよ」
ヒルザスが目を細めてマキアを眺めやる。
「この店のやりかたにどうこうケチをつけにきたわけじゃねェ。お前さんがここでは一番偉い。だが、俺たちもローゼ殿を探さにゃならんのさ。あの人がたよれるとこったら、ここくらいしかねえと思うがな」
「お門違いじゃ。出ておゆき。さもなければ、気に入った娘を選ばれるがよろしかろ」
「俺たちはな、あの人を安全に王城へつれて帰りたいだけなんだ」
「知らぬよ。私が存じていることは、そなたら王城の者どもがあの方を16年間もとじこめていたこと。そして、私を男どもに売り渡したことだけじゃ」
マキアの緑色の瞳の奥に、熱っぽいものがぎらりと光った。彼女は肉感的な唇をゆがめて笑みのようなものを浮かべ、彩った爪を煙管に添えて、男二人を睫毛の下から眺めやる。皮肉っぽい目で、
「連れ戻すくらいなら、いっそ殺しておやり。檻で飼い殺すよりよほど慈悲深かろう。なあ?」
ヒルザスが何か言いかかろうとしたのを、レイヴァートが軽く左手をあげてとめた。まっすぐなまなざしをマキアへ向ける。
「ロゼナギースから連絡があったら、詰め所に知らせをくれ」
「あの人は私のことなぞ忘れておりましょうよ」
煙管の口を叩きつけるようにして灰を落とし、マキアは奇妙に丁寧な口調で言った。
「命惜しさに家の誇りを裏切った淫売のことなぞね」
かすかに肩をすくめ、レイヴァートはヒルザスへ合図をして扉へ向かった。ヒルザスが怒ったような顔で出ていくのへ続こうとして、レイヴァートはふと扉口でマキアをふりむいた。女が挑発的にあごを上げる。
「何か?」
「人は、生きていかねばならん、マキア。それは悪いことではない」
「──」
頭を軽く下げ、レイヴァートは扉をくぐって姿を消す。マキアは一人残って煙管をくゆらせていたが、やがて首を左右に振り、低い声で笑いだした。
ヒルザスは階段をおりながら忌々しげに、
「まったくよ、あんな恨み言、今さら聞かされちゃたまらんな」
「仕方がなかろう。そもそも、今ごろは貴族に嫁いでいてもおかしくないお人だ」
「陛下もどうして御勝手状なんぞ出したもんかねえ──」
ぼやくような言葉に、レイヴァートは答えなかった。王の考えることに何か言えた立場でもないし、するべきでもない。ヒルザスもそのことは十分承知の上だろうし、単なる吐き捨ての言葉は、レイヴァートに同意を求めたものではなかった。
秋が深まる街を抜けていく風は肌にすずしく、二人は数軒先の仕立屋へ入った。扉の鈴が小さく鳴る。狭い店がまえの一階部分が仕立ての店で、二階は住居になっている建物だ。一階には、ところせましと布地と服が吊るされている。小さなテーブルに向かって針仕事をしている初老の男が顔をあげ、無言で二人に頭を下げた。
階段口から、ほっそりとした黒髪の少年が顔をのぞかせた。
「まだ動きはないですよ」
「目をはなすな」
「大丈夫、ベルンもいるから」
注意したヒルザスへ笑みを見せたが、少年は素早く戻っていく。
初老の男がふっと息を吐き、糸を結び切った針を針山に刺して、仕立て上がったジョーゼットの袖をかたわらの架け台へ丁寧にのせた。
「お茶でも如何です?」
「うん、ありがたい」
ヒルザスがうなずくと、男は右足を軽く引きずりながら、扉の向こうにある小さな厨房らしき空間へ姿を消した。かたかたと音がきこえていたが、やがて木の丸盆に陶のカップを三つのせて戻ってくる。ヒルザスとレイヴァートはそれぞれ礼を言ってカップを受け取った。
ぬるい水出しの茶は、かすかな花の香りで喉をうるおした。
王は、8年前にマキアへ店を持つ赦しを与え、この通りに娼館をひらくことを認めたが、同時に王はマキアの店から四間ほど離れた店へこの男を入れたのだった。昔、脚に怪我を負う以前は騎士だったという噂の男だが、レイヴァートはそれ以上この男の正体を知らない。わかっているのは、彼が8年間ずっと、静かにマキアの動向を見ていたことだけだった。
(陛下は、この日あるを予期しておられたのだろうか?)
ふっと胸が波立つ。22年前、前王は、マキアへの裁罪において「天秤」を示した。命と誇りを両皿に架けた天秤を。毒を含んで命を断つか、娼婦としてその身を娼家に下げ渡されるか、どちらかを選べとマキアにせまった。マキアは実にその時、18才だったと言う。
天秤は、罪を量るとともに、自らの心を量る天秤でもある。マキアがそこに何を量ったかはわからないが、彼女は身分も誇りも捨て、夜な夜な男たちに身を売る稼業へ身を落としたのだった。それから14年間、彼女は体をひさいで生きた。
その前王も今は亡く、現王は8年前、マキアが店をひらくことを認めると同時に、仕立屋の店から彼女の様子をうかがわせてきた。8年間、ずっと。
──何故?
レイヴァートの内側で問いがうごいた。王への不信はなかったが、王が何を思い、何を望んでマキアのそばへこの男を配したか、王がいったいその心に何を望んでいるのか、それを知りたいとは思う。
仕立屋の男は、カップを口元へかたむけて静かに茶を飲みながら、明かり取りの窓の下によりかかっていた。カップの取手に回した指は剣士のものというより仕立屋のしなやかな指で、彼はいつ剣を捨てたのか、レイヴァートにはわからなかった。
男の灰色の目がすっとレイヴァートを見つめ返す。レイヴァートがそのまなざしを受けると、仕立屋は丁寧な口調でたずねた。
「さしつかえなければ。ローゼ殿は、カデンシャでとらえられたと聞き申したが、何の罪状にて?」
「聖堂に、火を放ったそうだ」
ヒルザスが空のカップを手の中でくるりと回して、答えた。
男は何も言わずにうなずいて、小さな笑みをこぼした。ヒルザスがわずかに片目をすがめて、はかるように男を見やる。
「ローゼ殿のことを、ご存知か」
「昔、ごくわずかに」
そう男が答えた時、階段の上からさっきの少年が顔を見せた。見習いの剣士で、名をカルジックと言う。昨日からこうして数人交替で、この店の二階からマキアの店の動きを見張っている。
「マキアが出かけるよ!」
レイヴァートがうなずき、ヒルザスへあごをしゃくった。ヒルザスはうなずき、いきおいよく階段をおりたカルジックとともに店を出ていった。マキアを追うためだ。
出ていく寸前、レイヴァートへちらっと手をふった。
「後でな」
「ああ」
うなずき、レイヴァートはヒルザスを見送ると、二階へ続く狭い階段をのぼった。薄ぐらい部屋には粗末な寝台が一つ布に覆われ、つくりかけの服を架けた木の胴型が三つほど立てられている。カーテンが狭くあけられた窓際に、布の間から表を見張る少年の後ろ姿があった。さっきのカルジックより少し年長だが、それでも15才というところだろう。
斜めにふりむいて、レイヴァートへ小さく頭を下げた。口をぐっと結んだ、利発そうな顔におぼえがあった。クーホリアの守備隊アラギスの息子、ベルン。来年、16の年になったら王城に上がって城塞騎士の見習いとなる少年だ。
レイヴァートはうなずき返し、窓辺へ歩み寄って空いた椅子へ腰をおろした。木枠の窓からはマキアの店から道へ降りる階段が見える。街路をゆきかう人々の頭も見おろせた。
──灰色の‥‥
狭いカーテンの隙間からチラッとかいま見た人影に、レイヴァートは眉をしかめる。何かに首のうしろをふれられたような気がした。
ゆっくり立ち上がり、表から見えないよう壁に添って通りを見おろした。灰色のフードにすっぽり身を包んだ人影が、ゆるやかに遠ざかっていく。かたわらには日雇い人夫らしいよく陽に灼けた男がいた。何か親しげに話しかけている。
レイヴァートはじっと灰色のマントを見つめたが、自分をとらえる感触の正体はわからなかった。
二人の姿は視界から消えていく。見張りの少年がけげんそうにレイヴァートを見上げた。
小さく首を振って、レイヴァートは椅子へ戻る。腕組みして壁によりかかった。だが、まだ心のどこかにかすかな引きつれが残っていた。あれは同じ人影だろうか? さっき、大通りで見かけた人物と‥‥
クーホリアには、知人も多い。友もいる。そのうちの誰かだろうか。だが、誰だ?
(いったい‥‥)
考えこんだが、一向に思い当たるものはなく、時間だけが奇妙にゆっくりとすぎていった。
港の鐘が三つ鳴った。午後も半ばをすぎている。音の余韻が消えてからしばしの後、窓辺から見張っていたベルンがするどく囁いた。
「一人、出かけます、レイヴァート」
すばやく立ち上がり、レイヴァートはカーテンの影からマキアの店の階段を凝視する。女が一人、階段を早足に降りるのが見えた。肩から茶色のケープをはおり、青いヴェールを頭から垂らしていて顔はわからない。
「追うぞ」
短く言って、レイヴァートは一階へ降り、タイミングをはかって扉をあけた。道へ出ると、茶色いケープの後ろ姿が数歩先を歩いてゆくところだった。
うなずきを向けると、ベルンが早足に彼女を追っていく。レイヴァートは仕立屋の男へ頭を下げてから、距離を取って少年を追った。扉についた鈴が小さく鳴った。
昼下がりの陽光が狭い間口からななめにさしいってくる。淡く店をいろどる影の中で、初老の仕立屋は小さな息をついて、縫い終わった服を丁寧にたたんだ。
立ち上がり、イユキアは椅子の背から灰色のマントを取り上げて体にまとった。寝台に腰をおろした男が、その動きに顔を上げ、気だるそうに言った。
「‥‥もういいのか?」
「結構ですよ。ごくろうさま」
静かな声で言いおいて、イユキアはフードをかぶり、部屋を出た。きしむ階段をおりていくと、一階のざわめきが近づいてきた。
15人ほどが入れる酒場に、今は6人の客がいた。いや、7人。フードの下のイユキアのまなざしが奥のテーブルをかすめる。窓の光もとどかない壁際の柱の影で、焼けた銅色の髪を首の後ろでくくった男が、頬杖をななめに崩し、杯をなめるように飲んでいた。
残る6人の5人までが男、1人が女。肌もあらわな女は見るからに裏町の商売女で、椅子に座った男にまたがり、スカートは脚をまさぐる男の手で太腿までずりあげられていた。髪留めにくくられた黄色の組み紐は、娼婦のしるしだ。ここ、クーホリアでは娼婦は首より上に黄色い飾りをつけるようさだめられている。
イユキアはカウンターへ寄ると、銅貨を二枚のせた。カウンターの中に立つ酒場の親父が無言で受け取る。二階の部屋代は、上がる前に払っているが、これはいわば口止め用の余分な支払いだった。たとえ、余計なことに気付いたとしても、何も言うな、との。
男の一人が大声で下卑た冗談を言い、6人がどっと笑った。派手な仕種で身をよじらせた女の手が、テーブルから空杯を叩きおとす。それはいきおいよく跳ねて、奥に座る男の足元へころがった。男が自分の酒から顔もあげずに、足で蹴り返した。
木杯ははずんで、イユキアの足元へところがってくる。イユキアはマントの下で眉をひそめたが、身をかがめると酒に濡れた杯を拾い上げた。男たちのテーブルにそれを置く。
イユキアの顔を、男の一人がチラッと見上げた。目深にかぶったフードから、白い肌と細いあごがかいま見えている。ニヤッと笑って、彼は歩きすぎようとするイユキアの手をつかんだ。
「なんだ、お前、女か──」
「ちがいますよ」
イユキアはおだやかに、その手を払う。静かな声はたしかに女のものではない。だが男は気にもかけない様子で立ち上がり、イユキアの前へ回りこんだ。
「どっちでもいいや。ちょいと楽しく飲まねえか?」
のばした手でイユキアのマントを引く。イユキアがよけた動きと重なって、フードが顔から背中へ引きおろされた。灰色の布の下から銀の髪がこぼれおちる。ゆるやかな癖のついた細い髪は、数本に細く結い分けられて首の後ろでまとめあげられていた。ほつれた銀髪が耳元からかたむいたマントの首すじへ、かすかな光の筋をおとしていた。ほの暗いほどの酒場で、その髪は遠い灯りの色を含んでうっすらと輝いた。
暗い色の瞳をかすかに細めるようにして、イユキアは無言で男を見つめかえす。硬質にととのった、あやうい脆さの漂う貌を見おろし、男は口笛を吹いた。
「こりゃ、とんだ拾いもんだ。こんなところをウロついてちゃ危ない目にあうぜ?」
仲間が声を合わせてどっと笑い、下卑た言葉も含めてはやしたてたが、イユキアの表情は奇妙に気だるげなまま、ほとんど感情を見せていない。その体に男が身をよせようとする。
その時、階段の方から声がした。
「よしな。その人は、黒館の主だぜ」
その一言で、男たちの顔を緊張と──あからさまな恐怖がはしった。
イユキアはおだやかな仕種でマントを男の手から引き戻し、一歩下がった。階段口には、先刻までイユキアとともに上の部屋にいた男が立っている。男の両手首から肘近くにかけて、新しい包帯がまかれていた。
奥のテーブルで飲んでいた金髪の男が無言のまま顔を上げ、イユキアの白い顔をじっと見つめた。
五人の男たちは互いに目を見交わし、かすかに青ざめた顔でイユキアをちらちらとうかがっている。「黒館の主」についての様々な噂が頭の中をかけめぐっているのは明らかだった。
イユキアは無言のまま歩き出そうとする。だがその先へ、はじめに声をかけた男が立ちふさがった。緊張がはりつめた顔に余裕はなく、唇を幾度か舌でなめているが、イユキアを見据える両目にはギラリと暗い興奮がやどっていた。怯えの裏返しだ。
「へェ──。黒館の、ねェ‥‥こんなところに何をしにきたんだ? 噂じゃ、人を喰うんだって?」
「そんなことはしませんよ」
静謐な声と表情で、イユキアが返す。その周囲を男たちがぐるりと囲んだ。
「じゃ、何をするんだい? 折角だ、教えてもらおうか。俺たちも、あいつみたいに二階でじっくりとな──」
視線が動いて、両手に包帯を巻いた男を見やった。イユキアと二階にいた男は顔をしかめ、階段から動かない。どうしようか迷っているようだった。
それにはまなざしもくれず、イユキアは「教えてもらおうか」と言った男の顔をじっと見つめていたが、色の薄い唇にふっと微笑のような影がゆらいだ。温度のない表情。かこんだ男たちの背すじを冷たいものがはしった。何か危険なものがイユキアの周囲にたちのぼるのをはっきり感じ取りはしたが、今さら引くことができない。男の一人が暴力的な動作でイユキアの肩をつかんだ。
「どうせ噂だけだろ──」
はげしい緊張と興奮がどの男の顔にも渦巻き、肌かは饐えた汗の匂いがたちのぼる。はりつめた空気のまま、周囲をとりまく熱だけが一気に上がった。「黒館」の名への怯えと、それを押し隠そうとする裏腹の意地が彼らの強情を煽り、イユキアのとりすましたような冷たい表情がさらに油を注いだ。衝動は、自分たちでもとまどうほどの強さで彼らを呑みこもうとする。
何かがはじけかかった瞬間、宙を飛んだ杯が男のこめかみを直撃した。小気味のいい音がして、男はイユキアの肩から手をはなし、うずくまる。頭をおさえた。
全員がはっと奥のテーブルを見つめた。
銅色の髪の男が、するどい目で彼らをにらんでいた。右手をもう一度ふる。猛烈ないきおいで飛来したフォークが、顔面すれすれをかすめ、被害をうけた男が焦った悲鳴を洩らした。
「てめっ──」
男は無言のまま、今度は短剣を抜いてかまえた。ふりかぶる。
「待てッ、やめろッ!」
一瞬、かまえがゆるんだ。だが短剣はおろさず、猛禽のような眼で男たちを見つめている。彼らが動かないでいると、もう一度短剣の狙いをさだめた。
「やめろ!」
口々に声を上げながら、男たちは先を争って店から逃げ出した。取り残された娼婦は一瞬ためらったが、すぐに彼らを追う。包帯を巻いていた男も、あわてたような早足で階段の残りを駆けおり、店を出ていった。
扉がしまると、イユキアは床に落ちたフォークをゆっくりとした動作で拾い上げ、静かな表情を奥の男へ向けた。
「ありがとうございます」
「‥‥黒館の、か」
短剣をおろし、男はイユキアへどことなく獰猛な笑みを向ける。するどい険をはらんだ顔は、やせて頬骨の高さが目立った。褪せた色の髪は額の後ろへかきあげられ、あらわな額に一本ななめに残った古傷が白くはしっていた。
洗いざらした長袖を一枚着たきりで、幅広のゆったりしたズボンを腰のベルトでとめている。漁師のようないでたちだが、短剣を一動作で鞘へ叩きこむ仕種はすばやく、手慣れたものだった。
声はざらついて低い。
「あんた、ホントに黒館の主かい?」
イユキアは、拾ったフォークを手に男のテーブルへ歩み寄る。フォークを男の手元へ置き、うなずいた。
「ええ。今は」
「‥‥ふうん‥‥」
考えこむようにして、まるで独り言のようにつぶやいたが、男は不意に喉の奥で笑った。イユキアが引こうとした手首をつかむ。
「丁度いい。一人で退屈だったんだ、ちっとばかり酒の相手をしてくれねェか?」
「‥‥‥」
イユキアは、自分の手をつかむ男の手を見おろした。やせてはいるが強靱な筋肉がついた腕は擦り傷だらけで、手首の内側には赤黒いあざが浮いている。施癒師としてのイユキアの目でなくとも、その傷もあざも新しいものであるのは一目で明らかだった。
「いいですよ。治療をさせていただけるなら」
「金はねえぞ」
「助けていただきましたからね。お返しです」
イユキアが男の目を見つめると、男はニヤッと笑って手をはなし、椅子を足で押しやった。
ヒルザスは前をゆくマキアの後ろ姿を見ながら、油断なく人ごみを抜けた。夕刻前のにぎわいには足りないが、港近くの魚市場あたりを行き交う人々で広場には活気があった。
マキアは知り合いの顔を見つけたらしく、立ち止まって会話をかわしている。ヒルザスは建物の影から目を細めて女の様子を見やった。女はのんびりとして、互いに無駄口を叩いては笑いあっているように見えた。
やはり囮かな、と思う。レイヴァートとヒルザスがたずねていったからと言って、これほど露骨に動き出すほど単純な女ではない。見張りがついていることを承知の上で、街をうろつき回っているとしか思えなかった。
遠く、鐘が三つ鳴る。マキアは魚の積まれた木箱の横をのろのろと歩いていたが、チラッと空を見上げてから、市場の外へ歩き出した。バラバラに分解して積みあげられた荷車の横を抜け、海へ流れこむ河にわたした浮橋を渡って、左右に低い石垣のある道を抜ける。途中で海と逆方向へ折れ、石造りの家が並ぶ道を歩き出した。ヒルザスも、ゆったりとした何気ない足取りでそれを追った。
「‥‥‥」
ふ、と首すじが冷える。ヒルザスは周囲をうかがったが、己が感じたものの正体は知れなかった。わからないまま、かたわらの少年へあごをしゃくる。カルジックがすばやく呑みこんで、早足に彼の前へ出た。人通りの少ないこの道で、顔の知られたヒルザスがあまり近づくわけにはいかない。カルジックは軽い足取りでマキアと距離をつめ、ヒルザスは少年の後ろ姿を追った。
どっちにしても、マキアは彼らが追っていることに気がついているだろうが──と、ヒルザスはななめの笑みをうかべる──そこはそれ、「つきあい」というものだ。こっちも本気でつきあうべきだろう。
(‥‥レイの方は、うまくやるかな)
そう思いながら角を曲がった瞬間、刃物の鋭い音が耳にひびいて、ヒルザスはためらわず走り出した。右手が腰の剣柄にかかる。
目の前に、尻もちをついて道にしゃがみこんでいるマキアと、彼女へ襲いかかる男の姿があった。騎士のように見える。道に倒れたカルジックの体を一気にとびこえ、ヒルザスは剣を抜きざまマキアの前へとびこんだ。
ふりおろされた男の剣をはねかえす。斬撃に手が骨まで痺れた。角度が悪い。舌打ちし、ヒルザスはマキアの前へ両足を踏んばって剣をかまえ直した。相手をにらみつける。
「何が目当ての狼藉だ!」
「──」
男の顔は革の仮面で覆われていた。おしのびの人間がよく使うもので、この港町ではさして珍しくはない。ヒルザスに答えず一歩踏みこみ、一合、ヒルザスと剣を合わせた。強烈な打ちこみを、ヒルザスは粘りのある剣筋で流す。打ち返すより、マキアを守るための防御の剣だ。
だがたとえマキアがいなかったとして、まともにこの相手と打ち合う気は起こらなかっただろう。振り降ろされる剣には重い力がこもっており、真正面から叩き伏せるような力の剣だった。身に帯びやすいからか、相手の手にあるのが軽めの剣だったからまだいいが、本来ヒルザスはこういう相手が苦手だ。
(レイがいりゃあな──)
胸の内でぼやきつつも、踏みこむ相手に対しマキアを背にして、それ以上はさがれない。目のすみでカルジックが起き上がりかかるのを見て、ヒルザスは怒鳴った。少年が下手に動けば斬られる。
「立つな、寝てろ!」
相手の剣を流し、左手で腰の後ろから短剣を抜いた。彼の流儀は二刀流だ。本来なら短剣ではなく、軽めの直剣を用いるが、今日は目立たないように長剣一本しか帯剣していないので仕方ない。左手の短剣を一閃させると、相手は間合いの外へ飛びすさった。
ヒルザスは肩で息をして、相手をにらむ。仮面に覆われた表情は読めないが、大柄で、身なりのよい剣士だった。いや──よすぎる、とヒルザスは思う。鹿皮のブーツも裏を打った絹地のマントもそれを留める擦り銀の飾り留め針も、一介の剣士や騎士に手のとどく代物ではない。
(貴族か?)
疑問を持ちながら、数合さらに打ちあう。ヒルザスは段々と相手のリズムに慣れて、短剣で間合いを作りながら長剣で斬撃を流した。打ちかかりさえしなければ何とかなる。今しばらくは。
野次馬の声がした。膠着状態に陥りつつあるのを感じたか、男が剣を引くとくるりと身を翻し、背を向けて走り出した。追おうとした少年を、ヒルザスがするどい声でとめる。返り討ちにされるのがオチだ。
「よしとけ、カルジック。‥‥ケガしてないか?」
「大丈夫です」
少年はくやしそうにこたえた。体の左半分が埃にまみれて汚れている。地面に叩きつけられたのだろう。だが、彼がマキアへの最初の一撃を短剣でふせいだのは確かで、それがなければマキアは助からなかったにちがいない。ヒルザスは笑みを投げた。
「よくやった」
ぱっと少年の頬に赤みが散る。彼へうなずいて、ヒルザスはマキアへ向き直った。片手を差し出す。
「ケガは?」
「‥‥あのお人は‥‥」
マキアは呆然と、男が走り去った方向を見つめていたが、ヒルザスの手をつかんでよろよろと立ち上がった。傷は負っていない。ヒルザスは無遠慮に女の服の埃を払ってやりながら、
「あれは、あんたを狙ってたな。多分、店から追ってた。身分のいい男だ。心当たりがあるか?」
「‥‥‥」
マキアは青ざめた顔で地面を見つめて、こたえない。ヒルザスはカルジックへ向き直った。
「先に戻っててくれ。レイにツナギがとれたら、マキアが襲われたことを伝えろ。そっちも用心しろってな」
「はい」
元気よく答え、少年は軽い身のこなしで走り出した。ヒルザスは口元に笑みをたたえてそれを見送る。マキアへ戻した目は、やさしかった。
「すまんな。わかってただろうが、こっちもあんたをずっと追ってた。なあ、さっきのあいつ、ロゼナギースに関わりのある者か? それとも、こんな街なかで剣を抜かなきゃならんほど、あんたがあこぎな商売をしたのか?」
「‥‥‥」
「あいつは、あんたに何も言わなかった。ただ殺そうとしただけだ。ロゼナギースが国に戻ってきたことを聞いて、あんたの口をふさぐ必要が出たのかもしれんな」
そう言いながらマキアの表情をうかがったが、青ざめた女の顔からその心を読みとるのは難しかった。ヒルザスは抑えた声でつづけた。
「六年前にロゼナギースが王城から消えた時、王城の人間が手引きしたのではないかと言う疑いもあった。それが誰か、あんたは知ってるんじゃないのか?」
「‥‥あたしは──」
何か言おうとして、マキアは口ごもった。店での悠然とした態度が消え、肩を落とした姿はやけに小さい。いや、もともと小柄な女だ。店では気を張って、まなざしや仕種で大きく見せているだけで。
その顔を見ていたが、ヒルザスは左手をさしだした。けげんな表情をしたマキアの、ふっくらと肉のついた右手を取って、歩きはじめる。
「すまねぇが、ちょっとつきあってくれないか」
「‥‥‥」
引かれるままに、マキアは歩き出した。ヒルザスは元来た道を戻り、海の手前で方向を転じると高台へとのぼる道をえらぶ。あたりに人影はまばらだが、時おりすれちがう人々は、小太りの娼婦の手を引いて歩く剣士の姿を好奇の目で見送った。マキアは何度か手を離そうとしたが、ヒルザスは意に介した様子もなく歩き続け、最後の坂を上りきると、目の前には海が見える庭園がひらけていた。
膝ほどの高さの柵でかこまれた、小さな庭苑。芝生は丈が低く刈り込まれ、まるで色の粒を散らすように、ちぢれた花弁の黄色い花が散り乱れていた。数人の子供と母親がカエデの木の下を花壇ぞいにゆっくりと散歩している。その向こうに、傾きだした陽光にかがやく鏡のような海が見えた。
苑への入口に、蔦のからんだアーチ状の門が立っている。そこへ近づくと、マキアがかたい声を出した。
「私は‥‥入れませんよ」
「ああ」
ヒルザスはうなずいた。娼婦は、庭苑へ足を踏み入れることを禁じられている。一人で芝居を見に行くことも、黄色い飾りを外すことも、白い服をまとうことも、髪を結わずに垂らすことも。
柵の表へ立ち、ヒルザスはやっとマキアの手を離すと、彼女へ向き直った。
「そうさな。たぶん、22、3年前のことなんだろうな。あの事件は22年前のことだし、俺は26才だから」
「‥‥?」
「ここで、あんたとローゼ殿を見たことがある」
陽に照らされて白っぽいマキアの顔に、うつろな表情がうごいた。ヒルザスはかすかに首をかたむけて、やさしい口調でつづける。
「ローゼ殿は6つか7つ。あんたは17、8ってとこだったろう。あなたは白いドレスを着て、日傘をさして、ローゼ殿に花の名前を教えながら歩いていた。俺も親と一緒でね。母親があんたたちを指して教えてくれた。“あの方々は、王太子殿下の弟君と、その乳母の方よ”──とね」
「‥‥‥」
子供たちが木の周囲をぐるぐると回りながら、小さな歓声をあげて互いを追いはじめた。中の一人が根へつまずいてばたりと倒れ、あわてて駆け寄った母親がそれを抱き起こす。ヒルザスはその様子へちらっと目を投げた。
「あの時、あんなふうにローゼ殿も転んだ。石か何かで結構手ひどく膝をすりむいたようで、俺の母があわてて寄ったが、あなたはそれを断った。ローゼ殿のそばへしゃがみこんで、自分で立つよう、ずっと励ましていた。ローゼ殿が膝から血を流して立ち上がると、抱きしめてやっていた」
「‥‥‥」
ゆっくりとマキアの顔が上がり、彼女は唇を結んだままヒルザスを見やった。ヒルザスが微笑する。
「帰る途中で、母親に言われたよ。あなたは本当にローゼ殿を愛しているのだと。だから、ああして、強くあれと育てているのだとね。甘やかすことの方がずっと簡単なのだと言ってたが、こいつはつまみ食いをした俺の尻を蹴とばすための方便だったのかもしれんな」
「‥‥お母上は、今‥‥?」
「幸い、健在だ。海から離れて、ファルキアの荘園に暮らしているがね」
「それはようございました」
丁寧な口調で言うと、マキアはやわらかなまなざしを子供らへおくり、ゆっくりと踵を返して道を戻りはじめた。かたわらを歩くヒルザスへ、
「覚えておりますよ、その折りのことは。‥‥母上様より、ハンカチをお貸しいただきました。お返しせねばと思っておりましたが、その一月ほど後に、あの事件がおこりましてね。不義理をいたしまして、申し訳なく思っております」
「んなことはいいんだがな、マキア。あんたとローゼ殿の間には、はたから見ててもうらやましい絆があったと思う。それは、年月で消えるようなもんじゃない」
「‥‥‥」
「あの事件で、ローゼ殿の母上もその係累も亡くなられた。‥‥残ったのは、あんただけだ。あの方にとって“家族”と呼べる者は唯一人、あんたしかいない、マキア。そうだろ?」
マキアの足がとまった。ヒルザスは一歩前へ回りこみ、うつむいた女の顔をのぞきこむ。ヒルザスの黒い瞳は真剣な光をたたえていた。
「あのな。マキア。陛下は口に出してはおっしゃらんが、ローゼ殿の身を案じておられるのは本当だ。何があるのか俺にはわからん。だが、さっきあんたを襲ったヤツは、物盗りでも通りすがりでもない。あんたを殺す気だった。‥‥六年前、ローゼ殿を逃がす手引きをしたのはあいつなんじゃないのか? あんたは、あれが誰だか知ってるんじゃないのか?」
「‥‥‥」
うっすらと、マキアの眸に光るものがあった。うつむく。
「‥‥六年前、あの方が乗る船の手配をしたのは、私でございます」
「ああ、陛下はご存知だ。あんたが船長にいくら払ったのかもな」
ヒルザスは肩をすくめて、相手の驚愕を流した。いつそれを知ったのか、王は言わなかったが。知っていて、とがめもせずに心の内ですべて握りつぶしたのだ。もしかしたら、六年前に王城を裏切ったのが誰なのか、王は知っているのではないかとヒルザスは疑っていた。
──罠を、仕掛けているのではないかと。
「あれは誰なんだ、マキア?」
マキアは何か言いかかったが、唇を噛んだ。低い声できっぱりと、
「私の一存では、口が裂けても申し上げられません」
「そうか、そいじゃ仕方ねェな」
固く青ざめたマキアの顔を見て、ヒルザスはあっさり引き下がった。女を問いつめるのは彼の趣味ではない。
「ローゼ殿の居場所に心当たりは?」
「‥‥ガルコの通りに、カササギと言う名の酒場がございます。六年前、そこへあのお方をかくまいました。‥‥あの方が街に戻ってこられたのであればそこへおいでになるかと思い、今、シャルースに金を持たせて向かわせております」
ヒルザスはうなずいた。長年、王城へ幽閉されていたロゼナギースは、このクーホリアの街のことをほとんど知らないはずだ。六年前の記憶をたぐって、その店をたよる確率は高い。
「そうか、そっちはレイがどうにかしてくれる。とにかく店に戻ろう」
歩き出そうとした彼の袖をマキアの手がつかんだ。ふりかえると、女はすがるような必死の眸でヒルザスを見つめ、かすれ声で祈るように言った。
「あの方を、助けて下さい──」
ヒルザスはマキアを見つめ返し、真顔でうなずく。
「大丈夫だ。そのために、陛下は俺たちをつかわしたんだからな」
嘘だった。王が何を考えているのか、半分血のつながった罪人であるロゼナギースをどうするつもりなのか、ヒルザスはまったく知らない。だが、今はそう言うことしかできなかった。
マキアがおずおずと、小さな微笑をうかべる。何か悪いことをしたような気がしたが、痛みを隠して、ヒルザスも笑みを返した。
男はジャクィンと名乗ったが、イユキアは名乗らなかった。黒館の主の名を聞きたがる者はそうはいない。このアシュトス=キナースの国において、黒館は100年以上にわたる畏怖と恐怖の対象である。およそ二年前に黒館の主となったばかりのイユキアではあったが、人々にとっては「黒館の主」の名を継ぐ者であるという一事がすべてのようだった。黒館の主、それ以外の名はないと言わんばかりに。
イユキアは他人に名乗らないことに慣れていたし、ジャクィンもたずねなかった。
白い指で錫の杯の脚をつまみ、イユキアは水でうすめたワインを一口飲む。その様子をジャクィンが眺め、低く笑った。
イユキアがちらっと瞳を向けると、
「黒館の主は人の食うものは食わんという噂があったがな。‥‥酒は飲むらしいな」
「食事もとりますよ」
イユキアは静かな声で返した。ジャクィンが頬杖をつく。その手首には、イユキアが傷薬の軟膏で簡単な手当てを施してあった。
「あんた、いつ黒館の主になった? 前の主はどうした?」
「私が黒館に来てから、二年近くになります。前の主は亡くなられていますが、ほとんど存じ上げません。──あなたは、ご存知で?」
「まあ、存じよりと言えねぇこともなかろうが。あの頃は言われてたもんさ。黒館の主は、人ではない──とな」
囁くような低い声。ジャクィンの顔は笑みをうかべていたが、声も、灰色がかった青の目も、笑ってなどいなかった。殺気のようなとがったものを含んだ視線が、イユキアの肌をひりひりと這う。首すじにじかに刃があてられたようだったが、イユキアはおだやかな表情を変えず、小さくまばたきして、答えた。
「そういう噂は、今もあると思いますよ」
「あんた、人かい?」
「どうでしょう」
冗談を言う風でもなく、イユキアは首をかしげた。金色にかがやく「獣の目」を持って生まれた自分が「人」なのか、もし人でないなら「何」なのか、その疑問はイユキアのうちにも根を張っている。そして今、この土地に仕掛けられた古い魔呪の焦点である「黒館」の主となって、ますます境界があいまいになってゆくのを感じていたが、正直、今や己の存在にほとんど興味は失っていた。
ジャクィンの、猛禽類のような眸がするどくイユキアを見据える。
「自分がわからないのか」
「‥‥ええ」
「そうか」
ふっと男のまなざしがゆらいで、彼は手の中の杯をのぞきこんだ。つぶやくように、
「あんたも、自分が何者か知らないのか──」
「‥‥‥」
イユキアは睫毛を上げ、暗い色の瞳でジャクィンを見たが、何も言わなかった。ジャクィンは柱の影に身をもたせかけ、動かない。やがて、つぶやいた。
「帰るところはあるのか?」
「いいえ」
イユキアは首を振る。故郷と呼べるものは、すべて捨てていた。帰れもしないし帰りたいと思ったこともない。あの地には悪夢だけが残る。ふいに遠く、ぼんやりとした痛みが胸を刺し、その記憶を払うように彼はジャクィンへたずねた。
「あなたには?」
「俺は、この国の生まれさ‥‥帰ってきたところだよ。六年ぶりに」
くくっと喉の奥で笑うような声を洩らし、ジャクィンは歌のようなものをつぶやいた。
「帰るべき地のある者は幸いだ。心の内にふるさとを持つ者は‥‥」
歌はすぐに途切れ、彼は酒杯を一気にあおる。口のはじからこぼれた酒を手の甲で拭いている時、頭を青いヴェールにつつみ、茶色いケープをまとった娘が店へ入ってきた。娼婦のようだ。カウンターへ歩み寄り、店主と言葉を交わしていたが、ケープの内側から革袋と何かをとりだして置くと娘は早足で店を出ていった。二人にちらっと目を向けたようだったが、ヴェールをかぶっているのでよくわからない。ジャクィンは杯へ顔を向けたまま、するどい目のはじで娘と店主の一挙一動をうかがっていた。
店主は、渡された袋を手にカウンターの中から出ると、ついでのようにワインの瓶を一本ぶらさげて、ジャクィンのテーブルへ歩みよる。それらをどすんとテーブルへ置き、低く言った。
「マキアからだ」
「‥‥待ち人が来るより早く、話が回っちまったか。すまんな、もう行く」
杯を置き、小さく息をついてジャクィンはテーブルへ手をのばす。明らかに硬貨がつまった革袋が一つと、古びた銀の鞘におさまった短剣。袋をベルトに吊り、短剣を腰の後ろへぐいとおさめた時、また一人、剣士姿の男が店内へ歩み入ってきた。
茶色いケープの娘が、店から出てきた。見るからにほっとした様子で道の左右をみやり、元来た方角へ歩いて行く。
隣りの店の影から、レイヴァートが少年の肩を押した。
「店へ戻ったら、この場所をヒルザスへつたえろ。それ以外の場合も、ヒルザスへつなぎを取れ」
ベルンは無言でうなずいて、茶色いケープの後ろ姿を追っていく。細い路地の向こうへ消えていく人影を見送って、レイヴァートは小さな酒場を見やった。間口は狭く、かたむいた扉がかすかに開いているが、中の様子は見てとれない。扉の上にうちつけられた薄汚れた看板に、カササギの絵が消えかかっていた。
少しの間だけ考えていたが、レイヴァートは小さな息をつき、扉を押しあけて暗い店内へ足を踏み入れた。
入ってきたレイヴァートの姿を見て、イユキアの唇がかすかに開いた。まさかここで、レイヴァートの姿を見るなどと思いもしなかった。
何かを言おうとして──自分でも何を言おうとしたのかわからないまま、呆然と口をとざす。もともと華美な装いはしないが、今日のレイヴァートはいつもに輪をかけて質素な装いだった。厚地のシャツに平織りの茶色いマントをまとっている。
レイヴァートはまだこちらを見ていない。
彼がどうしてこんな裏町にいるのか。そして、どうしてこの店に。混乱して、その場から逃げ出したい衝動にかられた時、店内をぐるりと見たレイヴァートと目があった。
「‥‥‥」
カチッと歯車が噛むように視線があわさって、動けなくなる。レイヴァートの表情はほとんど変わらなかったが、少し目を細めてイユキアを見つめ、彼はふしぎそうに呟いた。
「イユキア?」
「‥‥‥」
名を呼ばれて、全身が大きく脈を打った気がした。どうしようもない。表情をうごかさないのがやっとだった。イユキアは酒杯を手にしたまま、物も言えずにレイヴァートを凝視している。
ふっとレイヴァートの口元に笑みが浮いた。イユキアが肩からまとった灰色のマントに、思い当たるものがあったのだ。
「成程」
小さく、うなずいた。今日、二度に渡って見たのが誰だか、やっとわかった。よもや黒館のイユキアを港町クーホリアで見かけるとは考えもしなかったので、思いいたらなかったのだ。黒館は、この港から半日の先にある王城から、さらに西の丘陵にある。そしてイユキアは滅多に人のいる場所へ姿をあらわさない。
イユキアはまだ、何を言ったらいいのかわからない。こんな場所で、こんな日に、レイヴァートに会いたくはなかった。いたたまれなさが体の内を駆け巡り、全身から血が引いていくような気がする。
レイヴァートはイユキアの隣りのジャクィンへ目をうつし、落ちついた仕種で頭を下げた。
「お久しぶりです。──よく、お戻りになられました、ロゼナギース殿」
「レイヴァートか」
男は笑みをうかべてレイヴァートを見やっていたが、イユキアの手から杯を取ると、半ばまでを飲み干した。
「そんなこと、本気で言うのはてめェくらいだろうな‥‥」
「陛下もお待ちです。私と一緒に王城へ戻ってはいただけませんか」
「あいつに言われて来たのか?」
ジャクィン──ロゼナギースの言う「あいつ」が王のことだとわかったが、レイヴァートは表情一つ変えず、ゆっくりとテーブルへ歩み寄った。イユキアはレイヴァートの視線をさけるように、テーブルの上でからめた指を見つめている。いまだ、一言も発していない。ちらっとそれを見たが、レイヴァートは落ちついた顔をロゼナギースへ向けた。騎士として王城から命を授かっているからには、まず王命を果たさねばならない。
「そうです。どうか、お願いできませんか」
「‥‥待ち人を、してるんだがな。嫌だと言ったら? その剣を抜くか?」
「場合によっては、お相手いたします」
いともおだやかに、レイヴァートはうなずいた。瞬間、ロゼナギースが空の杯を宙へ放り投げる。その動きにまぎれて左手が短剣を抜き放ち、レイヴァートめがけて放った。
身じろぎもしないレイヴァートの顔すれすれを短剣がかすめ、カウンターの柱へ突き立った。落下した杯が床を叩き、カランと音が跳ねる。
ロゼナギースは苦笑を浮かべた。レイヴァートの目は、放り上げた杯も落下した音にも惑わされず、ロゼナギースをひたと凝視しつづけていたのだ。
「腕を上げたか?」
「六年前よりは」
「そうかァ‥‥ま、一杯やらんか? 見知った者同士みてェだしな」
イユキアとレイヴァートの顔を見やってから、ロゼナギースはカウンター内の店主へ片手をあげた。むっつりとしたまま、店主が棚から杯をとりだす。レイヴァートがカウンターへ歩み寄り、柱に刺さった短剣を左手で引き抜きながら右手で酒杯を受け取った。それから短く言葉を交わし、店主は外へ出ていくと、看板を下げて扉をしめた。無言のまま、店の裏口へ姿を消す。
ロゼナギースがレイヴァートへ声をかけた。
「あいつは、マキアの友達なだけで、俺のことは何も知らねえんだ。キツいこと言ってやるなよ」
「承知」
うなずいて、レイヴァートはテーブルへ歩み寄ると、短剣の柄をロゼナギースへさし出した。それをつかんで、ロゼナギースが短剣を鞘に戻す。それから三つ杯をならべ、ワインを注いで、それぞれイユキアとレイヴァートの方へ押しやった。
テーブルをはさんで向いに引き寄せた丸椅子へ腰をおろし、レイヴァートは杯を手に取る。イユキアも黙ったまま杯を手にした。彼は一連のやりとりの間に落ちつきを取り戻したようで、いつもの静かな表情で酒杯を見つめていた。
かるく杯をかかげて見せてから、ロゼナギースはぐいと酒杯をかたむける。
「あいつ、元気にしてるか?」
「ご健勝です。この春、翡翠の扉をひらかれました」
「おお、やるなぁ」
王城内にあるいくつかの「扉」は、王たる者をためすためにあり、王以外の者はふれることもできない。扉に古い魔呪が織りこまれていて、力の足る王だけがそれを解くことができると云う。前王は、ついに翡翠の扉を開くことができぬままに死んだ。
現王はまだ若い。100年ぶりに、次の紅晶の扉を開くのではないかと囁かれていた。
その話を聞いて、ロゼナギースはニコッと子供のような笑みを浮かべた。心底、うれしそうな顔をする。
レイヴァートがおだやかにたずねた。
「どなたかをお待ちだそうですが、護送船から逃亡したのはその待ち人に会うためですか? どなたです」
「船からは、逃げたんじゃない。落っことされたんだ。俺を殺そうとしたんだろうな」
レイヴァートは眉をよせた。
「相手を見ましたか?」
「‥‥‥」
ロゼナギースが溜息をついて、杯を置く。
「お前は、どうしてそうなんだ。俺が嘘を言ってたらどうする?」
「嘘ですか?」
「いや‥‥」
あきれたような困ったような顔をして、ロゼナギースは首を振った。うつむいたままのイユキアがかすかに笑う。ロゼナギースはそれをチラッと見て、
「黒館のと、知り合いか?」
レイヴァートはうなずいた。
「ええ。妹の治療をしてもらっています」
「ああ、今は黒館で治癒の技も売るらしいな。まったく、変わったもんだ──」
イユキアは端麗な顔を伏せたまま、どちらとも目を合わせようとしていなかったが、その時ふいに扉を向いた。酒杯からはなれた右手が灰色のマントの下へすべりこむ。
勢いよく開いた扉から、ヒルザスが、くくった黒髪とマントをなびかせるように大股で入ってきた。
「レイ!」
「騒々しいぞ」
レイヴァートは眉をひそめて友人を見る。ヒルザスは何か言い返しかけたが、ロゼナギースを見つけてはっと目を見はり、即座に口調をあらためた。
「失礼ですが──ロゼナギース殿で?」
「ああ」
ロゼナギースが笑みをうかべてヒルザスを見上げる。ヒルザスはつられて人なつっこい笑みを返すと、姿勢を正した。一礼する。
「失礼しました。王城騎士団のヒルザスと申します」
「お前も一杯飲むか?」
ロゼナギースが酒杯をかかげ、酒に目のないヒルザスはうれしそうにそれを取りに行こうとしたが、レイヴァートが左手をのばして友をとめた。イユキアへ視線をはしらせる。イユキアはまだ右手をマントの中に入れて、何かをつかんだまま、奇妙に緊張した目を扉へ向けていた。
「どうした?」
それは、半ばイユキアへ向けた問いだったが、ヒルザスが思い出したような顔をしてレイヴァートを見た。
「そうだ。マキアが襲われたぞ」
「誰に」
「腕の立つ、身なりのいい騎士だ。マキアは店に戻した」
口元に酒杯をはこんでいたロゼナギースの目が、ヒルザスの言葉を聞いてギラリと光った。レイヴァートがロゼナギースへ向き直ろうとした時、イユキアがなめらかな身のこなしで立ち上がる。
低く呼んだ。
「レイヴァート──」
顔を合わせてからはじめて聞く、イユキアの声。この間この声が彼の名を呼んだのは、いつだっただろう。レイヴァートは一瞬息をつめ、まなざしを合わせた。
「どうした」
イユキアははりつめた眸をレイヴァートへ向け、呟くように言った。
「何か、来ます」
静かな声に含まれた緊張を、レイヴァートだけが聞きとった。かるく右肩と左膝をおとして剣を抜ける体勢をとり、レイヴァートは扉へ目を向ける。その時、とじた扉の前に何かがいるのに気がついた。
全身が闇色の犬だ。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
扉はヒルザスがしめた時のまま、それから開いていないはずだった。その前から犬が店内にいたかどうか、レイヴァートはその可能性を考えたが、犬の目を見た瞬間にその考えは吹きとんだ。
赤い、熱した鉄のように内から光る目。見るものの心を射貫き、内側へ入りこんでねじふせようとするような〈力〉をもった瞳。
これと同じ力を秘めた瞳を、レイヴァートは知っている。
イユキアの目だ。いつもは色をつけて覆っているが、その下にある瞳は金にかがやく。「獣の目」と呼ばれる、力ある目──
だが、この犬の目にあるのははるかに異様な力であった。灼けるような飢えと憎しみが、ギラついた剥き出しの光を放っている。人を支配し、従わせ、ひれふさせて魂までも喰い尽くそうというような、暗くたぎる力。
レイヴァートの全身が強くふるえた。体がしびれてまったく反応しない。視界のすべてが赤い目のかがやきへ吸いこまれてゆくかのようだ。歯をくいしばったが、剣柄にかけた指一本動かなかった。
逆らうのは無駄だと一瞬で悟り、レイヴァートは意識をとざす。自分の内側へ集中し、体の内を流れていく血の熱さを思い浮かべた。その熱が、体の中心を通り、指先まで流れこんでいく流れを克明に脳裏へ描きだす。熱は体をめぐり、もう一度体の中心へもどってくる。その輪がぐるりととじた瞬間、全身にあたたかいものが流れて、いましめがはじけたように麻痺がとけた。
それは、ほんの一瞬のことだったにちがいない。レイヴァートの手が剣を引き抜いた時、犬はまだほとんど同じ場所にいた。レイヴァートは刃を振り上げながら床を蹴り、一気に距離をつめて剣を振りおろす。
するどく空気を裂いた一閃に、手ごたえはなかった。
黒い霧のようなものがひろがって視界を覆う。霧は左右にわかれてレイヴァートの剣を避け、彼の横を通り抜けた。ふれた肌からゾッとする冷気がレイヴァートの体に流れこんだが、体にみなぎらせた闘気がそれを溶かした。レイヴァートは剣を手に身を一転させる。もやは彼の背後で一つになり、ぼんやりした犬の形を引きずるように、宙へ跳んでいた。イユキアめがけて。
黒館の主は目を細め、右手をマントの内へ入れたまま優美に立っていた。怯えもたじろぎもその姿にはない。影を見据えた瞳の奥に、金色の光がきらめいた。右手が動こうとした瞬間、
──鋭い音が耳を裂いて鳴った。
黒い影は、見えない何かにはじかれ、もんどり打って床へ落ちる。その胴をふりおろされた二つの剣が断ち割った。レイヴァートとヒルザスの剣が同時に黒い影を切り裂いていた。
水を切ったような奇妙な感覚があった。犬の形をしたものは、音のない声をほとばしらせて身をよじり、剣を抜けて跳ぶ。着地するや、床をすべるように這って、扉の向こうへ吸いこまれるように消えた。
ヒルザスが剣を片手に扉へ走りより、表を見やる。通りの左右を見てからレイヴァートを振り向き、首を振った。レイヴァートは剣をおさめ、イユキアとロゼナギースへ体を向けた。動きがとまる。
イユキアの喉に刃がつきつけられていた。ロゼナギースがイユキアの体に腕を回し、短剣を白い喉に押しあてて立っていた。
(生きて──)
何もかもが、一瞬に崩れる。
館の扉が砕かれていく音がする。振り降ろされる鉄槌の音が、雷鳴のように館を揺らしている。怒号がきこえる。すべてが揺れている。
悲鳴をあげ、わけもわからず恐怖に身をすくませる。恐慌にとらえられながら、涙だけはこらえたが、声は上ずった。叫ばないのがやっとだ。
「マキア、マキア──」
廊下から、マキアが息をはずませて駆けこんできた。ドン、と鳴る。棚に立ててあった小さな額が倒れた。
マキアはいつもの足首までの白いドレス姿だったが、結い上げた髪が乱れてひとすじ口元へ落ちていた。壁際にちぢこまっている彼の前へ走り寄り、膝をついて目の高さを合わせる。雷鳴のように何かが裂ける音がひびき、怒声がいっそう大きさを増した。
「このマキアの申すことを、しっかりお聞き下さいませ。──母上様が、陛下へ毒を盛った罪で、反逆者としてとらえられました」
低く、強い声で早口に言う。彼はマキアを茫然と見つめた。マキアの目は見たこともないほどきびしく、顔は青ざめていたが、頬は汗ばんで、そこだけにひとすじの紅潮が浮き上がっていた。
「一族の方々へも死罪の咎が及んでいるとのこと。あなた様も、これより裁罪の場にてその罪を問われます」
「‥‥‥」
王への反逆は、反逆者の血につらなる者たちへの冷徹な報復をもってあがなわれる。そのことを知ってはいたが、いきなり我が身にふりかかったことを理解できず、声もない彼の体を、マキアが強くゆすった。
「あなたはまだお小さい。おそらく、慈悲による天秤が下されるでしょう。お聞き下さい。私の一生のお願いを申し上げます」
彼はマキアを見つめた。マキアも彼を見つめていた。
「生きて下さい。つらくとも、苦しくとも、生きる道をえらんでください。マキアもまた、かなう限り、あなた様とともに生きて参ります。あなた様をお一人には致しません」
「マキア──」
それまでとは桁違いに大きな音が鳴り響いた。あっというまに館の中へ武器を持った衛士がなだれこみ、彼らを取り囲んでマキアを彼から引きずりはなす。逆らおうとしたマキアは頬を殴り倒されて床へ落ちた。その腕を男たちがつかみ、彼女を引きずるように部屋の外へつれていく。追おうとする彼の腕を誰かがつかんで、痛むほど上へ引き上げる。叫び声だけは出すまいと、なけなしの誇りをふりしぼって歯を噛んだ彼の耳に、どよめくような狂騒をこえてマキアの細い声がとどいた。それは悲鳴のようだった。
「生きて──」
肩が外れるかと思うほど強く引かれる。苦鳴を喉からふりしぼって、全力でもがき、自分をつかむ相手を蹴りながらマキアの名を呼んだ。次の瞬間、額にひどい衝撃がはしる。苦痛はたちまち遠ざかって、吸いこまれるように意識を失っていた。
イユキアへ短剣をつきつけたロゼナギースを見つめ、レイヴァートが静かにたずねた。
「ローゼ殿?」
「すまねぇが、下がってくれないか。二人とも、二階へのぼってくれ。悪いな。剣を持った手を動かすなよ」
「あなたは──!」
憤然と出かかったヒルザスの腕をレイヴァートがつかんだ。口調を変えず、ロゼナギースへ問いかける。
「マキアを襲ったのは誰です?」
「‥‥二階へ行きな」
あごをしゃくって、ロゼナギースはイユキアの喉へ刃をかたむけた。白い刃がギラリと光る。レイヴァートはイユキアを見つめた。イユキアは怯えた様子も驚いた様子もなく、少しぼんやりとしたような顔で黒い影の消えた扉の方を眺めていたが、口元にはかすかに微笑のようなものがあった。
レイヴァートの視線に気がついたのか、ふっと目を動かして、まばたきする。視線は微妙に合わなかった。
ロゼナギースが無言で階段へ目をやる。レイヴァートはうなずいて、ヒルザスとともに二階への狭い階段をのぼった。ロゼナギースはイユキアをつれたまま、用心深く剣の間合いをはずしてつづいた。
二人は、二階にある狭い客室へ押しこめられる。廊下にころがっていた木箱を扉の前へ引きずってくると、ロゼナギースはそれで扉をふさいだ。イユキアの腕をつかんで一階へ降りる。
「すまねぇが、少しいっしょに来てくれないか。あいつらを出されても困るんでな」
「私はかまいませんが」
店の表へ出る前にイユキアは灰色のフードを頭に引き上げ、顔をかくした。銀色の髪はひどく目立つ。
「さっきの犬は、私を狙ってきたものですよ。いっしょにいると、あなたを巻きこんでしまうかもしれません」
「あれを追い払ったのは俺だぜ」
大股で路地を抜けながら、ロゼナギースは笑みをうかべてみせた。
事実、犬がイユキアへ襲いかかった瞬間、鳴り響いたのはロゼナギースの指笛だ。甲高く鳴らした「音」にひそむ力があの奇怪な影を払いとばしたのを、無論イユキアも気付いていたが、フードの中から返された言葉は素気なかった。
「驚いただけです。二度目は、通じませんよ」
「そんなもんかね。──あれ、何だ?」
「使い魔でしょう」
「誰かに狙われる覚えがあるのか、イユキア?」
一瞬、イユキアの足がとまりかかった。ロゼナギースがけげんそうに、
「どうした? レイヴァートがそう呼んでたろ。‥‥お前の名前だろ?」
「ええ‥‥」
イユキアは小さくうなずいた。イユキアの名を呼ぶものは少ない。ほとんどの人間が「黒館の主」や「黒の施癒師」などと呼ぶ中で、イユキアの名を正面きって呼ぶのはレイヴァートと森の民のセグリタくらいのものだ。
「誰に狙われてるんだ?」
「さあ。黒館に含むもののある者でしょう。──あなたも」
「俺?」
「黒館の主を、憎んでいる」
夕暮れがかすかに漂い出す道は、仕事を片づけた人夫や今夜の宿を探す水夫でにぎわっている。人をよけて側溝ぞいを歩きながら、ロゼナギースが横目でイユキアを見て、ニッと口元で笑った。
「まァな。会ったら殺してやろうと、ずっと思っていた。‥‥わかってるなら、どうしてついてきた、イユキア」
「殺しますか」
興味もなさそうに、イユキアはつぶやいた。ロゼナギースは答えない。少しの間、二人はだまって歩いていたが、イユキアがぽつりと言った。
「追われていますよ」
「俺が? お前が?」
「あなたでしょう。人間だから。酒場からついてきているようです」
「へェ‥‥」
ロゼナギースの声はのんびりしたものだったが、声の裏に揺れる怒りと苦痛を、イユキアは聞き取った。静かにたずねる。
「待ち人ではないんですか?」
「多分、そうだ。俺を殺そうとしてるのさ。なあ、大橋は見張りに押さえられてて渡れねえんだ。近くに人が来ないとこ、ないか? 海も見えるといいんだがな」
イユキアは無言のままうなずいて、右手をフードの中へ入れ、額におちる銀髪をかきあげた。細い一本を指先へからめて引き抜く。それを口元に寄せてふっと息を吹きかけ、宙へとばした。
銀のすじを風が巻き上げてゆく。
もはやそれには見向きもせず、足取りを早めたイユキアは、ロゼナギースの先に立って歩き出した。
扉を押しあけようとヒルザスが苦戦している。だが、扉はガタガタと鳴るだけでわずかしか開かない。ロゼナギースが廊下に置いた木箱でしっかりとふさがれている。
ヒルザスが背後へどなった。
「お前も手伝え、レイ──」
「ヒルザス」
レイヴァートは窓際に寄って、壁にうがたれた細い窓から道を見下ろしている。レイヴァートの目の高さほどにある縦長の窓は、逃げ出すどころか手を出すのにも不自由な小ささだ。
そんなところでレイヴァートは一体何をしているのかと、ヒルザスはうんざりした顔を向けたが、レイヴァートが手招きすると渋々歩みよった。
「何だ。助けでも呼ぶか、たすけてぇとか言って。いい笑いもんだぞ」
「見ろ」
言われて、狭い切れ目から下の道を見おろす。一階のひさしの上へのりだすように二階部分が張りだしているので、目の下はすぐ街路だ。細い道を遠ざかるイユキアとロゼナギースを見送って、ヒルザスは舌打ちした。
「なあ、アレ、黒館の主じゃねえのか? お前、妹の病を診てもらってるだろ」
「ああ」
レイヴァートとイユキアの関りはそれだけではないが、ヒルザスに知らせてやるたぐいのことでもない。
「なんで黒館のお人がこんなとこにいたんだ? ローゼ殿の知り合いか?」
「こっちを見ろ」
一言で問いをまとめて切り捨て、レイヴァートは路地をさした。イユキアとロゼナギースの姿はもうないが、それを追うように、店の影から姿をあらわした男がいた。
大柄な体に茶色いフードをまとっているが、歩くたびその下から青いマントがのぞく。腰の後ろに長剣を吊っているのがその上からもわかった。二人が歩き去った方角を見据え、大股に歩いて行く。その姿には確固とした目的がそなわって、人を近づけがたい雰囲気を全身から放っていた。
ヒルザスは男が視界から消えるまで窓に顔をつけて見やっていたが、「ふん」と唇をあげた。
「あいつだ。マキアを襲ったヤツ。俺、尾けられたかな‥‥?」
「ローゼ殿は待ち人をしていると言っていた。あれが相手なら、自分で居場所を知らせたのだろう」
「ああ、会う前にマキア相手に一仕事しようとしたのか。マメな男だな。なあレイ、あいつ相当腕が立つぜ」
「わかっている」
ヒルザスの語尾を切るように、強い口調でレイヴァートは言った。ヒルザスが笑みをうかべたまま、友人の顔を眺める。
「お前、さっきから何苛々してんだ?」
「別に‥‥」
レイヴァートは室内を見回した。木の台に藁と敷布をかけただけの粗末な寝台、油の減った油皿、テーブルがわりの空き樽におかれた火口箱、水が入った水盤。部屋のすみにボロきれがころがっていた。めぼしいものは何もない。たいていは娼婦をつれこんだり、水夫が一晩の宿としてころがりこんだりするための部屋だ。かびくさく、かすかに生ぐさい臭いが漂っている。
ヒルザスが火口箱を取り上げながら、
「さっき。ローゼ殿が黒館の主を人質に取った時。間合いをつめて、死なない程度に斬っちまえばよかったんだ。場合によっちゃ二人まとめてな。お前ならできるだろ。黒館の主は人じゃねェって噂だし、ローゼ殿だって無関係の人間の喉を切るほど無茶苦茶なお人じゃあるまいよ」
「‥‥‥」
扉を開けると、わずかに指が出る程度でガツンと固いものにいきあたった。ロゼナギースはじつに上手に木箱を置いていったらしい。レイヴァートは低い声で背後の友へ返す。
「ローゼ殿は、黒館の主に、うらみがある」
「うらみ?」
「22年前の一件の時のことだ。ローゼ殿の母上が前王へ毒を盛ろうとなさったが、その毒をつくったのは黒館の主だった。噂によれば、王へ毒の企みを知らせたのも、同じ黒館の主だったと云う。勿論、今の主と人はちがうが」
「成程。喉を切るかもな、それじゃ」
不吉なことをおもしろがるように言ったヒルザスを思わずにらみつけかけ──レイヴァートは自制した。イユキアは、自分の身くらい自分で守れるだろう。剣の腕が立つわけではないが、刃だけが人の武器ではない。黒館の主を、そういう意味ではレイヴァートは信頼していたが、イユキアが何故ロゼナギースへあっさりついていったのかが、よくわからなかった。考えがあってのことなのかどうか。ほとんど会話らしい会話もなかったが、今日のイユキアは、少し様子がおかしかった。
ふっ、と鋭い息を吐き出し、レイヴァートが向き直ると、ヒルザスは拾ったボロきれに火をつけようとしているところだった。
「‥‥何してる?」
「火をつけてるんだ」
「それはわかる」
「だな」
うなずいて、燃え出したボロきれのはじをつかんだ。それを扉の蝶番の上に器用に押しこむと、燃えている布へ油皿の油をかけた。炎がいきおいを増して、扉を焦がしだす。
「おい」
「火つけは晒し台行きだぞ、か?」
笑って、ヒルザスはレイヴァートの言葉を先取りした。炎はその間も、蝶番と扉の間で燃えさかり、焦げ臭いにおいとつんと喉を刺す煙が部屋に漂いだしていた。
レイヴァートはマントのはじで口を覆う。ヒルザスは無茶なところのある男だが、馬鹿ではない。しかし喉をいぶすような煙がたちこめてきて、さすがにこれはと思いかかった時、ヒルザスが寝台の下からひっぱりだした藁をまとめて持ち、ほとんど燃え尽きたボロ布を扉からはたき落とした。水盤を手に取り、中の水をくすぶる扉へ叩きつける。
ジュッと白煙があがって、部屋はもうもうとした煙につつまれた。二人はしばらくマントに顔をうずめて咳こむ。やがて、まだ漂う煙を払いながら、ヒルザスが立ち上がった。床のボロ布を足で踏みつぶして残った火を消すと、短剣を抜き、刃で蝶番を軽く叩く。
蝶番の周囲の木は黒く焼けていた。焦げた木を刃の先端でかきだしながら、扉と蝶番の間へ短剣をさしこむと、ヒルザスは梃子の要領で短剣をねじった。うまくいかない。背後へ手をのばした。
「油よこせ」
レイヴァートはヒルザスが使い切った油皿を手にして歩み寄り、わずかに底に残っていた油を蝶番へ垂らした。ヒルザスが短剣を前後左右へこじる。苦戦していたが、やがてギギッときしむ音がして、蝶番を柱へ打ちこむ釘が抜けてきた。
「‥‥ふう」
上の蝶番を外し、ヒルザスはマントの裏で汚れた短剣を拭いながら下がる。
レイヴァートを見た。
「何してる。腕力の出番だぞ」
吐息をついて、レイヴァートは扉の前へ歩み寄った。上の蝶番は外れたが、下の蝶番はしっかり柱と扉を留めている。扉を押すと、上が外れている分、斜めにかしいで大きく開いた。そこから出るにはまだまだ足りないが。
少し考えてから、レイヴァートは数歩下がる。ふっと息を吸い、体に力を溜めると、一気に距離をつめて扉の上部へ蹴りを叩き込んだ。扉が大きく斜めに傾き、下の蝶番がミシミシと音をたてる。数回、それを繰り返してから、蝶番に近い部分を蹴ると釘が一本外れた。
後は、外に置かれた木箱に苦労しながら扉を蝶番から外すだけだった。それが済むと扉を横に倒す。部屋の下側をふさぐように扉を廊下へたてかけ、レイヴァートはまだ少し咳こみながらそれを乗り越えた。
ヒルザスも後に続き、二人は階下へ早足で降りる。後ろで「刃こぼれが」とぼやく声が聞こえたが、それを無視し、レイヴァートは最後の数段をとばして階段を飛び降りた。
店内に男が立っているのに気付いたのは、最後の瞬間だった。店主かと思ったが、まるで体つきが違う。反射的に剣に手がかかったが、それを抑えてレイヴァートは立ちどまった。
人足のように日に灼けた肌をもつ男が、驚いたように彼を見上げている。実際、驚いたのだろう、レイヴァートの勢いに。看板は店主におろさせた筈だが、勘違いして入ってきた客なのか。あやまろうかと思った時、レイヴァートは男の両手首から腕にかけて真新しい布が巻かれているのに気付いた。包帯だ。丁寧に、その下にある傷を覆っている。人足が己の傷を覆う時に、こんな几帳面なやり方はしない。もっと慣れた手による手当だ。
「‥‥‥」
レイヴァートは鋭い目で、男の全身を上から下まで見た。そう見ると、服と体つきに覚えがあった。仕立屋の二階からイユキアを見かけた時、イユキアのそばにいた男だ。
その男が、怯えたような目をレイヴァートと階段に立つヒルザスへ向けた。早口に言う。
「黒館の主がいなかったか?」
「今はいない。どうした? 用か?」
「いや‥‥」
ためらい、うろたえて一歩下がった男との距離をすばやくつめ、レイヴァートは相手の右肩をつかんだ。強い眸でのぞきこむ。
「何があった?」
「‥‥さっき、ここでゴタゴタがおこってさ‥‥」
肩へ置かれたレイヴァートの手の力にか、まなざしの強さにか、男は逆らう気を失ったようで、問われるままに先刻ここであった揉め事を説明した。六人組にからまれたイユキアをロゼナギースが助けたいきさつを一通り聞き出し、レイヴァートはなおも男を見据えたまま、たずねる。
「何故、戻ってきた?」
「‥‥奴らが──あの後、コウモリの通りへ入るのを見たんだ。“黒館の主の首なら、コウモリが欲しがるさ”って、そう話してて‥‥」
レイヴァートは眉をしかめた。コウモリの名を聞いて、すとんと腑に落ちるものがあった。
コウモリの通りは、魔呪を扱ったり商ったりする者たちのつどう小路だ。その手の店には扉の上にコウモリの焼き印が捺されているので、そう呼ばれている。「コウモリ」とは、彼らのたぐいの通称でもあった。
「成程」
口の中で、レイヴァートはつぶやく。あの黒い犬は、コウモリの一人が放った使い魔だったのだろう。ここに黒館の主がいると、その男たちから情報を買って。
黒館は古い魔呪の焦点として王城の西の丘に建ち、黒館の主はその魔呪の契約者として在る。少なくとも、真実はどうあれ、そう語られている。同時に、「黒館の主を殺した者が次の主となる」との噂が、魔呪師の間に流れてもいた。すなわち、イユキアを殺せば、黒館に100年以上に渡って継がれてきた力を手に入れられると。
その話が真なのかどうか、レイヴァートは知らない。だが、イユキアを焦点として結ばれた黒館の「力」を欲するやからがいることは、容易に想像がつく。黒館には結界があるので、館にいるイユキアに害を為すには相当の力が必要だろうが、こうして街にいるイユキアを襲うことは、彼らにとってたやすかろう。
‥‥コウモリに、嗅ぎつけられたか。
レイヴァートの胸の奥に不安の影がうごく。イユキアが何を考えているか、レイヴァートにはよくわからない。イユキアは黒館の主ではあったが、この国の生まれでもなく、黒館にも黒館の持つ力にも執着を見せたことはなかった。淡々と癒しの技や薬を売って暮らしをたてているだけで、己の力を何かに及ぼそういう気もないようだった。どことなくこの世を倦んでいる風情のイユキアが、自分の命を狙われた時にどれほどの反撃をするか、しようと思うか、レイヴァートにははかりかねている。
(──易々と、人に後れを取るとは思えないが)
不吉なものを押し隠した彼の後ろから、ヒルザスが歩み出た。
男の顔と両腕に巻かれた包帯を見くらべ、無遠慮なほどの口調で聞いた。
「で、あんたはこの店で、黒館の主と何してたんだ?」
男の顔がさっとこわばる。
レイヴァートが、手を扉へ向けて振った。
「すまなかったな、面倒をかけた。行っていいぞ」
「俺──」
「黒館の主には、俺からつたえておく」
レイヴァートが男を見やってうなずくと、男はホッとしたような表情で足早に店を出ていった。見送って、ヒルザスが腕組みする。
「レイ。──お前、何か、知ってるな?」
「何をだ」
「黒館の主が、あいつで何をしてたかさ」
レイヴァートは、扉へ向かって歩きかかった足をとめ、ヒルザスをふりかえった。かすかに唇のはじを引き歪めている友の顔を見やり、彼は静かに言う。
「そんなことを言っている場合か?」
「──ふぅぅん」
「それは、何だ?」
「いや、べつに」
べつに、という顔ではないが、ヒルザスは意味ありげな表情をうかべたまま、それ以上何も言わなかった。ひとまず取りあわず、レイヴァートは扉から狭い小路へ出る。背後でヒルザスが金貨一枚をカウンターへ置き、カップをかぶせた。もうじき店主も戻ってくる。迷惑料──扉の修理代だ。充分すぎて釣りがくる。
それからレイヴァートを追った。
「どこに行ったか、心当たりはあるのか?」
「お前、マキアのところへ戻れ。ローゼ殿の待ち人の名を教えてもらわねばならん」
レイヴァートは人をよけながら大股に歩いていく。イユキアとロゼナギースの歩いていった方角を追った。
丁字路から雑踏へ出たところで、ヒルザスが肩をならべた。
「ムリだ、マキアは口が裂けても言わんよ。あれは14年も娼婦の暮らしを耐えた女だぜ。──ローゼ殿のためにさ」
「‥‥‥」
「ローゼ殿を六年前に逃がしたのが誰か。陛下はご存知なのかもしれねえな」
つぶやいたヒルザスを、レイヴァートは横目で見た。彼らの王が何を考えているか、何のために二人を個人的にクーホリアへ使わしたのか、レイヴァートにもヒルザスにもわからない。王が、用命以外に言ったことといえば、ロゼナギースについて「無茶なところがあるがな」という一言だけだった。
「ローゼ殿もなぁ‥‥世が世なら、音師にもなれただろうに」
ヒルザスが思い出したように言う。レイヴァートがちらっと空の色を眺めた。夕暮れが近い。もう陽はだいぶ傾いている。
その空を白いものがふわりとうごいて、レイヴァートはそれを目で追った。風の中に、蜘蛛がとばした細い糸のようなきらめきを見る。それが夕刻の空気に光ったと思った瞬間、小さな白蝶が薄い羽根をひらめかせ、宙へとびたった。
レイヴァートは蝶を追って走り出す。何かぶつぶつ言いながら、ヒルザスがその背へつづいた。
イユキアがロゼナギースをつれていったのは、頭上に石のアーチが交差した狭くくねる径を抜けた先にある、何かの工事跡だった。
港からさほど遠くない、つくりの大きな建物が建ち並ぶ倉庫街の裏手。前面がやや急な斜面となった高台からは、倉庫の屋根をかすめて鈍色の海が見える。
測量の杭が地面に打込まれ、麻縄が渡してあるが、縄の一部がちぎれて地面に落ち、埃にまみれていた。礎石が放置された地面を見やって、ロゼナギースが目をほそめる。
「こんなとこに建物か?」
「新しい物見台を造る予定だったらしいですよ」
「何で途中になってるんだ?」
「骨が出たそうです」
イユキアが灰色のローブの下からのばした腕で指したのは、短い草群れからのぞく、飾りのついた細長い金属の棒だった。よく見ると、刃を深々と地に埋めた剣の柄であるとわかる。地面を貫きとおした刃で何かを封じているのだと悟って、ロゼナギースは用心深い足取りで歩み寄った。
イユキアが一歩後ろで説明する。
「その骨を、王城で調べているとのことで、場合によっては祓えが必要になるでしょう。それまでこの場所も、手をふれることなくとどめ置かれることになっています」
「古い骨一個で何をそんなに? 人の骨じゃなかったのか?」
「人の頭蓋でしたが」
イユキアは、昨冬に王城へ招かれ、その骨を検分したことがある。つづけた。
「額に、小さな穴が開けられていました。生前にうがたれた穴だと思われます」
「‥‥“遠見の一族”?」
「おそらくは」
静かな声で、うなずいた。
100年近くも前、このあたりの地には“遠見”と呼ばれる一族がいた。時を見る者や空間を見る者、人の心を見る者などその能力は多岐にわたったらしいが、一族が姿を消した今、あまりくわしいことはわかっていない。
彼らは、子供のころから額に穴をうがち、宝石をはめこんで「第三の目」としていたと云う。
あたりには、かげろうのような夕闇がしのびより、港から合図の鐘と声が鳴る。ロープのきしみが風にのってこの場所まで届いた。人の多い街区だと言うのにあたりに目立つ人影はなく、打ち捨てられた基礎の間に影がくろぐろとわだかまって、ロゼナギースは薄気味悪そうにあたりを見回した。
「──大丈夫なのか、そんなもん掘っちまって」
「おそらく、海を見張るために一族が埋めたものだと思いますけどね。場所にも骨にも、今は何の力も残っていませんよ」
「あんたが言うなら、そうなんだろうなぁ‥‥」
まだあまりゾッとしない様子だったが、ロゼナギースはくずれた煉瓦をまたいで、斜面が落ちる手前まで歩み出た。眼下には海へ平行に斜面留めの石壁がめぐらされ、その向こうに倉庫がたちならぶ。傾斜のゆるい屋根の向こうに、海が見えた。
鏡のようにないだ海はくらく、おちてゆく太陽の最後の光が水平線をするどく照らしている。刃で横に裂いたようなかがやきだった。
鈍い海の色を眺めていたが、ロゼナギースは肩ごしにイユキアへつぶやいた。
「この海には、俺の母親が沈んでいる」
「‥‥‥」
「22年前のことだ。俺の母親は、黒館の主に毒をつくらせ、前王を弑そうと謀った。母は、王の愛人でな。‥‥俺の母親が、俺の父親を殺そうとしたわけだ」
低く笑った。イユキアも、ロゼナギースと同じ海を眺めて動かない。フードをのけて白い顔と銀の髪があらわになっていたが、いつもと同じ静かな表情はほとんど感情らしい感情を見せていなかった。
「母はとらえられ、自分が盛ろうとした毒を飲まされて死んだ。墓はゆるされず、その身は柱にくくられて焼かれ‥‥骨は、この海の底に沈んでいる」
「あなたは生きのびた」
しんと闇を含んだような声で、イユキアはつぶやいた。ロゼナギースがちらっとその顔を見る。
「ああ、そうだ。自由と引き換えに、な。‥‥16年だ、イユキア。俺は16年間の大半を、王城の奥にとらわれてすごした‥‥」
ロゼナギースはかるく身をそらせ、喉の奥からかわいた笑い声をたてた。
「おかしいだろ? 俺はその間ずっと、この国から逃げ出すことだけを考えていた。遠くへ行く夢をずっと見てた。自由にさえなれれば、後はどうでもよかった。何を引き換えにしてでも自由になれれば‥‥。なのに──なのに、だ。この国を六年前に離れてから、ずっと、帰ってくることしか考えてなかった」
「‥‥‥」
「お前は、イユキア? お前は帰るところがないと言った。だが、だからこそ──帰りたくなることはないのか? お前が捨てた、あるいはお前を捨てた国へ?」
ロゼナギースの目は海と同じ暗い色をして、挑みかかるようにイユキアを見ている。イユキアの銀の髪があるかなしかの風に揺れた。
イユキアの唇に、風と同じかすかな微笑が浮く。それはひどく寂しげに見えた。
「私とあなたはちがう。あなたはこの地に心を置いていった。‥‥会いたい人がいるのでしょう?」
問いの形をしていたが、それは問いではない。事実を言っただけだった。
「‥‥‥」
ロゼナギースはイユキアを見ていたが、ふいに右手を腰へ回して短剣を鞘から引き抜いた。抜き身の刃が夕暮れにうっすらと光る。
「ここにいろ」
言い捨てて歩き出した彼の前へ、人影が五つ、姿をあらわした。手に手に長剣やカトラスを下げた男たちがロゼナギースを取り囲む。港あたりをうろついている水夫か、海兵くずれだ。全員、荒事に慣れてすさんだ雰囲気をまとっていた。
ロゼナギースの口元が笑みの形に歪んだ。
「へェ。そんなに俺を殺したいのか‥‥」
からかうような言葉に答えるものはなく、男たちは得物を構えると不気味な殺気をみなぎらせ、一斉にロゼナギースへ襲いかかった。
夕ぐれに、蝶の羽根は小さな星のようだった。その羽根がはじめ思っていたような白ではなく、青みをおびた銀色なのだと、レイヴァートは追いながら気付く。イユキアの髪の色だ。
自分を引く力を感じる。強いものではないが、たしかにそれは、イユキアの気配を内にはらんで、彼を呼ぶ。
追うことにためらいはなかった。雑踏を抜け、時に人にぶつかるようにしながら狭い路を抜けていく。
(イユキア──)
胸の内で名を呼んで、倉庫街へつづく角を曲がった。人影がぐんと減る。背後でヒルザスが何か言っているのを聞き流して走るレイヴァートの目前に、黒い影がひるがえった。
「!」
瞬間、考えるより早く右手が短剣を抜き放つ。黒いものを薙いだ一閃に手ごたえはなく、レイヴァートは膝を軽くおとして足をとめた。その眼前に、ちぎれた銀の羽根が粉雪のように舞った。
蝶の残骸が散る向こう側、黒犬が炎のような真紅の眸でレイヴァートを見据え、爪にかかった羽根のかけらを前脚の一振りで払った。刹那、後脚をのばして軽やかに宙をかけのぼり、獣の姿は霧のように消えた。
立ちすくむレイヴァートの背後で、ヒルザスの荒い息がひびく。
「レイ、あの犬の方角を追え!」
「!」
真紅の眸の呪縛にとらわれていたレイヴァートは、ヒルザスの叱咤にはっと我に返った。犬が飛び越えて消えた壁を見上げ、方角をはかって走り出す。壁の切れ目を左へ曲がると、石の階段を駆けのぼった。
荒々しい舞いのようにロゼナギースの体はしなやかに動き、肘や拳で相手の喉やみぞおちを的確にとらえた。手にした短剣はもっぱら相手の刃を受け流すために用いられ、ほとんど斬り付けようとしてはいない。防御と攻撃が一体となった、美しい動きだった。
さしてたたないうちに、三人が地に伏せていた。力の差は歴然としている。だが、一人、海兵くずれだろう、体格のよい壮年の男はロゼナギースを間合いに入れようとしなかった。長剣を用いてたくみに距離を保ち、彼が隙を見せるのを待っている。ロゼナギースとその男が向きあった横を、残った一人が駆け抜けた。イユキアめがけて。
イユキアは興味のなさそうな表情のまま、動かない。その喉元へカトラスをつきつけ、男はロゼナギースへ怒鳴った。
「動くな! 動けばこいつを──」
イユキアの左手がすっと上がった。風をなでるように五指をひらめかせる。その動きに男の視線が吸い寄せられ、カトラスの先が突然重みを増したかのように地面へと下がった。だらりと刃を下げ、男は魅入られたようにイユキアの指を見ている。イユキアは男のふところへ一歩踏みこみ、指さきを男の首すじへさしのべた。優雅な動きであった。
指が一瞬にして血脈をさぐりあてる。そこから冷たいものが一気になだれこみ、男はどっと地面に崩れた。
ロゼナギースがすばやく腕を振り、最後の一人へ短剣を投げつける。剣ではじきとばしたが、予測しなかった動きに相手は大きく体勢を崩した。その脇へ身を丸めてとびこみ、胴を前からかかえながら、相手の足を裏からすくう。もろともに地面へ倒れたが、途中で相手の喉元へ左の肘をのせた。
倒れる衝撃で、喉へ肘の一撃をくわえる。体重はのらない位置だったが、つぶれたような声を洩らして男は体をのけぞらせた。
「これ以上やるか?」
ロゼナギースは相手の目をのぞきこむ。声もなく、男が首をかすかに振ると、うなずいて立ち上がった。短剣を拾う。
意識のある男たちがよろよろと逃げていくのを見向きもせず、イユキアと足元に倒れた男の体を見た。小さな笑みを浮かべる。
「俺も、いつでも殺せたんだろ?」
「心の強い人に、めくらましは効きませんよ」
イユキアは静かにこたえる。それに、倒れた男は死んでいるわけではない。夜中までには目を覚ます。
ふん、とロゼナギースが鼻を鳴らした。
「いくらでも方法はあるだろう。──何でわざわざついてきた、イユキア? 俺はお前を殺すかもしれなかったんだぜ」
「でも、あなたは私を助けてくれたでしょう。あの店で」
イユキアは淡い微笑をかえした。ロゼナギースは眉をよせる。彼にはわからないのだろう。黒館の主をわざわざ助けようとする者も、こうまで親しげに話しかける者も、胸に秘めた憎しみをあからさまにして平然としている者も、ほとんどいないのだと言うことが。
あの酒場で、イユキアを襲った黒犬の形をした使い魔──あれを撃退したのは、ロゼナギースの指笛だった。イユキアの興味のひとつはそこにもある。
音色というのは、それ自体が魔呪の力を多少含むが、ロゼナギースが鳴らしたものほどの「力」は珍しい。あれほどの技は一朝一夕に身に付くものではない。好奇心、と言えるほど強いものではないが、ロゼナギースが何者か、それが何の技なのか、少しばかり気には掛かっていた。
もっとも、実際に自分がロゼナギースに従って店を出た「理由」は、よくわかっている。レイヴァートのそばにいることに耐えられなかったからだ。彼のまなざしから逃れるためなら、何でもよかった。
ロゼナギースにそこまで説明できるわけでもないし、する気もない。イユキアは小さな吐息をもらした。レイヴァートに心配や厄介をかけるのは本意ではない。ロゼナギースの場所を知らせて、自分はさっさとどこかへ去るべきだったのかもしれない。あの蝶は、己につないでしまったが。
ふっとイユキアの目が動いた。あたりはかなり暗くなってきている。まなざしに気付いて、その先を振り返ったロゼナギースは口元に苦い笑みをきざんだ。
「待ち人来たる。──六年ぶりか?」
「‥‥何故、貴様が、この国に戻ってきたのだ‥‥」
大柄な男が夕闇の中に立っていた。右手には抜き身の長剣。仕立てのいい服をまとって、丈高のブーツを履いている。肩あてのついたマントをまとっている以上、騎士だろう。
先刻、ヒルザスと剣を交わした男だが、顔にあの仮面はなく、厳しい面ざしがあらわになっていた。年は40がらみというところか、全身にどこか歪んだ気魄がただよっていた。
ロゼナギースは彼の前へ歩み出る。男をにらむ目には苦痛と怒りがみなぎっていた。
「どうしてマキアに剣を向けた?」
「どうして戻ってきた!」
二人は憎しみをぶつけてにらみあった。ほとんど目に見えるほどの感情の渦を、イユキアは伏せた睫毛の下からながめる。ほとばしった人の思いが、見えない渦となって二人もろともに巻きこむ。双方の憎しみや怒りが、坩堝に溶けた鉄のように分かちがたい熱となって彼らの周囲に煮えたぎっていた。
次の瞬間、男の剣がロゼナギースの胴を横薙ぎにしていた。風を裂く音さえきこえそうな轟剣の一閃を、ロゼナギースは一転して避ける。地面に落ちていたカトラスを拾い上げ、湾曲した分厚い刃で次の一撃をとめた。刃を合わせ、彼はくいしばった歯の下から切れ切れの言葉を吐き出す。
「サリューカのためだ‥‥!」
「お前にサリューカは渡さん!」
一合、打ちあって二人は体を入れ替えた。打ちあわせた刃の音が甲高く散る。男の目にもロゼナギースの目にも互いにゆずらぬ炎があった。
サリューカと聞いて、イユキアがふと表情をうごかした。その言葉におぼえがあった。11年に一度、王城で行われると云う秘儀の名だ。神々と王城の王との交わりと浄めの儀式だと言われているが、その内容は秘されており、ただ、特別な音楽が奏されるということだけを聞き及んでいた。
(‥‥音楽)
その言葉と、ロゼナギースが使い魔を撃退した指笛が、イユキアの中で重なる。あれが、ロゼナギースの持つ音色の技なのだろうか。単一の音でさえ、あれほどの力を一瞬にして放つ。サリューカに必要とされるほどの音色とは、その力とは、一体どれほどのものなのか。イユキアはロゼナギースを見やった。
二人はふたたび刃を交わし、ロゼナギースは大きくとびすさった。肩で息をつきながら、
「無理だ、ヴィラハン。オルジカでは次のサリューカはおこせん。師が亡くなった今、誰かがサリューカをおこさねばならん!」
「貴様は‥‥貴様は、二度と帰らぬと誓った‥‥!」
「たしかに誓った。誓約を破ったあがないはする」
「ならば命で!」
打ちこまれた刃を流し、ロゼナギースはさらに下がる。
「二年待て、ヴィラハン! サリューカが終われば、俺は死ぬ。六年前、あんたが俺を逃がしてくれたことは、誰にも明かさん──」
「それで切り抜けられるほど、陛下が甘い方だと思うか」
「‥‥‥」
「お前に死んでもらうよりほかに、俺には手だてがないのだよ。たとえ、二年後のサリューカを損じようともな。いや‥‥オルジカならばやりとげてくれよう‥‥」
爛としたものを目に宿し、ヴィラハンと呼ばれた男はロゼナギースを見据えた。
「ひとたびでも国を捨て、王を裏切ったお前などよりな。お前に、王城のための音を奏する資格はない」
「そうかもしれん」
ロゼナギースは苦い笑みを浮かべたが、全身にみなぎった闘気にゆらぎは生じなかった。ゆっくりとカトラスを胸の前に引き付けるようにかまえ、右足を引く。
「だが、俺には守らねばならんものがある‥‥」
「あの娼婦か? 家を裏切り、誇りを捨てた女だぞ」
あざけるような言葉とともに、再び轟剣が振りおろされた。ロゼナギースは半身にしていた体をくるりと回し、のびきった男の右腕へぴたりと身を寄せるとカトラスの柄を脇腹へ叩きこんだ。ぐっ、と呻いたが、ヴィラハンの体勢はゆらがず、右肘がロゼナギースのこめかみめがけて走った。
その一撃をよけ、ロゼナギースはとびすさる。肩で息をついてヴィラハンをにらみつけた。
「あんたにはわからん」
まなざしの熱さを裏切って、それは氷のような声だった。
(生きて──)
「マキアがどれほど誇り高い女か。あれは、俺のために死をあきらめたんだ。俺を生かすために、何もかもを捨てたんだよ!」
イユキアは細めた目で二人を眺めていた。
血を吐くようなロゼナギースの叫びにも、男の殺気はたじろがない。互いの、剥き出しの感情が互いを喰らおうとして、二人の周囲にはげしく渦巻いている。意志の力が引き絞られていく、〈待呪〉の状態だ。負の感情が鎖のようにお互いにからみあって、そこから動けなくなっている。
目に見える剣技の勝負以上に、そこではどろどろとした感情の戦いがくりひろげられていた。当人同士は自覚はないだろうが、彼らは剣で戦うと同時に情の力でも戦っているのだ。ロゼナギースは、剣においてはやや遅れを取っている。だがこの感情の戦いに勝てれば、勝算は充分にあった。
二人のさまに気をとられていたイユキアは、ふいに刺すような痛みを肌に感じた。これは殺意。彼へとまっすぐに向けられた血の魔呪──
見回した視界には何もない。耳を風鳴りのような音がかすめ、振り仰いだイユキアの頭上に、黒い獣の影があった。それは一線に、殺意を凝らせてイユキアめがけ落ちてくる。
地にころがるようにして爪の一閃をさけた。数度、かわしてイユキアはどうにか起き上がろうとしたが、ロゼナギースの声にその動きをとめた。
「伏せてろ、イユキア!」
叫びざま、ロゼナギースは左手で腰から短剣を抜いて放つ。その瞬間、男がロゼナギースを斜めに斬り下ろした。
ロゼナギースは下がろうとしたが、一瞬遅れる。左肩の服が裂け、血がしぶいた。浅手だが、思わず呻く。右手のカトラスで次の斬撃をはじき返した。よろめく。
放たれた短剣は、使い魔の実体のない「体」を貫いた。瞬間、獣が凄まじい苦悶の呻きをあげた。あたりの空気が凍りつく。剣を交錯させた体勢のまま、二人の動きがとまった。
犬の形を崩しながら、影はイユキアの横へ落ちる。イユキアは、のばした手でロゼナギースの短剣を握った。瞬間、手に熱いしびれに似たものが流れ出す。それは、マキアが酒場へとどけさせた、古びた銀の短剣だった。由緒のあるものだ。そこにこめられていた古い魔呪が使い魔を傷つけている。イユキアは地面からすばやく身を立て、左手をマントの内側へすべりこませた。
獣は、咆哮をほとばしらせている。耳に聞こえる「音」はないが、たしかにあたりの空気をふるわせる「声」の凄まじさ。苦痛に狂った咆哮とともに、犬の形をどうにかとどめた影は、勁い後脚で地面を蹴った。狙いであった筈のイユキアではなく、ロゼナギースの方へ。
──血に呼ばれた‥‥
痛みのせいで術者とのつながりが薄れ、獣である本能が勝ったのだ。血の甘い香りを求めて。暴走する。魔呪でつくりあげられた、影の獣が。
イユキアはマントの内側から皮袋を引き抜いた。羊の腸で裏打ちした、水や液体を入れるための袋だ。それを宙へ投げ上げるや、右手の短剣を横へなぎはらった。袋が切り裂かれ、内側から真紅のしぶきがあたりへ飛び散る。同時に、イユキアの足が二度、三度と地を強く踏んだ。
赤いかすみが、まるで網を投げたようにひろがった。
宙にあった獣を、血の投網がとらえた。地を踏んでおこした魔呪の波動が、血を通じて獣を灼きつくそうとする。黒い体がたちまちに溶けてゆく。獣が自分の首へ鉤爪を一閃させ、溶解する胴から首を切り離した。血の網をのがれた首から先だけが宙へ飛ぶ。残りの体は血にとらえられ、形を失なって地面へびしゃりと叩きつけられた。
黒い首がロゼナギースめがけて飛びかかった。ロゼナギースは、体が痺れてほとんど動けない。だがその目に恐怖はなく、獣をにらみつけながらその唇がひらいた。喉から複雑な「音」がほとばしる。
叫びとも唄の一部ともつかない音が、獣の体を容赦なくつらぬきとおった。黒い影は千々に砕けて宙へ溶ける。だが、最後に残った牙のかけらがロゼナギースの胸元へ飛びこみ、彼はばたりと倒れた。
イユキアは、目をみひらいて立ちつくす。呪縛を解き放たれてよろめくように逃げていくヴィラハンの姿に一顧だにくれず、彼は倒れたロゼナギースを見つめていた。イユキアの足元には、赤い血のしぶきが彼を中心とした三重の円を地面へ描いている。たちのぼる血の香りの中、イユキアの、暗い色をした眸の奥が金色に光った。唇をとがらせる。血の上へ唾を吐き、ゆっくりと右足を持ち上げると、地面をドンと打つように踏んだ。
イユキアの唇が何かの言葉をとなえ、足がまた地を踏む。赤くしみた地面から、影がむくりと起き上がった。夕闇に溶けそうなそれは、消えたばかりの犬と同じ形をしていた。
二度、三度。イユキアは地を踏んで、魔呪を呼び、術律を組み上げる。赤い霧が大地からたちのぼり、闇の獣を覆いつくす。またたくまに、獣の姿をしたたるような真紅に染めていた。
イユキアの右手が薄闇が漂う天をさす。怒りと痛みが焦点のあわない両目にたぎっていた。
魔呪をとじて獣に報復を命じようとした瞬間、
「やめろ!」
声がひびいた。イユキアの、うつろな眸がみひらかれる。表情がうごき、まなざしを絞った先に、駆けこんでくるレイヴァートの姿を見た。
「よせ、イユキア──」
獣の姿がするどく変化した。赤く染まった体が薄くのびて長くひろがる翼となり、大地をつたわる呪の力を吸い上げ、翼をのばして宙へ舞い上がった。それは、翼をもつ異形の獣であった。
レイヴァートが駆け寄りながら剣を抜く。抜き放った長剣を右手に地を蹴り、朱の獣けがけて宙をなぎあげた瞬間、獣の姿は霧散していた。
イユキアががくりと地へ膝を落とす。異様な吐き気とめまいが体をつきぬけた。体の中に見えない牙がつきたてられて、肉も骨も内臓も、すべてが容赦なく喰らわれていくようだった。何かがいる。彼の内側に。それを手放してしまいたい誘惑にかられたが、彼は力の焦点を握ったまま、放さなかった。術を暴走させるわけにはいかない。
とじかかった魔呪を無理矢理に壊した反動が全身をうちのめす。呼びだした力を体の内側にとどめ、意識をひたすらそこに集中させた。獣の力をすべて自分の内へ引き戻し、おさめる。意志をもちかかっていた獣が無音の咆哮をあげて逆らったが、イユキアは力ずくでそれをねじふせた。
嘔吐が体をつきあげる。膝をついて吐こうとしたが、何も吐けなかった。血の臭いがする。目の前がかたむいて、倒れかかった瞬間、レイヴァートがその体を支えた。
「イユキア。‥‥イユキア、大丈夫か?」
「‥‥ええ」
長い吐息をつき、イユキアはレイヴァートの腕にすがって立ち上がろうとした。体が震えて、力がまるで入らない。血のかわりに冷たい粘液が血管を流れているかのように感じられる。
呻くように言った。
「ロゼナギース殿のところへ──」
白い顔を点々と血の飛沫が汚し、あたりには夕闇を圧するような血臭と、肌を刺す魔呪の気配が漂っている。イユキアを見つめ、レイヴァートは細い体に手を回すと、一動作で抱え上げた。イユキアがうろたえたように身をすくめるが、かまわずその体を抱いたまま、ロゼナギースのそばへ運んだ。
ロゼナギースは、獣の牙の一撃を受けたまま、地に倒れて動かない。おろされたイユキアはかたわらへ膝をついて座り、男の顔をのぞきこんだ。ロゼナギースの目はひらいたままで、唇も最後の「音」を放ったままの形で凍りついている。
のばした指先には息づかいが感じられた。イユキアは、左手に持ったままだったロゼナギースの短剣を上げ、自分の右手の指先へすべらせる。刃がはしると、つうと赤い滴が盛り上がった。それを一滴、ロゼナギースの鎖骨のくぼみへふりおとした。一言二言、レイヴァートにはよく聞き取ることもできない言葉を呟く。
血は、たちまち黒くにごって震えた。イユキアは、自分の血を媒介にして、ロゼナギースの中に入りこんだ「影」を吸い出す。同時に、ロゼナギースの額へ手をのせると、ゆっくりとロゼナギースの体の緊張がとけ、彼は眠るように目をとじた。
左肩の傷もざっとあらためる。少し長いが、深手ではない。強く抑えて出血を止め、上からかるい血止めの技もかけた。
ロゼナギースの鎖骨におとした血が、肌の上で黒い粒のように凝っている。それを指先でつまんでつぶし、イユキアはレイヴァートを見上げた。
「心配はありませんが、かなり力を使われました。薬湯と、傷の手当てをしたいのですが、どこかよい場所をご存知ありませんか」
レイヴァートはうなずいた。
「近くに神館がある」
イユキアが、ためらった。
「‥‥それは」
黒館の主を中に招じ入れる斎主がいるとは思えない。だがレイヴァートは、イユキアの表情を見て首を振った。
「大丈夫だ。変わり者だからな、かえってよろこぶだろう。立てるか?」
「ええ」
レイヴァートがロゼナギースの骨張った体を左肩へかつぎあげた。イユキアが、まだ全身をひきずりおとそされそうな虚脱感と嘔吐に耐えながら立ち上がると、レイヴァートが右手をのばしてフードを頭にかぶせてやった。その上から、かるくポンと叩く。
「すまなかったな。無理に、術をおさめさせた」
「‥‥‥」
何か言おうと思ってイユキアは口をひらきかかったが、何を言えばいいのかわからなかった。あやまるのは自分の方だと思う。一瞬の怒りに目がくらんで、するべきでないことをしようとした。あの術を返せば、相手の術者は命を失っただろう。イユキアは殺すつもりで、あの使い魔を打ち返そうとしたのだから。
──黒館の主が、クーホリアで人を殺せば、それはどんな波紋を呼ぶかわからない。これまで黒館とほかの魔呪師たちとの間にあった微妙な平衡が崩れ、危険な緊張が生じる可能性が高い。レイヴァートが、この国の王城騎士として、そんなことを看過できる筈はなかった。
狭い階段を下まで降りると、数人の野次馬が遠巻きにする中、ヒルザスが長剣を鞘へおさめた。レイヴァートの肩に担がれたロゼナギースと、背後のイユキアをチラッと見くらべ、低い声で、
「逃げられた。‥‥お前が相手しろ、ああいうのは」
ふてくされたように言うが、本気ではない。レイヴァートが小さく笑うと、ヒルザスも笑みをかえして、何かの飾りのようなものを宙へ投げ上げた。受けとめて、レイヴァートへ見せる。
マント留めの飾りの一部だ。紐が切断されている。
「こいつを切ってやった」
「お前、わざと逃がしたな?」
低く言って、レイヴァートはヒルザスの横を通り抜けた。ヒルザスが肩をならべる。飾りをもてあそびながら、逆にたずねた。
「顔を見たか」
「見た」
レイヴァートはうなずく。ヒルザスが息をついた。
「あのお人が、ねえ‥‥前王の、近衛だった」
手の内の飾りは、青く琺瑯を引かれた石に金線で複雑な鳥の紋様を焼きつけたもので、上等な飾りだ。おそらく裏には作った工舎か職人の名と、持ち主の印が記されているだろう。
──決定的な証拠。
すでに、当人もそれを奪われ、レイヴァートとヒルザスに顔を知られ、身分が割れたことを悟っている筈だ。
(あの人はどんな道をえらぶだろうか──)
狭い路地を抜ける。職人街から出る橋に、騎士装の男が立っていた。渡る人間をあらためているのだ。ヒルザスが彼に歩み寄り、騎章を見せて身分を明かし、人の手配をつける。そちらのことは彼にまかせ、レイヴァートは小さな店がたちならぶ道を抜けた。夕闇のなか、仕事を終えた人々が路地のあちこちへ座りこんで煙草をくゆらせている。
その一画に面して、小さな庭があった。奥行きはほんの二歩ばかりで、間口も狭いが、のしかかるような建物の中にぽっかりとあいた空間は、ふしぎに広く見える。雑草の中に猫が二匹ほど、丸めた体に首をうずめて眠っていた。その周囲に白い石がたくさんちらばっている。
庭のうしろは、二階建て半の幅の小さな建物だった。傾斜の高い屋根は、左右もわずかに傾いで見える。扉には、ほとんど闇に沈んで見えないが、神官文字が刻みこまれているはずだった。神の館のしるしだ。
扉の前の段石に腰かけ、手にした白い石へノミをあてている男がいた。ふっと息を吹きかけて削った粉を払い、石の表面へ刻んだものをたしかめるように指で拭って、顔を上げる。レイヴァートを見つけるとニヤッと笑った。小柄で丸顔の、愛嬌のある若者だった。
「よ、レイ」
「悪いが、部屋を借りたい、ゼン。治療をする」
「どぉぞ、どぞ」
体で反動をとって立ち上がる。どうにか聞き取れるが、舌足らずな言葉だ。扉をあけて、ロゼナギースをかついだレイヴァートを招じ入れた。イユキアは、扉の前で立ちどまる。
「私は──」
「イユキア」
中からレイヴァートが呼んだ。指二本で招く。まだためらっているイユキアの背を、ゼンと呼ばれた若者が押して中へ入った。
扉がしまると、あたりは暗がりにつつまれた。窓の外はまだぼんやりと夕暮れの明るみが残っているが、室内は暗い。ゼンがすばやく動く気配があって、油燭に炎がともる。油皿に丸いほろをかぶせて、ゼンは二人の先へ立った。
そこは小さな続き部屋で、窓辺に大きな鳥の模型が吊るされている。床には、どうやらつくろいかけらしい帆布が盛大に波打っていた。レイヴァートは布を踏まないようよけながら、続き部屋の扉をあけるゼンの背中を追う。イユキアも吐息まじりに追った。
続きの部屋は、がらんとしてほとんど何もなく、床のすみに、たたんだ毛布が膝の高さほどまで積んである。壁に打ちつけられた厚みの薄い棚には、小さな壺や木箱がいくつか並べられ、乾いた、独特の匂いが漂っていた。
ゼンが毛布を一枚とって床へひろげる。短く礼を言って、レイヴァートはかついできたロゼナギースの体を毛布へ横たえた。イユキアをふりむく。
「要るものは? ここには、多少の薬草もある」
すでにイユキアはあたりへ漂う香りに気付いていた。見回した目が、壁のくらがりに吊るされた草木の束を見やる。簡単に手持ちのものですませようと思っていた予定を変えて、一瞬考えた。
「石鉢と水を。あと、オキナグサとニガヨモギ、少しいただいていいですか」
言葉を聞いたゼンがぱっと動いて、準備を手際よくととのえる。イユキアは自分のマントの内袋から取りだした布の筒をくるくるとひろげた。縫いつけた仕切りに、丸薬の包みや、気付けの枝、毒抜きの鉱物などがおさめられている。その中から二枚貝を合わせた器に入った軟膏を取りだし、小指で軽くすくうと、ロゼナギースの鎖骨のくぼみへ塗り付けた。先刻、使い魔の影を吸いだした場所だ。わずかに痕が影になって残っている。そのままでも心配はないが、一度そうして魔呪を通した場所から、思わぬものが入りこむこともある。魔除けでふさいでおくにこしたことはなかった。
作業を見ていたレイヴァートがふっと顔を上げ、静かに部屋を出ていく。すぐに隣室からヒルザスの声がきこえた。追いついてきたのだ。
となりの声は気にとめず、イユキアは作業に集中して治療をつづけた。手元を油燭の灯りで照らしながら、すばやい手つきで薬草を合わせていく。その間、ロゼナギースの呼吸の深さとリズムを感じ取りながら、自分の気配をそれに重ねて、あたりの空気の流れを少しずつ変えた。より深く、より清浄に。
入ってきたヒルザスとかるい挨拶を交わし、あたりにひろがっていた帆布を片付け終わって、ゼンは外へ出ていく。また石を彫るのだろう。狭い前庭には、ゼンが奇妙な形を彫りつけた石が無数にちらばっている。たまに、船乗りがおもしろがって護符がわりに買っていくこともあるらしい。
ヒルザスが隣室へあごをしゃくった。
「どうなってる」
「施療中だ」
「黒館の主が毒を盛るってことはないのか?」
レイヴァートは、友人が冗談を言っているのかと見つめたが、ヒルザスは存外真面目な顔をしていた。重ねて言う。
「だって、そうだろう。ローゼ殿は黒館にうらみがある。しかも、短剣つきつけてつれ回したんだぜ。この際、先手を打って殺っちまおうって考えたり、するぞ、俺は」
「お前はな」
「てめぇはしないのかよ──」
「今の黒館の主は、毒は商わん」
水掛け論になりそうだったので、レイヴァートは面倒そうにさえぎった。ヒルザスは「ふぅん」とうなずいて、それ以上こだわりは見せなかった。じっさい、ここで毒を盛るような真似は、たとえイユキアがしたくともできないだろう。あまりにあからさまだし、馬鹿馬鹿しすぎる。
二人は、人の手配と段取りについて会話をかわした。ヒルザスはすでに、詰め所に人をやってこの家へ担架を運ばせている。ロゼナギースが回復し次第、騎士の詰め所に運び、王城からの指示を仰ぐ。すでに王城へは伝使をやったと言う。
大体の話が一段落すると、ヒルザスが例のマント留めを取り出した。
「これは、どうする」
「王城には伝えたのか?」
「いや」
たしかに、口頭でつたえられるようなことではない。レイヴァートは考えていたが、小さな吐息をついた。
「次の王城への伝使に、手紙をつけてこれを持たせよう。陛下がご判断なさることだ。‥‥王城には、あの方の息子がいる。我々に素性を知られた今、あの方もそうは愚かなことはなさるまい」
「そうだな」
ヒルザスは顔をしかめたが、うなずいた。二人は一瞬だまる。
少しためらってから、ヒルザスが言った。
「なあ、レイ。‥‥マキアをつれてきてもいいか? ローゼ殿に会わせてやりたい。6年前も、顔を合わせることはできなかったそうだ。これをのがせば‥‥二人は、二度と会えないかもしれん」
レイヴァートの口元に小さな笑みがうかんだ。
「行ってこい」
ニヤッと笑みを返し、ヒルザスはマントを翻して夕闇の中へ小走りに出ていった。
ロゼナギースの頭を腕にかかえ、回した手であごを巧みに開け、イユキアはゆっくりと薬の入った皿をかたむける。ロゼナギースの喉がうごいて嚥下したのを見とどけると、また少し口に含ませ、慎重に、丁寧な手つきですべての薬を飲ませていく。
レイヴァートは、扉の脇に肩をもたせかけて、イユキアの作業を眺めていた。
部屋には、しんとした空気が満ちている。肌がやわらかな水にふれているような、ふしぎな感覚があった。イユキアが人に施療を行う時にあたりがこんな空気に変わるのを、レイヴァートは前に感じたことがある。魔呪か、と聞いたこともあるが、そうでもないらしい。治癒の技の一環らしいが、イユキアにもうまく説明できないようだった。
薬を飲ませおわると、ロゼナギースの頭を横たえ、首の後ろへ丸めた毛布を入れて頭を固定し、唇を布で拭いてやる。すでに左肩の傷口は水で洗い、ヒレハリソウの軟膏で覆って布で巻いてあった。
しばらく、右手をロゼナギースの口元へ、左手指を首の血脈に当てて、呼吸と脈をはかりながら体内の流れをととのえていたが、やがてイユキアは静かに手を引いた。レイヴァートを見上げる。
「起こしますか?」
「いや」
レイヴァートは首を振った。マキアが来てからの方がいいだろう。イユキアがほっとしたようにうなずいて、ひろげてある薬草を片付けはじめた。その様子をながめていたが、レイヴァートが呼ぶ。
「イユキア」
「‥‥‥」
水にくぐらせた指先を拭って、イユキアはレイヴァートを見やった。
イユキアの白い顔に、点々と血の跡が散っている。使い魔をとらえようとした時、舞った血がついた跡だ。レイヴァートは膝をつくとイユキアの手から布をとり、水で濡らして、イユキアの肌に乾いた血を拭いはじめた。
一つ一つ、丁寧に朱の汚れを拭いとってゆく。たずねた。
「あんなふうに、術をやぶって、お前は何ともないか? 本当に大丈夫か?」
「‥‥レイヴァート」
「何だ」
額から頬へ、拭いおわった布を置き、レイヴァートはイユキアの頬へ手をあてた。伏せようとする顔を上げさせ、まなざしを合わせた。今日のイユキアが自分をまっすぐ見ようとしないことに、彼はとうに気づいている。
「どうした?」
「知って──いるのでしょう。私が、あの店で何をしていたのか」
レイヴァートはまばたきする。イユキアは、とりつくろったような無表情で彼を見ていた。その下に揺らぐものを押しかくすように、声は低かった。
「気付いたのでしょう?」
「ああ」
レイヴァートはうなずいた。
イユキアがはっきりと身を固くするのが、ふれた手につたわる。暗い色の瞳を見つめたまま、レイヴァートは淡々と言った。
「人の血を、買っていたのだろう」
「‥‥けがらわしいと、お思いでしょう」
目を伏せたイユキアの頬にふれる手を離さず、レイヴァートはじっと見ていたが、ふいに言った。
「飲むのか?」
「まさか! そんなことは──」
あわてたイユキアは、レイヴァートの笑みにあって、からかわれたのだと気付く。頬をさっと赤みがはしって、彼は顔を伏せた。
レイヴァートは笑みを浮かべたまま、
「なら、それほど恐ろしいことではない。どんな術に使うにせよ、‥‥お前は、理由もなく人の血を要したりはしない」
「‥‥‥」
「それに、俺は知っていたぞ。ずっと前からな」
イユキアがはっと目をみひらいてレイヴァートを見上げた。レイヴァートはうなずく。左手で、イユキアの髪をなでた。
「お前にはじめて会いにゆく前に、俺は、お前のことをしらべたからな。その時に耳にした話の中にあった。黒館の主は、たまにクーホリアで人の血を買い、血の技を行うと」
「‥‥あなたは‥‥」
全身から力が流れ出す気がして、イユキアは長い溜息をついた。凍るように身の内がつめたくなっているのに、今さら気がつく。小さな震えが体を抜けた。
「忌まわしいとは、思わなかったのですか‥‥」
「思った。その時はな」
正直に言うレイヴァートに、イユキアはかすかに苦笑した。その肩へ腕を回し、レイヴァートはイユキアの体を強い力で抱き寄せ、抱きしめた。こわばったイユキアの体にぬくもりをうつすように無言のままきつく抱く。マントの上から背中の線をたしかめるように手のひらを這わせると、イユキアが小さな吐息を洩らした。つめたく冷えた体の芯が、ぼんやりと熱をおびる。やがて、ほそい体はゆっくりとレイヴァートへ体重をあずけた。
レイヴァートが囁いた。
「そんなことを怖がっていたのか?」
「‥‥少し」
「お前は、本当に‥‥」
小さく笑って、レイヴァートはイユキアの顔をのぞきこむ。とまどったような表情をうかべたままのイユキアを見ていたが、身を傾けて口を重ねた。ゆっくりと味わうように、唇を愛撫する。
長いくちづけに、めまいすらおぼえてイユキアはその熱に身をゆだねかかる。レイヴァートの腕も唇も、ただ熱く、心地よい。体が飢えたようにその熱を飲み干し、大きく揺らぐ。まるで酔ったように感じながら、彼は頭を振った。
「‥‥レイ」
「ん‥‥」
答えるレイヴァートの声も、同じ熱に酔ったようで。イユキアを抱きしめて離そうとしない。イユキアは前より強くあらがった。
「レイヴァート──」
「‥‥ああ」
小さな息をついて、レイヴァートは腕を解いた。まっすぐな眸でイユキアを見つめて、言う。
「会いたかった」
「‥‥‥」
イユキアは言葉もなくレイヴァートを見つめ返していたが、やがて、目をおとすと、余った水を石鉢へ注いで指先で鉱粉や薬草をこそげおとしはじめた。呟くように、
「あなたのそういうところが、私にはおそろしい」
「‥‥何が?」
ふしぎそうな顔をしたレイヴァートの前で、イユキアは水差しと石鉢を手に立ち上がった。歩き出す彼を先回りして、レイヴァートが扉を開けてやる。イユキアは隣室の窓へ歩み寄り、外へ水を捨てた。窓はいくつかの家で囲んだ小さな裏庭に面し、窓の下には、よくあるように物を捨てるための穴が掘られていた。
水気を払って、イユキアは鉢と水差しをテーブルへ置く。扉を目でさした。
「あの人は、表に?」
「ああ。石を彫っているんだろう。ちょっと変わり者だが、いい奴でな。一度は神学科の学舎へ入って、ベルシュカの都で神官の修業をしていたそうだ」
「‥‥‥」
イユキアはレイヴァートを見ている。無言の問いにうなずいて、レイヴァートはつづけた。
「理由は知らんが、今は破門されて、クーホリアでこんな小さな祈りの館を持っている。どうも、破門の時に舌の前半分を失ったらしい。すまないが──」
一瞬ためらったレイヴァートへ、イユキアは微笑する。
「いいですよ。できることがあるかどうか、見ましょう。あの人が、私の施療をよしとするのなら」
「すまんな」
ホッとした様子で、レイヴァートは早速扉の外へ出ていくと、ゼンをともなって戻ってきた。イユキアとゼンは、床に置かれた厚い織り地へ向かい合わせに座る。
ゼンの呼吸をはかりながら、イユキアは静かに若者の顔を見つめた。この若さで一度は東の都で修業をしたと言うことは、子供のころから神童と言われるほどの存在だったのではないだろうか。遠い山脈にかかる青霧のような色の目は、静謐で、深い意志を感じさせた。
レイヴァートがかたわらに座りこみ、互いを紹介する。
「イユキア、ゼンだ。手先が器用で、飾り物をつくらせるとうまい。ゼン、イユキアだ。施癒師であり、黒館の主だ」
ゼンがニコッと笑うと、右手を出した。手首をたて、手のひらをイユキアの方へ向ける。イユキアは、一瞬ためらったが、ゼンの真似をして右手のひらを出した。手のひら同士がかるくふれる。そこから、ヒリリとしたものがはしった。ゼンが何かの力を流しこんできたのだ。攻撃的なものではない。好奇心に満ちた、ためすような波だった。
イユキアは首をふった。
「ごめんなさい。私は‥‥そういう力を受けつけないのですよ」
「‥‥‥」
ニコッと笑ったまま、ゼンは手を引き、うなずいた。たどたどしい舌で、
「あなたは、何かに護られている」
「黒館との契約魔呪でしょう」
「それだけでは、ないね」
首を振った。イユキアは少し首をかしげたが、話をかえる。
「あなたが嫌でなければ、舌の傷を見せてもらってもいいでしょうか?」
ゼンは、うれしそうに二回、うなずいた。
イユキアは油燭を片手にゼンの口をあけさせ、口腔内をのぞきこんだ。舌先が途中から切りとられている。舌全体がやや黒ずんで、色の濃い斑点が散り、何かの毒を思わせた。傷には壊疽の気配はないし、腐臭もない。
傷口は、白っぽく濁った色で、ひきつれてふさがっている。ぬいあわせた跡はない。おそらく炎で焼いて傷をふさいだのではないかと、イユキアは検分して、ゼンのあごから手をはなし、身をおこした。
修行者の中には、沈黙の行を行うために舌の腱を切る者もいる。だがゼンの傷はそういうものではないようだった。何かの罪を問われて切りとられたものか。
イユキアはおだやかにたずねた。
「まだ痛みますね?」
「ん」
ゼンがうなずく。
「毒抜きをしましょう。亜麻の種を水で浸出した液にこれを落として、毎日、うがいをしてください。呑みこまないで」
油紙にくるんだ練り物をとりだし、薄い竹のヘラで一部を取ると新しい油紙へつつんだ。ゼンへ、一回にどれくらいの量溶かせばいいのか示す。わずかなものだ。一月ほどは持つだろう。
カデ油で練った黒ずんだかたまりは、イユキアが採取した薬草と鉱物を練り上げてねかせたものだ。肌や粘膜には刺激になる。その刺激で傷の回復をうながし、早め、代謝をうながす。だが、多く用いれば毒になる。ゼンは、自分が薬草を用いる以上、そういったことは心得ている筈で、イユキアが与えるこまかな注意をうなずきながら聞いていた。
「一月で、痛みはだいぶとれると思います。しびれは少し残るでしょうが、半月ほどで戻ります。うがいはしばらく続けて下さい」
「ありがとう」
「いいえ」
ぎこちないが本心からの礼に微笑して、イユキアは薬をふところへしまった。一つ、残した包みをレイヴァートへ渡そうとする。
「あの方に、あとでこれを。口に含ませれば、目が醒めます」
「‥‥お前は、どうする」
受けとろうとはせず、レイヴァートは眉をひそめた。
「帰りますよ」
「どこに。黒館にか? もう、夜だぞ。また狙われでもしたらどうする」
「ご心配なく」
立ち上がったイユキアの前へレイヴァートが立ちふさがり、肩をつかんだ。のぞきこむ。
「いいから。‥‥今日は、黒館へは戻るな。少し待て」
「‥‥‥」
つよいまなざしをたたえた深緑の瞳から目をそらして、イユキアは無言でうなずいた。レイヴァートが彼を心配しているのだということはわかったが、どうにも制御できない苛立ちが胸を刺す。何と言って説明すればいいのか、わからない。レイヴァートのそばにいると感情が波立って、心を張っていないと後悔するようなことを言ってしまいそうだった。
──自分のことなど心配しなくていいと。己のことは己で、己だけでどうにかするし、その結果がどうなろうとかまわないのだと、それだけのことをレイヴァートに対してどう言えばいいのか、イユキアにはまったくわからなかった。彼を心配させたくもないし、傷つけたくもない。ただ、放っておいてもらいたい。
そんなささいなことを伝えきれずに混乱する己が厭わしい。今すぐこの場から消えてしまえたら、どんなにかほっとするだろう。
そんなことを思いながら、イユキアは、レイヴァートに引きとめられたことに安堵もおぼえていた。肩に置かれた手からつたわる力を手ばなしたくはないと、心のどこかがきしむ。彼の腕にくずおれてしまいたいと。肩におかれたレイヴァートの手のぬくもりに、体がまださっきのくちづけの熱をおぼえているのがわかった。
イユキアは、レイヴァートの手を肩からだまって外した。レイヴァートは「うん」と小さくうなずいて、道具を片付けているゼンへ歩み寄った。ベルトの隠しからコインを取り出して渡す。
「後だと忘れそうなのでな。油代と、迷惑料だ」
「んんん」
少し迷ってから、ゼンが受け取った。二人が近ごろの街と王城の噂を交換しはじめたのをきっかけに、イユキアは彼らに背を向けて、ロゼナギースが眠る続き部屋へ入ると、壁にもたれて座りこんだ。
仕立屋の入り口が開き、扉の小さなベルが鳴る。仕立屋の男は、作業台にひろげていた絹布から顔を上げた。
入ってきたヒルザスが頭をさげる。
「どうも。こっちは一応、片づいた。そんで‥‥マキア」
呼ばれて、奥の椅子に座っていたマキアが立ち上がった。彼女の身の安全のため、ヒルザスは元騎士の仕立屋に面倒をたのんだのだ。
マキアは、言葉が出ない様子で、息をつめるようにヒルザスを見つめる。ヒルザスはうなずいた。
「ローゼ殿に会いたくないか」
「‥‥‥」
つき動かされるように、一歩、前へ出た。
仕立屋の男が立ち上がり、椅子の背から女物のマントを取ってマキアの肩へかけてやると、ポンと肩を叩いた。
マキアをつれて店を出ながら、ヒルザスはふっと背後をふりかえった。
「‥‥あなたは? ローゼ殿に──」
かすかに微笑して、初老の男は首をふる。だまったまま、ふたたび針を手に布へ向かった。
小さなベルの音を鳴らして、扉がしまった。
静かな足音とともに、レイヴァートがイユキアのそばへ歩みより、横へ腰をおろした。イユキアは、瞑想するように足を組み、目をとじて壁にもたれている。
ロゼナギースはおだやかな呼吸で眠っていた。しばらく、その姿を見つめていたが、レイヴァートがつぶやくように言った。
「22年前のことだ。この方の母上が、謀って、王に毒を盛ろうとしたが、事が明るみになって一族はほとんどが処刑された」
「その毒をつくったのは、黒館の主だそうですね」
「聞いたか? そう。黒館の主は罪には問われなかったがな。黒館は、王城の裁きの範囲ではない」
イユキアは、ゆっくりと瞳をあけ、ロゼナギースを見やった。
「この方は、何故命をゆるされたのです? ‥‥王の血を引いているからですか?」
「いや。俺も、人に聞いただけなのだがな。まず裁罪が為され、ローゼ殿は二つの道をせまられた。家の名と自由を捨てて孤独に生きるか、さもなくば母と同じ死か」
ふっと小さな息をついた。
「‥‥ローゼ殿は名も自由も捨てて生きることを選択され、後に、音師がローゼ殿の身柄を引き受けたそうだ。元々、ローゼ殿は弟子としてその音師へつかえ、将来はサリューカを継ぐだろうとも言われていた」
「サリューカ‥‥」
つぶやいたイユキアへ、レイヴァートがうなずいた。
「サリューカについて、俺はほとんど知らん。11年に一度、王城の奥でとりおこなわれる秘義であり、音師がつたえる技によってのみ開く扉があるということしか。‥‥それ以上のことを知る者は少ない。王城には、そういうものが多いのだ。お前と黒館のように、王と王城は古い魔呪で結ばれ、それを保つために存在する輪の一つがサリューカなのだろうと、俺は思う」
レイヴァートは言葉を切って、ロゼナギースを見た。
「王城つきの音師にのみ、サリューカの技がつたえられる。サリューカを継いだ音師がいなくては、儀式そのものが成り立たん。‥‥ローゼ殿は6年前に王城から姿を消し、その2年後、王城の音師が冬の病で亡くなられた」
「‥‥‥」
「ローゼ殿は、音師の弟子の一人だった。音師が弟子のうちの誰にサリューカを伝えるのか、伝える気だったのか、俺は知らん。知っておられたとすれば陛下だけだが、陛下もご存知だったかどうか‥‥6年前、ローゼ殿が幽閉されていた塔から姿を消した時、陛下は追手を出されなかった」
イユキアは、ロゼナギースと剣を交わしたヴィラハンの会話を思いだす。
(無理だ、ヴィラハン。オルジカでは次のサリューカはおこせん──)
(貴様は‥‥貴様は、二度と帰らぬと言った‥‥)
やりとりの内容をレイヴァートへつたえると、レイヴァートは物憂げにうなずいた。
「そう。あのお人の息子、オルジカも、音師の弟子だ。年若だが、次のサリューカでは音師として王城に仕えるものだろうと、俺たちは思っていた。だが‥‥そうではなかったのかもしれんな」
吐息をつく。王は、何も言わず、音師亡き後の名跡を誰にも渡さず、次のサリューカの儀に誰を用いるか明言することもなかった。ただ沈黙を守り、口をとざした。
(待っておられたのだろうか──)
「‥‥ローゼ殿は、そのために帰ってこられたのかもしれん‥‥」
イユキアが、レイヴァートの横顔を静かな目で見つめた。
「この方は。自分の係累を殺し、自分を16年間とじこめて自由を奪った故郷を、それでも愛しておられるのですよ。あなたが、この国と陛下へ心を捧げたように、この方の心も、この地にある」
「‥‥‥」
レイヴァートがゆっくりとイユキアを見た。何か、言いかかる。
その時、扉が開き、ヒルザスの声がした。
苦味のある丸薬を下唇の裏に含ませると、ややあって、ロゼナギースはゆっくりと目をあけた。
ぼんやりとしていた目が焦点を結び、自分をのぞきこむ人々の顔を順に渡ってゆく。イユキア、レイヴァート、ヒルザス、マキア。マキアに少しの間まなざしをとめていたが、レイヴァートを見上げて笑った。
「よお。‥‥手間、かけたみたいだな。すまん」
言いながら、起き上がろうとする。イユキアが手伝い、水を手渡した。まだロゼナギースにはめまいが残っていたが、左肩はほとんど痛まないようだった。めまいも、一晩休めば快復するだろう。
ロゼナギースは水を飲み干すと、マキアを見上げて、笑った。
「マキアか。22年ぶりだなぁ。昔のまんま、ビックリするほどきれいだぞ」
「‥‥ローゼ様‥‥」
小太りの娼館の女主人は、両目にいっぱいの涙をため、ロゼナギースのかたわらへぺたりと膝をつく。イユキアが入れかわるように静かに立ち上がって部屋から出ていった。レイヴァートはちらりと目をやったが、腕組みしたまま、追わなかった。
ロゼナギースが手をのばし、マキアのぽっちゃりとした手を両手にはさんだ。
「すまんな、マキア。苦労をかけた末にこんなことになっちまって‥‥お前が育てようとしたガキは、とんだ悪ガキだったみてェだ」
「‥‥‥」
「お前は、俺の最後の家族だってのに。俺は、お前まで悲しませて‥‥」
微笑して、マキアは首をふった。泣くまいとこらえるように歪んだ顔を、大粒の涙が何粒もころがりおちた。そのまま二人は言葉もない。
ヒルザスが、申し訳なさそうに声をかけた。
「ローゼ殿。迎えが来ておりますので‥‥」
「ああ。王城に行くのか?」
「それは明日以降、陛下のおぼしめし次第ということになります。ひとまずは‥‥」
と、言葉を切った。マキアがいる前で、その場所を明らかにするのは職務上まずい。
ロゼナギースは闊達な表情でうなずき、ヒルザスの手を借りて立ち上がる。ゆっくりと部屋から出ていこうとしたが、ふと意を決したように真顔でマキアをふりかえった。
「マキア。ありがとうな。俺は‥‥お前のおかげで、今日まで生きのびた。お前がいなけりゃ、22年前に俺は死んでた」
ニッコリ笑った。
「たぶん俺は、サリューカが終わったら、死ぬ。いくつも誓約を破ったからな。だが、サリューカを通して、俺は王城の礎になる。少しでいい‥‥俺を、誇りに思ってくれ」
マキアは涙に濡れた微笑を返した。
「あなたは、お小さい時からずっと、かわらず、私の誇りでございますよ」
ロゼナギースはマキアを見つめ、うなずいた。
「お前も俺の誇りだ、マキア‥‥」
ゆっくりと、ヒルザスの肩を借りて部屋を出ていく。足音が隣の部屋を横切り、外へと出ていく音がした。
部屋にはマキアのすすり泣きが低く流れ、レイヴァートは女を見つめたが、丸く落ちた肩にかける言葉もなく、数秒して彼も部屋を出た。
イユキアが、窓際の壁にもたれてぼんやりと目をとじている。灰色のフードをかぶった全身は影のようで、表情はよくわからない。伏せたまぶたの下でこちらを見たような気もした。そこにいろと手で合図して、レイヴァートは庭へ出た。
ヒルザスが手配した迎えの騎士が4人、前庭へ出たロゼナギースを囲んでいる。一人が肩にかけた折り畳みの担架を示したが、ロゼナギースは面倒そうに手を振って歩き出した。4人があわてるように彼を追っていく。彼らはロゼナギースが「誰」であるのかは知らされていないが、「丁重に扱うべき罪人」とヒルザスに言われている筈だった。
列の最後尾につきながら、ヒルザスがぽつりと取り残される少年の肩を叩く。
「マキアを頼む。少し休ませてから、店まで送ってってくれ、ベルン。今日はよくやった」
「はい!」
仕立屋の二階で見張り役をしていた少年は、いきおいこんで答える。ヒルザスは、レイヴァートへひらりと手を振った。
「じゃな。こいつは貸しにしとく。コウモリ相手にムキになんなよ」
レイヴァートは無言でうなずき、いささかものものしい雰囲気の一隊が、足音をそろえるように暮れていく夜の向こうへ消えるのを見おくった。
ふ、と息をつく。
ふりむくと、扉の脇でしゃがみこんで石を彫っているゼンと目が合った。
「‥‥すまんな、騒がせて」
「ん」
にこっとして、ゼンは首をふる。また石に何かを刻みつけはじめた。今度は手にすっぽりおさまるほどの小刀を使っている。刻んでは息で粉をとばし、時おり小刀の刃を膝にひっかけたボロ布にこすりつけ、この暗い中でよくぞという早さで彫っている。時おり右手指の腹で彫り跡をたしかめるところを見ると、目だけに頼っているわけではないのだろうが。
扉を開け、中へ入るとレイヴァートはイユキアを呼んだ。
「イユキア。‥‥行こう」
かすかに眉をひそめたようだったが、イユキアは窓際からマントにつつまれた身をおこし、レイヴァートについて家を出た。
歩き出したイユキアへ、ゼンが歩みよって、何かを手渡した。ニコッと笑いかける。イユキアは小さな声で何かつぶやいて、頭を下げた。
二人は、夜に沈む路を歩きはじめた。夕刻にくらべ、人通りはぐっとまばらで、道によってはまったく人影がない。
歩きながら、イユキアがかわいた声でたずねた。
「お役目は?」
「俺の仕事は終わった。後は、王城からの返答待ちでな。今夜の当直は、ヒルザスに適当に手配してもらった」
一瞬、イユキアの足がとまりかかった。
「‥‥ちょっと、それは‥‥無茶では?」
「いや、べつに」
レイヴァートは平然としている。実際、彼の任務は終わっているし、ヒルザスの当直をやりくりしてやることもあるし、彼にとっては何ら問題のあることではない。
「それにまだ一つ、やり残した仕事があるからな」
そう言いながら、店じまいの遅い川沿いの店へ寄って、果物とワインの袋、それに魚のガヌトーを買った。ガヌトーは、薄く焼いた小麦粉の生地に色々な具をはさんだもので、レイヴァートが買ったものはうすく衣を付けて揚げたタラが具になっている。
何か食べないか、と聞かれて、イユキアは少し考えてから、つぶしたレンズ豆を巻きこんだガヌトーを買った。緊張が少しとけたせいか、空腹がやけに実感をもって感じられる。
歩きながらレイヴァートはガヌトーをかじりはじめ、イユキアも少し口にした。食べ歩きなど、した覚えがほとんどないが、あまりにレイヴァートが美味しそうに食べるのにつられた。
さっさと先に食べ終わり、油のついた指をなめながら、レイヴァートがたずねる。
「イユキア。どうして、ローゼ殿についていった?」
「‥‥‥」
イユキアは、ゆっくりとガヌトーを噛みながら黙っている。レイヴァートが責めているわけでも言い訳を要求しているのでもなく、理由を知りたがっているだけなのはわかっていたが、自分の中にあるものをどう伝えればいいのかわからなかった。
あの店から一刻も早く逃げ出したかったのは、レイヴァートと顔を合わせているのが怖かったからだ。人の血を買い、その血をふところにしのばせたままで、暗い技をおこなう身を見抜かれてしまいそうな気がした。愚かで、今にして思えば滑稽ではあるが、どうしても知られたくなかった。
その衝動に、うごかされた。それは確かだが、それだけならすぐにロゼナギースと離れればいい。それをせずにロゼナギースとともにいたのが何故なのか、それがイユキアにはうまく言えなかった。
黙りこんだ彼の横で、レイヴァートも何も言わない。橋を二つ渡り、北側の住居区画へ通じる門をレイヴァートが身分を名乗って通り抜ける間、イユキアは黙っていたが、ゆるやかな坂をのぼりはじめたところで呟いた。
「‥‥あの人が、私と似ている気がした。あの人も何かを探して、何かから逃げている」
「探して──」
「でも、全然、似てはいない」
切るように、イユキアは語尾をかぶせる。自分の内側をのぞきこむような目をしていた。
「私には故郷もないし、会いたい人もいない‥‥」
レイヴァートは何も言わなかったが、左手をのばしてイユキアの手をつかんだ。夜闇の中、指をからめて引きながら、たしかなぬくもりと力を与える。そのまま、歩きつづけた。
あたりには塀に囲まれたつくりの大きな家が建ち並ぶ。その中ではやや小さな家の門をレイヴァートがくぐると、イユキアはけげんそうにたずねた。
「ここは?」
「俺の家だ。いつもは王城にいるから、使うことはあまりないが」
「‥‥‥」
イユキアは足をとめかかったが、レイヴァートに手をつかまれていてはそれもできない。門から敷石を踏んで三階建ての家へと近づく。その間、レイヴァートが説明した。
「サーエが、ごくたまに、クーホリアへ遊びに出るのだ。もともとあれはこの街の育ちでな、楽しいらしい。体の調子がよい時だけだが。そのたびに手配をつけるのが面倒なので、ここを借りている」
サーエシアは、レイヴァートの妹の名だ。
イユキアがあまり意味のある返事をかえせないでいるうちに、玄関前の段石をのぼったレイヴァートは、懐から取り出した鍵で扉を開けた。イユキアを中へ招じ入れる。玄関脇から油燭を取り上げて、灯りをともした。
「明日、陽がのぼったらお前を街門までおくる。すまんが、黒館までは送っていけん」
「‥‥何を心配しているのです?」
イユキアは、示されるままマントを取り、客を待たせるための一室を横切って壁の突起へマントをかけた。ふりむいて、レイヴァートを見る。炎をうつして目はかすかな琥珀に光っていた。
「黒館の主は、王城にもアシュトス・キナースにも属さぬ異形の民。あなたも言った、黒館の主は王城の裁きの外にあると。‥‥私は、そういう存在だ。責めるにも値しないが、守るにも値しない‥‥」
「俺は、黒館の主を心配しているわけではない。お前を心配している」
レイヴァートはことさら言い返すふうでもなく、おだやかに答えた。買い求めた果物とワインの袋を下げ、奥の廊下へ通じる扉を開けると、肩ごしに手招きした。
「とにかく、茶でも飲もう。疲れただろう。すまないが、もう少ししたら客が来る」
「‥‥‥」
口をひらきかけて、イユキアはまたとじた。言えば後悔するようなことばが、口をついて出そうな気がした。自分が何を言おうとしているのか、さっぱりわからない。そもそも何を言いたいのか、レイヴァートにどう思ってほしいのかもわからなかった。彼は黙ったまま、レイヴァートについてゆく。
奥の、細長い客間らしき場所へイユキアを通すと、レイヴァートは厨房に入って炉に火をおこし、湯をわかした。今朝方、ロゼナギースを追ってクーホリアへ来た段階でもう伝使をおくって家の中をととのえさせたので、水も薪も用意されている。特にここを使う用があったわけではないが、いざという時に使える場所があれば重宝すると見込んでのことだった。
手早く茶を入れ、客間へ戻る。
向き合ったソファのどちらにもイユキアの姿はなく、レイヴァートは一瞬どきりとしたが、イユキアは引き出しのついた飾り台の前に立って、そこに立ててある小さな額を眺めていた。
テーブルへ茶を置いて、レイヴァートはイユキアの横へ歩み寄った。額は、白い貝を継ぎあわせてつくられた瀟洒な楕円形の額で、紙に銀線で描かれた胸から上の男女の肖像が入っていた。線だけで描かれ、斜線で影がついた素描だったが、充分に人のぬくもりが感じられる絵であった。
絵の中の男女ともに、まじめな顔をして正面を見つめ、飾りは質素だが形の美しい正装をまとっていた。男性は細作りだが肩のあたりはしっかりとして、結んだ口元に強い意志が感じとれる。まなざしには鋭い気品があった。女性は胸元へ扇をあて、ふくらんだ袖につつまれた左肩をわずかに体の前へかたむけているが、仕種に上品な可愛らしさがある。まっすぐな髪を胸元へ垂らしていた。
レイヴァートがうなずいた。
「両親だ。肖像画を描こうとしていたらしくてな。絵が完成する前に二人とも亡くなったが、画家が素描を数枚くれた」
イユキアが、レイヴァートへ静かなまなざしを向ける。
「まだお若いようですが‥‥いつ、お亡くなりに?」
「俺が7つの時だから、そうだな、18年ほど前のことになるか」
「‥‥それは」
「俺は、4つの時からエピルガの学舎にいたからな。あまり、親の記憶はない」
おだやかに微笑してから、ふとレイヴァートは気付いたように、
「そうか。話したことがなかったな」
彼らが知り合ってからもう1年半ほどになるが、そう言えば家の話をしたことはなかった。イユキアは自分の話をしようとしないし、聞かれたがらない様子なので、レイヴァートもあまりその手の話題を持ち出さないのだ。
少しばかり呑みこめない顔をしているイユキアをうながして、レイヴァートはソファへ座らせた。イユキアに果物と茶をすすめて、手に取るのを見ていたが、自分も熱い茶を一口飲むと、間を置いて話し出した。
「エピルガは西の平原を越えて、大きな河を十日ほど遡った所にある、学びの宮だ。領土的にはカイ=ゼールの中にあるが、エピルガそのものは独立している。税も多くが免除されているし、エピルガの中でおこった物事については裁罪権もある。俺がエピルガへ行ったのは、4つの時だ」
「何を学びにいらしたのです?」
「何だっただろうな」
レイヴァートは苦笑した。
「もともとは、学者になるか、星読みをするかということだと思ったが‥‥俺にはどうもそちらの才はなかったようでな。師もとれずにいるうちに両親が亡くなって、家へ戻った。その時はじめてサーエに会い、サーエの病のことを知った。あれが、一生治らぬものだということも。それでエピルガへ戻り、そこにいた賞金稼ぎの剣士に弟子入りした」
「‥‥賞金稼ぎを、学舎で教えていたわけではないのでしょう」
「勿論、ちがう。エピルガの守備隊に、一時だけ身を寄せていた剣士だった。俺は彼についてエピルガを出、13の年まで6年ばかり、賞金稼ぎをして家に金をおくった。今となってみれば、なかなかおもしろい旅だったな」
明るい目をイユキアへ向け、レイヴァートはカップを置いた。
「あまり、いい育ちとは言えんがな。だから王城では、13の歳までエピルガにいたことになっている。書記が勝手に書き換えた」
少し、不満そうだった。王城の騎士として記録をととのえられたのだろうが、レイヴァートの本意ではないらしい。
イユキアは黙ったまま、うなずいた。レイヴァートは妹を養い、施癒師に見せる金を稼ぐために、秩序の外で育つ道をえらんだのだ。どう考えても楽なことではなかっただろうが、それを語るレイヴァートの声にも表情にもかげりはなく、それがイユキアにはふしぎだった。決してきれいなだけの生き方ではなかっただろうに。
沈黙があたりをつつむ。イユキアは、小さな果実を一つ食べたが、さめた茶にわずかしか手をつけず、何か考えこんでいる。自分の内側へ漂うような目をした彼を、レイヴァートは心配そうに見やったが、何も言わなかった。沈黙そのものは居心地のわるいものではない。
ただ時ばかりがおだやかに流れた。
ふとイユキアがまなざしを上げる。白い顔に緊張がはしった瞬間、ノッカーを扉に打ちつける音がひびいて、レイヴァートは来客を迎えに立ち上がった。
扉をあけると、闇に溶けるような黒ずくめの人影が立っていた。
全身が黒い。つやのある黒布のマントで体を覆い、黒髪が背へ流れおち、耳のふちにはぐるりと黒真珠をつらねた飾りを留めている。顔には、くちばしのある黒ずんだ仮面をつけていた。金属とも木ともつかない、いぶしたような質感の仮面だった。
仮面の奥から、きしむような声が、
「‥‥レイヴァート」
「ああ。あなたがナルーヤ殿か? コウモリの長の?」
「そう。ご招待、お受けしてこちらへ参った」
「ご足労、感謝する」
「その人を家へ入れてはいけませんよ」
レイヴァートの背後にイユキアが立っていた。きびしい目で闇に立つ漆黒の影を見つめる。
ナルーヤが喉の奥で、金属をこすりあわせたような笑い声をたてた。
「招かれて参った者に、余りな言葉よな。なにゆえ?」
「あなたは──黒魔呪の使い手だ」
「おぬしもそうであろう、黒館の? 施癒師と名乗ろうが、そなたの得た力は人を傷つけねじまげるための技であろう?」
イユキアの両の目が、蒼白な貌のなかでキラリと光った。一歩出かかる彼へレイヴァートが静かに、
「大丈夫だイユキア。俺が招いた、俺の客人だ。お入りを、ナルーヤ殿」
一歩引いて道をあけた。ナルーヤは両の肩を左右に小さく揺らす。笑ったらしい。そうして、すべるように前へ出ると、家の敷居をまたいで中へ入った。
玄関を入ってすぐ廊下が十字に交差し、一つの部屋ほどの大きさがある。客を待たせたり相手をするためにしつらえられている待ち廊下で、壁際に小さなテーブルと椅子が置かれている。レイヴァートはその椅子を相手へ示した。
テーブルをはさんで二人は向かいへ座る。レイヴァートはとなりへ椅子を据え、イユキアにも座るよう示したが、イユキアは首をふって下がったところに立った。目をナルーヤから離そうとしない。
レイヴァートは小さく息をつき、黒衣の相手の顔を見つめた。正確には、顔を覆う仮面を。
仮面は獣と鳥をまぜたような造形で、鼻のあたりから口元へ巨大なカラスのくちばしのような突起がある。ゴツゴツした陰影が目元と口元に落ち、目の部分には小さな穴が開いているようだったが、見つめても、ほとんどそれとわからなかった。
レイヴァートは穏やかに話し出した。
「今日、黒館の主が使い魔に襲われた。二度にわたってだ。コウモリの通りの者のうち、誰かがしたことだが、誰がしたかを問題にするつもりはない」
「コウモリのしわざとは限らんぞ‥‥」
「黒館の主の居所を、通りの誰かに売った人間がいる。しらべれば、相手はすぐに知れることだ。つまらん誤魔化しは互いのためにならん、コウモリの宗主」
「‥‥それで?」
是とも非とも言わず、ナルーヤがかるく頭をゆらすと、肩から黒髪がすべりおちた。まるで、濡れた絹糸のようなつややかな黒髪だ。
「黒館も、コウモリも、おぬしら王権の手の届かぬところであろう、王城の騎士。我らに何を求める? あるいは、黒館に?」
カカカカ、と木を打ち鳴らすような笑い声をたてた。イユキアは、仮面の下から自分を刺すようなまなざしを感じたが、沈黙を保って身じろぎもしなかった。
レイヴァートは仮面へじっと目を据えたまま、重く揺らがない声で、
「だが王城と同じくこのクーホリアの街も無法地帯ではない。おぬしらと黒館の主と、互いに街なかで力を放てば人をまきこむこともあろう。現に今日、ひとりその影響を受けた者がいる」
ロゼナギースのことである。名にはふれずに続けた。
「そのようなことを、俺は看過するわけにはいかん。だから貴方に来てもらった、魔呪ギルドの宗主、ナルーヤ」
「ほ、ほ。成程? それで、何を求める?」
「和解を」
レイヴァートはそう言って、言葉を切った。ナルーヤもイユキアも身じろぎせずレイヴァートを凝視している。部屋の温度がふいに下がったかのように、あたりをつつむ空気はつめたかった。
「魔呪の者には魔呪の者の論理があろうが、私欲のために人を巻きこみ技を仕掛ける者を求道の徒とは言えまい。王城がそなたらコウモリを王権の外においたのは、そなたらの道をきわめようとする思いに応じてのことだ。それは、初代のコウモリが王とかわした誓約による。欲におぼれ、黒い力をふるう者を野放しにするために交わされた誓約ではない」
「‥‥ほ、ほ」
レイヴァートがはっきりと言いきってから一瞬の沈黙ののち、仮面の下でくぐもった笑いがおこり、ナルーヤの両肩がこまかくふるえた。笑い声は段々大きくなり、きしむのような声が部屋に反響して、耳が不快なこだまに満たされる。さすがにレイヴァートが顔をしかめたが、イユキアは影のようにそこに立ったまま身じろぎもしなかった。
「ほ、ほ、ほっ! 言いも言ったなァ、王城の騎士! コウモリを脅かすかや、ただのヒトが?」
「脅しではない。おぬしらの誇りを問うている」
「‥‥‥」
ふいにナルーヤの笑いがとまった。レイヴァートは変わらぬ口調で、
「コウモリにはコウモリの誇りがあるだろう。ただ黒館の主だという理由で人を殺しにかかり、他者をまきこむなど、魔呪師のすることとは俺には思えん。ただの盗人だ。そこに何の誇りがある?」
「‥‥言うなァ‥‥」
「今日の企みは失敗した。だが、この先、どうなる? コウモリは黒館の主を狙い、黒館の主はそれを防ぐために力を使う。相手を殺すこともあるかもしれん」
ちらっとレイヴァートは肩ごしにイユキアを見た。事実、今日、イユキアが技を返して相手を殺しにかかったことを、彼は気付いている。レイヴァートがとめなければ、イユキアは相手をしとめたはずだった。
「そなたらはどうする? それをまた報復するか?」
ナルーヤは答えない。だが、おそらく、するだろう。コウモリの小路に棲む者たちは互いに仲が良いわけではないが、コウモリ同士は独特のつめたい仲間意識でつながれている。コウモリの一人がイユキアに殺されれば、次の誰かが残した術を引きつぐ筈だった。
「そんなことを続けて、どうする。どうなる」
その問いに、くくっとナルーヤが肩を揺らした。
「我らは前の黒館の主とも、近いことをした。おそらくは、その前とも。‥‥黒館の力は、異形だ。欲しがる者がいくらあってもふしぎはない。なあ、黒館の?」
イユキアは無言だった。目だけが金の光を帯びてナルーヤを凝視している。
「なァ、王城の騎士、そなたの望みは我らが和解と言うがな。魔呪を使う者たちの間には和解などない。我らは闇に生まれついているのさ。‥‥我らを縛るには、限られた方法しかないぞ。誓約か、取引だ。王城の、そなたが応じた代価を支払うというなら、我らはのぞみどおり黒館の者を不可侵としよう。さて、何をさしだす?」
イユキアの全身に緊張がはしった。目がギラリと殺気のようなするどさを帯びる。だが彼が何か言いかかるより先に、レイヴァートがためらわずに言った。
「取引はしない。ナルーヤ。誇りは人と取引するものではない」
「誇り、ねェ‥‥」
「俺はクーホリアでの争乱を望まない。しかも、このように終わりの見えない争いはな。いずれどこに飛び火するかもわからん。だから、コウモリの宗主と黒館の主にたのみたい。ただ力を求めるだけ、ただ傷つけるための無用な争いは、出来うるかぎりさけてほしい。そなたらの誇りにかけて、たのむ」
静かに言い終えると、レイヴァートは頭を深く下げた。そのまま、上げようとしない。
ふう、と長い息が仮面の下から洩れた。ナルーヤがイユキアへ顔を向ける。
「我らに意見する騎士がいるとはなァ。当代の王も、おもしろい男をかかえたものだ。さて、どうしやる、黒館の? そなたは和解とやらに応じる気があるか?」
イユキアは頭を下げたレイヴァートを見やってから、ナルーヤを見て、つめたいほど静かな声でこたえた。
「私に人を傷つける意志はない。あなたがどう言おうと、思おうと、私は‥‥施癒師だ。あなたとも誰とも、争いは望まない」
「成、程。‥‥よかろう、レイヴァート」
呼ばれてレイヴァートは顔を上げる。シュッと風が切れるような音がして、レイヴァートの喉元へナルーヤの指がつきつけられた。手もまた濡れたような黒布の手袋につつまれていたが、手袋から黒くのびた爪がするどくレイヴァートの血脈をおさえた。わずかな動きで、喉が裂ける。
ナルーヤは笑いを含んだ声で言った。
「我らにはなァ、人の命など大したことではない。それが王城の騎士であろうと、黒館の主であろうとな。‥‥同じように、誇りなど、何の意味も持たぬよ、レイヴァート。取引するがいい。それですべて望む通りにしてやろう」
「取引はしない」
喉にゆっくりと爪がくいいる。レイヴァートは動かなかった。
見つめるイユキアの全身に危険な緊張が満ちたが、ナルーヤはそちらを見もしなかった。
「子供の約束だな。私がここで、そなたの言う和解とやらに応じたとして、そんな言葉に価値などないぞ。取引しろ、レイヴァート。私に応じろ。望みをかなえてやるぞ」
「‥‥‥」
身をのりだしたナルーヤの仮面を、レイヴァートはまばたきもせず凝視した。これだけ近づくと、目の部分に開いた二つの穴が見分けられたが、その向こうに見える小さな瞳は闇を落としたしずくのようで、表情はまったく読めなかった。
ふいに、レイヴァートの口元に笑みが浮かぶ。
ナルーヤがおどろいたような声を出した。
「何を笑う」
「‥‥いや。すまなかった。代償もなしに約束できぬのが、そなたらの道なのだな。それは、無理を言って悪かった」
まだ微笑したまま、レイヴァートはナルーヤの手首をつかんで喉からひょいと外した。いともたやすく爪を外されてナルーヤがたじろいだ気配を見せる。レイヴァートは立ち上がり、かるく一礼した。
「俺の流儀をそなたらに押し付けるべきでないが、一度、話をしてみたかった。話さなければわからぬものがあるからな。ありがとう。引き取ってくれてかまわん」
「‥‥‥」
とまどったような沈黙のまま、レイヴァートの姿を眺めていたが、ナルーヤはマントの肩を揺らして立ち上がった。イユキアはするどい眸でナルーヤの一挙手一投足を見つめている。
表へ向かって歩き出しかけ、足をとめると、ナルーヤの溜息がレイヴァートの耳へ聞こえた。ナルーヤが顔に手をかける。
黒い手袋の指で仮面を外し、彼はレイヴァートをふり向いた。
くちばしの下からあらわれたのは、まるで少年のような、得体のしれない稚さをたたえた貌だった。黒い、大きな目は、深い淵のように底しれず、ほとんど光がない。その目でレイヴァートを見つめ、ナルーヤは低い声で言った。
「‥‥王城の者が私を家へ招待したことなど、かつて覚えのないことだ。その礼節にだけは、むくいよう、レイヴァート。今日、黒館の主を襲った者は二度とあんなあさましいことはさせん。今日のことでは、我らは黒館の主にうらみはもたぬ。‥‥これ以上は何も約定できぬ」
ナルーヤの瞳の闇を見つめ返して、レイヴァートはうなずいた。
「感謝する」
「‥‥言葉だけで信じるか。思ったとおり、とんだお人好しだ」
からからっと笑って仮面をつけ、ナルーヤはつっ立ったままのイユキアへおどけたように一礼すると、一陣の風のようななめらかさで家を出ていった。
扉をしめようとするレイヴァートをイユキアがのばした手でとめ、かわりにノブをつかむ。自分の手で扉をしめると、しばらくノブをつかんだまま目をとじて扉に額をつけていたが、何かつぶやいてから身を起こした。くるりと戻っていく。
扉の閂をおろしてから、レイヴァートはイユキアを追った。
足音を立てない彼にしては珍しく、やたらはりつめた音を鳴らして客間へもどると、イユキアはさめた紅茶を流しこむように飲んだ。それから、長い溜息をつく。
レイヴァートを一動作でふりむいた。激しいものを抑えるような目をしていた。
「何を考えているのです? あれは──」
「この街の、魔呪ギルドの長だ」
レイヴァートはうなずいた。イユキアが、苛立たしそうに額をこすって、
「そして、黒魔呪を扱う者ですよ。この世の論理に従う者ではない。あれは、手に入れたいものがあるから招きに応じたのです。うっかり取引などに応じれば、どんなふうにつけこまれるかわからないのですよ? それを、家の内に自ら招いて‥‥!」
「取引は、してないぞ」
「させませんよ」
イユキアはぴしりと言い切った。レイヴァートは腕組みしてテーブルにかるくもたれ、イユキアを眺めやる。
「あれも、人には変わりあるまい。己なりの誇りもあれば、感情もある。話し合ってみるのも悪いことではなかろうと思ってな。禍根を残すのは、街にとっても王城にとってもいいことではない。半分は仕事だ」
残り半分が何なのかは言わなかったが、どちらもよくわかっていた。イユキアは唇を噛む。
「‥‥彼の言葉を信じると言うなら、あなたは本当にお人好しだ」
「俺は、誰も彼でも信じるわけではないが」
レイヴァートは首をかしげた。イユキアは崩れるようにソファに座りこみ、うなだれた頭を両手で支える。自分がレイヴァートを巻きこんだのだ。‥‥わかっていた。
全身が揺らぐような、大きな息をついた。
「‥‥あなたは、どうして‥‥」
「──イユキア」
「‥‥私は、自分の身は自分で守る。あなたに‥‥心配されるいわれはない」
ちがう、と思う。こんなことを言いたいわけではない。だが気持ちと裏腹に、口を勝手にするどい拒否の言葉がついた。その言葉は、自分で予期した以上にはげしくひびいた。
「わざわざあなたにこんなことをしてもらうほど私は無力ではない、レイヴァート」
沈黙がおちた。
イユキアは額を組んだ手にあてたまま、次の言葉をめまぐるしく探したが、何も言うことができなかった。たえきれない静寂の中、言ってしまった言葉だけがどんどん重さを増していくような気がする。すべてが凝固したように静かだった。
レイヴァートは何も言おうとしない。一言も。彼にしてはひどく奇妙なことだった。
イユキアは、全身から血が引いていく思いだった。顔が上げられない。だが、沈黙が続く分だけ息がつまりそうだった。それ以上は耐えられない。息を呑みこんで、レイヴァートの方を見た。
レイヴァートの、まるでおもしろがっているような目と視線が合う。彼は微笑をうかべていた。
拍子抜けしたイユキアは、レイヴァートをただ見つめた。何が何だかわからない。口を開いたが、まだ言葉を見つけられず、口をとじた。
レイヴァートは、それでも何も言わずに微笑していたが、イユキアがうろたえて言葉が出ないことにようやく気付いたらしく、口を開いた。
「お前が、自分のために怒るのをはじめて見たな」
「‥‥‥」
イユキアは目を伏せる。レイヴァートが静かにつづけた。
「すまない。お前の誇りを傷つけることになったのは悪かった」
ひどく優しい声だった。イユキアは、突然ここにいることが耐えがたくなる。消えるように逃げ出したかった。また、手に額をうずめて、大きく息をつく。
レイヴァートは同じ口調のまま、
「だが、次があっても俺は同じことをするぞ。斬ってすむものならあいつであれ誰であれ、斬るかもしれん。それでお前が守れるならな」
「‥‥言ったはずです。あなたに守られるほど、黒館の主は弱くはない──」
「俺が心配しているのは、黒館の主ではなく、お前だ、イユキア」
「同じでしょう‥‥」
「そうか?」
レイヴァートがゆっくりと近づいてくる気配があった。イユキアは動かない。肘に膝をついて、顔を伏せている。
その髪を、レイヴァートの手がなでた。細い銀髪の中に飾りのように編まれた十数本の髪が揺れる。その中へ指をさしいれ、ゆっくりと抱きよせる。迷いのない動作で、うつむいたままのイユキアを腕の中へかかえこんだ。
「俺にとっては、同じではない。お前が弱いと言うつもりはないが、お前は‥‥自分をないがしろにするところがある。それが心配だ」
「‥‥‥」
「あの時、本当は、うれしかった。お前が今日、術を打ち返して人と戦おうとするのを見て。お前に、あんなふうに激しい顔があるのだとわかって、俺は少し、安心した。本当に‥‥」
抱きしめられた腕の中で、イユキアがのろのろと顔を上げた。レイヴァートを見つめる。あの時、大地に人の血をふりまいてあたりを赤く染め、魔呪でもって人を殺そうとした彼を、たしかにレイヴァートは見た筈だ。施癒師としてレイヴァートへ見せるだけの顔ではなく、黒館の主としての彼の顔を。
イユキアの睫毛がかすかに震えた。どこか苦しげに、彼は呟く。
「あなたは‥‥私を混乱させる、レイ」
「そうか?」
レイヴァートが微笑した。指がゆっくりとイユキアの髪をなで、首筋をかすめると、イユキアの肌が小さくふるえた。
「どんなふうに」
「‥‥‥」
レイヴァートを見つめ、イユキアは長いあいだ言葉を探していたが、やがて身をのばし、顔をよせて、唇を重ねた。
一瞬レイヴァートはおどろいたようだったが、すぐに深いくちづけでこたえる。熱い唇がイユキアの吐息を呑んだ。肩を抱いた腕に力がこもり、それ以上迷う間を与えずにイユキアをはげしく引き寄せた。イユキアは目をとじてレイヴァートのくちづけに溺れながら、全身をゆだねる。とじたまぶたの裏に水のような光がゆらいで、くちづけが深まるたびに頭がくらくらとしびれた。
舌がやわらかにしのび入ってくる。いつのまにか、深く舌をからめて吸われていた。呻いて、イユキアは両手をレイヴァートの背に回し、肩へすがる。その呻きも吸いとられるように消え、濡れた唇の間からは息をつぐための浅い吐息ばかりがこぼれた。
どちらも激しく求めるくちづけが、時おり角度を変えながら、長く続いた。
唇をはなすと、レイヴァートはイユキアを見おろした。
額にからむ銀の髪をかきあげ、頬の丸みをなでてやると、イユキアは瞳をあけた。うるんだ目の奥に、金砂を落としたようなひかりが揺れていた。‥‥人を惑わす、魔性の目だ。感情が高ぶると、イユキアの本当の目の色がうっすらとあらわれてくる。
レイヴァートはつのるような吐息をついて、イユキアの首すじへふれる。囁くようにたずねた。
「イユキア。‥‥抱いてもいいか?」
イユキアの白い頬に、ぱっと朱の色が浮きあがった。レイヴァートの背に回した手に力がこもり、息を乱す。レイヴァートの、灰色がかった深緑の瞳が彼をまっすぐ見つめていた。顔だけでなく、体が熱くほてるのを感じたが、イユキアは強いまなざしから目をそらすことができなかった。逃げ場がない気がする。だが、その行き場のなさが何故か心地よくもあって、イユキアは自分をもてあましそうになる。
レイヴァートの指がゆっくりと首の肌をなぞった。イユキアがかすれた息をこぼし、名を呼んだ。
「レイヴァート‥‥」
ゆっくりと、首すじを指が這い、うなじへすべりこんだ。イユキアはレイヴァートの瞳を見つめたまま、紅潮した頬にかすかな微笑をうかべる。求められている、そのレイヴァートの感情が体に沁みわたって、レイヴァートからつたわる熱が体の芯をとかしてゆくようだった。
この前レイヴァートが黒館を訪れた逢瀬から一月以上たっている。抱擁もくちづけもなつかしく、体も心もかき乱される。どれほど迷いがあっても、どれほど恐れていても、踏みとどまれない。黒館の主と王城の近衛騎士。同性であるという以上に、許されていい関係ではない。それはわかっていても、自分を押し流す情動をとめようがなかった。
レイヴァートも微笑して、乱したイユキアの襟元へ唇をつけた。
「あ‥‥」
濡れた唇の感触がやわらかな快感となって身の内をはしりぬけ、イユキアは声を洩らす。レイヴァートの熱い舌が肌をなぞりあげる、その微妙な動きが体の奥の熱をたえがたいほどにかきたてた。軽く歯をたてられた肩骨から甘いしびれがひろがって、イユキアは思わず長い呻きを上げていた。
ゆっくりと、首から大きく乱した襟口を愛撫し、イユキアの肌がしっとりと汗ばんで、いつもは冷たい肌が熱をおびるまで時間をかけてから、レイヴァートは身をおこす。イユキアが乱れる吐息をついて、まぶたをあげた。うるんだ目は先刻よりも金の色を強めていた。
頬は色づいて、どこか酔ったようにレイヴァートを見上げている。その顔は、イユキアが常に人へ向ける底のない静かな顔ではなく、レイヴァートにしか見せない、乱れかかった甘い表情だった。
声もまた、乱れた響きをおびて。
「レイ‥‥」
レイヴァートは無言のまま、イユキアの背へ両手を回してきつく抱きしめた。イユキアが長い息をもらして彼の腕の中へ崩れ、体を預ける。欲望が身にたぎるようだった。イユキアの、甘い反応の一つ一つが愛しくて、抱きしめたまま、己が湿らせた首すじへ執拗に指を這わせた。
「‥‥‥」
かすかに、泣くような呻きを、イユキアが上げる。その体をソファからおこして、もう一度抱きしめ、レイヴァートは寝台のある部屋へとイユキアを導いた。
油燭を壁際の台へ置くと、イユキアがすばやく顔をよせ、炎を吹き消した。
窓は鎧戸が落とされ、その隙間からわずかな月夜の明るみがしのび入ってくるだけで、部屋のほとんどは闇に覆われている。
夜目がきくレイヴァートにも、イユキアの輪郭程度しか見えない。イユキアも同じだろう。レイヴァートは部屋を用心深く横切り、奥の寝台へイユキアを横たえた。
ゆっくりと、イユキアのまとった衣服へ指をすべらせ、紐をほどき、ボタンを外してゆく。一つ一つ、闇の中でほとんど手探りの慣れない動作に、イユキアが小さく笑ったのがわかった。イユキアの手が下からのびて、レイヴァートの服をあばいてゆく。今日のレイヴァートは質素な剣士の格好をしている。留め紐や飾りボタンのついたローブとは違う、単純なつくりの服だ。すぐに胸元のひもをほどき、シャツをたくしあげて頭から脱がせた。
レイヴァートの素肌へ指先をはしらせる。イユキアの肌と同じように、レイヴァートの肌もまた熱をおびていた。その熱さに乱れた欲望をおぼえて、イユキアはおぼれそうになる。ただ素肌にふれただけで鼓動がどうしようもなく乱れていた。あさましいほどにわきあがってくる欲望を、だがもう彼は恐れてはいなかった。
レイヴァートの指が、手間取っていたベルトの結び目を外した。イユキアのローブの足元に手をのばし、服をあばきながら脚を愛撫する。イユキアの声がかすれた。
「レイ‥‥」
レイヴァートは無言のまま手を早め、イユキアと己の服をすべて取り去る。くらやみに、あらわにされたイユキアの肌がかすかに見えた。熱は互いをさいなむほどに強い。手をのばし、イユキアの欲望へ指をからめた。熱く硬さをおびたそれは手の中にたしかな感触をつたえ、なぞるように五指でこすりあげるとイユキアが切羽つまったような声を上げた。半ば悲鳴のように。
不意うちにのぼりつめかかった体をもてあまし、イユキアは荒く息をつく。レイヴァートは数秒の猶予をおいてから、ふたたび指にいたずらな力をこめた。はっきりと勃起したものを包みながら強く擦りあげて、先端を弄うようにこねる。イユキアが身をそらせた。
「あっ──」
この闇では表情がわからず、声ばかりが漆黒に吸いこまれてゆく。ふれる肌の生々しさが、どこか裏腹な幻のようでもある。その熱をのがすまいと、レイヴァートは愛撫をつづけながら左手でイユキアの脚を割り、太腿から膝の裏側まで手のひらを這わせた。イユキアの肌はもう汗ばんで、手のひらにしっとりと熱くなじんだ。割った脚の間に身を入れ、膝から脚の付け根までゆっくりと手のひらで撫で上げると、イユキアが長い息を吐いた。息が途切れるところで、右手の中のものを強く握りこんでやる。
「はぁっ」
はじけるような悲鳴が上がった。闇のせいか、反応が性急で、あからさまだ。イユキアの茎の根元へ指を回しておさえ、レイヴァートは身をかがめて、熱もあらわな欲望へ舌をからめる。ふくらみの下側をすぼめた舌先でなぞると、イユキアがこらえきれずに切ない声をこぼした。体がふるえる。のぼりつめかかっているくせにまだ声を抑えようとするのがどうにも愛しく、もっと追いつめたくなって、レイヴァートは容赦ない愛撫を重ねた。頬をすぼめるように吸いあげ、舌を先端にねっとりと絡ませる。そそりたつイユキアの楔にたっぷりとした唾液がからんで、濡れた音が闇を乱した。
どうにも淫らな湿った音は、イユキアの耳にもはっきりと聞こえた。羞恥に身を染めた彼は思わずあらがおうとする。
「やっ‥‥、ああ‥‥」
腰の奥に熱がたぎっていた。レイヴァートに呑みこまれた楔からこらえようのない快楽の波がわきあがり、全身を大きく呑みこむ。深く含まれて吸いあげられると、白熱したものが体の奥底ではじけたようで、イユキアは喉をのけぞらせた。それなのに根本をいましめた指が、欲望の放出をゆるさない。出口のない灼熱の大波に体も意識もおぼれかかって、泣くようなあえぎが喉の奥からこぼれた。抗いようのない熱がイユキアに何もかもを忘れさせる。
「ん‥‥、レイ‥‥だめっ‥‥」
膝を立て、のがれようと腰を揺らすが、それが強く誘う媚態になっていることに、イユキアは気付いていない。深く呑んで上あごで先端を擦ると、かすれた嬌声を洩らし、レイヴァートの頭を脚にはさんだ。淫らな飢えが、ほそい声ににじみ出していた。
レイヴァートは濡れた楔へかるく歯の先をすべらせ、舌腹でなめあげて、うるみをこぼす先端を舌でつつく。たっぷりと時間をかけた濃厚な愛撫がつづき、イユキアがたえかねた声をたてた。ほとんど意味のある言葉になっていない。強い快楽の波がまた下肢をとらえ、体がとめどなくのぼりつめようとする。髪を乱して頭をふった。とじた目のうちに虹のような光がはしった。
「ん‥‥」
レイヴァートがイユキアの楔へやわらかく舌を這わせてから、強いほどに吸い上げる。イユキアの肢体をするどいふるえが抜けた瞬間、いましめていた指を解いた。爪の背で根元をはじく。ほんの軽く、だが敏感な体の芯にひびくような。
「あああっ‥‥!」
直接、体の奥底をはじかれたようだった。閃光が身を貫く。下肢にわだかまっていた熱い奔流が一気にのぼりつめ、こらえようもない。一瞬に達していた。ほとんど痛みのような快楽のほとばしりにイユキアは乱れた声を放ち、体をそらせて敷布を強く指にたぐった。強烈な波が体をすぎていったかと思うと、下肢からわきあがる異様な恍惚が全身をなぶりあげるように、ぞろりとさらってゆく。
たえかねて、そらせた喉からもう一度、切ないあえぎを上げた。
「は‥‥」
レイヴァートが、飲み干した口元を指で拭いながら身をおこす。闇に熱い息づかいが横たわり、たちのぼる汗と欲望の香りが彼を強く引き寄せた。汗ばむ肌をたしかめるように手を這わせると、イユキアの躰がふるえ、甘い呻きがきこえる。与えられた快楽に溺れて我を失っているのがわかった。
やわらかな円を描くように、ゆっくりとレイヴァートの手は熱く湿った肌を這い、脚の外側から腰骨をなぞって、荒い息に上下する下腹をすべった。イユキアが乱れた息を洩らす。達した体の内側にはまだどろどろとした熱が脈うち、レイヴァートがふれるたび、肌を中から灼くかのようだった。
下腹を這った手が体の横をなぞりながら上へのぼってゆく。その手を追うように、レイヴァートは汗ばむ肌へ唇をおとした。唇をはわせ、舌でねぶってやわらかく吸うと、イユキアがあえいでレイヴァートの首すじへ指をからめた。のぼりつめた愉悦の気怠さと、甘くしびれる優しい快感、またのぼりつめようとする熱い波とが体の中に入り乱れて、何が何だかわからなくなってくる。混乱のままレイヴァートの黒髪を指でかき乱すと、レイヴァートが小さく笑う気配がした。ふっと笑う息がかかって、イユキアは肌をふるわせる。
「‥‥レイ‥‥」
甘い呻きを聞き、ゆっくりと肌を味わいながらレイヴァートは、イユキアの体にともる熱をたしかめている。この国の伝承には「黒館の主は人ではない」と云う。人であろうとも、黒館に主として棲むうちに何か異形のものへと変わってゆくのだと。だが、今抱いているこの体がたしかに人のものであると、快楽に乱れる体をたしかめて、イユキアの内側へ己の存在を刻みつけるように、レイヴァートはイユキアの白い膚を愛した。細い体にはたしかな快楽が息づき、レイヴァートの愛撫の一つごとに乱れてこたえる。それが愛しかった。
「イユキア」
名をささやいて、大きく息づく胸元へ舌を這わせる。唇で胸の突起をねぶり、硬くなったそれを執拗に舌腹でころがすと、イユキアの体がはじかれたように反応した。レイヴァートの頭に腕を回し、切なげにあえぐ。
「あっ、あああ──」
乳首を歯でこすると、声が一段はねあがった。レイヴァートは薄く浮く肋骨にかるく歯をすべらせ、もう一方の乳首も口に含んだ。イユキアが腕を解き、レイヴァートの首すじから肩へ、背中まで狂おしく指をはわせる。時おり、体に強い快感がはしるたび、爪をくいこませて呻いた。
レイヴァートの肌も熱く、汗に湿って荒く息づき、イユキアは背に回した腕にしなやかな勁さを感じる。悦楽におぼれかかる意識の中、その勁さにすがるように腕をからめた。
「レイ──、レイっ‥‥、‥‥ああっ‥‥」
胸を強く吸われる。乱れた声を放ってレイヴァートの体へ爪を立て、イユキアは恍惚にあえぐ。のけぞる喉を舌でねぶって、レイヴァートは鎖骨のくぼみに舌先を這わせた。華奢な躰に浮いた鎖骨を強くなぞりあげると、イユキアが断続的に短い声を洩らした。
深い息をついて体を引き上げ、レイヴァートはイユキアの頬をのばした手にたしかめた。表情は闇にまぎれて見えないが、熱く荒い息がきこえる。ゆっくりと体を重ね、唇をあわせると、イユキアは強く応じてレイヴァートを求めた。激しく舌をからませ、裸の脚を互いにからめながら、二人は深いくちづけをくりかえす。互いの楔がふれあって、擦れあい、またするどい快感を生んだ。
やがて唇をはなし、レイヴァートはイユキアの耳元に舌をすべらせて、囁いた。
「どんな顔をしてる? お前が見たい‥‥」
「な──ふぁっ」
耳朶をゆるく噛まれて、イユキアがあえいだ。体にかかるレイヴァートの重みが心地よく、かきたてられる快楽にただ翻弄される。どこにふれられても信じられないほどの愉悦をおぼえた。どこまでも溺れそうになる。愛撫に言葉をとぎらせながら、拗ねたような声でどうにか言い返した。
「あなたは‥‥時おり、本当に、んっ‥‥意地が──悪っ‥‥」
「俺もそう思う」
小さく笑って、レイヴァートはイユキアの目を間近からのぞきこむ。イユキアといると、時おり自分がひどくわがままになって、思わぬほどに強くふるまってしまいそうになる。気持ちに引きずられるまま。共にいられる時間は長くはないから、求めるだけ、求めて。
指でイユキアの顔にふれると、目尻が涙に濡れていた。闇の中で、イユキアの金の瞳がうっすらと光る。瞳の色をかくしていた水薬が、涙と強い感情で効力を失ってきているのだ。見おろして、レイヴァートはゆっくりとまぶたへ唇をおとした。
イユキアが甘い息をついて目をとじ、レイヴァートの背へ腕を回す。レイヴァートはふたたび耳元へ囁いた。
「灯りをつけてもいいか」
「‥‥嫌──」
「どうして。お前が見たいのに」
からかうように、右の耳朶を舌で弄った。イユキアが短くあえいで顔をそむける。あごを指先でとらえてもう一度唇を奪い、レイヴァートは熱い余韻の残る唇でたずねた。
「イユキア?」
「‥‥そんなこと」
イユキアが、心底困ったようにつぶやいて、もう一度顔を横へ倒した。どうせ闇で表情など見えていないのだが、そんなところがやけに幼くて、思わず笑うと、レイヴァートは首すじの銀髪をかきあげ、あらわになった首に舌をすべらせた。困らせてみたくなる。乱れた声と、体と。それに心と。どれも、めまいがするほどに甘い。愛しさのままに翻弄しながら、欲望が痛むほどつのっていた。
ゆっくりと首すじを責めると、イユキアが苦しげにあえいだ。レイヴァートはわざとらしく彼を焦らしつづけ、体の熱はますます煽られて、もっと強烈な、奥深い快感を欲しがり出している。
「レイ──」
「どうせ見えないなら‥‥」
レイヴァートがぐいと背中へ手をさしこみ、強く抱きよせた。ん、と呻くイユキアの背へ指先をはしらせながら、いたずらに囁く。
「もっと乱れてみるか?」
思わず息をつめたイユキアの腰へ腕を回した。上体が強い力で引き上げられ、イユキアはレイヴァートの首にすがりつく。
レイヴァートはイユキアを抱き起こしながら寝台へ身を起こし、向かい合うイユキアを膝の上へまたがらせた。膝立ちの形になったが、イユキアは体に力が入らず、レイヴァートの肩に身をあずけながら、すがりついて喘いだ。
「レイ‥‥」
内腿をそろりと指先がなであげ、イユキアの楔へふれた。イユキアが甘い声を上げ、逃げるように腰を引く。レイヴァートは左手でイユキアの髪をなで、イユキアが少し落ちつくのを待った。指を舌で濡らし、その手を脚の間へのばす。
硬くはりつめた茎の向こう、脚の奥の窄まりをさぐって、指先で外襞をほぐすようにすると、イユキアが呻いた。少しの間そこを撫でて、指はゆっくりとイユキアの内側へ入りこんでくる。半ばまで入りこんでから、やわらかな動きで内襞をこすった。いったん第1関節まで引いて、もう一度、もっと奥まで沈める。熱い肉襞が指にからみつくようにしめつける中を幾度か動かすと、イユキアが声を洩らして、腰をゆすった。この先にある快感を体が思い出し、追い求めはじめている。レイヴァートは指をふやしてゆっくりと内をほぐした。
単調な動きに、レイヴァートの首すじに顔を伏せたままイユキアが息をつめた。レイヴァートの肩に投げ出した腕に力がこもり、背にすがる爪がちりりとくいこむ。
「く‥‥はぁっ‥‥」
よく知っている筈なのに、レイヴァートはイユキアの敏感な場所を責めようとしない。ただやさしく内襞をなぞる。もっと強い動きを欲しがる体が焦れて、我知らず腰が泳ぐ。与えられる、ほんのわずかな刺激にも反応してしまうのをとめられず、イユキアは涙にうるむ目をきつくとじた。すがりついたレイヴァートの体にも汗がにじんで、熱い。
名を呼んで、すがる。
「レイ‥‥」
「イユキア」
ひどく優しい声に、体の芯が揺れた。なにもかもどうでもいいほど、欲望だけがふくれあがる。だが、奥をやわらかに愛撫していた指がずるりと抜けていき、イユキアはレイヴァートの首にすがったまま喘いだ。
しがみつくイユキアの腕をほどく。レイヴァートは、荒い息のイユキアの腰をもちあげさせ、体を倒した自分の上へイユキアを引き上げた。レイヴァートの屹立したものが、彼をまたいでひろげた太腿にふれ、イユキアは荒い快感が体をぞくりと走り抜けるのを感じる。
乱れた息をついて、恥じるように顔を伏せたイユキアの膝を、レイヴァートの指先がやわらかくなでた。
「イユキア。‥‥自分で」
「な‥‥」
レイヴァートはイユキアの脚をなでるだけで、それ以上の動きを示さない。
「‥‥っ──」
苦しげな吐息をこぼして、イユキアは、たじろぎながらレイヴァートのものへ手をのばした。熱くそそりたつそれに、ふれてしまえばあからさまな欲望に引きずられるまま、楔を根元からしごきあげる。レイヴァートがふっと息をつめ、手のひらでイユキアの脚を軽く叩いた。うながしている。
イユキアが膝立ちになり、腰を浮かせる。レイヴァートのものに指をからめ、自分の奥へと導きながら腰を落とした。慣れないことをしようとするので、ひどく体の動きがぎこちなく、その分だけ体の至るところの刺激をするどく感じとってしまう。レイヴァートの牡を受け入れようとしながらどんな形で挿入されているのか、どうしても想像する──想像しないとうまく動きがとれないのだ。全身が火照って、汗がにじみ出した。
体の芯に熱い楔が入ってくる、その快感に喉から呻きがこぼれた。貫かれる感覚に全身がわなないて、イユキアは足の爪先をたて、膝でレイヴァートの腰を強くしめる。
深く呑みこもうとする体をとめようとした時、レイヴァートがゆるい動きで下からつきあげた。
「ああっ‥‥」
奥へ入って、ふたたび引かれる。大波のような悦楽に膝が崩れて、イユキアの腰が沈み、奥へ一気にレイヴァートのものを呑みこんだ。痛みと、それをはるかに凌駕する熱さが躰の中心を駆けのぼり、イユキアは喉をそらせて長い法悦の呻きを上げていた。後ろへくずれかかる腕をレイヴァートがぐいと引き、イユキアの体は前へくらりと崩れて、腕をついてどうにか身をささえる。
体の、真芯を熱に貫かれたようだった。己の重みで深くレイヴァートを呑みこんで、体の内側が満たされる。常より強く、体はそれを締めつけて、レイヴァートの存在を最奥にはっきりと感じた。自分の体が屹立に押しひろげられ、奥を他人の熱が貫いていた。
「あ‥‥あ‥‥ああ‥‥っ」
イユキアは口をあけてあえぐ。全身がしびれたように動けない。
レイヴァートが、のばした手でイユキアの肩口から腕をなで、こらえるような声で言った。
「イユキア。少し‥‥力を抜け」
「んっ‥‥」
体がどうしようもなくはりつめて、きつい快感が芯をゆさぶってゆく。呻くだけしかできないイユキアを、レイヴァートがゆっくりとなでていると、やがてイユキアの息がほどけて、体から少し力が抜けた。はぁ、と荒い息をついて、彼はくらむ頭をふる。いつしか、汗みどろの全身で息をしていた。
満たされたものを感じる。頬が熱くなるほど、その感覚はあからさまだ。だが満たされている筈の体の内に、まだうずめられない空虚があった。
思わず、すがるように呼んだ。
「レイ‥‥」
「動いてみろ」
レイヴァートの声にも強い欲望がにじんでいたが、響きはからかうようで、イユキアは全身がかっと熱くなるのを感じる。闇で見えないことはわかっていたが、紅潮した顔をそむけた。
「‥‥本当に‥‥」
「意地が悪い?」
先取りされる。わかっているのだ、彼は。イユキアがどんな表情をしているのかもわかっているにちがいなかった。この体が、どれほどレイヴァートを求めて飢えているのかも。もっと、ただ翻弄されたかった。黒館の主でも王城の騎士でもないこの一瞬、ただ体と体をつなげて熱に溺れていく。
「どうせ、見えない。‥‥な?」
「あなたは‥‥っ」
かるく、腰を揺すられた。ほんの少し。それだけで待ちかねたように自分の腰も動いてしまい、イユキアはあられもない声を上げていた。レイヴァートは動きをとめる。もっと欲しくて、どうしようもなくなったイユキアが呻いた。
「レイ‥‥!」
「ん?」
優しいくせに意地の悪い返事がきこえて、イユキアの体の奥で官能が脈を打った。たえかねた吐息をこぼしながら、イユキアは両腕で体をささえ、ゆっくりと腰を揺らした。大きな波が下肢から全身を呑みこんで、頭の芯がくらくらとしびれる。
ひとたびはこらえようとしたが、快感を追うことにたちまち夢中になって、体も意識もとどめることができなかった。わずかなためらいは、体を貫く熱いうねりの前に溶けさり、イユキアは腰をくねらせる。内奥をレイヴァートの楔がきつく擦りあげ、それを体がまた締めつけ、背中を汗がしたたった。後ろを男のものに翻弄される異様な感覚と悦楽が、ともに背すじをぞくぞくとのぼってくる。容赦なくかき乱される悦楽を求めて、どんどんと淫らに動き出す体は、まるで自分のものではないようだった。
「あっ‥‥、ああっ‥‥!」
身をはずませるように、レイヴァートのものを呑みこみ、腰を揺らして、また体を浮かせる。感じる部分を求めて、浅く、深く。奥へとレイヴァートの熱さを求め、全身が踊った。激しくレイヴァートへ腰を押しつけて、あさましいほどに弓腰を揺らし、イユキアは頭を振る。
「くっ‥‥ああっ‥‥レイ‥‥っ」
とめどなく声がこぼれ、レイヴァートを淫蕩に求めた。腰を振るイユキアの下から、レイヴァートは強い動きをおくりこむ。やっと与えられた動きにイユキアがすすり泣く声を洩らし、さらに求めながら全身を揺らした。内側の性感をつきあげられて、たまらず嬌声が口をつく。体の芯がどろどろにたぎって、なにもかもが闇の坩堝にとけてゆくようだった。ただレイヴァートの存在と、自分を強く貫く熱い官能だけがすべてになる。
レイヴァートがイユキアの二の腕をつかんだ。やわらかに引かれるまま体を倒したイユキアの首すじへ手を回し、よせた唇を吸う。闇に互いの息が荒い。イユキアは身を伏せたまま、呻いた。腰をレイヴァートへ擦りつける。
何も考えられない。ただ、欲しい。どれほど淫らでもかまわなかった。
「レイ──」
レイヴァートがこたえて、イユキアの腰をつかみ、下から強くつきあげた、イユキアが高い声を上げ、全身で快感を呑みこむ。彼の動きに合わせた激しい律動がくりかえし体の芯を貫き、イユキアは一気に高みへ押し上げられた。汗ばんだ肢体をのけぞらせる。闇が揺らぎ、視界が白くくらむ。
全身を絶頂が呑みこんだ。悦楽の声をはなって身をふるわせ、やがて崩れるように伏したイユキアを、レイヴァートの力強い両腕が抱きしめた。
‥‥眠っているとも目ざめているともつかないまどろみの中で、何か言われた気がする。どう答えたのかはわからない。レイヴァートは、少し笑ったようだった。
とろとろとまどろんでいると、レイヴァートの唇を額に感じる。イユキアは、目をあけて、レイヴァートを見上げた。油燭の黄色っぽい炎がぼんやりと部屋を照らしている。
「眠っていろ」
囁いて、レイヴァートの指が乱れた前髪をかきあげた。濡れた布で首すじを拭われて、イユキアはかすかに笑う。イユキアの目は、完全に元の色を取り戻し、炎をうつして妖しい金色に光っていた。
「‥‥くすぐったい‥‥」
レイヴァートも微笑して、布でイユキアの全身を拭った。うつ伏せにして、背中もきれいに拭いてやる。
「明日の朝は、早いからな。眠ったほうがいいぞ」
「‥‥あなたもでしょう、それは‥‥」
茫洋とつぶやいて、イユキアは寝台に起き上がる。思ったよりは長い間、眠っていたようだ。体から気怠さが水のように引いてゆく。快感の名残りとかすかな痛みが体の深くにあったが、心地よいものだった。
油燭がともされた部屋はぼんやりと明るい。飾り気のない簡素な部屋には、衣装掛けと小物の入った低い棚しか調度品らしいものがない。壁に古いタペストリーがかけてあったが、色あせていて絵柄はわからなかった。
レイヴァートは寝台のはじに腰掛けて自分の体をざっと拭うと、水盤に布を放りこんで、かるくのびをした。騎士にしては細作りだが、しっかりと筋肉のついて引きしまった背中を見つめて、イユキアは小さな吐息を洩らす。
朝になれば、また離れる。今日、こうしてそばにいることだけでも偶然のことなのに、離れがたい自分が少しばかりいとわしい。
(求めることには、際限がない──)
レイヴァートがふりむいた。
「安物だが、ワイン、飲むか?」
「‥‥眠らなくていいんですか」
「眠くないのだろう」
のばした手でイユキアの髪をかき回して、レイヴァートは衣装掛けから膝丈の部屋着を取って羽織った。イユキアにも一つ投げてやる。待ってろ、と言い残して出ていくと、しばらくしてワインの革袋を下げ、脚付の琺瑯グラスを二つ持って戻ってきた。
「スパイスは?」
たずねながら、イユキアへグラスを二つ渡す。イユキアが首を振ると、レイヴァートはうなずいて、イユキアの横へ腰をおろした。革袋の口をほどき、イユキアが持つグラスへワインを注ぐと、革袋を壁の釘に架ける。グラスを受けとり、イユキアへ微笑して、一口飲んだ。
イユキアは、ゆっくりとワインを口へ含む。レイヴァートが「安物」と言った通り、酸い味だったが、かわいた喉には心地よかった。半ばほどまで飲んで、一つ息をつく。
レイヴァートは部屋の壁によりかかって座り、イユキアを眺めながらゆっくりとワインを飲んでいた。イユキアが目を向けると、ちょいちょいと手招きして、かたわらに寄ったイユキアを抱きよせた。
抱きよせられるまま、イユキアはレイヴァートの肩によりかかり、だまってワインを飲んだ。レイヴァートも何も言わず、イユキアの肩に回した左手の先で、もつれた銀髪をもてあそんでいる。
互いの体温と息づかいだけを心地よく感じていたが、イユキアがふとたずねた。
「さっき、何か、言いましたか?」
「‥‥ん?」
何か考えていたのか、一拍おいてレイヴァートがイユキアを見やる。
「さっき?」
「私が、起きる前に。何か言われた気がするのですが」
さらに、それに返事を返した気もしている。むしろ、イユキアが気になっているのは、自分の発言の方なのだが、言わずともレイヴァートはそれを察したようで、おもしろそうに笑った。
「やっぱり寝惚けていたのか。変だと思った」
「‥‥何を言ったんです?」
「愛していると言ったんだ」
さらりと言って、レイヴァートはワインを一口飲んだ。
イユキアが金色の目を虚空へさまよわせた。
沈黙がつづく。
イユキアは、言いづらそうに口を開いた。
「あの、それで私は──何か、言いました?」
グラスを口にあてたまま、レイヴァートがちらっとイユキアを見る。その目は笑っていたが、イユキアはあてどなくどこかを見ているままだ。
「ああ。言った」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥あの」
「ん?」
「一体、何を」
イユキアは、うつむいて、自分が手にしたカップをのぞきこむようにしている。ややあって、レイヴァートが、彼には珍しくクスクス笑い出した。
イユキアの頬にさっと赤みがはしり、彼は、口元を強情そうに結んで怒ったように押し黙る。レイヴァートが笑いながらイユキアへよりかかるようにして、回した腕に力をこめた。かるく揺らす。
「すまん。お前は、わかっている、と言ったんだよ」
「‥‥‥」
「おぼえてないな」
相変わらず、おもしろそうに言う。イユキアの髪にくちづけをおとして、レイヴァートはイユキアの肩を抱きしめた。
イユキアは、何を言ったらいいのかわからないまま、グラスに残ったワインをのぞきこんでいる。レイヴァートは、嘘をつかないし、確かにそんなことを言った気もする。するが、もう、どうするべきか、思いつかない。そう、わかっている。レイヴァートの想いは、もうイユキアの中へ根を張っている。わかっているが、それと、言葉を返すこととはまるで別のことだった。
愛していると、レイヴァートはごく自然なことのようにそう言う。だがその言葉に言葉を返してはならないのだ。王城と黒館と、彼らの住む世界はちがいすぎる。約束のようなことは絶対に言えなかった。それはレイヴァートも知っていて、彼は決してイユキアに答えを求めようとはしない。
言葉は与えられない、その一線は越してはならない。それはイユキアの決意だった。いつかは終わることなのだ。一夜の快楽をむさぼることはまだしも、先の日々への夢を見るわけにはいかなかった。
黙りこんだイユキアを見やって、レイヴァートが話をかえた。
「俺もききたいことがあった、イユキア」
「‥‥何です」
「ゼンに、何かもらったろう。何をもらった? 言いたくなければかまわないが」
「ああ‥‥あの人が彫っていた、白い石を、くれました」
「お前に、護符を?」
レイヴァートは少しおどろいたようだった。ゼンの「力」をイユキアが受け付けなかったように、ゼンが祈りをこめて彫った護符の力がイユキアに受け入れられるとは思えない。
イユキアは、首を振った。
「私にくれたものには、詩が彫ってある」
「詩?」
「ええ。後で、見てみます?」
「詩ねぇ‥‥」
「興味がないのでしょう」
イユキアが微笑する。うーん、とどっちつかずの声を洩らしてレイヴァートはいささか難しい顔をしていたが、たずねた。
「書くならともかく、あんな小さな石に、どうやって詩なんか彫るんだ?」
そっちを悩んでいたらしい。イユキアは、少し黙った。
自分の肩を抱くレイヴァートの左腕をほどき、立てた膝にのせると、手のひらに指で模様のようなものをなぞる。曲線の多い、複雑な模様を書き上げて、レイヴァートを見やった。
「わかります?」
「‥‥少し、あたたかい」
レイヴァートは手をかるく握ってみる。イユキアが指でなぞっただけの模様は、まったく手のひらに跡も残さなかったが、肌がぼんやりとぬくもりを増した気はする。イユキアがうなずいた。
「キル=ヴァン=ニェス。高位文字の原形です。いくつか流派があるのですが‥‥文字の一つ一つではなく、言葉全体を一つのかたまりとして書き記す文字です」
「それは、魔呪か?」
「〈形〉の魔呪の、非常に原始的なものですね。あなたが感じているのも、その力です。この文字自体に何かを為す力があるわけではありませんが。音楽と同じです。ふつうの旋律は誰でも唄えるし、それが魔呪などとは誰も思いませんが、卓越した唄い手にかかれば〈音〉は強い魔呪の力をもちます。音の魔呪も、形の魔呪も、人は気付かぬまま唄ったり文字を記したりしているけれど」
「ふむ‥‥」
「すべての文字は、魔呪ですよ、レイヴァート。名前も、言葉も」
「え?」
イユキアは微笑して、つづけた。
「何かに名前をつけるというのが、すべての魔呪の根源です。名前には力がある。それが言葉というものです。それを紙に記し、目に見える形にあらわしたものが、文字。どちらも、魔呪です。使う者によっては大きな力を持つ」
「俺の名前も?」
「あなたの名前も」
うなずいた。
「名前を呼ばれれば、振り向くでしょう? それが、名前のもつ魔呪の力ですよ」
「‥‥‥」
わかったようなわからないような顔をしている。ふりむくのは自分の意志であって、何かの魔呪にかかっているせいではないと、考えこんでいるらしい。
もう少し説明しようかと迷ったが、イユキアはレイヴァートの手のひらを指でさして、話を戻した。
「この文字は、言葉を一つ一つつらねるのではなく、全体から記していきます。ゼンが私にくれた白い石に刻んであったのも、同じ形式の文字です。船乗りの唄のようでしたよ」
「ふうん‥‥」
何回か、握ったり開いたりして自分の手のひらを確かめるようにしていたが、レイヴァートはイユキアを見た。
「これは? 何と書いた」
「セリグリュスト アルヴァルカ エルナーセギルナ‥‥リエトムタ パルサ フィルノゥム」
低いふしまわしでゆっくり唄うように囁いて、イユキアは、微笑した。
「古い言葉の、唄です。‥‥意味は、よく知りません」
レイヴァートは手のひらを見おろし、かるく拳を握った。ぬくもりが、少しずつ失せていく。
「お前の、故郷の唄か」
「‥‥ええ」
そうか、とつぶやいて、レイヴァートはイユキアをもう一度抱きよせた。肩から回した手であごをすくうようにして、額へくちづける。静かな声で呼んだ。
「イユキア」
(名前も、言葉も──)
イユキアは、とじていたまぶたを上げてレイヴァートを見上げた。その声の一つ一つが、イユキアを呼び、からめとる魔呪なのだと、レイヴァートが気付くことはないのだろう。イユキアの心をとらえ、振り向かせる、あらがいがたい力。
「何です?」
「一度、少し黒館を離れてみるか? 冬に、サーエをつれて荘園へ行く。サーエの具合を診に、いっしょに来てくれないか?」
イユキアの目がふっと焦点を失ったように見えた。そのまま、ぼんやりとレイヴァートを見ていたが、やがて目を伏せて、微笑する。
「そういうわけにもいかないでしょう。私は、黒館の主です」
「2、3日だけでもいい。冬至がすぎてから‥‥どうだ? サーエもよろこぶ。あれは、お前と話すのが好きなのだ」
「‥‥‥」
「考えておいてくれないか」
ゆっくりと言って、レイヴァートはワインを飲み干した。イユキアの手から、とうに空になっているグラスを取り上げる。飲むか、とかるくグラスを振ると、イユキアが無言でうなずき、レイヴァートはワインの革袋を取りに立ち上がった。
二杯目を注いで、イユキアへ渡す。イユキアは受け取って、だまってワインをすすっていたが、微笑を浮かべたまま、呟いた。
「そうですね。考えておきましょう」
影をたたえた淋しげな微笑を、レイヴァートは静かに見つめたが、何も言わなかった。
眠るレイヴァートを見おろして、イユキアは宙をなぞるように指をうごかす。
(セリグリュスト アルヴァルカ‥‥)
レイヴァートの手のひらに書いた形をくりかえす。指先がふっととまった。何故あれを書いたのか、わからない。いや、本当はわかっていた。
(エルナーセギルナ‥‥)
吊るされた天秤の上で、永遠に貴方を唄おう──
(‥‥リエトムタ パルサ フィルノゥム‥‥)
皿が砕けて、時の外側へ落ちるとも‥‥
心の中で唄を呟いて、イユキアは旋律を遠く思い返したが、同時ににぶい痛みが胸にひろがった。故郷──と呼んでもいいのだろうか、彼に痛みしかもたらさなかった、あの地を。あそこには、喪失と憎悪だけしかなかったような気がする。
あの地を逃げて、ただ逃げて、まろぶようにここへたどりついてしまった‥‥
手をのばし、指先でレイヴァートの頬にふれた。
「レイ」
「‥‥ん?」
目をあけはしたが、レイヴァートはまだ夢を見ているような返事をする。イユキアは、頬骨を強くなぞった。
「そろそろ、夜が明けますよ‥‥」
体を支えていた腕をレイヴァートが引いて、ふいをつかれたイユキアはレイヴァートの胸へ倒れこむ。非難の声を上げたが、レイヴァートは意にも介さず、イユキアへ腕を回した。
「冬、いっしょに来るか?」
「‥‥考えておくと言ったでしょう──」
「断る口実をか」
レイヴァートの微笑を見おろして、イユキアは無言だった。
レイヴァートは笑みをたたえたまま、
「サーエに言っておくぞ。お前が来ると。うまい口実を考えだしたら、お前からサーエを説得してくれ」
「それは──卑怯だ──」
「ああ、そうだ」
レイヴァートはイユキアへ軽くくちづけ、ゆっくりと起き上がった。
身支度をすませ、かるい朝食代わりに果物を食べる間、二人ともに口数が少なかった。互いにあまり不要な時に口をきくたちでもなく、沈黙も静寂もなじんだものでしかない。
食事を終えると、イユキアは持ち歩いている粉を水に溶き、目の中に数滴ふりおとした。じっと目をとじ、次にまぶたを上げた時、金色だった瞳はおだやかな暗い琥珀色に変わっていた。太陽の光を受ければ、もっと暗く色づく。目にさした水薬にほとんど色らしい色がついているわけではないが、イユキアはこうして目の色を隠す。
レイヴァートは、紋様を打ちだされた革の胴着に肩飾りのついたマントをはおって、昨日の質素な姿とはがらりとちがう騎士のよそおいをまとっていた。銀箔をおした革鞘の長剣を腰の後ろへ吊るし、左手首に黒い飾り紐を巻いている。もともと華美なものは好まないから、至って地味ななりではあるが、その姿には凛とした強さがあった。
イユキアは灰色のマントで体をすっぽりと覆う。
「あの方を、王城へつれてゆくのですか?」
「ローゼ殿か? そうだな。陛下のお言葉次第だが、おそらくそうなるだろうな」
「あの方は、罪に問われますか」
レイヴァートはイユキアを見た。イユキアは、ぼんやりしたように浅いまなざしを漂わせている。
「ああ。6年前、逃亡した罪があるだろうと思う」
「死罪か、それとも‥‥前と同じく、自由を奪われて生き続けるのでしょうか」
イユキアはつぶやいた。それが問いなのかどうか、一瞬迷ったが、レイヴァートは静かに言った。
「ローゼ殿が6つの時、あの方は身の自由を代償にして生きる道をえらんだ。その時、誓約をたてておられる。王城と王を裏切るようなことがあれば、死をもってそれをあがなうと。俺にわかることは、それだけだ」
「‥‥そうですか」
うなずいて、イユキアは灰色のフードを目深にかぶり、襟元の紐を結びあわせた。
レイヴァートもうなずき、二人は黙って家を出た。
館の並ぶ丘の街区は、ぐるりとめぐらせた白い壁にかこまれている。門番が脇に立つ鉄門は、陽のあるうちは開かれていて、二人は門を抜けてゆるやかな坂をおりた。
イユキアが、半歩前をゆくレイヴァートへ声をかける。
「レイヴァート。水晶売りの角へ行く道を教えてくれませんか? 私はまだ、あそこに用があります」
レイヴァートの足どりがゆるむ。イユキアは、淡々とつづけた。
「コウモリもしばらくは動きますまい。ご心配には及びませんよ」
一拍おいて、前を向いたままレイヴァートが言った。
「俺の血を使うか?」
「‥‥‥」
フードの中で、イユキアはあるかなしかの微笑をうつろわせる。そう、レイヴァートをごまかせるとは思っていなかった。
「いいえ。‥‥レイヴァート。私には私の、黒館の主としての役割があります」
「ああ。わかっている」
おだやかに、うなずいた。手をのばし、レイヴァートはマントにつつまれたイユキアの肩へふれた。
「大丈夫だな? 無理はするな。‥‥約束してくれ」
「‥‥おぼえておきますよ」
小さな声でイユキアがつぶやいた。約束はしない。できなかった。
肩にのせた手に一瞬力をこめ、レイヴァートは歩みを戻した。
「広場まで行こう。そこからならわかるな」
「ええ」
石畳の道を抜け、荷車の音が走り抜ける太い通りへ出る。イユキアを歩道の側へ寄せ、広場へつながる道を歩いていたが、レイヴァートがふいにマントを引いた。
え、とイユキアが足をとめ、レイヴァートに押されて壁の方へ寄る。まだ開いていない洗濯屋の張りだした二階をささえる柱の影へ入ると、レイヴァートがフードの中へ顔をよせ、イユキアへくちづけた。
「‥‥‥」
イユキアが目をみはる。唇は一瞬かすめて、あたたかな感触だけを残し、レイヴァートは何事もなかったかのようにまた歩き出していた。
すぐに人々が忙しく行き交う広場へ出る。もう、あちこちで朝の食事を出す屋台が組み上げられはじめ、商人らしい風体の男たちが角にたまって何か互いに言いつのっていた。水場では子供たちが顔を洗う順番の列をつくっている。
「またな」
イユキアの背をポンと叩いて、レイヴァートは騎士詰所の方角へ歩き出す。どうあっても心が残るので、いつも別れは素気ない。
人をよけて遠ざかる後ろ姿から目をそらし、イユキアは小さな吐息をつく。指先で唇にふれると、きこえない声で呟いた。
「‥‥本当に、人を混乱させる‥‥」
フードを深くおろす。まなざしを足元に伏せ、目的の路地をめざして歩きはじめた。
王城はまるで丘のように大地からそびえたつ。王城前には、王城をかなめの扇型にアシュトス・キナースの街がひろがっていた。まるで、石の山から巨大な塔を切り出したように見える王城の威容は、遠く背後にそびえる山々よりはるかに堂々と周囲を圧する。。
街の外郭を回り、王城をかこむ空堀の跳ね橋を渡る。頭上に石の竜が口をあける巨大な門をくぐると、石の前庭がひろがっていた。王城の建物が目の前にせまってくる。巨大な一本の王塔を無数の脇塔がかこみ、架橋で複雑につなぎあわされ、からみあった石の城。塔の数は、地面から建つものだけで二百基をこえる。宙で二つに分かれたり、別の塔と融合しているものもあり、全体の数はわからない。
一の門をくぐり、二の門へさしかかる手前で、ロゼナギースは足をとめ、頭上高くそびえ立つ王城を仰いだ。彼は16年間、塔の一つを与えられ、その中で生きてきたのだった。
そしてこの地を裏切ってのがれ、今、帰還した。
6年の空白をへて、還りついた彼の目に、この王城はどううつったか。沈黙のまま、その目はただ温度のない石の城を見上げている。
やがて、レイヴァートが低く声をかけ、うなずいたロゼナギースは顔をまっすぐ前へ戻して歩きはじめた。
ロゼナギースをはさんでヒルザスが前に、レイヴァートが後ろを歩んで、彼らは王城の地下へ潜る狭い通路を抜ける。人がすれちがうのがやっとの、じめついた道の向こう側、鉄を組まれた格子の扉をくぐると、細い塔の中に出た。塔の壁には細い窓が切れこみのように入り、糸のような光があちこちからうすぼんやりと差し入ってくる。
ヒルザスが、壁に架けられた油燭を取り、炎をともした。先に立って、ふたたび歩き出す。三人の足音がゆるやかに石にこだまし、吸いこまれる。
何一つ、変わらない。ロゼナギースは息苦しくなるのをこらえて、平静な表情で階段をのぼる。彼の牢獄。彼の檻。何一つ変わっていない。
三人は無言のまま階段をのぼって、かつてロゼナギースが居室として使っていた扉の前へ立った。扉には大きな鉄の横桟が打たれ、閂を外から落とせるようになっているが、今は閂棒は見当たらなかった。鍵もあいている。
ヒルザスがノックをする。答えのようなものが中から返った。ロゼナギースがけげんそうに首をかしげてレイヴァートを見やる。誰か中にいるのか、という無言の問いに、レイヴァートは背すじを正したまま答えなかった。
ヒルザスが扉を押しあける。塔の多くは廊下が狭いので、扉はほとんどが内開きだ。
中へ入って、踵をあわせ、ヒルザスは腕を曲げて右手を左肩へおいた。頭を下げる。
「ロゼナギース殿をおつれしました、陛下」
レイヴァートも同じように腕を折って一礼する。これ以上の過剰な礼節を、彼らの王は好まない。
ロゼナギースは、あっけにとられた表情でそこに立つ人物を見つめ、言葉がなかった。
「ご苦労」
深みのある、おだやかな声が彼らをねぎらった。質素とすら言える黒づくめの服をまとい、薄絹のマントを申し訳程度に右肩から斜めに背へ垂らして、飾りと言えば胸元へ垂れる鬱金の鎖しかない。腰に佩いた細い曲剣の、鞘も柄も黒い。
王城の内部にいることが多いからなのか、肌の色は白い。くせのない黒髪を首の後ろで無造作にたばねた、端然とした立ち姿の男であった。さして長身ではないが、声にも姿にもやわらかな気品がある。まっすぐな鼻すじが印象的で、口元は強い意志を刻み、おだやかだがきわめて凛然と人を見据える。
灰色がかった眸をレイヴァートとヒルザスへ向け、王は微笑した。
「面倒をかけた。‥‥少し、二人にしてくれ」
ロゼナギースが長い息を吐き出す。臣下の礼を取らず、その眸はくいいるように王を見つめている。
ヒルザスとレイヴァートは無言で頭を垂れ、部屋を出て、厚い扉をとざした。
細い窓が二つ。腕をやっと出せる程度のもので、空を見ることもかなわない。
部屋は、縦に5歩、横に10歩あまり。寝台と、机と、本棚と。身の回りのものを入れる櫃が三つ。
手を後ろ手に組み、王は窓辺へ歩みよって、切り取られて断片にすぎない景色をながめた。
ロゼナギースは無言のまま、記憶にあるままの部屋に立ちつくし、王の動きを目で追うばかりだ。
やがて、王がふりむき、微笑した。
「おかえり、ローゼ」
「‥‥サリヴァス」
ロゼナギースは、その名を呼ぶ。王の微笑がかすかに深まった。
王城の王に、名はない。王となった者は王である以外のことを奪われ、ただ王として君臨し、王として支配する。
「俺の名を、まだ覚えていたのだな」
王には名が無い──
かつて彼を名付けていた名は、戴冠とともに封じられ、捨てられる。
その名で呼ばれて、なつかしそうに目を細め、王はロゼナギースを見やった。
「6年‥‥会うのは8年ぶりか。どうだった、外は?」
「‥‥‥」
「どうした、ローゼ」
やわらかなまなざしで見つめている。大きな息をつき、全身から何かが抜けていくようで、立っていられなくなったロゼナギースは、床へ座りこんだ。うつむいて、額に手を当てる。王がふしぎそうにたずねた。
「どうした。傷が痛むか?」
「いや‥‥すまん、サリヴァス、俺は‥‥お前との、誓約を破った。俺を──殺せ」
「誓約? 何のことだ」
ロゼナギースははじかれたように顔を上げる。王は、かすかに柳眉をしかめて、彼を見おろしていた。
「‥‥王城の王にたてた誓約だ。お前もいただろう。俺が6つの時。王城と王を裏切って逃げるようなことはしないと、誓約を立てた」
「あの時の王は俺ではない」
「王位を継承して、誓約も引き継いだだろう!」
思わず声が一段はねあがった。こんなところに王がくるとは思わなかった。しかも、彼を糾弾する様子も裁く気配もない。何故だかロゼナギースには、それが堪えがたかった。いっそ腰の剣で斬られた方がマシだと思う。
──そんなふうに、微笑まれるよりは。
「ああ、成程」
どうでもいいことのようにうなずき、壁によりかかってロゼナギースを眺めた。
王は記憶にあるのとほとんど変わっていないと、ロゼナギースは見上げた。両のこめかみあたりから一本細く髪を編んで、首の後ろでほかの髪と合わせて結んでいる。最後に会ったのは8年前で、王が27才、ロゼナギースは21才。その8年間で、王はたしかにより落ちつきをまし、どこか厳しい風貌にはなっていたが──それでも、その目はまるで変わっていなかった。
半分血がつながっていることが、まるで信じられない。迷いのない目をして人を見つめる。
「何故もどってきた?」
「‥‥つかまったからだよ」
「牢から、アシュトス・キナースの外交官を呼んで本当の名を名乗っただろう。お前は自分で帰ってきたんだ」
よどみのない口調だった。ごまかしは通用しない。昔から、そうだった。
ロゼナギースは一瞬目をとじ、溜息をつく。
「師匠が亡くなったと聞いた。サリューカをやる者がいないだろうと思って‥‥」
言葉を途切らせ、顔を上げた。自分を見下ろすまなざしを見返して、淡々とした口調で説明する。
「俺が逃げてから、師匠が死ぬまで2年とちょっと。それだけで、ほかの弟子にサリューカをつたえられたとは思えない。だから、戻ってきた。2年後、お前はサリューカの儀を執り行わねばならん。‥‥それを、成功させたい」
「4年前に音師が死んだ時、ヴィラハンは、己の息子がサリューカを継いだと俺に報告した」
何の感情も持たない声で、王は言った。それを信じたのかどうか、口調と表情からは伺い知ることができない。その手は何かをもてあそんでいた。マントの飾り留め──ロゼナギースを殺そうとしたヴィラハンが、落としていった飾りだ。それをマントから切り落としたヒルザスが王城へ届けさせ、それは今、王の手の中にあった。
ロゼナギースは首をふる。
「ヴィラハンの息子は耳はいい。腕も、相当あがっただろう。だがサリューカを一度も経験したことがない。9年前、師のサリューカの副律を取ったのは俺だったからな。‥‥だめだサリヴァス、うまくいく筈がないよ。あれはただの楽譜じゃない。楽律をあいつに取らせてはならん」
「6年前、お前を逃がしたのは、ヴィラハンか」
つめたい響きのある声に、ロゼナギースは答えなかった。かわりに、低く言った。
「サリヴァス。いや‥‥陛下。俺はサリューカをあんたのために奏するため、戻ってきた。サリューカを終えたら、俺を裁き、俺を殺せ。それですべて‥‥終わらせてくれ」
「お前が死んで、その次のサリューカはどうする?」
「ヴィラハンの息子が継げる。今から2年かけて俺があいつを教えるし、今度のサリューカの副律を取らせる。いい音師になるよ」
「成程。それなりに筋道立てたな。で、俺にその通りに動けと言うか」
「‥‥‥」
ゆっくりと、王は壁にそって歩き出した。ロゼナギースは緊張したまなざしでそれを追う。一歩一歩、たしかな足取りで壁ぞいに部屋を一周めぐり、元の場所へ戻ると、王城の王はそっとたずねた。
「何歩だ、ローゼ?」
「‥‥34歩」
「やはり、それも忘れてなかったな」
淡い笑みをうかべてロゼナギースを見つめていた。
ロゼナギースは16年間の多くをこの部屋ですごした。子供時代においてはほとんど幽閉され、長じてからは塔内を自由に歩くこともゆるされ、ごくまれに遠出がゆるされたこともあったが、それでも、彼の枷はここにつながれ、彼の世界はここにあった。
この部屋で、何もすることがなく、すべてをあきらめてしまいそうになると、彼はただこの部屋と部屋にあるものを測ることでその時間をやりすごした。何度も、何度も。己の体を物差しにして、夜が更けるまで部屋中を測りつづけた。
‥‥34歩。部屋を壁にそって、ぐるりと一周。
ロゼナギースを見おろして、王は少しの間無言だったが、静かに言った。
「余りに長く、ここにいたな」
「‥‥俺のさだめだ。己で誓約を立てた。生きるために」
「お前は強い。希望を失うことなく、どうやって耐えた?」
問われてロゼナギースは口の中で吐息を殺す。
お前が言うのか、それを──そう、面と向かって言ってやりたかったが、どんな顔をして言えばいいのかわからなかった。半分血のつながった兄ではあるが、すでに絆は断ち切られ、ロゼナギースは母の犯した罪ゆえに、天にも地上にも係累はない。記録の上では彼の父は誰でもなく、目の前の兄とつながりを示すものは何もなかった。
それに、6才の時にあの事件がおこる前も、相手を「兄」と思ったことはない。この「王」は常に彼よりはるかに高みに立ち、常に手のとどかないところにいた。
「──ふつう、“どうして逃げた?”とか聞くもんだろ」
「どうやって何故耐えたのかがわかれば、逃げた理由などおのずと知れる。もはや耐えるべきものがなくなったからだ」
平然として、言う。相変わらず、自信に満ちている。ロゼナギースは床へ投げ出した自分の靴先、埃まみれですり切れかかった革を見つめて、苦々しく笑った。
「知りたいのか」
「知りたいね」
「どうせ首を斬らなきゃならん奴の言うことなんか、どうしてマジメに聞こうとするかね」
「王城における王は、秩序だからな」
意味がわからずにロゼナギースが顔を上げると、王は灰色の眸にふしぎな微笑をうかべていた。
「秩序が王を保ち、王が秩序を保つ。だがなローゼ、無為で無思慮な秩序は、それ自体が凶器なのだ。ゆえに我らは真実を求めるようさだめられる。人の増長を封じる唯一の道は、真実を求めつづけることだけだ」
「‥‥王として、知りたいと?」
「お前が罪ある者として話すなら、王として聞く。それだけだ」
「お前は──卑怯だ、サリヴァス‥‥」
言うつもりもない、言おうとしてもいない言葉を口ばしって、ロゼナギースはぞっと血の冷える思いがする。だが、一瞬その顔を見つめ、王はかろやかな声を上げて笑いだした。
「なあ、俺にそれを言うのはお前くらいのものだぞ。実の弟たちでさえ、もはや俺の名を忘れ去った」
「‥‥‥」
「わからんか? 俺たちは、似ているのだ。お前は目に見える壁に、俺は目に見えぬ壁にかこまれている。そうさだめられ、そう生きてきた。──そして、お前は壁の向こうへ出ていった」
胸の前の右手で、ぱっと何かを散らすような仕種をした。それから右拳を握り、小さな息をつく。
「‥‥俺が知りたいと思うのも当たり前だろう」
「‥‥マキアが‥‥」
ロゼナギースは、目を伏せて、つぶやいた。マキア。彼のために地獄のような世界で生き続けた、唯一人の「家族」。
「俺のために、娼婦になったマキアが、な。自由になっただろう。ゆるされて、娼館の主となった。8年前のことだ。お前がマキアをゆるして娼婦の身から解き放ち、店を持つことをゆるした」
「ああ」
「‥‥だから、俺が逃げたとしても、マキアが殺されることはもうないと思った。それからずっと‥‥逃げ出すことを考えていた」
「お前をこの城に結びつけていたのは、マキアの存在だけか」
それが問いなのかどうか、よくわからない。
ロゼナギースは床に座りこんだまま、斜めに王を見上げて、かたい沈黙を保った。これ以上、うかつなことを言うつもりはなかった。この石の塔を己の檻として16年。その中で、彼がどんな夢にすがって生きてきたのか、生きつづけたのか。それを口に出してしまいたくはなかった。
黙った彼をしばらく見おろしていたが、王は表情を変えずにうなずいて、しなやかな身のこなしで彼の横を抜け、扉へ歩みよった。
足をとめ、肩ごしに言う。
「本日、瞑の鐘とともにお前の裁罪をとり行う。身を浄め、裁罪の衣をまとって場にのぞめ」
「今日? いくら何でも──!」
早すぎやしないか、と言いかかり、ロゼナギースは声を凍りつかせた。扉口にたたずみ、彼を見おろす王の顔は静謐で、とぎすまされた刃のような鋭さをはらみ、ゆるぎない力に満ちていた。
灰色の瞳に見据えられて、ロゼナギースは低く頭を垂れ、右拳を左肩へ置いた。
「御意のままに、陛下」
──王の顔で、王の眸で。人を当然のように従わせる、その意志で。
「ああ」
鉄の声で一言こたえて、王は部屋を出ていった。
後ろ手に扉をしめ、王は廊下にひかえていたレイヴァートとヒルザスを見やった。
「疲れているところすまないが、本日の瞑刻にローゼの裁罪を行う。証人として左右に立て」
ヒルザスはあからさまな驚きの表情をうかべ、さしものレイヴァートの表情もかすかに揺れた。本日中の裁罪というのも異例なら、近衛を証人として左右に立たせるのも異例だ。
ヒルザスが小さく咳払いをした。
「御意。‥‥しかし‥‥どちらが右で、どちらが左に?」
基本的に、裁罪においては「裁罪の座」と呼ばれる石の円座へ趺坐し、中央の水盤をはさんで裁罪される者が王と向きあう。証人は、王と裁罪者の間に、互いに向かいあって立つのだが、「右」と「左」は裁罪される者から見た証人の位置で、右は王の、左は裁罪者の側に立つ証人として、それぞれの意思をつかさどる。
つまり、「右」の証人と「左」の証人では、位置だけでなく役割が正対しているのだ。
王は、平然として言った。
「好きにしろ」
「‥‥御意」
ヒルザスが何か言いかかる前に、レイヴァートがかるく頭を垂れ、答えた。王は何事もないかのようにうなずいて、
「レイヴァート」
「は」
「お前はローゼについて、裁罪の準備をさせておけ。ヒルザス」
「は」
「お前は口のかたそうな侍女を見つくろって、ローゼの身支度を手伝わせろ。お前たちの支度もあるしな」
言い切って、反論や疑問はないかと二人の顔を眺めわたし、これ以上言うことはないと判断したらしい王は、きびきびと塔の階段を降りていった。
姿がしっかり消えたと確信してから、ヒルザスが口をひらく。
「何で俺が、召使い頭みたいなこと‥‥」
「城内の女にくわしいのは、俺よりお前だろう」
ことさらに皮肉というわけでもなくレイヴァートが返して、それきり反論はなかった。
硝子を砕いたような砂が月光をはね返している。白く、青く、冷ややかで、硬質に。一点の濁りもない。
イユキアは素足で砂を踏みながら、円形の空き地の中央にまで歩み出る。砂は、見た目とちがって奇妙にあたたかく、くるぶしまで沈む足をやわらかにくすぐる。ほとんど音はたたなかった。
黒くからみあった闇色の森は、砂のふちでふっつりと途切れ、イユキアの頭上にはぽっかりと夜空が開いている。星を薄く散らし、しんと蒼い闇空であった。己をかこむ森の気配がひしひしとせまってきて、イユキアは目をとじた。砂はただすべてを呑みこんだような静謐。
その向こうに、あふれんばかりの森の生気と息づかい、生と死が入りまじって流れる抗いがたい渦の力を感じる。渦の一つを追ってみようとしたが、呑まれそうになってすぐさまあきらめた。あまりに優雅で、あまりにも生々しい。死すらも独自の熱をもったまま森へ融けこみ、脈うって声なき叫びをたぎらせながら、奇妙な調和を保った巨大な混沌の内に息づいていた。
──その背後には、気が遠くなるほど巨大な「時間」の堆積がある。
この森がどれほど古いのか、イユキアには見当もつかなかったが、それらの「時間」に呑みこまれないようにしながら森とつながっているのは、イユキアにも難しいことだった。死者が残した意識にふれるほうが、彼にははるかにたやすい。「森」は意識のはしばしをからめとり、そこを足がかりに這いのぼって彼を引きずりこみ、容赦なく同化しようとする。
これほど激しい「森」というものを、イユキアはほかに知らない。巨大で深遠な時間の中で育み育まれながら、生命への「飢え」というものをまるで失っていない。そして、その奥に喰い尽くした「死」というものの記憶を、生々しくたたえつづけている。
かつてこの森は王城の周囲をかこみ、王城を守ったと伝説に云う。今より幾代も前の、別の王朝があった頃。森の民すらおぼろげな死者の追憶として語る物語。森は王城と王を守った。その頃、王は常に森の民の娘と契り、森へ王の血をもたらしていたと、伝説にはある。
その後、王城の王と森の主とが力をあわせて森と王城を分けた、と。
──チリリ、と澄んだ音が鳴った。
イユキアは、意識を引き戻されたように、目をあける。森は、内側にはらむ狂熱のような奔流が嘘のように、闇色にそびえたっていた。
木と木の間に、わずかな息吹の気配がある。森の民だ。彼らの気配は、森そのものの気配とよく似ていた。あからさまなほどの生命の息吹と死の気配に満たされている。
風はない。イユキアは、金色の目で脇に垂らした右手を見おろした。その先で、チリ、と鈴の音が鳴る。
鈴は、森へ入る旅人がよく持つ、護呪の鈴だ。旅人の頭に巻かれた細い鎖から額に垂れ下がっていた。森の民が面白半分に、あるいは皮肉をこめて首から取って飾ったのだろう。彼を護る役には立たなかった鈴を。
白濁した死者の眼が、イユキアを見上げた。死んだ旅人のまぶたは切り取られていた。森の民が切ったのだ。闇から目をそむけるようなことがないようにと。死者の首を斬り落とし、舌を切り、まぶたを切った。
円形の空き地の中心へ立ち、透明な砂で満たされた地面へ淡い影をおとして、イユキアはしばらく無言だった。肌には青白いほどに血の気がなく、まとった白い長衣とほどきおろした銀の髪がほのかに光って、彼は闇にうかぶ幻のようだった。金の眸だけが妖々と闇をうつして、時とともに魔呪の気配を強めてゆく。
梢がざわざわと、まるで人が会話するように揺れた。
風はない。
イユキアの、とじた口の中で舌がかすかに動いた。声にする寸前で、語りの言葉をかたちづくる。はじめてしまえば引きずっていかれるのがわかっていた。その前にきちんと自分の位置と逃げる手順をつくっておかないと、巻きこまれる可能性もある。
まだ音にもしていない魔呪の律動に惹かれて、夜闇の奥がざわつく。彼を求めている。生命を。よこせと闇の奥で何かが無音の咆哮を上げるのを感じた。古い──おそらくは、森と同じほどに古い、強大な飢え。
イユキアの金の瞳が強い光をはらんだ。彼は、素足で砂をゆっくりと踏みながら、しばらく呼吸をはかっていたが、大きく息を吸って、唄うようなふしまわしの魔呪をとなえはじめる。
きっとそれは、そもそもは「唄」だったのだ。くりかえし儀式に用いられた結果、余分な言葉や音が削り落とされ、魔呪としての呼びかけの根だけが残って、森との関わりの中で大いなる力を持つに至った。
その「力」がイユキアの内側で暴れ回り、舌は迷うことなく勝手に魔呪をつむいでいく。魔呪が炎のような力を放ち、闇の奥で待ちかまえるものとつながりあって、勝手に自分自身をかたちどろうとする。引きずられまいと冷たい意志をふるって抗いながら、イユキアは早くなりかかる詠唱を自分がさだめた速度に抑えた。知らぬ名や言葉を唱えさせられないよう。さだめられた以上の絆を結んではならない。なにしろこの魔呪は、術者自身を喰いたがっているのだ。
時おり両足をそろえる、特殊な歩き方で砂を踏みながら、イユキアは右手に下げた旅人の首がまた鈴を鳴らすのを感じていた。この旅人は、こんなたよりない音色に守られていると信じて、森の深みへ入ってきたのだろうか。空き地の中央へ向き直り、死者の髪をつかんだ手にかるい力をこめて、砂の上へ首を放る。首は、まるで砂から生えるように落ちた。
イユキアは左手に下げていた皮袋を首の上へかかげて、右手の爪を袋の腹へすべらせる。魔呪の詠唱とともに、やぶれた袋から血がしたたり、首を濡らして砂地へひろがった。
血の沁みた砂がいっせいにうごめきはじめる。そこここで眠っていた無数の虫が目覚めたかのようだった。
深紅の砂がイユキアの詠唱にあわせて動き、首を中心に据えて異様に複雑な紋様をほとんどまばたきの間につくりあげる。イユキアは最後の言葉をとなえながら、大きく背後へとびすさった。
砂がうねった。いや、その内側にひそむものが。生々しく砂地全体が蠕動し、死者の首と血を一気に呑みこむ。イユキアは宙で左手の皮袋を振った。残っていた血が宙へしずくとなって散る。
同時に、最後の言葉をとなえおわった。魔呪の律を建て終える。術から自分を引きはがす瞬間、ほとんど肉体的な苦痛をおぼえ、呻きながら全力をふりしぼった。古い術は手ごわい。術自体があまりに時を経ているために独自の意志をそなえているし、伝わってくる間にも多くの人間の思念が術に入りこんでいる。複雑すぎるのだ、つまり。複雑さのあまり、つけこまれる隙がどこかに生じてしまう。
──何か、言い終わっていないことがあるような気がした。
舌が勝手に言葉を放とうとする。ぐいと歯を噛んでそれを押さえつけた瞬間、イユキアの体は砂地の外へ落ちていた。夜気のつめたさが疲弊した体に流れこみ、土と草の匂いがたちのぼって、イユキアは自分がどこにいるのかわからなくなる。耳元に低い声がささやいた。
「俺だよ、イユキア」
「‥‥セグリタ‥‥」
森の民の少年の名を呟いて、イユキアは身をおこした。
目の前に月光をあびる砂地があった。砂の上に立体的な呪陣の紋様が赤黒く浮かび上がっている。結晶のような美しさに目を奪われた瞬間、風もないのに木々がざわついた。暗く重い気配が闇からとびだして次々と血の呪陣へとびこんでゆく。10、20、あるいはもっと。「形」のないものたちではあるが、イユキアの金の目には、おぞましい尾がうねりながら血を求めて狭苦しい呪陣の内でのたくるのが見えた。
互いに押しあいながら血の気配を喰い尽くそうと狂乱している。
‥‥自分たちこそ、餌だとも知らずに。
ふ、とイユキアの唇に酷薄とも言える笑みがかすめた。一度とらえられれば、そこから脱出するすべはない。喰うつもりで、喰われるだけだ。同時に、ひどく切実な飢えが身の内を灼くのをおぼえた。灼けつくような。
何もかもを喰い尽くしたい。苦痛のあまりに呻いた。
「イユキア!」
ゆさぶられる。さわるな、と言いかかった瞬間、嵐のような轟風が息をさらった。目をとじる。全身を叩きつけて地面から引きはがしそうなほどの突風が森をさわがせ、すべて砂地へ流れこんだのが感覚でわかった。喰われる──いや、喰う。血の臭いによりあつまった邪気や妖物を、その轟風が残らず喰い尽くし、血もろともすべてを呑み干した。
イユキアは、頭をふる。飢えと飽食の気配から自分を引き剥がすのに、少しかかった。呪はとじている。森には生々しいざわめきが満ちるだけで、痛むほどの飢えは跡形なく消えていた。
巨大な森に生じる「飢え」を、森の民はこうして祓う。時に自分たちで、時に黒館の力を借り。血の魔呪で妖気を寄せ、その妖気を餌にさらに巨大なものをとらえて結界の向こうへ流す。死者の魂も、時経て闇へ堕ちた精霊も、有形無形の魑魅たちも。
「イユキア──」
「‥‥大丈夫」
金の目をあけて、セグリタを見やる。森の民の少年は、心配そうにイユキアをのぞきこんで水筒を手渡した。
冷たい水を喉へ流しこんで、イユキアは息をついた。
いつのまにかそこに砂地は跡形もなく、月光が洩れてくる木立の間へ寝かされていた。砂地を囲む結界を、森の民が封じたのだろう。あそこは森の民の聖地であり、忌み地である。黒館の主にさえ、彼らはその正確な位置を明かそうとしない──もしくは、正確な「位置」などないのかもしれないが。あれがこの世のものなのかどうかさえ、イユキアにはよくわからない。
全身が泥のように疲弊していた。セグリタの手を借りて、立ち上がる。その目の前へ、壮年の森の民があらわれた。背はイユキアより頭一つ以上低いが、がっしりした体と叡知をたたえた顔は威厳に満ちている。イユキアは、膝を曲げて一礼した。
「おわりました、長。‥‥しかし、邪気が多い。森で何かありましたか?」
「我らもそれを気にはしているのだ」
森の長は眉をしかめた。
「何か‥‥感じませんでしたかな、黒館の主どのは?」
「わかりません。特に、何かにあやつられたものどもはいなかったと思いますが。森の気配にも、病んだところはない」
「ええ」
イユキアの言葉にも、森長の表情のくもりは取れなかった。森の民がイユキアに語らぬことを何か知っているのか、それとも感じている不安を言葉にできぬのか。影のような不安がちらりと胸をかすめたが、イユキアはそれ以上問わなかった。森は森の民のものだ。黒館の主は、招かれた祭祀にすぎない。
──森に限らず。
街や王城においては他所者であり、黒館においてすらイユキアはかりそめの祭祀者だ。
黒館の主と、人はイユキアを呼ぶが、自分と館のどちらが「主」なのか、イユキアには疑問だった。館に支配されているのは主の方かもしれないと思う。
レイヴァートは、もしかしたら、そのことに気付いているのかもしれない。彼は時おり、館とイユキアの魔呪を区別したような発言をする。まるで、館からイユキアを守ろうというような意志すら見せたこともある。彼だけが、何か知っているように。
「‥‥‥」
小さな吐息をついて、イユキアは頭をふった。あがなう血の円環をつくろった今は、レイヴァートのことを考えたくはなかった。何も。何一つ、思い出したくはない。クーホリアの街で彼に会って己がどれほど後ろめたく、同時にどれほど昂揚したか──どれほど彼をもとめたか、その矛盾した感覚がよみがえって、ひどく苦しくなる。叫び出してしまいそうな気がした。
「イユキア」
聞きなれた声がすぐ背後で彼を呼んだ。イユキアはくるりと体を回してふりむく。
眼前に、セグリタがいた。
少年は、イユキアの勢いにわずかに肩を引いたが、平静な表情で、足元へあごをしゃくった。
「どうする。とむらう?」
「‥‥‥」
足元に横たえられた首のない死体を見おろして、イユキアは、無言だった。
森へ迷いこんだ旅人だろう。イユキアは生者から買った血を使うが、森の民は古くからのしきたりのまま、人を狩って捧げる。
道を外れぬ旅人を、森の民が殺すことはない。それは王城との誓約で禁じられている。だが、森の民の力をもってすれば、心に迷いがあるものを森の奥へ惑わせるのはたやすいことだった。
供物は、捧げる者と捧げられる者をつなぐ絆。代償なき理は存在しない。
吐息をついて、イユキアはしなびたような旅人の体の横へ膝をついた。手をのばし、生気を感じない体に手のひらでふれたが、やがて首を振った。体の内には、生きていた時の名残りは何一つなかった。魂は、あの首に封じて供物として術に喰わせた。ここに残されたものは、物と変わらない。
「何も残っていない‥‥葬ってあげて下さい」
「骨で何か作ろうかと思ってんだけど、いい? 残りはちゃんと森に還すからさ」
「ご自由に」
うなずきを返したセグリタはうれしそうだ。森の民にとって、森へ迷いこんだ人間は「獲物」であって、獣に対するのとあまり変わらない感覚しかない。むやみやたらと獣を狩らないのと同じで、理由なく人間を狩ったりはしないが。
イユキアはゆっくりと、セグリタに手渡されたサンダルを履き、白い長衣の上になめし皮のマントをはおった。血にじかにふれた覚えはないが、自分が動くたび、遠い血臭がたちのぼるのに気づいていた。あるいは屍臭だろうか。沁みついているのかもしれない、と思う。この身には。
一瞬、レイヴァートのことを考えそうになって、心をとじた。
考えをそらしながら、森長へ向き直る。旅人の首のことをぼんやりと思った記憶のすみで、ふと別の死骸を思い出した。たずねる。
「森長。遠見の一族の頭蓋がクーホリアの丘にうめられていたのはご存知ですか?」
「‥‥うむ」
わずかな間があったが、森長はうなずいた。イユキアを導いて、深い森を抜ける土の道を歩きはじめる。
セグリタがついてくる気配。さらにその後ろで、森がざわざわとうごめき、道をとざしてゆくのがわかった。
イユキアは疲労した体を引きずるように長に従いながら、聞いた。
「あれは、何を見張っていたのです?」
「‥‥遠見は、遠見にしか見えぬものを張っておった。遠見の死者ともなれば尚更、何を見、何を張っておったか、我らにはわからん」
「そうですか」
森長が何か言わずに置いている気配はあったが、イユキアは深くは追わなかった。どうせ、人は誰でも嘘をつく。イユキアも嘘をついた。ロゼナギースに、遠見の骨が埋まっていた丘で。遠見の骨には何の力も残っていないと言った時に。
あの骨は、それほど易しい骨ではない。
人は誰でも嘘をつく‥‥
裁罪。
円形の石室に在るのは王と罪人、そして二人の証人。
本来ならば告発者たる「声」が立ち会うが、王はそれを拒んだ。「私が〈声〉だ」と一言告げて。自らの手で裁罪の扉をひらき、他の三人を招いた。
王が「声」を兼ねるなど前代未聞のことだろう、とヒルザスもレイヴァートも思ったが、入り組んだ王城の歴史において、本当にそうなのかは二人ともによくわからなかった。禁じる律もなさそうだが。当代の王は、何が定められていて何が禁じられているのか、しっかりと把握している。
四人の背後で石の扉はしまり、王は水を満たした水盤の台を回って、上座に据えられた石の円座へひょいとのぼった。円座はかなりの高さがあり、そこに趺坐しても、立っている三人より王の方が高い。
「それぞれ、さだめの場所に立て。はじめる」
「‥‥‥」
床は色合いのことなる石を組み合わせたモザイクで、文字とも紋様ともつかぬものがさして広くない部屋の床を覆っている。裁罪の灰色の衣をまとったロゼナギースが歩み出し、水盤をはさんで王と向きあった。その右へ、黒いマントをまとったヒルザスが佩刀して立ち、白いマントをまとったレイヴァートが左へ立つ。四人ともに、水を満たした水盤へ体を向けた。
王は相変わらず黒づくめの簡素な身じまいであったが、細い銀の輪を額へしめていた。髪をあげ、白い額に輪の中央の赤い石を誇るように飾っている。灰色の目でロゼナギースを見据えた。
「それで? 己の罪状を、何と心得る」
「‥‥‥」
ロゼナギースは眉をしかめた。石の重苦しい匂いがひややかに押し寄せて、彼を満たし、一瞬のうちに22年前へ心が戻ってしまいそうだった。引きずられ、己のものではない罪を「声」にあばかれ、死と自由を天秤にかけて選ぶよう強いられ、そして──すべてを奪われた。
この裁罪の場所で、毒を謀った母は死に、その一族も罪を負って死んだ。この場所はこれほど狭かったのだろうかと、ロゼナギースはふしぎになる。あの時、天井ははるかに暗く、壁はことごとく闇に沈んで彼を呑みこむかに見えたものだ。
今、ともされた油燭のもと、円形の石室はひどく平凡に見えた。
ひとつ息を吸い、腹に力をこめて、ロゼナギースは王のまなざしを見つめ返す。
「22年前にここで立てた誓約をやぶり、王城より逃亡した罪を告白いたします、陛下」
「うん」
あっさりと、王はうなずいたが、するどい眸はロゼナギースをそれることがなかった。かわいた声で残る二人へたずねる。
「何か申すことはあるか、右と左?」
「ございません」
ヒルザスがそっと言った。レイヴァートも頭を垂れてうなずく。二人はとうに、自分たちがこの場で何かの発言を求められてなどいないと察している。
王はうなずいて、背すじをのばした。
「では、申しわたす。その誓約と誓約破りについて、そなたを解放する、ロゼナギース」
「‥‥‥」
「納得できないか」
「理由が‥‥ございません、陛下」
ロゼナギースは、やっとのことで声が揺れないように、それだけを言った。だが胸は激しく脈を打った。自由──罪とも誓約ともときはなたれて、自由? そんなことは考えたこともなかった。
身の内に、灼けるような飢えがわきあがる。一瞬、すべてがどうでもいいほど、それを手に入れたいと願った。嘘をついてでも、自分を裏切ってでも。ずっと誰かに支配され、ずっと頭を垂れ、罪につながれて生きてきた。そこから──解放される?
そんなことが生きているうちにありえるなど、空想したこともなかった。
王は何の表情も見せず、かすかに身を前に傾がせて、じっとロゼナギースを見つめている。その目。深くつめたい、灰色の目。ロゼナギースはその目を受けとめて黙っていたが、やがて、低いがはっきりとした声で言った。
「私は前王へ誓約をたて、それを裏切りました。‥‥その罪を理由なく無とすることは、貴方の、前王へ対しての裏切りともなりましょう」
するどい緊張が、二人の証人の面をはしった。ロゼナギースの言は、王への告発であり、拒否である。王はかるく肩を揺らしただけだった。
「本音か。死にたいか、ローゼ? 俺にお前を殺させたいか?」
「‥‥‥」
「死にに戻ってきたか、この国へ?」
「‥‥サリューカを、行いに。俺は、そのために戻ってきた‥‥そう、申し上げた。それがすめば誓約破りの罪をつぐなうがこの城の律」
「誓約とは何だ?」
いささか苦々しげに、王は言った。
「己には罪なき6つの子供を裁罪の場に引き据えて、母の死に様を見せ、死ぬか未来を捨てるか選ばせることのどこに〈律〉とやらがある? 誓約とはな、ロゼナギース。もっと聖なるものだ。人と人が心で守るものであって、人の心をねじまげる枷ではない。神々をそんなことに使うことこそ、冒涜と言うのだ。前王はじつに馬鹿なことをした」
あまりにも小気味よい言葉に、状況にもかかわらずロゼナギースは笑い出しそうになった。面を垂れたままのレイヴァートの口元にもかすかな笑みがはしる。ヒルザスはぐるっと目をうごかした。
王は肩をすくめる。
「お前が誓約を満たしたいと言うなら仕方無い。ただし、俺はお前のつまらん罪悪感を引き受けてやるつもりはない。一つ聞く、ローゼ。正直に、まっすぐに答えろ。死にたいのか?」
「──いいえ」
かたい声で、ロゼナギースは答えた。死を覚悟しているが、死にたいわけではない。誇りと自由を捨てて生きることをえらんだ、22年前。今、自ら死を求めることは、その22年間を無駄なものにするような気がした。
王はうなずく。
「では、生きてつぐなえ。お前は6年前、王城から逃げた。これより6年間、王城において労役を命じる。それが終わればお前を解き放つ。ただし、2年後のサリューカをお前が見事に奏すれば、だ。サリューカと、6年の労役と。その二つが俺の条件だ」
「‥‥‥」
「まだ不満か」
ロゼナギースの沈黙に、王は薄い笑みを頬にうかべ、レイヴァートへ左手を振った。
「レイヴァート」
無言で一礼し、レイヴァートは左の証人の座を外すと、石の扉へ向かった。
王城の奥扉にはすべからく魔呪がこめられている。開けようと扉にふれた手のひらが凍るようにつめたくなったが、レイヴァートは腹に息を溜めて石の掴み手に指をくぐらせ、つかんだ扉を強く引いた。強い抵抗をこらえて扉を開ける。
そこに、侍女につきそわれた青年が立っていた。
黒い目に緊張と恐怖をたたえ、レイヴァートを見やる。レイヴァートはうなずき、青年を内へ入れるとふたたび扉をとざした。
ロゼナギースは、入ってきた青年を見てもわからない顔をしていたが、レイヴァートが青年をつれて水盤の前へ戻ると、はっと息を呑んで、みるみる顔色を失った。
「オルジカ‥‥か?」
こくりと青年がうなずく。ロゼナギースは茫然とした。最後に見た時には、14才の子供だった。今は20才か。母親に似たのか、ほっそりして物静かそうな青年であった。
王が静かな声で言った。
「ヴィラハンの息子、オルジカ。そなたと同じ師に仕えた者だ。見知りであろう」
「‥‥‥」
ロゼナギースはうなずく。見知りどころではない。ヴィラハンは6年前、オルジカのためにロゼナギースを王城から逃がした。オルジカをサリューカの後継者とするために。
ヴィラハンの野心をわかっていたが、ロゼナギースはそれにのった。「罪人」が音師を継ぐことが城内でどれほど多くの反発を招くかが怖かった。血筋と身分から言って、オルジカの方が次の音師にふさわしい。だが、逃亡からわずか2年で、彼らの師が死ぬとは予想だにしていなかった。
そのオルジカは、幽霊のように青ざめ、何かをこらえるように唇を噛んでそこに立っている。不吉なものを覚えて青年を凝視したロゼナギースの耳に、王の声がとどいた。
「ヴィラハンは理由を誰にも告げず、自裁した。毒を含んでな。妻もまた彼とともに伏した」
「‥‥‥」
ロゼナギースの表情が凍りつくのを眺めて、王は淡々と語を継いだ。
「理由を公にするつもりはないが、人の口はふさげるものではない。すぐに噂が立つだろう。6年前のことも、今回のことも、な。どう思う、ローゼ」
「は‥‥?」
「ここなる息子は、親の罪を継いで裁罪されるべきだと思うか?」
「!」
目を見ひらいて、ロゼナギースは王を見ていた。王は揺るがない。どのような冷酷も平然と見せるであろうおだやかな顔に、読みとれる表情は何一つ無かった。
ロゼナギースは、のろのろと、オルジカを見やる。オルジカは今にも倒れそうなほど青白い顔をしていたが、頬にひとすじの紅潮がさしていた。怒りにか、恥辱にか──22年前の自分を、ロゼナギースは思い出す。母の罪を知らされ、己の負うべき重荷を言いわたされ、それまで生きていた世界のすべてを失った。彼は6歳だったが、あの時感じた身を灼くような無力感は、今でも鮮やかだった。
オルジカの感じている痛みと苦しみ。それをまざまざと目にして、ロゼナギースの口の中が乾いた。ぞっとする。その父が死んだのは、自分のあさはかな選択のためだったのだ。
王へ顔を戻し、彼はかすれた声で言った。
「いえ‥‥子は、親の罪から自由であるべきと存じます」
王はうなずいた。ちらっと笑みがかすめた。
「そうだな。オルジカ」
呼ばれて、オルジカの肩がぴくっと動いた。王を見やることはできず、うつむいたまなざしを水盤へ据えている。
王はおだやかな口調で、
「お前は父の罪を負うな。父の名を継ぎ、生きよ。そしてロゼナギースを新たな師として、音を学べ」
「それは‥‥」
ロゼナギースが言いかかった。結果としてオルジカの父母を死なせた自分が、師としてふさわしいとは思えない。だが、サリューカを次代に継がねばならないのも確かだ。思わず声を途切らせる。
王が何事も聞かなかったようにつづけた。
「オルジカ。何か申し述べたいことがあれば、申せ。遠慮はいらん」
「‥‥‥」
「申せ」
おずおずと、オルジカは顔を上げ、ためらってから、自分を見つめる王と目を合わせた。汗が肌をうすく光らせている。怯えたような、どこか絶望的な目をしていた。声はかすかにふるえている。
「‥‥恥辱を背負って生きるなら、死をえらびたいと思います」
ロゼナギースが目をとじた。
王がじっとオルジカを見つめる。
「そなたの父と母は、何のために死んだと思う?」
「‥‥罪を恥じてのことでございましょう」
「ちがうな。お前を生かすためだ。己の命で罪を引き受け、お前のことは許せと、ヴィラハンは己と妻の死でもって俺にせまったのだよ。あれはずるい男だな」
淡々とした言葉に、オルジカの目の奥に強い光がともった。怒り──に近いもの。父を侮辱されたことに対する反発と、そんなことを言い出す王への困惑が入りまじっている。悪い眸ではない。さっきの怯えた顔よりずっといい。王は唇のはじを持ち上げた。
「だが、お前を愛していた。その想いを裏切って死ぬか? 生きるのもつらいぞ。人はお前の父の罪と、お前を重ねて見るだろう。それを背負って生きる覚悟がないなら、怖じて死ぬもよかろうが」
「!」
「生きろ、オルジカ。それより重いことはない」
やわらかに言い切って、王は、凍りついたように立つロゼナギースへ灰色の眸を向けた。
「そしてお前は、ローゼ、オルジカを導き、道を示せ。6年前、愚かなことをしたと思うなら、つぐなうのは俺にではないぞ」
「‥‥‥」
ロゼナギースは無言のまま王を見ていたが、ゆっくりとオルジカへ顔を向けた。レイヴァートの横へ立つ青年は青ざめ、怒りと困惑に引き裂かれそうな表情で、小さく震える拳を握りしめている。明らかに心がさだまっていない。痛みのうちに揺らいでいるのだった。
ふ、と深い息をつき、ロゼナギースは王へ頭を深く垂れた。
「御意のままに」
「うむ。‥‥オルジカ?」
オルジカはぐっと唇を噛んで、右手を左肩におき、頭を垂れた。
王はうなずき、円座からひらりと石の床へ降り立った。水をたたえた水盤へ歩み寄り、腰から瀟洒な銀の短剣を引き抜く。水にかざした左手の手首に薄い刃を当てながら、淡々とした声で言った。
「ロゼナギースに6年の労役を命じる。1つの贖罪は6年かけて果たされよう。もう1つの贖罪は、生涯かけて果たせ。王城の裁きはこれにて終わる。証人よ、証せよ」
「証、いたします」
レイヴァートとヒルザスが同時に奏した。袖を引き、水盤の上へ左手をさしだす。ロゼナギースと、一瞬遅れてオルジカも従った。短剣は王の肌をすべり、血の一滴を銀の刃にからみつかせる。つづいて、刃には、レイヴァートとヒルザス、ロゼナギースの血が流れた。
オルジカの手首に血に濡れた刃をあてながら、王は静かに語りかける。
「生きて、学べ。ゆるすすべをな。人も、自分も」
「‥‥御意‥‥」
しぼりだすように言う青年の目に、ふいにきらりと涙が光った。こらえて唇を噛む。その肌を短剣の刃がうすくすべり、刃は5人の血をからみつかせて灯りの炎をギラリとうつした。
王が裁罪の言葉をつぶやきながら、水盤へ血をふりおとす。水は波紋にゆらいで彼らの血と言葉を呑みこんだ。
窓辺でイユキアは目をとじ、木の桟に頭をもたせかけてうごかない。
おだやかな面を淡い陽ざしが白く照らしている。時おり、何かつぶやいたが、声はなかった。
黒館の一室は静寂に満ちて、何の気配も音もない。館の外の音も何一つきこえてこない。凍りついたような無音に身を浸し、館の主は長いことそうしていた。
レイヴァートが塔の部屋へ入っていくと、ロゼナギースは敷物の上で足を組んで、左腕にもたせかけた六弦の竪琴に指をはしらせていた。
レイヴァートを見上げて小さく笑う。
「指先がなまった‥‥」
「ずっと弾いておられたと聞いていますが」
レイヴァートは、長剣の鞘を両手に持ってロゼナギースへ近づいた。ロゼナギースが、この地を逃亡してから後、吟唱詩人として身を立てていたことは聞いている。
ロゼナギースが聞きなれない和音を鳴らしながら肩をすくめた。
「そういうのとはまたちがうのさ。‥‥それより、そのしゃべり方、どうにかしろ。俺はもう不可触の人間ではないし、労役に仕えるものだ。近衛三座のお前に丁寧に扱われちゃ、おかしかろう。名前もな」
「‥‥承知した、ローゼ」
一瞬、考えこんでから、レイヴァートはうなずいた。ロゼナギースがふふっと笑みの息を洩らす。その前へ、レイヴァートは革鞘におさめられた細身の長剣を横たえた。
黒革の鞘には赤い古文字が一文字染め抜かれていた。王の象徴。
王から下賜された証。
竪琴を横へ置き、ロゼナギースはその文字へ指先をすべらせた。レイヴァートは塔の室内を見回す。王は他の場所を用意すると言ったが、ロゼナギースは16年間己が封じられてきた塔へ戻った。虜囚としてではなく、王へ仕えるものとして。
「‥‥俺はいつか、オルジカに殺されるかもしれんな」
呟き、ロゼナギースは膝近くへ長剣を引き寄せた。
レイヴァートは無言。ロゼナギースは柄に巻きついている留め鎖を外し、刃を少し引き抜く。冷ややかな金属の表は、彼の顔をうつすほどに美しく磨き上げられていた。
「あいつは‥‥陛下は、昔から容赦なく優しい」
溜息をついた。
「俺が6才の時に裁罪の場に立たされた時、あの方は左の証人に立っていた。‥‥俺はな、レイヴァート。生きるとマキアに誓って生の天秤をえらびはしたが、13の時にどうしようもなくなって死のうとしたことがある。はっきりそうと決めたわけではないが、物が食えなくなった。その5日目に、あの方がたずねて来られた」
指先が刃の艶をすべる。
「‥‥あの方は、俺に言ったのだ。約束しよう、と。自分は王になる。だから俺に、音師になってサリューカを奏せと。二人で王城を支えようと‥‥だから生きろと、俺に言った」
剣の柄を右手でつかみ、鞘へ押しこんだ。剣を横へ置くロゼナギースを見やって、レイヴァートは静かに言った。
「あなたには会いたい人がいるのだと、黒館の主が言っていた。だから帰ってきたのだと」
「イユキアか。‥‥あれも、少しおかしな奴だな。黒館で、施癒師をやってるだって? どこから来たんだ」
「さあ」
レイヴァートは首をひねる。実際、知らない。言葉に不自由している様子はないから、おおよそ同じ大陸か、その周囲の島国の生まれなのではないかと思うが、それはあまりに広く、知らぬ国の数はそれこそ無数。
ふぅん、と呟いて、ロゼナギースは竪琴をふたたび膝にのせ、レイヴァートの聞いたことのない旋律をかなでた。レイヴァートは立ち上がって一歩下がる。
「久々に、後で手合わせをしよう。夕方に下の練兵場で待っている」
「そうだな。そろそろ勝てなくなってるだろうな。一つ、叩きのめされるとしよう」
いたずらっぽく笑って、ロゼナギースはうなずいた。
出ていこうとして、背後にやさしい音を聞き、ふとレイヴァートは足をとめた。歌のようなふしまわしが脳裏をかすめた。
「ローゼ。‥‥古い唄を知っているか? セリグリュスト、アルヴァルカ──」
「エルナーセギルナ」
唄を引きとって、ロゼナギースの指先が弦に踊った。もうひとつ、ふたつ、ふしまわしを呟いて、レイヴァートを見上げる。
「随分と、古い唄だな。今はもう使う者のない言葉でできていると聞いた。俺も古い音の譜でしか知らん唄だが、どこで耳にした?」
その問いに小さく首を振って、レイヴァートは一瞬ためらったが、たずねた。
「唄の意味を知っているか」
「言葉の正確な意味は知らん。だが、恋唄だ。遠くに離れた相手を呼ぶ」
指先がやわらかい旋律を鳴らした。レイヴァートはかすかに目を細めたが、表情をほとんど変えずにうなずいた。
「そうか。‥‥ありがとう」
頭をかるく下げ、ほとんど足音を立てずに部屋を出た。後ろ手に扉をしめる。鍵はかけない。もう、ロゼナギースは捕らわれの身ではない。
ゆっくりとした足取りで、レイヴァートは塔の階段をおりてゆく。途中、足をとめ、左の手のひらを見下ろした。数度、かるく握るようにして、イユキアの指が見えない図像を描き上げた感覚を思い出す。
目の奥の表情が揺らいだ。彼は、手のひらへ静かにくちづける。
短い吐息をついて、頭をふり、レイヴァートは元の静かな表情に戻ってふたたび石段を降りはじめた。背後に旋律が遠くきこえてくる。
それは、遠い風の音のようだった。