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【1】

 冬の街道は寒々しく、かたく踏みしめられた地面に馬車や荷車の轍の跡がくっきり残っている。山ごえの隊商はすでに最後の旅を終え、冬のねぐらを見つけるか、港町クーホリアから南に出る船を見つけるかしているだろう。船ももうほとんどないが。
 なだらかにつらなる丘の上には、葉を落とした木々にまじって常緑のオークの色が目を引く。灰色に覆われた景色の中で浮き上がる濃い緑は、誰かがそこに色を置いたかのように見えた。その彼方に青くかすんだ剣峰が見える。峰は白い雪をまだらにかぶっていたが、雪は山腹の半ばまでしかなかった。
 畑がひろがる丘の斜面に時おり小さな集落が見えたが、人影はなかった。街道沿いにいくつか宿屋はあるが、今はほとんど営業しておらず、戸口に木を打ちつけてふさいでいる建物も多い。
 主街道ですらそうなのに、王城から峰へつながる街道を外れてからは、道に人影はまるでなかった。彼らのほかには。
 レイヴァートは何度目かの溜息をついて、イユキアへ説明しようとする。
「もう少し体を後ろに倒して。あまり怖がるな‥‥」
「苦手なんです」
 イユキアの声は小さい。フードをかぶっているので後鞍のレイヴァートから表情は見えないが、見なくとも想像はついた。こわばっているにちがいない。
「私だけでなく、相手も。前にも言ったでしょう、だめだって──」
「だから、2人乗りできる大きさのをつれてきた。気もおとなしい。ほら。お前が嫌がるから、相手も嫌がるんだよ。落ちやしない、大丈夫だから。イユキア」
「‥‥‥」
「イユキア」
 レイヴァートがもう1度名前を呼ぶと、イユキアは吐息をついて、それでも体から少し力を抜いた。
 2人は騎乗用の獣の一種、フィンカの背にまたがっていた。フィンカは王城が騎乗獣をかけあわせてつくった獣で、アシュトス・キナースにしかいない獣だ。荷運びや騎乗用など種類が分かれているが、全般に背が広く、強靱で持久力のある筋肉を持つ。首が長くやや頭は前に垂れ、全身は鱗状の凹凸のある硬い皮膚と短い毛に覆われ、面長の顔にくりりとした大きな目がついている。いつもは見えないが、口をあけるとおとなしい外見にそぐわないするどい牙が見えた。長い耳は先細りで、普段は顔の両脇に垂れているが、今は斜め後ろに立って、背に乗る者の機嫌をうかがうようにパタパタと動いていた。
 イユキアが鞍の前側で、レイヴァートが後ろだ。フィンカの背に2人乗用の平鞍を据え、2人で座っている。荷は後鞍から左右に吊ってあり、レイヴァートの足に少し当たるが、邪魔というほどのものではなかった。レイヴァート自身は乗り慣れているので、鞍を置かない肌背でも充分なほどだ。
 イユキアの左右から前に回した両手で、レイヴァートが手綱をあやつる。フィンカはかたい土の道をゆるい速歩で走っていたが、レイヴァートの手綱にこたえて速度をゆるめた。人の早足と変わらない程度になる。それでもイユキアの体はかたい。
 手綱を左手にまとめて持ち、レイヴァートは右手の革手袋を左手で抜いた。イユキアのフードに右手をかける。頭を覆う布を後ろへおろすと、イユキアの銀の髪が冬の薄い陽に白くひかった。イユキアが抗議する。
「人が来たら──」
「誰もいない」
 やんわりと、レイヴァートはさえぎった。閑散とまばらな木々の間にも、そこを通して見える冬の野原にも、人影などまるでない。手を回し、指先でイユキアの頬からあごをなでる。背後から唇を寄せ、髪をよせて耳の後ろへくちづけた。首回りに溜まるマントの布をぐいとよける。首すじまでの肌を唇でゆるくなぞると、イユキアが息をつめた。落ちるのが怖いのか、前鞍についた革帯の握りを両手でつかんだまま体は動かさない。と言うより、動かせない。
「レイヴァート、何を──」
「乗るのが苦手なのか? 獣が苦手なのか?」
 つめたい肌をなぞりながら、レイヴァートが囁くようにたずねた。息が首すじを這って、イユキアはかすれた声で、
「‥‥両方‥‥」
「昔から?」
「ええ‥‥多分、眸のせいで‥‥」
 レイヴァートの唇がイユキアの耳朶をなぶり、ゆっくりともてあそんだ。唇に含み、やわらかく噛む。耳の形にそってなぞりあげた。イユキアが身をこわばらせているせいで2人の間には隙間があるが、それでも腕の中のイユキアの体が反応を見せるのがわかる。回した右腕で服の上から抱きしめ、首すじへ強い唇を押し付けて丁寧に舌を這わせると、息が荒くなった。
「レイヴァート──」
 かるく歯先をたてられて、声が途切れる。腕に力をこめて後ろへ引きよせると、首をかるくそらせ、レイヴァートの肩へ頭をすりよせるような動きをした。甘えた仕種に微笑して、レイヴァートは手綱を巻いた左腕をのばして前鞍の握り帯をつかんだ。よせた体を安定させると、イユキアのあごを指先ですくって後ろへ向けさせ、背後から唇を重ねた。
 わずかに抵抗するそぶりを見せたが、唇はすぐにひらいた。よりかかったレイヴァートの体が揺らぎもしないのに少しは安心したか、イユキアはぎこちなくレイヴァートへ身をあずける。レイヴァートはイユキアの口腔をゆっくりと舌でなぶり、荒くなる息を呑みこんで、互いの舌をからませた。
 おだやかで時間をかけたくちづけに、イユキアの体から力が抜けた。首をそらせ、レイヴァートの舌を受け入れてさらに求める。より深く、強く。レイヴァートもまた求めに応じながら、くらくらと背骨のしびれる快感がわきあがるのを感じていた。
 世界からお互い以外のものが失せ、満たされていく。レイヴァートは鞍上でイユキアの体をささえながら、体の芯をのぼってくる熱の甘さにめまいをおぼえた。思わず没頭しそうになる。
 イユキアが小さく呻いた。レイヴァートは我に返って唇をはなし、頬をよせて背中から強く抱いた。イユキアが長い吐息をつき、レイヴァートへやわらかな体を預けた。
 やがて、レイヴァートが囁く。
「ほら」
 イユキアが意味がわからないまなざしを上げた。レイヴァートは笑って、
「お前が警戒しなければ、大丈夫だ。眸のせいだけではないな、イユキア」
「‥‥‥」
 まだとまどっていたが、ふいにイユキアが驚きの表情になった。フィンカは緊張していたはずの耳をだらりと垂らして、自然な様子で速歩にうつっていた。
 レイヴァートの右手が手綱を持ち、フィンカの速度を上げる。着地ごとに2人の体が揺れたが、イユキアの体からはさっきまでのぎこちなさが払拭され、揺れに逆らわず重心を安定させている。
 レイヴァートが耳元にたずねた。
「後で手綱をとる練習もしてみるか?」
「‥‥私が?」
「何事もためしてみるものだ」
 イユキアがふっと笑った。
「それは‥‥とても、あなたらしい物言いだ」
「そうか?」
「ええ」
 力を抜いた体を背後のレイヴァートへ合わせ、イユキアはうってかわってくつろいだ様子だった。楽しみはじめているようでもある。レイヴァートは白い頬へ軽くかすめるくちづけを落とし、襟元を直してやると、獣の速度をさらに上げた。


 太陽が中天をすぎたころ、脇道に入って水場でフィンカを休ませた。自分たちも水と軽食をとり、騎乗でこわばった体をほぐす。
 イユキアは枯れ草の上に膝を立てて座り、ぼんやりと空を見上げていた。冬用の厚地のマントにつつまれた体との対比で、やけに顔がほそって見えた。金色の眸はいつもの水薬でかくされて、瞳は暗い色をおびている。
 レイヴァートは横に座ってその顔を見た。
「疲れたか?」
「いえ‥‥」
 否定しかかって、レイヴァートを見やり、イユキアは微笑した。
「そうですね。少し、疲れました。あなたが驚かせるから」
 微笑を返し、レイヴァートは頬にほつれたイユキアの髪をかきあげてやる。
「まだ少しかかるが、陽が完全に傾く前にはつける。冬だし、荘園も人はいない。のんびりしていていいところだ」
「あなたが、荘園の主だというのにも驚きました」
「叔父のものだが」
 レイヴァートは訂正して、皮袋の水筒から一口水を飲んだ。水の冷たさが喉をつたって身の内に沁みる。騎乗の風を受けた体は冷え、こわばった指先をほぐすようにしながら、続けた。
「今でも名義は叔父のもので、名代をサーエにしてある」
「女性が地領を持てるのですか?」
 イユキアは少し驚いた顔をした。レイヴァートは首をふって、
「いや。例外がないでもないのだが、女性が地領の主となることはできん。サーエに関しては、陛下のご芳情があってのことでな。俺を後見人として、サーエに権利を移管した」
「‥‥何故、あなた自身が名代にならなかったのです?」
 レイヴァートは指に白い息を吹きかけて、イユキアをちらりと見た。黒館の主は、目のつまった毛織りのマントを体にきっちりと巻きつけ、かすかにあごを上げてレイヴァートを見ていた。否、うすぐらい色に覆われた目の焦点がどこにあるのか、レイヴァートにもしかとはわからない。遠くを見ているようでもあり、レイヴァートの中にある何かを凝視しているようでもあった。
 イユキアは答えを知っているなと、レイヴァートは思う。だが答えないわけにもいくまい。慎重に、彼は言葉を選んだ。
「はじめは俺が名代だったのだ。だが5年前、西のイヴァンシュールとの戦乱があってな。そこへ行くことになった時、陛下にお願い申し上げた。俺が帰ってこなくとも、サーエが立ちゆくように、と」
 イユキアは、表情を動かさずにうなずいた。冬の色あせた陽が細い銀の髪にきらめき、澄んだ影を頬に落とした。
 静かな声で、
「叔父上は、どちらに?」
「さてな。最後に会ったのが6年は前になるか。手紙はたまに来ているが。旅ばかりしている。変わり者でな」
「ああ‥‥」
 ふっと笑った。
「あなたを見れば、それは何となく想像がつきます」
「どうして」
 意表をつかれた様子のレイヴァートへ、イユキアは小さく息をついた。
「どうしてと言われても‥‥ああ、そうだ、レイヴァート」
「レイ」
 レイヴァートが訂正したが、イユキアはまるで聞こえなかったかのようにそれを流した。イユキアが「レイヴァート」と堅苦しく呼ぶのはいつものことで、2人だけでいるからと言って滅多にそれを崩すことはない。誰に聞かれるわけでもあるまいにと思うと、レイヴァートには少し歯がゆい。
 イユキアが背すじをのばしてまっすぐレイヴァートへ向き直った。マントの下の腰に吊るしていた短剣を外して、両手でレイヴァートへさし出す。レイヴァートはそれを見おろした。
 白い骨柄の短剣は、レイヴァートのものだ。この秋にイユキアの館へ残してきたもので、それからずっとイユキアの手元にあった。
 それをさし出しながら、イユキアは、
「ずっとお借りする形になって、申し訳ありませんでした」
 おだやかな口調で言った。レイヴァートがわずかに目をほそめる。
「お前が持っていればいい」
 イユキアが淡い微笑を返した。
「ありがとうございます。でも、これはあなたのものだ」
「そうか。わかった」
 うなずいて、レイヴァートはイユキアの手から短剣を受け取った。革帯に吊るした短剣を外し、返された骨柄の短剣を代わりに吊るす。元の短剣は、腰のうしろへさしこんだ。
 立ち上がって、
「行くか」
 と、言った。


 川沿いに西へのびる道をたどり、川にかかる細い橋をわたる。木々のまばらな林の中を抜ける道には、やせた枝を透かして冬の陽光がまだらに落ちてくる。
 ここまで来ると目的地は近い。2人はフィンカからおりて、レイヴァートが手綱を引きながら、のんびりと歩いていた。2人とも口数はさほど多くないが、心の向くままにぽつりぽつりと言葉を交わす。他愛もないことばかりだった。木の種類や、見かけた鳥やリスについての会話。互いに知った相手であるゼンや、王城の音師となっているロゼナギースの最近の様子。レイヴァートは王城でとりおこなわれた冬至の儀式の話をしたが、森長の言葉についてはふれなかった。理由は特にない。あえて探すならば、口に出すことでどこか不吉な言葉が実体をおびてしまうような気がしたからだ。
(我らは王城を見捨てぬ。王城が我らを見捨てぬうちは)
 森長はそう言った。黒館は森と王城をつなぐ要なのだ、と。
 黒館が何のためにあるのか、レイヴァートは知らない。王城に住む人間のほとんどは知るまい。ただ彼らが知ることは、黒館が不可侵だということ、そして黒館のことは森の民にまかせておけばいいということ。それだけだった。
 黒館の主であるということがどういうことなのか、レイヴァートは知らない。前の黒館の主は、死ぬ20年以上前から王城とは一切の関わりを断っていた。断たざるを得なかっただろう、前王の毒殺に用いられかかった毒をつくったのは彼だったのだから。
 そして2年前、森の民の1人がその黒館の主の首を王城へとどけ、主の代替わりを告げた。黒館に新しい主を戴いたと。その時はじめて、「黒館」という言葉がレイヴァートの中で意味を持った。森の民が王の前でそれを告げた時、レイヴァートは謁堂の壁際に控えてその言葉を聞いていたからだ。その時には、イユキアの名前すら知らなかったが。
 時がたって、黒館とその主が己にとってこれほど重要なものになるとは、思いもしなかった。
 異邦の民が黒館の主となるのは、珍しいことでもあるらしい。少なくとも、イユキアがこのあたりの生まれ育ちでないと知った呪司の者たちは驚いていた。
 レイヴァートは黒館の歴史を知る立場にはないし、許可なく王城の記録を読むことはできない。彼が知るのは言い伝えと噂の入りまじった、真偽さだかならぬものばかりだった。
 それでもいい、と思っていた。イユキアが誰であるのか──それは、よく知っている。かつて誰だったのか、そして黒館の主が何であるのか、それは知らない。レイヴァートには、それで充分だった。それだけで惹かれて、それだけで彼を抱いた。
 今でもそれ以上のことを知りたいわけではない。だが、いつかは王城の者として黒館にかかわらねばならないのかもしれないと、レイヴァートはこの冬かすかな懸念をおぼえていた。それをイユキアに知られたくはない。彼を不安にさせたくはなかった。
 鳥の羽音が行く手の木々の間から飛び立った。レイヴァートは異変を探す視線をとばす。イユキアがわずかに右手をあげてレイヴァートへ警告をおくると同時に、曲がった道の先に、立ち上がった男の姿が見えた。
「サハルヴァのお館様──」
 レイヴァートを見て、ホッとした様子で駆けよってくる。サハルヴァは、レイヴァートの管理する小さな館と荘園の名だ。厚手の野良着をまとった小太りの男の顔に、レイヴァートは見覚えがあった。
「ディノか。どうした、館で何かあったか?」
「いえ、村の方で‥‥」
 村の長老会の男は、イユキアを見て明らかに言いよどんだ。イユキアの銀の髪が冬の木漏れ日に淡い光を帯びている。端正な顔は無表情で、静かに視線を伏せていた。
 レイヴァートはうなずいて、
「俺の客人の施癒師だ。心配ない。村に何があった?」
「──あの、死体が‥‥見つかって‥‥それで館にうかがったんですが、まだおいでにならないということで、ここでお待ちするように、宿長が‥‥」
「村人の死体か?」
「いいえ。知らない男です‥‥」
 レイヴァートが目をほそめた。ディノの言葉や態度の煮えきらなさに、彼の心を刺すものがあった。
「死体はどこにある?」
 ディノは言いよどんだが、レイヴァートのするどい視線を受けてぎこちなく足を踏みかえた。
「お狩り場の森‥‥に‥‥」
「いつ見つけた? 今もそこにあるのか?」
「昨日の昼すぎに見つけて、そのまま──あの、体に、変な模様が描かれていて‥‥」
 レイヴァートはディノへうなずいてから、イユキアへまなざしを向けた。イユキアがちらっとレイヴァートを見て、目でうなずく。フードを引き上げて深くかぶった。
「行きましょう」
 そう言った声は静謐な、黒館の主のものだった。
 ディノからくわしい目印を聞き出し、レイヴァートはイユキアと2人でフィンカにまたがって獣を走らせはじめた。駈足に速度を上げながら、レイヴァートが説明する。
「右手に見える森の一部は、お狩り場になっていてな。王家と貴族、及び王寵を受けた者だけの狩り場だ。許可を受けた者が特別に獣を狩ることはあるが、この季節にはそれもない。冬長の狩りはどこの森でも禁じられている。どちらにせよ、村人が足を踏み入れていいところではない」
「その森には誰も住んでいないのですか?」
 イユキアが低い響きのある声でたずねた。随分慣れて、レイヴァートが騎獣を駈足にしても、動きに合わせて上手に揺れを逃がしている。こんな場合だったが、レイヴァートは小さく微笑して、イユキアの体に回した腕に力をこめた。
「森の民のことか? いないと言う話だが、実際にどうなのかは俺は知らん」
「あの人が、あなたを探しにきたのは、何故です? 領主にとどけるべきだと思うのですが」
「ここの村は王の直轄地でな、領主は王となっている。王城から任命された采領がいるから、確かにそちらにとどけるのが筋というものではあるが、お狩り場に入ったことを言えないのだろう」
「‥‥あなたは、見逃すのですか?」
 イユキアの声にはかすかな驚きがあった。レイヴァートは首を振って、
「いや。そういうわけにはいかんだろうが、話を聞いてからだな。今の時期、お狩り場に入ったからと言って獲物は獲れん。何か理由があるのだと思う」
「‥‥‥」
「どうした?」
 レイヴァートは手綱をさばきながら、フードごしにイユキアの耳元にたずねた。イユキアが何か考えこんでいる気配がつたわってくる。
 ためらっていたが、イユキアは一段と低くした声で言った。風と蹄の音にかき消されそうな声だった。
「あの人は、あなたを利用しようとしているのでは‥‥」
 村人が、レイヴァートの温情につけこんで、後ろめたい行為をごまかそうとしているような気がしている。
 レイヴァートはあっさりうなずいた。
「そうだな。多分、そうだろうな」
「レイヴァート──」
「大丈夫だ、心配するな。それに気になるだろう、体におかしな模様がある死体だと言っていた。これはお前の領分かもしれんな。くたびれているのに悪いが、少しつきあってくれるか」
「私が行って、迷惑でなければ」
 イユキアが小さくそう答えると、レイヴァートが背後からイユキアの肩を抱いた。
「心配するな。‥‥来てくれると助かる」
「‥‥‥」
 無言のまま前を見て、イユキアはうなずいた。


 三叉路を曲がって1度平地に抜け、レイヴァートは森の辺縁にそってぐるりとフィンカを走らせた。獣よけに木を切り払われた間地をはさんで麦畑がひろがっている。ゆるい斜面に幾重にもはりついた畑を土色の道が抜けた向こうに、低い石垣が蛇の腹のようにうねりながら、村を囲んでいた。
 それを左に見ながらしばらく走ったところで手綱を引いて速度をゆるめ、ふたたび森の中へ走りこんだ。レイヴァートは細い獣道を巧みにたどってゆく。イユキアは言われるまま身を低くして獣の背に揺られながら、前鞍の先端をつかみ、フードの下から森の奥を見つめていた。枯れ枝が獣の足の下で折れる音がぴしぴしと鳴った。
 葉を落として寒々しい裸の木々は、いばらのように枝々をからみあわせ、灰色の幹が森の暗がりに沈んで見える。森の奥へ入りこむにつれてたちこめてくる気配に、イユキアが息をつめた。
「レイヴァート──」
 警告の声は中途で途切れる。レイヴァートがするどい息を吐いて手綱を引く、まさにその瞬間、木々の間をつむじ風のようなものが駆け抜けた。前足をつっぱってフィンカが凍りつく。勢いのままつんのめってバランスを失いかかるイユキアをレイヴァートの腕が背後からかかえ、騎上に体をぴたりと伏せた。瞬間、木々の間を抜けた影が眼前を飛びこえた。
 イユキアの喉の奥からきしるような声が洩れる。それが呪文のたぐいなのかどうか判別できぬまま、レイヴァートはイユキアを鞍に押し付け、獣から跳びおりた。腰の後ろから長剣を引き抜いて前へ走り出る。
 狼の姿が見えた。全身は灰色で、背中の上側と顔から鼻にかけてはさらに濃い灰色の毛に覆われている。背中の一部に黒いまだらがあった。優雅で獰猛な肉食獣は大きな弧を描いて地面に降り立ち、躍動に満ちた体を一瞬とめて、レイヴァートを振り向いた。長い鼻づらの口元に白い牙がのぞき、真紅の舌が炎のようにちらりとひらめく。漆黒の瞳がレイヴァートを見た。
 通常の狼より二回りは大きい、巨大な狼であった。もたげた頭がレイヴァートの胸あたりにある。人の頭など一口で噛み砕きそうな獣をにらみ返し、レイヴァートは抜き身の剣を手にフィンカと狼の間に位置を取った。
 じりりと前へ出た。
 剣尖を獣の眉間に向かって据え、半身にかまえながら体のすみずみにまで闘気をめぐらせる。巨大な獣の姿への本能的な恐怖はあったが、ただ目前の敵の存在だけに意識が集中し、恐怖もたじろぎも心の奥底に押しこめられる。
 迷うな、とレイヴァートに剣の基礎を教えた男は言った。戦いは、手にした武器ではなく、己自身を使ってするものだ。己そのものを武器とした者が勝つ。刃は迷ってはならない──
 わずかに狼の右肩が落ち、獣は半歩下がった。次の瞬間、身を翻して木々の間へ走りこむ。濃い灰色の尾を揺らしながら数歩走ると、歩幅を一気にひろげて跳躍し、獣の姿はたちまち森へとけた。
 レイヴァートは油断のない目で見送っていたが、イユキアが慣れない動作でどうにか鞍から降りると、落ちついた声でたずねた。
「見覚えがあるか?」
「いえ。‥‥レイヴァート、あれは普通の獣ではありませんよ」
 イユキアはほとんど足音を立てずにレイヴァートの横へ立ち、土に刻みこまれた狼の足跡を見おろした。膝を折り、深い爪痕にふれる。低い声で言った。
「あれと戦ってはいけない」
「使い魔か?」
「‥‥そうかもしれないし、そうでないかもしれません。いずれ、魔呪にからんだ存在にはまちがいありませんが。次に出会っても手を出さないで下さい」
 レイヴァートは答えず、腰の後ろへ吊った鞘へ剣をおさめた。立ち上がったイユキアがフードの内からレイヴァートを見やり、かすかに苦笑する。
「では、言い方を変えます。必要にせまられない限り、なるべく手を出さないで下さい」
 今度はレイヴァートもうなずいて、騎乗獣へ歩み寄り、怯えた様子の鼻づらをなではじめた。情けない鳴き声をあげて鼻をすりよせてくる獣をなだめてから振り向くと、イユキアは灰色の木にもたれてぼんやりと目を伏せていた。
「イユキア?」
「‥‥この森は、奇妙な感じがします。いつもこんな感じですか?」
「わからん。俺は奥へは数えるほどしか入ったことがない。だがたしかに、少々──何か、いやな感じはするな」
 レイヴァートは眉をしかめて周囲を見回す。さほど鬱蒼としてはいない。葉を落とした冬の木々が寒々しく立ちならび、その間にも、黒みを帯びたシダや下生えの上にも、動くものの姿はなかった。眠るような冬の森。
 だがレイヴァートは、皮膚がつれるような違和感をおぼえていた。殺気でも、意志でもない。あえて言うならば、何かの気配。それも、ひどく異質な。
 それはわずかなもので、イユキアに言われなければ──そして、狼と対峙したことで神経がとぎすまされていなければ、察知することはできなかったにちがいない。レイヴァートが感じたままを言うと、イユキアは考えこみながらうなずいた。
「私も、ざわつきを感じます。‥‥冬長にしてはおかしい。森の民がいれば、いつからこの状態なのかわかると思うのですが」
「ふむ」
 レイヴァートは手綱を取った。
「とにかく、死者を見に行こう。何か関わりがあるかもしれん」
 イユキアがあからさまにたじろいだ。
「‥‥まだ、遠くですか?」
「いや、もうすぐの筈だが──」
 物問いたげな顔をしたが、レイヴァートは言葉を切ってイユキアを見た。
「ああ。どこか痛いのか。内股か?」
 乗り慣れない者はとにかく獣から振りおとされまいとするので、足に力を入れすぎて内股を擦ることがある。直截的にたずねられたイユキアは気まずい様子で、ひどく曖昧な顔をした。
「少し‥‥」
「慣れないのに急がせたからな。すまん」
「いえ」
 レイヴァートがあやまるのを、イユキアがあわててさえぎった。レイヴァートは左手で手綱をまとめて獣を引き、早足に歩き出す。右手でイユキアの背を抱くように、足並みをそろえて歩きながら、笑みを含んだ声で囁いた。
「すぐ慣れる。──きっとお前はいい乗り手になるぞ。春になったら遠乗りに行くか? 古い石門が南の丘にある。今は使われていないが、細工がなかなか見事でな、1度見てみるといい」
「‥‥あなたは」
 イユキアが足取りを合わせながら、吐息をついた。
「私を誘惑するのが、とても、上手い」
「ほめてるのか」
「いいえ」
 レイヴァートは笑ったが、それ以上は何も言葉にしなかった。イユキアはフードの中で唇に微笑を溜める。レイヴァートは、イユキアに約束を求めたことがほとんど無い。先の約束をイユキアが避けるのを、よく知っていた。
 何故かそれが切ないような気持ちになって、イユキアはつき動かされるようにレイヴァートへ顔を向ける。おだやかに言おうとしたが、自分の耳に聞こえる声は奇妙に緊張していた。
「本当に──私は、いい乗り手になれそうですか?」
 レイヴァートがイユキアを見つめた。
「何かを会得するにはいくつか条件があるが、俺の経験上、恐れを持つ者がそれを克服すると、必ずいい腕を身につけるものだ。そう、お前はいい乗り手になる」
 イユキアは考える眼のまま、うなずいた。彼らは早い足取りをすすめ、木々の間を抜けていく。遠く、冬の風が枝を鳴らす音が森をわたって2人を追いこしていった。

【2】

 レイヴァートの言葉通り、すぐにディノの言っていた場所へたどりついた。乾いた苔が足元の岩をまだらに覆っている。平らな地面に人の体のようなものが倒れ、その横に立った男たちが2人、歩み寄るレイヴァートを途方にくれた表情で迎えた。1歩下がって少年が1人立っていたが、彼も疲れ果てている様子だった。
「お館様」
 一礼した3人は、フードを目深にかぶったイユキアを見て不安そうな顔をしたが、レイヴァートはひとつうなずいただけで何の説明もせず、死体の横の地面へ膝をついた。
 死体はよくある旅人のいでたちをしていた。肌は血の気を失って白茶けていたが、それを差し引けばこのあたりに多い色合いで、それだけではどこから来たか何の手がかりにもならない。髪は黒のように見える濃い茶。目蓋を指先で上げると、にごった眼の瞳の色も茶のようだった。これもありふれている。
 薄汚れた綿の長袖に裏地のついた革の上着をまとい、袖口と襟口は細い毛皮で裏打ちされていた。底の固いブーツをはいている。マントはないが、どこかでなくしたのだろう。荷物も見当たらない。装飾品のたぐいはほとんど身につけておらず、身を守る剣も短剣もなかったが、腰に巻かれた革帯に剣を吊るための真鍮の環は、よく使いこまれてなめらかに光っていた。
 ──旅の剣士、とレイヴァートは考える。右手の平の皮も厚い。左手は、肘より少し上で切断されていた。それも、古い傷ではない。この数日に切られたものだ。
 首すじに針をさしこんだような細い傷がついている。傷は固く黒ずんで、完全に血がかたまっていた。この傷か、腕の傷からの出血で死んだか。顔色の異様な白さからして大量の血を失ったようだったが、あたりの地面に血痕はなかった。
 イユキアも膝をつき、フードの下から死体とその傷をじっと検分している。男の左袖は肩の縫い目部分から引きちぎられて外され、剥きだしになった左腕の切断面がはっきりと見てとれた。
 レイヴァートがたずねた。
「どうだ?」
「獣の傷ではないですね。この3日ほどの傷でしょうか」
 イユキアは静かな声で答えた。レイヴァートが眉をしかめる。たしかに、傷口はきれいに切断されていたし、わざわざ服を取ってから腕を切ったあたり、単純な喧嘩のようなものとも思えなかった。誰かがこの腕を切り、持ち去ったのだ。
 イユキアは血の乾いた傷口を指先でなぞり、男の右袖をまくった。ディノの言ったとおり、肌にくすんだ青い染料で円と直線が交差した奇妙な紋様が描かれている。ところどころ丸い点が赤く打たれていた。左の肩口にも同じものがある。左右対称のようだった。襟元をのぞき、胸まで紋様があるのをたしかめながら、イユキアは何か口の中でつぶやくと、石を拾って簡単なうつしのようなものを地面に描いた。すばやく手でならして消す。
 レイヴァートは、心配そうに様子を見ている3人を見上げる。宿長と長老会の若手、それに村の少年だ。一息ついて立ち上がり、レイヴァートはおだやかに聞いた。
「見つけたのは誰だ?」
「‥‥私の従兄弟の、フェルです」
 宿長が言いづらそうに口をひらいた。村で唯一の宿は長老会のひらかれる場所でもあって、代々の宿長は村の中でも高い地位にある。時によっては、村長より大きな権限も持つ。
 今の宿長は40少し前の男で、若いころはアシュトス・キナース城下で騎士の従卒をしていたと言う。レイヴァートは、がっしりと肩の張って頬骨の高い男の顔をじっと見つめた。
 フェルは宿長より10ほど若い筈だったが、無論、王の名で狩りを禁じられたお狩り場へ入ることの意味は知っている筈だ。
「どうしてお狩り場に?」
 レイヴァートの問いの調子は変わらなかった。いつもと同じ、淡々として、誠実に。イユキアは死体をあらためながら、フードの中から気づかわしい視線をレイヴァートへ投げた。
 宿長は、ぐっとあごに力をこめてレイヴァートを見つめ返した。
「フェルの兄が、行方しれずになっておりまして、それを探しに‥‥」
「何故、森へ? 森で行方しれずになったと言うことか?」
「‥‥そうです」
 宿長はうなずいた。レイヴァートが見つめたまま説明をうながすと、重い息を吐き出して、続けた。
「森に狼が、出ておりまして。遠吠えが聞こえますし、薪を拾いに入った者が森で姿を見ております」
 お狩り場の木を切ることはできないが、外が見える範囲で森に入って落ちている枝を拾うことは認められている。
 だが狩りはきつく禁じられていたし、ただでさえ冬長は、どこの森でも狩りをしてはならない決まりになっていた。
「見た者によれば、普通の狼よりはるかに大きく、群れを持っていないようです。吼え声もひとつしか聞こえません。フェルの兄は、狼狩りのために5日前にお狩り場へ入り、戻りませんでした。フェルはそれを探しに参った次第で」
「嘘はないな?」
 レイヴァートは念を押した。
「嘘があれば、俺にはどうにもならん。わかるな?」
「ございません。‥‥申し訳なく──」
 頭を垂れ、宿長は肩を重く落とした。後ろで少年が顔を伏せて居心地が悪そうに身をすくめている。
「あれだけの狼を狩れば名も上がり、毛皮を売ればよい糧になりますゆえ‥‥」
「兄の名は何と言う」
「カウルと」
「カウルがお狩り場に入っていくのを、あなたは知っていたか?」
 丁寧な口調だったが、静かな圧力を秘めた声と目だった。お狩り場は王のものであって、そこに入って獣を狩るということは王権に対する反抗としてとられる。過去、お狩り場の木を切った者が切った枝の数だけ指を切られ、指が足りなければ腕を切られたこともあった。
 宿長はこわばった声で答えた。
「カウルはそうは言いませんでした。獣を追う、3日で戻る、と」
「‥‥‥」
 レイヴァートは死体と、それをしらべるイユキアを見やってから、宿長へ顔を戻した。カウルが口に出しては言わなかっただけで、弟も村の人間もお狩り場のことは察していただろう。しかしそれを言っても仕方ない。村人の裁罪も聴罪もレイヴァートの役目ではなかった。それは治地をまかされた采領にゆだねられるべき問題だ。
「ほかについていった者は?」
 たずねた時、ふいに遠くから地をゆるがすような獣の叫びがひびきわたった。切々と身にせまるような、哀しげな声だった。声はふるえながら長く尾を引き、村の3人が身をすくませて硬直する。
 不吉なひびきが消えるまでレイヴァートはその方角を見つめていた。声が消えると、立ち上がったイユキアへ顔を戻した。
「イユキア。俺はもう少ししらべていく。先にサーエのところへ行っていてくれないか? いやな感じがする」
 イユキアはうなずいた。近づいて、レイヴァートにしか聞こえない小さな声で、
「この死体は、術に使われた贄です。まだ新しい。誰かが何かに呼びかけるのに使った」
「ふれても平気か? どう処理すればいい」
「森にやるのが一番よいのですが‥‥今の森の様子だと、墓地かどこかに葬った方がいいかもしれませんね。もう抜けがらなので、お好きなようにして下さい」
「わかった」
 うなずいて、レイヴァートは宿長とすばやく言葉を交わす。少年がイユキアを館まで送っていく手筈になり、慣れた身ごなしでフィンカの前鞍に乗ると、イユキアがレイヴァートの手を借りてぎこちない動作で後鞍にまたがった。前の少年の腰帯をつかむ。
 レイヴァートはあぶみの位置を合わせてやってから、見るからに緊張しているイユキアへ耳打ちした。
「半刻もかからん。重心は前にかけて、膝をしめておけ。肩と背中の力は抜けよ」
 イユキアは小さな微笑を返した。やや心もとなさそうでもある。
「サーエ様にご伝言は?」
「いや。日暮れまでには戻る」
 イユキアの肩を叩いて、レイヴァートは手綱をとる少年へうなずいた。
「たのんだ、リーセル」
 少年は硬い表情で頭を下げ、手綱をつかんでゆっくりとフィンカを走らせはじめた。


 半刻ほどか、イユキアがどうにか慣れない後鞍でバランスをくずさないように苦心しているうちに、眼前に小さな荘園が見えてきた。獣よけの杭囲いに囲まれた果樹園は今はほとんどが葉を落とし、むきだしの枝のところどころで名残りの葉が冬の陽にひかっている。畑と果樹園の間に、家と納屋がならぶ小さな集落があった。そこを通りすぎて木々の間の細い径を抜け、奥囲いをもう1つこえると、その先に2階建ての大きな家が建っていた。
 黒樫の横木を長く渡し、斜めの梁に美しく外壁を飾られた古めかしい家で、傾斜のゆるい屋根は窓枠と同じ赤みの強い焦茶に塗られている。真鍮の雨よけがついた煙突の横に、動物のような形の屋根飾りがあった。
 風見の鶏か、とイユキアは見上げるが、風上を向いているようでもなく、何の生き物なのか、古びていてよくわからなかった。
「あちらがお屋敷です」
 フィンカをとめ、降りた少年がイユキアへ頭へ下げる。イユキアもどうにか降りて礼を言おうとした時、意外なほど近くから狼の遠吠えがひびいた。少年がぎょっとして身をこわばらせる。
 イユキアはフードの下で眉をひそめて遠吠えの方向を見つめていたが、空気を痺れさせるような響きが消えると、小さなため息をついた。マントの下に右手をさし入れ、軽くさぐる。
 少年は荷物をおろして家の扉へ向かっていた。15、16才と言ったところか、たしかレイヴァートはリーセルと呼んでいた。呑気に鼻を鳴らしているフィンカの顔をかるくなで、イユキアは少年を追った。
 扉を叩くと、しばらくしてやや年のいった女が顔を出した。2人は早口の言葉をかわし、女はイユキアへ深々と頭を下げる。奥へと招かれたイユキアは礼を言いながら扉をくぐったが、寸前、小さな言葉をつぶやいて、手にした淡い色の砂を扉口にまいた。


 背後で扉がしまると外の光はほとんど完全にさえぎられ、壁際のぼんやりした油燭の光と、廊下の先から洩れてくる明かりだけが物の形を曖昧に照らした。
 入ってすぐは、客待ち用の廊下になっている。廊下と言っても広く、人を待たせるための長椅子を置く場所もたっぷり取ってあるのだが、今はその手のしつらえはなく、がらんとしていた。外から見てもわかるのだが、窓という窓に鎧戸が落とされている。それだけではなく、窓の位置には光をさえぎる分厚い布がかけられていた。
 少年は室内の暗さに驚いた様子もなかった。サーエシアを知っているのだろうとイユキアは思いながら、荷物を運ぶ少年を追って光の向きへ進んだ。出迎えの女は簡単な挨拶だけで、どこかに引きこんでいる。
 開け放たれた扉の内側から、黄色っぽい光が廊下に洩れている。そこからふいに足音が鳴って、少女がはずむような足取りで扉の前に現れた。イユキアへぱっと明るい笑みを向け、それから少年へ向き直った。
「リーセル、お久しぶり」
「お久しぶりです」
 リーセルは頭を下げ、部屋へ入るとすみに荷をおろした。居間だろう。壁際に大きな暖炉がしつらえられ、赤々とかきたてられた炎がつめたい冬の空気をあたためている。白ガラスのほろがかかった油燭が位置を離して3つ置かれ、それぞれの炎が動くたびに室内に横たわる影は大きくゆらいだ。
「兄は、途中の木にひっかかってるのかしら?」
「そのうち落ちてきますよ」
 イユキアは少女へ微笑を向けた。少女はほっそりとやせた体に白いブラウスと長い薄桃色のスカートをまとっている。1歩ごとの足取りにつれ、スカートの裾が花のように揺れた。やわらかく編み上げられた毛糸のガウンを羽織っていたが、それは毛糸が首すじにふれないよう襟ぐりを大きくとった形に仕立て上げられていた。かぶれるのだ。同じ理由で黒髪を後頭部にかたく結い上げている。そのため首が余計にかぼそく見えた。
 レイヴァートの妹、サーエシアの姿を、イユキアは微笑したまま見やる。会うのは久しぶりだった。秋に1度、診に行ったが、その後は経過を手紙で知るだけだ。彼女が暮らすアシュトス・キナースの城下は黒館から遠くはなかったが、黒館の主が城下を訪れるにはいろいろ差し障りがあり、余程のことがないかぎりイユキアは王城に近づかなかった。
 事のいきさつと、レイヴァートが足どめされている理由をリーセルが言葉少なくサーエシアへ説明する。それがすんだ頃に出迎えの女が入ってきて、茶の準備をととのえた盆をテーブルの上へ置いた。サーエシアが、彼女に笑みを向ける。
「ありがとう、キナ。イユキアが来たからもう引き取っていいわ。また明日おねがいしますね。リーセル、キナを家まで送ってくださる?」
「はい」
 少年はうなずいた。サーエシアが小首をかしげる。
「‥‥どうしたの。元気がないみたいだけれど」
「いえ、大丈夫です。何でもないです」
 首を振って小さな笑みを見せるリーセルに、それでも何か言いたそうだったが、サーエシアはうなずいた。
「気をつけてね。落ちついたら、今度また本を読んでくれる?」
「喜んで」
 イユキアは意表をつかれ、手をあたためていた暖炉のそばからリーセルへ顔を向けた。この少年は字が読めるのだ。サーエシアは視力が弱く、あまり長い時間本を読むことができないので、王城では代読者をたのむことが多い。
 サーエシアがイユキアを振り向いた。
「ごめんなさい、2人を扉までおくっていただける?」
「よろこんで」
 イユキアは微笑を返し、部屋を出る2人を外扉までおくる。2人がイユキアの見送りを欲しているとは思えなかったが、サーエシアの望みをかなえられるならそれでいい。
 リーセルとキナの2人はそれぞれに儀礼的なあいさつをイユキアを向け、イユキアもそれを返し、2人が歩き去ってゆくのを礼儀として見送った。キナはどうやら荘園入口から見た集落に住んでいるらしい。
 リーセルはフィンカの手綱を引いていた。あれに乗って村に戻り、レイヴァートがまた乗って戻ってくる手筈になっている。振り向かない後ろ姿が小径を遠ざかったところで扉をしめ、イユキアは閂をおとして居間へ戻った。
 サーエシアは茶を淹れている最中だった。暖炉の上に渡された2本の鉄棒に小さな鍋を置いて湯を沸かし、分厚い布の持ち手で銅の柄をつかむ。陶のポットに湯を注ぐことに集中している姿を見ながら、イユキアはフードをおとし、マントを脱いで自分の荷の上へ置いた。
 湯気がたちのぼる。自分が思った通りに湯を注げたのか、サーエシアはいかにも満足そうな様子で石の鍋置きへ鍋をのせた。イユキアへ、火に近いソファを示す。
「どうぞ。冷えたでしょう、お好きなところに座って、靴をゆるめて。後で足と顔を洗うお湯を出すから」
「何か手伝いましょうか?」
「いいえ」
 きっぱりと断って、サーエシアは含み笑いをこぼした。
「兄がくるまでは、私がこの家の主人。ね?」
「はい」
 イユキアも笑って、暖炉の前に置かれたソファへ腰をおちつけた。ソファの背には大きな毛皮がたっぷりとかけられている。鹿皮だろうか。火の熱が直接あたるほど近くではないが、冷えた体に十分すぎるどのぬくもりがつたわってくる。薪がパチパチと音をたてて時おり細かい火花を散らし、炎は赤くのたくった。
 サーエシアが湯気のたつカップを脚付きの盆にのせ、イユキアの足元へ置いた。自分もカップを持って、やわらかなクッションを据えた揺り椅子へ腰をかける。深い森のような暗緑の瞳でイユキアを見た。
 すっきりと頬骨が高く、目元に聡明な意志がうかがえる。顔色はいつものように白く、体つきもやせてところどころ骨張っていたが、強く明るいまなざしは彼女の兄によく似ていた。
「兄は、日暮れまでに来られるかしら」
「そうは言っていましたが」
 イユキアはカップの取手を指で持った。熱い茶を一口飲んで、自分の体がいかに冷えていたかに気付く。カルダモンの香りを含む湯気が口の中にひろがり、鼻に抜けた。体の芯があたたまるぬくもりに、思わずほっと息をついた。
 サーエシアも腰のふくらんだ蕾型のカップを口元にかたむけ、イユキアへなつかしそうな笑みを向けた。
「来て下さってうれしい。と言っても、静かにすごしているだけで何のおもてなしもできないのだけれど、兄があたりをご案内すると言っていますし、冬でも景色はきれいだと思うの」
 不自然に色の落ちた白い肌を見やって、イユキアはそっとたずねた。
「お加減は?」
「とても元気ですよ」
 またクスッと笑った。
「あなたのおかげ。ありがとう、イユキア」
「いいえ。痒みや湿疹も出ていませんか? この間から少しずつ、調合の内容を変えているので、何かあったらすぐに知らせを。新しい軟膏を持ってきましたので、後でお渡しします」
 カップを盆に戻し、イユキアはことわってからサーエシアの右手を取った。細く骨張った手の裏表を見やり、皮膚の色ときめを見て、爪の表面に丁寧な指先をすべらせる。爪にかすかな青みが出ていたが、総じて問題はない。肌も、どうしても汗で荒れる夏よりはずっと状態がよく、割れた部分もなかった。乾燥しないよう使わせている今の水薬と相性がいいようだ。
「3種持ってきたので、ためしてみましょう。湯に溶いて使うものもあります」
 言いながら手を戻し、イユキアはサーエシアを見つめた。
「去年の冬よりも、ずっとよくなっていらっしゃる。‥‥あなたは、がんばっておられる」
「ありがとう」
 サーエシアはにっこりした。レイヴァートの5つ離れた妹は、兄ゆずりの澄んだ意志をたたえた瞳でまっすぐ人を見る。
「私の病の者はね、ほとんどが20をすぎるまで生きることがないの。王城には今もお1人、高貴な血すじの方が同じ病を得て城の奥に住んでいらっしゃると言うけれど、私より年が上なのはたぶんその方だけですね。たいていは子供のうちにみんな命を落としてしまう。陽に当てて、自分の子供を殺してしまう親もいる‥‥」
 小さく首を振った。
「陽をさけて生きるというのは、本人だけでなく、家族にも、つらい。私は本当にめぐまれています。兄もいるし、あなたもいる、イユキア。私ががんばっているとすれば、皆のおかげです」
 薪が小さな音をたて、火がはぜた。
 イユキアは静かな表情のまま、サーエシアの言葉を聞いていた。サーエシアの病は、陽光に強い反応を引き起こすもので、皮膚が割れたり体中に熱を持った湿疹を生じたりする。体の外側だけでなく、内側にも。普段からサーエシアは代謝が悪く、頭痛や熱に悩まされることも多かった。
 この地方にまれに生じると言う、不治の病。生まれついての病であって、人にはうつらないが、治るものでもないと考えられていた。レイヴァートがイユキアにはじめて会いにきたのも、サーエシアの病に何か手だてがないかと求めてのことだ。国の薬師も施癒師も、治せぬ病にはふれたがらず、薬があるとも思われていなかった。
 イユキアにも彼女の病を癒す方法はなかったが、いくらかでも症状を落ちつかせることが出来たのが、せめてもの救いだった。
 サーエシアはカップを口元にかたむける。中に入っているのは茶ではなく、湯だ。
 イユキアがサーエシアを見つめたまま、おだやかに言った。
「レイヴァートはあなたをとても大事にしていますよ」
「ええ‥‥」
 視線が一瞬さまよって、サーエシアは炎が白く照らす目蓋をふっと伏せた。
「そう。もう7年ほど前になるかしら。一生こんなふうに暮らしていくのかと思って‥‥急に何もかもどうでもよくなってしまって、家を抜け出して外に出ていってしまったことがあります。もちろんすぐ熱を出して、全身が膿んで大変なことになった。兄は絶対に、すごく怒ると思いました」
「怒らなかったのですか?」
 けげんそうなイユキアへ、サーエシアは黙って火を見ていたが、やがて首を振った。
「怒らなかった。治るまで何も──本当に何ひとつ言わずに、そばにいてくれた。起きられるようになった時、兄に言われたの。それほどつらいなら俺が殺してやろうか、と」
「‥‥‥」
 イユキアはまばたきしたが、サーエシアを見たまま沈黙をたもった。
 サーエシアはもう1度、ゆっくりと首をふった。
「兄は本気だった。私がたのめば、私を殺して、きっと兄も死ぬつもりだった。あれからあんな馬鹿なことはしていない。‥‥2度と、しないわ」
 イユキアを見て、微笑する。イユキアはおだやかにうなずいてカップを口元にかたむけた。その視線が揺れ、彼はふと立ち上がった。サーエシアにその場にいるよう手ぶりで示し、居間を出ようとした時、外の扉がズシンと重い音をたてた。1度、2度。
 3度目の音が鳴るより早く、廊下をすばやく抜けて扉の前へ立ったイユキアが、扉ごしに静かな声をかけた。
「どなたです?」
「‥‥客人だ」
「招かれておられる?」
「いや」
 居間の方から、サーエシアの声がした。
「後で人が来るのだけれど──」
「客人ではありませんよ、大丈夫。道にでも迷ってこられたのでしょう。扉をあけるので、そちらをしめておいてください」
 イユキアがそう声を返すと、サーエシアが扉をしめる音がした。冬の陽光ならば少しは大丈夫だが、用心にこしたことはない。
 扉に向き直ったイユキアの顔から表情が失せ、背すじをのばすと、閂を外した。扉を引きあける。
 つめたい冬の陽に、地の影は淡く長い。その影が立ち上がったような人影が眼前に立っていた。黒く染めた革の胸当にはじがボロボロに裂けた黒いマント姿の、黒づくめの剣士だ。右の肩に黒鞘の長剣をかけている。左利きだ。目深くかぶったフードの奥にかいま見える顔はやせおとろえ、頬はこけ、両の目だけが焼けた石のようにギラついていた。
「お前に用はない。レイヴァートはいるか?」
 きしるような声に、イユキアは深い妄執を聞きとった。動ずることなくひややかに視線を受けとめ、
「招かれておらぬのならば、帰りなさい。ふたたびこの敷地に足を踏み入れず」
 1歩、前に出た。細身の体が放つ気配に押されて、剣士が下がった。
「伝言があらば、うかがっておきましょう」
 そっと、囁くようにイユキアは言う。また前へ出た。扉をしめ、後ろ手のまま扉に大きく封じの印を描いた。じりじりと歩みをつめながら、下がってゆく男を追う。
 男が目に怒りを燃やしてイユキアをにらんだ。
「何者だ、お前──」
「あなたこそ。血と闇の匂いをさせて、何のためにこの地をうろついているのです?」
 イユキアは昂然と顔を上げ、ふきつけるような憎悪と殺意を受けてたじろぐことがない。男の身がすっと沈んだ。
 イユキアが横へ跳んで距離をとる。次の瞬間、男は背負った長剣を抜き放っていた。分厚い鈍色の刃を持った両手剣だったが、重そうな剣を扱う男の動作はかろやかなものだ。だが、1歩踏みだそうとした足は動かなかった。
 イユキアの右手が、男にぴたりとつきつけられていた。手の甲から指にほそい鎖がからみつき、のばされた2本の指はまっすぐに男を指している。
 銀の髪が頬におちかかる。イユキアは男を凝視したまま静かに囁いた。
「私を斬っても、あなたは家には入れませんよ。あなたは決して招かれない。円環の中のものを傷つけることも、ふれることもできない。あなたは」
 鎖が涼しい音を鳴らした。男は魅入られたように、イユキアの瞳を見つめている。その瞳にははっきりと金の光が宿って、力のあるかがやきが男をとらえていた。
 イユキアは歌うようなふしまわしを続けながら、鎖を揺らした。
「守りのうちにありては力なく、我が円環のうちにありては安んじることなく、天にありては──」
 男が右手で己の剣をぐいと握った。刃を。指の間から血がつたう。
 苦悶の声を洩らしてイユキアの呪縛をのがれ、身を翻して駆け出した。イユキアは後ろ姿をするどく見ながら最後の呪をかけたが、それが男をとらえた手ごたえはなく霧散した。所詮、言葉を使った魔呪は、言葉を聞こうとする者にしか通じない。
 男の姿が消え、気配が消えてもなお、イユキアは目をとじ、周囲を漂うかすかな気配をさぐっていた。ひろげた意識の外、遠く遠く、冬長の空気の奥にまがまがしい何かを感じとる。そのさらに向こう。深い呼び声のような──これは──
 目をあけた。表情を物憂げにくもらせて、イユキアはしばらく冬の空を見上げていた。

【3】

 扉をあけた瞬間に笑い声が聞こえて、レイヴァートは少しあっけにとられた。閂をあけたサーエシアが兄の顔を見ながらまたくすくす笑った。
「とうに日は暮れましたよ、兄様」
「ああ、遅くなって悪かった」
 妹に笑みを投げて中へ入り、のばしてくる手に脱いだマントと剣帯を手渡した。手がふっと、腰の斜め後ろに吊るした骨柄の短剣をかすめる。これを黒館に残してきた時、イユキアは病んでいたようだった。体だけではなく、心にも重いものをかかえて。
 ──まだあの悪夢は、彼の中に眠っているのだろうか。
 レイヴァートは短剣にふれていた手をおろし、サーエシアの笑顔へ向けて首をかしげた。
「ご機嫌だな?」
「ええ」
「3人?」
「ええ、カードをしていらっしゃいますよ」
「──イユキアも?」
「ジノルトが教えて、ううん、教えようとしている」
 また可笑しそうにくすくす笑うサーエシアを見つめ、レイヴァートは妹の頬にふれた。
「元気そうだな。大丈夫か? 何ともないか?」
「ええ。イユキアが新しい練薬をくれたのだけれど、とても使いやすい」
 サーエシアはレイヴァートの剣とマントをかかえ、居間へ入っていく。レイヴァートも続いた。
 ソファの位置が変えられ、暖炉の前で向きあうように2つ配されている。その間に置かれた黒樫のテーブルには、色の美しいカードが並べられていた。テーブルをはさんで3人がカードに興じている。
 カードを手にしているイユキアが、レイヴァートを見上げてほっとした表情になった。目顔でうなずいて、レイヴァートは残る2人へ目を向ける。
「すまん。遅くなった」
「他所者が死んだらしいね」
 イユキアの横に座っている男が立ち上がった。レイヴァートより少し年嵩で、たくましい体つきをしているが、上背もあるのでそこまでがっしりとしているようには見えない。髪は茶褐色、瞳は青みをおびた灰色で、右耳に小さな金の環を飾っていた。
 さしだされた手を、レイヴァートはしっかりと握り返す。久しぶり、と挨拶を交わしていると、向かいのソファの男も立ち上がる。こちらは彼らより10ほど年上の男で、一回り小柄な体に毛織りの上等な上着をまとって、胸元に磨り銀の鎖を3重に巻いていた。彼もレイヴァートと握手を交わす。
 2人は、よく似た青灰色の瞳をしていた。
 レイヴァートはイユキアへ向き直る。
「もう聞いただろうが、俺からきちんと紹介しておこう。この2人は北側の荘園の管財人で、ここの荘園の管理の代理人でもある。兄のエギンと、弟のジノルトだ。エギン、ジノルト、こちらはイユキア。サーエの病を診てもらっている、施癒師だ」
「異国のお人だな?」
 弟のジノルトがイユキアの銀の髪へ目をやった。イユキアは曖昧な表情で小さく頭を下げ、レイヴァートはうなずいて、テーブルのカードをのぞきこんだ。
「去年の流行り病を抑えるのに、王城が手を借りた。──ノム・ヴァムか?」
「そうだ。死人の身元はわかったか?」
 兄のエギンが場所をずらして、レイヴァートの座る空間をあける。レイヴァートはイユキアの向かいへ腰をおろし、首を振った。
「いや。街道警備隊に届けたから、あちらで調べるだろう。ひとまず采領の方にも話を回してきた。あちらから王城へ連絡が行く。一両日中にそちらにも誰か聞き取りに行くかもしれん」
「冬に他所者がうろつくのは珍しいが‥‥見たという話は聞かんな」
「今日も1人、いらっしゃいましたよ」
 兄へ熱い茶を出しながら、サーエシアがにこやかに口をはさむ。レイヴァートが眉をあげた。
「ここにか?」
「ええ。剣士の方が道に迷ったとかで。イユキアが応対してくれて」
 視線を送られて、イユキアがうなずいた。レイヴァートと目を合わせ、ひっそりした口調で言う。
「巡礼でしょう」
「なるほど」
 うなずいて、レイヴァートは茶を飲みながら、慣れない手つきでカードをめくるイユキアをしばらく眺めていた。ノム・ヴァムと呼ばれるカード遊びを横のジノルトが教えていたが、イユキアはどうもあまりよく呑みこめていないらしく、ジノルトが苦笑した。
「お国はどちらだ? そちらが慣れたカード遊びをこちらが覚えた方が早そうだ」
「どのくらい前からやってるんだ?」
 イユキアが答えるより早く、レイヴァートが口をはさんだ。エギンが指をひらひら振って、半刻くらいかな、と示す。茶であたたまった息をこわばった指先に吹きかけ、レイヴァートは立ち上がった。
「コツを覚えればすぐだろう。すまんが、──イユキア」
 2人の兄弟へ断って、イユキアを手で招いた。居間のすみにレイヴァートの荷が置かれたままになっている。それを手に居間を出るレイヴァートへサーエシアが声をかけた。
「夕食の仕度をしてもいいかしら? 今日はキナに手伝ってもらって鹿のシチューを作ったのよ」
「うまそうだな。たのむ」
 言い置いて、レイヴァートは廊下を歩き出した。廊下に吊るした手付きの油燭を1つ取って灯りにする。かすかな足音が追ってくるのを肩ごしにちらっと見ると、イユキアは何か考えこんでいる様子だった。
 奥の階段を2階へ上がり、レイヴァートは自分の部屋の扉をあけてイユキアを手で呼んだ。イユキアを先に部屋へ通して自分も歩み入り、背後で扉をしめる。荷物を床へおろし、机に油燭をおいた。
 向き直ると、見ていたイユキアがレイヴァートを呼んだ。
「レイヴァート──」
 言いかかったイユキアをぐいと両腕で引きよせ、背中に手を回して抱きしめる。イユキアはたじろいだが、きつい抱擁が続くと、こわばった体の力を抜いてためらいがちにレイヴァートへ腕を回した。よりそった体は冷えていたが、やがて互いにぬくもりがつたわってくる。イユキアが吐息をついてレイヴァートの肩へ頭をあずけた。
 レイヴァートは無言でイユキアを抱きしめていたが、腕をゆるめ、銀の髪をなでた。
「悪かった。すぐ戻れると思ったんだが‥‥」
「あのまま永遠にカードをやり続けるのかと思いましたよ」
 イユキアの声は笑っていた。レイヴァートも笑って、イユキアの首の後ろへ手を回し、顔を上げさせた。
 唇でかるく唇にふれる。2度、3度とイユキアの唇をかすめると、イユキアが呻いて目をとじた。小さくひらいた唇へ、今度はゆったりとくちづけた。
 深く、時間をかけて唇をあわせ、熱っぽく舌をからませる。部屋の空気はしんと冷えていたが、くちづけの熱に満たされて、レイヴァートはイユキアの舌を求めた。ためらいがちの反応をとらえ、さらにくちづけを深めながらゆっくりと時間をかける。イユキアがレイヴァートの肩に強い指先ですがった。
 唇が離れても目をとじたまま、イユキアはレイヴァートへ頭をもたせかけていたが、ぼんやりした声でつぶやいた。
「‥‥どうしても、役の作り方がわからないんですが」
「ああ、あれはちょっとしたコツがあるんだ。全部まる覚えしようとしなくてもいい」
 レイヴァートはイユキアの髪をなでながら耳元へ囁いた。
「後で教えてやる。カードの見方は覚えたか?」
「それは、何とか」
 ゆっくりと身を離し、イユキアは顔にほつれた髪を指先でかきあげた。くちづけの名残りで目もとがかすかに潤みを帯び、頬骨の高い部分に赤みがさしている。レイヴァートは微笑して、荷物の口をひらくと、中から着替えを取って服を替えはじめた。
 イユキアもすでに旅装から着替えている。扉のそばにもたれて待つイユキアへ、レイヴァートが胴着を脱ぎながらたずねた。
「道に迷った剣士というのは? サーエに聞かせられない話か?」
「‥‥あなたの名前を知っていましたよ」
 レイヴァートがするどい目でイユキアを見た。イユキアは淡々とした口調で、剣士のいでたちと互いのやりとりをかいつまんで伝える。レイヴァートは話を聞き終えるまでに着替えをおおよそ済ませ、目のつまった毛織りの上着に袖を通しながら溜息をついた。
「何者だ?」
「わかりませんが、黒魔呪の気配がしました。呪縛しようとしたのですが、やぶられてしまって。すみません」
「いや。助かった。お前がいなくては、サーエに何かあったかもしれん」
 優しい声だった。イユキアは一瞬目を伏せ、つぶやいた。
「左利きでしたよ」
 短剣を腰の後ろへ吊るしていたレイヴァートの手がとまった。黙ったまま考えこんでいたが、彼は抑えた声でたずねた。
「‥‥イユキア」
「はい」
「切り落とされた腕をもう1度つけるような魔呪は、存在するか? ‥‥死者の腕を、つけるような」
 イユキアはレイヴァートを見つめ、うなずいた。
「傀儡の技──闇の技です。そういうものを使う呪師はいます」
「そうか」
 小さな吐息をつき、短剣の柄の位置をたしかめて握ってから、レイヴァートは背すじをのばした。
「イユキア、俺は明日、お狩り場の森へ入る。死体も気になるし、戻ってこない村人の問題もある」
「私も行ってみたいのですが」
「たすかる」
 レイヴァートはうなずいた。森も魔呪もイユキアの領域だと、よく知っている。
「森で何かおこっていると思うか?」
「わかりません。とにかく、調べてみないと」
 首を振って、イユキアは扉に手をかける。芯の強い言葉は、その後ろ姿から聞こえてきた。
「ですが、森で何かあるならば、それは森の民と黒館の役割──私の、役目。でしょう」
 レイヴァートは無言のまま、イユキアを追って後ろを歩き出す。彼らの耳に、階下から食事を知らせるサーエシアの呼び声が聞こえてきた。


 湯気をたてるこってりとしたシチュー、ニンニクをすりつけてから暖炉で軽くあぶった黒パンの薄切り、根菜と豆のピクルス、玉ねぎといっしょに油でこんがり揚げたジャガイモ。甘い果物と煮つめたチーズカード。
 夕食は居間で取った。食堂もあるのだが、部屋をあたためるのには時間がかかる。それならもう火が入っている暖炉のそばで、というのがサーエシアのやりかたらしい。快適なので誰も文句を言わない。
 食事はなごやかだった。エギンとジノルトの兄弟とレイヴァートが荘園と王城の近況を語りあう。サーエシアは自分用に別分けの味の薄いものを食べていた。イユキアとサーエシアはともに小食で、早めにスプーンを置いたが、3人の話を聞きながら時おり2人で会話をかわす。
 いつものことだが、サーエシアはイユキアの旅の話を聞きたがった。外の景色が見られない分、旅への欲求が強い。イユキアは以前に訪れた大きな花祭りの話をしながら、あれこれと詳しくたずねられるたびに、もっと色々覚えておけばよかったと思っていた。あまり興味を持たないままに放浪していた時のことだから、どうも話の種類がない。
 食事を片づけると、食後酒を飲みながらまたカードに興じた。今度はレイヴァートがイユキアへカードを教えた。ノム・ヴァムというカード遊びは相手が出したカードと自分のカードを合わせて役を作っていくもので、役の数が多いので一見複雑に見える。ある程度パターンを覚えてそこから展開していったほうがわかりやすい。
 イユキアははじめは自分でカードを持たず、レイヴァートが作る手とカードを眺めていたが、説明をくり返されてそのうち呑みこんだようだった。やってみるか、とレイヴァートがたずねると、うなずいて配られたカードを手に取った。
 3回連続で負け、ジノルトが舌打ちした。
「おどろいたな。意外と、勝負強い」
「勘がいいな」
 レイヴァートがうなずいて、カードをまとめた。困ったように微笑するイユキアへ、ジノルトが意味ありげな視線を投げた。
「賭け事はしないのか?」
「妙な誘惑をするな」
 レイヴァートがそっけなくさえぎる。苦笑するジノルトへイユキアは無言で首を振り、兄のエギンが両腕でのびをして立ち上がった。サーエシアは途中で早めに切り上げ、すでに寝室へ引き取っている。
「お前は商人に賭けで負けて、葡萄酒1樽分の借りを作ったんだぞ。相手をえらべ、ジノルト」
「うん、俺はたしかに相手をえらぶのが下手だ」
 呻くジノルトの肩をレイヴァートが笑って叩いた。
「樽とはいかんが、ワイン1袋でどうだ? 明日、たのみたいことがある」
「ん?」
「1日、この家の番をたのみたい。森の見回りに行きたいのだが、他所者がいるとなるとサーエを家に置いていくのが心配でな」
「わかった」
 ほがらかに引き受け、イユキアへ最後の挨拶をして、ジノルトは白い息を吐きながら兄といっしょに帰っていった。夜はふけているが、隣りの荘園までは歩きでも半刻はかからない。
 扉をしめて鍵と閂をおろし、レイヴァートはイユキアへ向き直った。
「ジノルトは、カードに目がないのだがな。兄貴の方がまだうまい。──くたびれただろう、悪かった」
「けっこう楽しかったですよ」
 言葉どおりイユキアの表情は明るかった。居間へ戻り、暖炉にいちばん近いソファへ座って、レイヴァートは火の近くであたためられているワインの壺を取る。横へ座ったイユキアへ、酒を満たした杯を手渡した。
「ならよかったが。ここへ来た最初の日は、彼らと夕食をとるのが慣習でな。いろいろと、俺には手の回らんことをまかせているし」
「叔父上のころからですか?」
 長いソファの背にはたっぷりとした鹿皮がかけられている。あたたかな毛皮に身を沈め、イユキアはワインをすすった。暖炉に火がかきたてられた部屋は充分に心地よく、炎の熱気にあたっているとふっと眠くなってくる。自分が思っていたよりもずっと疲れていることに驚きながら、イユキアはあくびを噛みころした。
 レイヴァートが自分のワインを大きく飲んだ。
「ああ、そうだ。叔父はあまり国によりつかん人でな。もともとあの兄弟の親父殿と親しくしていて、その縁でここの管理をしてもらっていた。それだけ好き勝手やらかして、よく土地を召し上げられずにいたものだ。何やら、竜を探すのなんのと手紙に書いていたがな」
 イユキアがふっと顔をあげた。何か考えている様子の彼を、レイヴァートは左腕を回して引きよせる。人がいなくなったので緊張が抜けたか、イユキアは珍しいほど従順にレイヴァートによりかかりながら、ぼんやりとつぶやいた。
「竜‥‥」
「酔狂な人だ。滅んだと言われて、さだかならないものをな。冗談で言っているのかもしれんがな」
 イユキアの手から杯を取り上げ、レイヴァートは華奢な肩から腕までゆっくりとなでおろした。イユキアが重い頭を振って身をおこそうとするが、抱いた腕をゆるめずに、囁いた。
「眠っていい。運んでやるから」
「‥‥‥」
 イユキアが口の中で何かつぶやいて、目をとじる。言われるままに自分へよりかかった重みを心地よく受けとめながら、レイヴァートはイユキアの頬をなでた。その肌は、ゆらめく炎を受けていつもより熱い。

【4】

 枯れたつたをからみつかせた木の幹が、冬の闇にやけに青い。
 かぼそい月の下、夜の森はふしぎとあからさまに見えた。
 朽ち葉が積み重なるやわらかな地面を、巨大な四つ足の獣が歩いてゆく。獰猛に優雅な足取りで、沈黙の満ちる森の奥を影のように移動した。
 灰色の毛皮に覆われた狼だった。両耳をぴんと立て、黒い瞳を油断なく前に据え、地面に近づけた鼻で時おり匂いをさぐりながら木々の間へ分け入ってゆく。
 森には音がなかった。
 冬長の眠りが森を支配している。何もかもが沈黙し、こごえる冬に身をすくめ、この一時を堪えている。冬の木々の、かわいて青みを帯びた幹の下にひそむ遠い水のざわめきすら、今はやんでいた。
 狼の耳は、この森に何もとらえなかった。
 死の気配もない。死は、森にとってはひとつの糧だ。骸から木々は育ち、生命は死を喰って育つ。だが、冬長の森にはそれもなかった。森全体が息を殺し──いや、殺す息すらもなく、深い眠りに沈んでいる。
 大地も木々も冷えきって、全身を冷気がつつんだが、分厚い毛皮がそれをはね返した。ふさふさとした尾を揺らし、狼はふと鼻を上げる。透徹した夜気の中に、甘い腐臭のようなものを感じ取っていた。
 これはおかしい。これは、生の匂い。そして、死の匂い。
(冬長の眠りの外側にあるものの匂い──)
 急ぐでもなく、しかし確固とした目的を持つ足取りで、狼はゆっくりと歩き始めた。足の下に色あせた苔をやわらかく踏み、朽ちて穴の空いた木をのりこえる。匂いは強くも弱くもならなかったが、自分が近づきつつあることはわかっていた。
 木の根がからみあう地面に獣の影が、おちていた。影だけだ。獣の本体はどこにもない。狼は自分の影とつれだってそれに近づき、ふんふんと匂いをかぐ。血の匂いがかすかにした。足で軽く地面を掘ってみたが、なんの手ごたえもなく土だけがえぐれ、影はそのままそこに残っていた。狼は喉の奥で小さなうなりを洩らす。
 不意に獣の匂いが強さをましてたちのぼった。
 1歩下がり、狼は警告のうなり声をあげる。目前に影がむくりと起き上がり、次の瞬間、影は獣の実体をまとって狼の喉元へとびかかってきた。荒々しい一撃で叩きおとしたが、腹の下へもぐりこまれそうになる。狼は相手の背中に噛みつき、2匹は組みあってどうと地面に倒れた。互いに相手を組み伏せようと、転がったまま戦う。
 相手の獣は声を出さなかった。威嚇をしようともしない。ただ執拗に狼の毛皮に歯と爪をくいこませようとする。苛立ちのうなりをあげてそれを振り払い、地面へ叩きつけて、狼は相手の喉元へ牙をつきたてた。奇妙なほどやわらかい皮膚を易々とくいやぶる。
 血の味がはげしく口の中にあふれた──その血が、地面にぽとりと落ちる。その瞬間、森が、ざわりと身じろいだ。


 目をあけて、イユキアは起き上がる。闇を見つめてじっとしていると、すぐそばから声がした。
「夢でも見たか」
「‥‥夢というか‥‥」
 イユキアは部屋の空気のつめたさに身をふるわせたが、そのまま闇を見ていた。ひえびえとした森の感覚がまだ体に残っている。
 イユキアの夢ではない。誰かの夢だ。だが、誰の?
 ──あの狼の‥‥?
 ふ、と息をついて、ひとまず毛布の中に戻ろうとした。その瞬間、はたと気がついた。
「‥‥レイヴァート?」
「少し、寒い──」
「すみません」
 いささかあわててイユキアが毛布の中にもぐりこむと、レイヴァートが腕をのばした。すっかり冷気が入りこんでいる。つめたくなったイユキアの肩に手を回し、身をよせながら、レイヴァートがたずねた。
「気配か何かか?」
「それも何とも‥‥それよりレイヴァート。ここは、あなたの部屋ですか?」
「いや。お前の部屋だ」
 レイヴァートの手が毛布を引き上げ、イユキアの肩をきっちりつつむ。イユキアは闇の中で眉をひそめた。
「どうしてあなたがここに?」
「この方があたたかい」
 少し眠そうにレイヴァートは答え、頭を倒してイユキアの頬へくちづけた。イユキアが淡い溜息をつく。
「駄目ですよ‥‥」
 レイヴァートはふっと笑って無言のまま、回した腕に力をこめた。イユキアは黙っていたが、
「‥‥時おり、あなたは不用心すぎますよ」
 困った声でつぶやいた。レイヴァートが少しして、答える。
「べつに、知られてもかまわないからな」
「レイヴァート──」
 あわてた声をあげて、イユキアが上体をおこす。冷たい空気がかき回されて肌が一瞬にして冷え、小さくふるえた。
 なだめるように、レイヴァートがイユキアの腕をぽんと叩く。
「単に、かまわないというだけだ。わざわざ人に知らせるわけじゃない」
「‥‥‥」
「もともと俺はずっとそのつもりでいるぞ」
「それは──」
「何か困るか?」
 たずねられて、イユキアは言葉を返せなかった。イユキアが失うものは何もない。だがレイヴァートはちがう。そう言おうとしたが、それを「かまわない」と言う男相手では子供っぽい反論になりそうで、なんとも言葉にならなかった。
 レイヴァートも寝台に身を起こし、イユキアと自分の肩に毛布をかけた。闇に互いの顔が見えるほど顔をよせ、彼はどこかまだ眠そうに言った。
「王城にも、男の恋人を持つ者はいる。おおっぴらにはしていないというだけだ」
「‥‥それとは、ちがうでしょう。私たちは」
「かもな。だが、どこがちがうのだろうな」
 言ってから、レイヴァートは自分の言葉を消すように、
「いや、いい」
 とつぶやいた。毛布の下で腕を回し、イユキアを強引に抱きよせる。細い体を抱きしめながら冷えた首すじに頭を預け、囁いた。
「いい。考えるな」
「‥‥‥」
 イユキアは小さくうなずく。何も言葉が見つからないままレイヴァートの背に腕を回し、自分によりかかる頭を抱いた。
 レイヴァートの声の中に、迷いが聞こえた。それが自分の持つ迷いをうつしたものなのかレイヴァート自身がかかえる迷いなのか、イユキアにはわからなかった。ただきつく抱きしめて、今は何も考えまいとした。彼らのことも、森のことも、冬のことも。何ひとつ。


 埋み火に枯れ木を数本足すと、ちろちろと小さな炎を上げはじめた。冬の凍りつくような冷気に、わずかな熱などたちまちに喰われていく。炎を見つめるやせた男が身をつつむマントは薄手のものだったが、彼にはまるで寒さを苦にする様子がなかった。
 身の外の寒さなど、彼にとっては何ほどのこともない。身の内に宿って骨を噛む永劫の凍えにくらべれば。すべてささいなものでしかなかった。
 手にした枝の先端を小さな火であぶり、炎を凝視したまま、男はゆっくりと地面に模様を描きはじめる。六角形の中に円とふたつの三角形が内接した外形を描くと、気だるげにその内へ文字のようなものをしるしはじめた。
 枝を支える指先までもが肉を削いだようにやせている。血の色を失って白い指の、爪の根元はどす黒かった。手の甲に奇怪な生き物のような紋様がある。魔呪師であった。
 遠く、夜の底をゆするような音がひびく。聞くものの胸をかきむしるような哀しげな響きが尾を引く。それが消えると、背後でかすれた声が呟いた。
「‥‥また狼か」
 無言のまま、魔呪師は枝を火の中へ放りこむ。かわいた音をたててはぜた。
 暗い目をした男だった。目の表面には炎がうつっているが、瞳の内には凍るような空虚があるだけで、そこに光はなかった。濃い褐色の髪が頬におち、残る髪を首の後ろで細い鎖にたばね、背へ長く垂らしていた。目元に険のあるするどい顔には魔呪を使う者独特の、年齢の読めない若さと奇妙な老成とが同居していた。炎の揺らぎがうつす顔は青年のようにも、老人のようにも見える。
 薄い唇をかすかに動かした。声は低かった。
「放っておけ」
「あの獣は‥‥森の守り手ではないのか、キルシ」
「この森に守り手はいない。あれは、闇の獣だ。我らに直接挑むほど愚かではあるまいよ」
 そう言って、キルシと呼ばれた魔呪師はうしろを振り向いた。
 一間だけの小屋だ。床はすべて踏み固められた土で、むき出しの梁は低く、無骨な鉄鉤が梁からいくつもぶらさがっている。曲がった鉤の先端は血に黒ずんでいたが、今は何も架かっていなかった。大きな作業台が小屋のすみに置かれ、横に壺がいくつも並んでいる。作業台の横には粗末なマントで覆われた塊がふたつ転がっていた。マントの下から手足がのぞく。人間のようだったが、ほとんど息もせず、術で眠らされたまま身を丸めて動かなかった。
 小屋の逆側には木であつらえた粗末な寝台がある。毛布はなく、寒々しい木組みと張り板だけが剥き出しになっていた。
 その寝台に黒ずくめの剣士が腰をかけていた。レイヴァートの館でイユキアと顔を合わせた男だ。前かがみで膝に肘をのせ、黒い目で魔呪師を見つめていた。
「道は、いつ見つかる」
「じき、だ。少し急がねばならんかもしれんな」
 そっけなく、キルシは言って、唇のはじをもちあげた。
「あの男の血があれば楽になると思ったのだがな。王の近衛で、罪償の血すじならば、その血の内に充分な絆を持っているだろう‥‥」
「レイヴァートか」
 剣士はレイヴァートの名を呼ぶ瞬間、左の上腕を右手でぐいとつかんだ。音をたてて歯を噛み、首から肩が力にはりつめる。身の内にたぎるものを抑えこむような、物凄まじい目をしていた。
 それを暗く見つめたまま、キルシは静かに言った。
「そう。王城と、そして王と、結びつきが近ければ近いほどなじみがいい。この地の魔呪と王城の魔呪は、同じ系統の力で統べられているからな。血の絆は、魔呪のいい足がかりになるのだよ」
 剣士の目がギラリと鉄のような光を帯びた。
「‥‥あの血が手に入らなければ、お前は俺の血を使う気か? 王城の‥‥」
 キルシは目をほそめたが、それには答えず、足元へ視線をおとした。手のひらにのるほどの土の像を取り上げ、地面に描いた円環の中央へ置く。ほかにもいくつか動物のような像がころがっていたが、それにはふれず、立ち上がると像をまたいで寝台へ歩み寄った。ほとんど空気を揺らさずに剣士のそばへ身をかがめ、目をのぞきこむ。剣士は身を切るような冬の寒さにもかかわらずうっすらと額に汗をかき、歯を噛んでいた。
「腕が痛むか、ハサギット。可哀想に」
 つぶやいて、男の首から背中をなでおろし、ゆっくりと抱きしめる。剣士は左腕をつかんだまま魔呪師のローブに顔をうずめ、苦悶に呻いた。
「まだ‥‥まだもつ筈だろう。替えたばかりだ」
「あの魔呪師にかけられた呪縛が、腕に残っているのだよ」
 そう言って、キルシは剣士に回した腕に力をこめる。無表情だったが、はじめて声に温度がこもった。
「大丈夫だ。我らには、あの骨がある。骨の絆を使えば、あの男の血がなくとも、絆を足がかりにたどりつける」
「キルシ‥‥」
「俺は道をひらく。その後ゆっくりとあの男を引きずり出し、左腕をお前に、首を王城にくれてやろう」
 くくっと喉の奥できしむような笑いをたてた。
 ハサギットが目をとじ、キルシの肩に頭をもたせかけた。顔は苦悶に満ちていたが、キルシが骨張った手でその背をなでていると少しずつ息が平坦にもどってきた。
 やがて、キルシを見上げ、魔呪師のやせた腰に腕を回す。ハサギットの方がはるかに体が大きいので、キルシの細い体をすっぽりと腕に抱きこんだが、その腕はまるですがるようだった。
「キルシ。あれは‥‥あの魔呪師は、誰だ。あんな力ははじめてだった。俺は‥‥お前から切り離されるかと──」
「光のものでもない、闇のものでもない。我らはそういうものを〈黄昏の力〉と呼んでいる。今の世に使い手は多くはないが」
 遠くで狼が長く鳴いた。夜を裂くようなその響きに、2人のどちらも注意ひとつ向けなかった。キルシはハサギットを見つめていたが、ぽっかりと見ひらいた瞳には深い闇だけがあった。魅入られたように、ハサギットがつぶやく。
「黄昏の力‥‥?」
「それは、人の力ではないと言われている。王城の力も森の力もその内に属する。元をたどれば、竜の力だと言うが──あんな使い手が、この地にいるとはな‥‥」
 ハサギットが荒々しい力でキルシを寝台へ倒した。毛布ひとつない、つめたい板がむきだしの台へ抵抗なく押し付けられながら、キルシは自分にのしかかってくる男の姿を見つめていた。身を寄せるようにしていても、肌の内に巣喰う凍えは一向に消えない。ハサギットもそうだろう。男が肌を求めるのはキルシが愛しいからではない。凍える身を寄せ合わずにはいられないだけだ。
 そしてむきだしの肌を合わせても、そこには何もない。キルシは己が身の内に宿す冷たさになすすべなく凍え、ハサギットはやはり身に宿す骸のような冷たさに骨まで凍える。彼らをつなぐものは体でも心の絆でもなく、ただ、その寒さだった。

【5】

 色を失った蔦がだらりとイトスギの枝から下がっている。まるで、やぶれた蜘蛛の巣のようだった。冬の陽は天に高かったが、青ざめた空に満ちる光は弱々しく、森をゆく2人の影は木々の影に呑みこまれた。
 死体のあった場所をさぐり、さらにその奥へ、獣の通る道をたどってゆく。イユキアの歩みは遅かったが、レイヴァートは騎獣の端綱を引きながら黙って彼に従った。
 何かを確かめるように、時おり立ちどまり、木々にふれては身をかがめて土をたしかめる。人の目に見えているものだけを探しているわけではないのだろう。イユキアの瞳にうつりこむものが何なのかはわからないが、レイヴァートに同じものは見えない。それだけは知っていた。
 異変にはっきりと気付いたのは、森を歩いて1時間ほどたった時だ。見上げた木の股に、こわれかけた鳥の巣を見つけた。斜めにくずれた小枝のかたまりの中から青い羽毛がはみだしている。
 レイヴァートは小さな息をつき、相変わらず奇妙にさだまらない足取りで前をゆくイユキアへ声をかけた。
「イユキア。──同じところを回っているぞ」
「‥‥本当に?」
 足をとめ、イユキアはレイヴァートをふりむく。フードをかぶっていないので、銀の髪は淡い光を溜めながら、肩口へゆるく流れ落ちていた。
「ああ」
 うなずいて、レイヴァートはひとつずつ目印を教え、説明する。それを聞いてから、イユキアはあたりをもう1度ぐるりと回って自分の足取りをたしかめ、吐息をついた。
「ねじれてますね。封じ地があるのかもしれない」
「ふむ。内側へ入るなら、俺が道を探そうか?」
「多分、そう単純なものでもないでしょう」
 考えこんだイユキアへ、レイヴァートが水筒を手渡した。少し休むとの無言の提案にうなずき、イユキアは水を一口飲む。つめたい指先へ白い息を吐きかけた。手袋が嫌いなのだ。覆われると、感覚がにぶる気がする。
「森の封じ地は、単に空間だけの問題ではないので、歩いていけばそこに行き着けるわけではありません。ただ、その存在で森の流れが変わることがあります。どうもこの森には不安定なねじれがある。その中心に封じ地があるのかもしれません」
 レイヴァートも水を飲んで、
「封じ地があるということは、ここに何かが隠されているということか?」
 と、たずねた。イユキアはあいまいな表情で、虫穴の空いた木肌に指でふれる。
「そういうこともありますが、森の封じ地は珍しくないものですからね。王城の森にも人の入れぬ場所がいくつもあります。そのどれもに意味があるわけではない」
「お前も入れないのか? 黒館と森とは近しいのだと思ったが」
 特に何も考えず、レイヴァートはイユキアへたずねた。イユキアはチラッとレイヴァートを見やる。微笑したように見えた。
「距離は近いですね」
「‥‥イユキア。俺には、王城と森と黒館の関係が、よくわからない」
 フィンカの鞍に水筒をくくりつけ、レイヴァートはすりよせてきた獣の鼻面をなでた。彼はこれまでイユキアにそういうことを聞いたことがない。この冬長、王城で聞いた森長の言葉が、彼にそれを言わせたのかもしれなかった。
 答えるイユキアの声は、奇妙にひややかだった。
「私にもわかりません、レイヴァート。アシュトス・キナースの地には、何かがある。それが何かはわからないし、知っている人もいないのかもしれませんが、おそらくはその何かを中心にして、王城や黒館、森をも巻きこんだ大きな術律が組まれています。古いものです」
「この地全体に魔呪がかけられていると言うことか?」
「ある意味では。王城も黒館も、複雑な術律を織りこまれてつくられた存在であるとともに、それ自体が術律の外殻要素となっているのだと思います。あまりにも古く、今はもう原形もわからない術ですが、いまだにそれは、生きていて──」
 イユキアは自分の考えに沈むように話していたが、ふっと言葉をとめた。レイヴァートはおだやかな深緑の目で見つめ、獣をなでながらたずねた。
「今でも、生き続けているのか。何の術だかわからないものが? 俺たちはその中で暮らしているのだな?」
「‥‥そうです」
 レイヴァートが眉をしかめた。魔呪について彼の知識は限られているが、少年の頃に出会った魔呪師に聞いた言葉が、記憶のすみで動いた。
「‥‥魔呪の術律を動かすには人の〈意志〉の力が要ると、聞いたことがあるが‥‥」
 イユキアがレイヴァートへ顔を向けたまま、小さくうなずいた。レイヴァートはイユキアを見ていたが、ふいに低い声でつぶやく。
「だから、黒館は主を必要とするのか。術を継ぎ、生かし続けるために」
 彼を見つめるイユキアの目が、ゆっくりとまばたきした。
 そうなのだ、とレイヴァートは悟る。それがどういうものなのかレイヴァートにはわからないが、黒館に仕掛けられた魔呪の、生きた焦点として、黒館は「主」を必要とするのだ。
 レイヴァートの確信した表情に、イユキアが小さな溜息をついた。
「‥‥そう。黒館の主であるということは、黒館の魔呪の要であるということでもあります」
「お前は、その役割を先代の主から引き継いだのだな。それでも自分が継いだ術が何であるのか、わからないのか?」
「ええ。知らない鍵を手渡されたようなものですよ。その鍵でひらく扉の向こうに何があるのかは知らないし、それどころか扉がどこにあるのかもわからない。本当に、まだ存在しているのかどうかすら。‥‥私には本当にわからない、レイヴァート」
 つぶやいて、イユキアはどこかたよりない表情を見せる。水薬で黒っぽく染まった瞳の奥に、金砂のような光がゆらいだ。冬の陽が彼の顔に青い影をおとしていた。
 レイヴァートは手綱を獣の首へかけるとイユキアへ歩み寄った。のばした手で頬にふれる。レイヴァートの指も、イユキアの頬も、冬の空気に冷えきっていた。
 親指を沿わせ、頬を下から軽くなでながら瞳をのぞきこんだ。
「ああ。わかっている。‥‥今は、この森のことを考えよう」
 イユキアがぼんやりとレイヴァートを見て、うなずいた。そのまなざしの中に、レイヴァートはたしかな不安を読みとる。これまで、黒館の主であることでイユキアが迷いを見せたことはなかった。イユキアは静かにそこにいて、何もかもをただ受け入れているように見えた。レイヴァートはそう思っていた。
 もしイユキアの考える通り、古い魔呪の術を生かし続けるために黒館が主を必要とするというのならば。
 ──それはまるで生きた贄のようだと、レイヴァートは思う。黒館に捧げられ、ただそこにあることを要求される。だがそうは言えなかった。
 低い声で、たずねた。
「つらいか?」
 イユキアは目をみひらいたが、かたい表情のまま首を振った。1歩下がって、身を翻す。ゆっくりした足取りで歩きはじめた。
 もと来た方角へ戻りながら2人は黙々と歩いていたが、やがてイユキアが振り向かずに言った。
「私は、あまり慣れていないのです。こんなふうに、何者かであるということに。最近、少し──それが、怖くもある」
「怖い?」
「‥‥いつか、背負えずに、何もかもを失望させてしまうような気がします。予感と言ってもいい」
 イユキアの表情は背後のレイヴァートからは見えなかったが、その口調は不自然なほど淡々としたものだった。しばらく、枯れ枝を踏む乾いた音だけが続く。
 やがてレイヴァートがおだやかな声で言った。
「お前はよくやっている。今のままで大丈夫だ」
 イユキアが小さく笑った気配があったが、言葉は返ってこなかった。沈黙が痛々しく、レイヴァートは先を行く後ろ姿を無言で見つめた。どうしようもない。何を言えばいいのかわからない。イユキアの中には融けない氷のような塊があって、時おりに彼の心をとざしてしまうようだった。
 2人は無言で、昨日の死体が発見された場所まで戻る。あらためて地面に膝をつき、イユキアは死者が横たわっていたあたりを調べながらたずねた。
「死体はどうしました?」
「街道警備隊が引き取った。王城の者が検分するだろう。‥‥イユキア。あの死体、血が抜かれていたのではないのか?」
「ええ。多分」
 茶色くささくれた地面にイユキアが手をのばし、死者が倒れていた部分の土をひとすくい握り、つめたい小石を指の間からこぼした。顔を上げてレイヴァートを見上げる。
「村人が戻ってこないと言っていましたね」
「うむ。2人」
「2人?」
「お前も知っているだろうが──」
 ふいにレイヴァートは言葉を切り、唇へ指をあてた。肩ごしにちらっと視線を流し、イユキアへ合図する。イユキアが小さくうなずくと、レイヴァートはフィンカの端綱を木の幹に巻きつけながらはっきりとした声で言った。
「あたりの様子を見てくる。お前はもう少しここを調べていてくれ」
 イユキアはうなずいて地面へ視線を戻した。レイヴァートが手を振って、木々の間へ分け入り、左右を調べるそぶりをしながら姿を消した。イユキアは地面にあてた手のひらごしに、そこにあったはずの死者の気配を感じとろうとしたが、ひやりとした冬の地面には生者の息づかいも死者の息づかいも感じられなかった。冬長だ。森は眠っている。‥‥その筈だった。
 いつもは森に満ちる雑音もない。だがイユキアは、その静寂の向こうにある奇妙なざわつきを読みとっていた。レイヴァートが「いやな感じ」と言ったのと同じものだ。眠る大地の脈を感じとろうと心をとぎすますと、耳には聞こえてこない大量の虫の羽音を感じとったように、ふうっと背すじが総毛立つ。すぐそばに血の臭いを嗅いでいた。
 心臓がドクリと脈をうつ。その瞬間、鼓動にかさなる別の音を聞いた。ひどく古い、深い──地脈のねじれ──?
(呼吸か?)
 遠い、胎動のような。感じとったと思ったそれは、地脈の気配に融けこみ、次の瞬間まるで区別がつかなくなっていた。それともはじめから錯覚だったのか。
 イユキアが目をとじて気配を追おうとした時、人の声が上がって、彼は醒めたようにはっと顔を上げた。頭をめぐらせた先に、レイヴァートが黒髪の少年の腕をつかんで歩いてくるのが見えた。
 あきらめた様子でおとなしく歩く少年の顔に、イユキアは覚えがあった。昨日、イユキアをフィンカに乗せて森から家まで送った少年だ。
「‥‥リーセル?」
 イユキアが名を思い出してつぶやくと、レイヴァートがうなずいた。
「村の、カルザノの息子だ。イユキア、昨日聞いたカウルといっしょに森に入り、やはり帰ってこないのがカルザノだ。リーセルは父親を探しに来たそうだ」
 少年は硬い表情で足元の地面を凝視している。冬の風に赤らんだ頬を見つめ、イユキアが静かにたずねた。
「場所の心当たりがあってのことですか?」
「‥‥俺、父さんたちと‥‥」
 答えようとして、おどおどと視線がさまよった。またうつむく。
 立ち尽くしてしまったリーセルの様子を見ていたが、レイヴァートはふっと口元に白い息を溜めてイユキアを見た。
「俺は、聞かない方がいいかもしれん」
 イユキアが答えようのないうちに、レイヴァートはさっさと大股で歩み去って2人から大きく距離を取った。灰色の木の幹の向こうで背を向けて腕組みする。イユキアは怯えた様子のリーセルへ向き直って、まっすぐ見つめた。少年は痩せているが、イユキアよりわずかに頭が高い。
「リーセル。いなくなった人たちがどこで狩りをしていたのか、心当たりがあるんですね?」
「‥‥‥」
 こくりとうなずいた。黙りこくったままだ。イユキアが辛抱強く待っていると、やっとかぼそい声で続けた。
「この先に、今はもう使われていない狩猟小屋があって‥‥」
 しぼり出すように言った。
「父さんたちは、そこを使ってたんです」
 その一言を言うには勇気がいっただろう。自分もその場所を知っている──お狩り場の森に、禁じられた狩り目的で入ったことがあるのだと、告白したと同じだ。イユキアは離れた場所に立つレイヴァートをちらと見やってから、静かなまなざしを少年へ戻した。
「その近くで狩りをしていた?」
「‥‥‥」
 小さく、リーセルはうなずいた。恐れるようにレイヴァートの方へ視線を投げ、さらに恐れるようにイユキアを見て、深くうつむく。聞けば少年を罰さないわけにはいかないからレイヴァートは離れたのだが、こうして2人でいるとイユキアの長い銀の髪と異邦人の風貌も恐ろしいのだろう。彼が正体不明の自分を恐れているのはよくわかっていたが、他人に忌避されるのはイユキアにとって珍しいことでもなかった。
「彼らが帰らなかった時、すぐに行ってみなかったのですか?」
「‥‥行きました。でも‥‥どうしても、見つけられなくて‥‥」
 その言葉にイユキアの表情が動いた。
「たどりつけないということですか? 小屋のあるはずの場所に?」
「はい‥‥」
 さらにイユキアは問いを重ね、小屋の場所と目印を少年の口からはっきりと得た。
 イユキアが片手をあげてレイヴァートを手招きした。レイヴァートが歩みよると、
「彼を村へ送って行ってください。私は少し、探してみます」
「1人で行くな」
 珍しくレイヴァートが強い調子で言った。イユキアが意表をつかれて騎士の顔を見やると、深緑色の目に心配そうな光があった。まっすぐに見つめ返されて、イユキアは一瞬返す声を失う。その間隙をとらえて、レイヴァートが言葉を重ねた。
「相手の正体も人数もわからん。それにこの森は、お前にとってもなじみのない森だろう。1人では行かせられない」
「ですが‥‥」
 イユキアが迷って口ごもる。だが森には狼もいるようだし、リーセルを1人で帰すのはいかにもまずいのではないかと思っていると、うつむいていたリーセルが顔を上げて2人を見た。
「俺‥‥俺、案内します。案内、できます。この先へ行くんでしょう?」
「‥‥ですが」
「おねがいします。‥‥おねがいします」
 父を助けようと必死なのだろう。思いつめた様子のリーセルを見つめ、自分を見据えているレイヴァートを見て、イユキアは気がすすまない様子のまま、うなずいた。本意ではないが、仕方がない。
 礼を言うリーセルからついと身を翻し、イユキアはふたたび森の奥へと歩き出す。リーセルをうながし、レイヴァートもフィンカの端綱を引いて続いた。
 無言の3人は、白い息を吐きながら、冷えきってはりつめた空気の中を歩いてゆく。先頭に立ったリーセルは、先刻イユキアが迷っていたあたりを左へ大きく回避して、枯れた小川を渡った。しめった堆積物が靴の下で大きく沈む。細いサンザシの茂みの間を抜けた。物慣れた足取りをレイヴァートは憂鬱そうに見たが、何も言わなかった。
「何故、あなたの父親は冬長の森へ入ったのです?」
 歩きながら、ふいにイユキアがリーセルへたずねた。
「禁じられてはいませんか。冬長に森へ入ると魂が抜かれると」
「‥‥知っています‥‥けど‥‥」
 前を向いたリーセルの頬が、寒さだけでなく赤らんだ。お狩り場に入って獣を狩るという禁を冒していた以上、冬長に森の奥へ足を踏み入れて禁を破ることも、彼らにとっては差が無かったのかもしれない。少年は押し黙り、イユキアも遠い目をしたまま、それ以上は何も言わなかった。
 やがて、リーセルが周囲を見回し、怯えた目を森のあちこちへ向けた。
「このあたりから、もう小屋が見えてくる筈なんです。それがどうしても、たどりつけなくて‥‥俺、探したんですけど‥‥」
 イユキアの合図を受け、レイヴァートは一動作で長剣を引き抜いた。刃を見て身をすくませるリーセルにフィンカの端綱を渡し、1歩前へ出た。
「そこにいろ」
 そうリーセルに命じ、イユキアを追って進む。イユキアは斜めに幹のよじれたナラの横で足をとめ、目をすがめて眼前の空間をはかるようにしていた。
「封じ地か?」
 イユキアは前を見たままかすかに首を振った。
「目くらまし‥‥もっと簡単な結界です。新しい」
 膝をつき、右手のひらを大地に当てた。集中している顔を見おろして、レイヴァートがそっと問う。
「解けるか」
「ええ」
 落ちついて澄んだ声には、魔呪を使う者としての自覚と誇りがにじんでいた。
「獣の属性を感じます。形の中にはじき出してしまうので、斬ってもらえますか?」
「心得た」
 レイヴァートも、王城の剣を持つ者としての自信に満ちた言葉を返す。それぞれに互いの力量を信頼している。それを感じてイユキアは淡い微笑をうかべ、目をとじた。己ひとりでもこの場の術を扱うことはできるが、レイヴァートに背中をまかせて術だけに専念できるのは心強い。それをどこかで楽しんでいる自分が、妙に面映ゆかった。
 手のひらを地面にあてたまま、全身の力を意識に集中させる。
 見つめるリーセルがあっと声を上げ、自分の声に驚いて口を押さえた。イユキアの目の前の地面から血の色がにじみ上がってくる。たちまち地面全体に赤いもやがかかり、じわりと染み出した血の霧があたりに濃くたちのぼりはじめた。だがイユキアの前に見えない壁があるかのように、霧はイユキアの向こう側にだけたちこめ、目の前の景色を赤く染める。
 赤霧はゆらゆらと粘り気のある動きを見せ、不穏にうねくっている。
 イユキアが目をとじたまま、そっと呼んだ。
「レイヴァート」
「いつでもいい」
 長剣を軸の中心に据え、肩と腰をどっしりと落とした構えでレイヴァートが応じる。イユキアはうなずき、口の中で呪の詠唱をはじめた。古い、遠い、文字をもたない言葉。呼びかけ、名付け、つなぎとめるための言葉。言葉を紡ぐごとに自分の存在そのものが言葉となってほどかれていくような、異様な感覚がわきあがる。この言葉の前では、己もまたひとつの「言葉」にすぎないのだ。言葉によってつくられ、言葉によってほどかれる存在。
 精神を限界まで集中させた。この場所に置かれてある別の「言葉」をさぐりあて、他人がつくりあげたその形を感じとりながら、もう1度名付けなおしてほどいてゆく。手探りで糸の結び目を解くように。ほどかれて流れ出していこうとする力をつなぎあわせ、イユキアは術の全体と細部を同時に組み上げはじめた。
 術には獣の気配が満ちていた。イユキアがはじめに感じとったように、術律が獣の形を焦点として立てられているのだ。この結界を張った術師は獣の技を得手としているのだろう。
 術は、何かの「形」を焦点とすることで、術全体として律される。形を持たない「力」を形にはめこんで御しやすくするのは、魔呪の基本だ。特にこの結界のように術師の手からはなれても術が保たれる必要がある場合、「形」はしばしば術本体と同じほど重要になってくる。ある意味、形もまた本質なのだ。それは、体と魂のような関係に似ている。形と、その中にあるもの。
 イユキアは、術中の獣の形を意志と言葉の力でからめとりながら、形を壊すことなく術をほどいてゆく。獣がうごめきだそうとする蠕動を抑えこみ、形を逆利用して、獣を自分の支配律に組みこんだ。
 剣をかまえたレイヴァートの眼前で、赤い血霧が徐々に寄り集まり、目に見える形をとりはじめる。レイヴァートは微動だにせず、あらわれ出る獣の姿を見据えていた。
 それは四つ足で長い尾を持った獣だった。異様に肩が張り上がって後ろ脚は長く、レイヴァートの知る地上の獣ではない。頭は扁平で鼻はとがり、耳は後頭部から魚のひれのようにひろがっている。
 赤黒い姿がてらてらと実体を帯びはじめると同時に、周囲の赤霧が一気に獣の体内に吸いこまれて消えた。獣が四つ足を張って赤く光る両目をひらいた瞬間、レイヴァートは剣を振り上げながら大きく1歩踏みこみ、腹から気合いを発しながら全身の力をこめて斬りおろしていた。
 獣の姿に剣身がふれた瞬間、剣からつめたい痺れが両腕をはいのぼった。異様な冷気にとらわれそうになる。レイヴァートは腹の底に力を溜め、体内に闘気をみなぎらせながら裂帛の気合いとともに押し切った。
 粘液を斬ったような手ごたえだった。それがぶつりと途絶え、獣の姿は消失して、剣は硬い地面にぶつかっていた。片膝を深く折った体勢でレイヴァートは荒い息をつく。顔を上げ、剣を離すことなくイユキアを見つめた。
 イユキアがうなずく。かすかに微笑した。レイヴァートが斬ったのは、イユキアが術のうつし身として顕現させた獣だ。そう簡単にこの世の刃で切れるものではないが、レイヴァートはうなずき返しただけで特に何も言わず、マントで刀身を拭って──獣を斬った痕跡は何ひとつ残っていなかった──剣を鞘へおさめた。
 イユキアも立ち上がる。背後ですくんでいるリーセルを振り向き、木々の間を白い指でさした。
「あれが狩猟小屋ですか?」
「‥‥‥」
 リーセルは蒼白なまま、物も言えずにうなずく。まるで目に見えない覆いを取り払ったかのように、行く手には古い丸太小屋があらわれていた。


 レイヴァートにリーセルをまかせ、イユキアは数歩先をゆく。かすかな風が銀の髪を揺らし、冬の空気に肌はますます血の色を失っていた。
 丸太小屋は囲む柵もなく、納屋も煙突もなく、ただそこに建っていた。リーセルの話によれば、王城から猟をゆるされた狩人がかつて使っていたものらしい。風雨に色あせ、朽ちる寸前の屋根や壁は、背後の木々の色にとけこんで見えた。
 窓がわりの小さな板戸はしっかりとしめられている。人の気配も外からは感じとれなかった。あたりを警戒しながらぐるりと小屋を回ったレイヴァートは、扉のそばに膝をついているイユキアを見つける。地面から何かを拾おうと手をのばしているところだった。
 砕けた陶器の破片のように見えた。もとは手のひらにおさまる程度の大きさの何かだったのだろう。打ち砕かれたと言うより、内部から破裂したように四方に散っていた。イユキアはつまみあげた破片の1つをじっと見てから匂いを嗅ぎ、用心深い仕種でなめた。考えこんでいる。どこか憂鬱な気配があった。
「中を見てくる」
 そう断って、リーセルにイユキアのそばにいるよう手ぶりで伝えると、レイヴァートは扉に手をかけた。小屋の大きさに対して意外と幅の広い扉を押すと、たてつけの悪さに手間取ったが、扉はきしむ音をたてながらひらいた。
 薄暗い小屋の中に、丸太組みの壁を抜けてさしこむ光のすじが淡い模様をつけていた。床は土のまま平らに踏み固められている。レイヴァートは用心深く小屋の中を見て回った。つめたい土はかたく、見てわかるような足跡は残っていなかった。
 板戸をあげたが、窓は小さい上に太陽と逆向きで、さして光は入ってこなかった。床の中央に石で四角く囲った小さな炉が切ってあり、レイヴァートは黒ずんだ燃えさしに手をふれて、それがつめたいのをたしかめた。石も冷えている。だが、この数日に何かが燃やされたことは確かだった。
 壁によせて、大きな木の作業台が据えられていた。台全体に散っている黒っぽい汚れはやけに艶めいている。血だ。本来は、この台を外に出して狩りの獲物を処理するのだろう。手のひらをすべらせた表面はナイフや斧の痕でささくれ、表面は乾いていたが、顔を近づけると生臭いにおいが嗅ぎとれた。何日か前に使われた気配がある。
 逆の隅には木の粗末な寝台が置かれているが、板がむきだしで毛布はない。レイヴァートはぐるりと部屋を見回し、扉口からのぞきこんだイユキアと視線をあわせた。
「誰かがここにいた」
 告げるとイユキアは小さくうなずき、レイヴァートが外へ出るのを待ってから中へ入った。
 レイヴァートは扉の外に落ちていた破片がすべてなくなっているのに気付く。イユキアが拾ったのだろう。リーセルは小屋の角に立ち、森やあたりを落ち着きなく見回していた。
 レイヴァートがリーセルへ歩み寄る。いや──歩み寄ろうとした時だった。
 瞬間、きしむような声に足をとめた。
「動くな、レイヴァート。俺はガキを狙っている」
「‥‥‥」
「指1本でも動かしたら、短剣を投げる。お前も、小屋の中の魔呪師もな」
 言われた通り体を動かさず、レイヴァートは木々の間へ顔を向けた。灰色にあせた色を見せる木々の間に黒づくめの剣士が立っていた。げっそりと痩せた体に革の胸当てとマントをまとい、左手に短剣を振り上げた体勢のまま、するどくレイヴァートをにらみつけていた。
「ハサギット」
 レイヴァートは小さく息を呑んだが、次に少年へ呼びかけた声は落ちついていた。
「大丈夫だ、リーセル。‥‥動くな」
 少年は立ちすくんで小さくふるえている。彼とレイヴァートとの距離は10歩近くあった。走りよっても宙を飛ぶナイフにはまにあうまい。この剣士がかつてと同じ腕ならば尚更──と、レイヴァートは男を見つめた。憎しみだけに灼けた瞳は、かつてレイヴァートが知っていた剣士の目ではなかった。
「ハサギット。いつ戻った。戻らぬと王城に誓約しただろう」
「誓約? そのようなものには、もはや縛られんよ。扉をしめろ。それから後ろへ5歩、その姿勢のまま小屋に沿って下がれ」
 レイヴァートは言われるままに小屋の扉をしめ、リーセルとの距離をさらに取った。イユキアは小屋の奥にいるのか、扉にふれた時も姿は見えなかった。
 ハサギットはまるで幽鬼のように見えた。ほつれ破れたマントをまとい、古びて血の染みのついた革鎧の胸元に色のくすんだ鎖を垂らしている。左腕で短剣を構えた姿を見つめて、レイヴァートは抑えた声で言った。
「死者の左腕を切り落としたのはお前か。何と取引した、ハサギット。何に自分を売った」
「お前が切った腕が痛むのだ、レイヴァート」
 声は憎悪よりも歓喜に満ちていた。ついに求めていた相手に出会ったかのように。唇を左右に歪め、頬をつりあげてハサギットは笑みを向ける。
「そちらから出向いてきたとはな。──リーセルと言ったか、お前、こっちに来い」
「俺が行く」
 レイヴァートが動こうとすると、ハサギットがぎろりとにらんだ。
「ああ、お前には勿論来てもらう。罪償の血を残らずしぼりつくしてやるぞ。だが、まず──ガキ、お前だ。来い」
 まがまがしい視線をうつされてリーセルは蒼白になったが、唇からふるえる言葉を押し出した。
「父さん──父さんは、どこにいる‥‥?」
 ハサギットの表情がぴくりと動いた。
「ほう。森に喰われた男はお前の父親か。我らといっしょにいるぞ。いいとも、後でいっしょに帰してやるから、こっちに来い」
 右手で手招かれ、リーセルは唾をのみこんで、こわばった足を踏み出した。レイヴァートはハサギットをにらみながら周囲の気配をうかがう。ハサギットの狙いはわかっていた。まずリーセルをそばに置き、その喉に手をかけてからあらためてレイヴァートを脅すつもりだ。それまでにどうにか打つ手が必要だった。
 背後の小屋の中でほんのかすかな音がした。イユキアが、レイヴァートにだけ聞こえるよう小屋の壁を中からそっと叩いている。2度。
 レイヴァートは1歩前へ出て、大きく呼んだ。
「リーセル、とまれ!」
 少年の足が思わずとまる。ハサギットが苛立ちの目でレイヴァートをにらんだ。バラバラにのびた黒髪が目の上へ落ちかかり、影のせいで余計に目がおちくぼんで見えた。
「ハサギット」
 レイヴァートは両手をだらりと垂らして見せたまま、男へ向き直る。
「順序が逆だろう。俺を狙うのなら、俺だけを狙え。リーセルにも父親にも手を出すな。今、そちらへ行く」
 言いながら腰の剣帯の留め金を外し、長剣を鞘ごと地面へおとした。両手をひろげて何も持っていないと示しながら、歩き出す。ハサギットがするどい警告の声を発した。
 その瞬間、しぼり出すような苦鳴とともに男の指から短剣が落ちた。左腕をおさえ、ハサギットは身をはげしくよじって吼える。体をバラバラに引き裂かれているかのような絶叫だった。
 レイヴァートは一気に走り出し、とびつくようにリーセルを地面に倒した。ハサギットから死角になる木の根元へ少年の体を押し付ける。
「じっとしてろ」
 言い捨て、立ち上がった。視界のはじに、小屋の扉がひらいてイユキアが立っているのが見えた。その目を金の色を帯びたかがやきに染め、イユキアはひどく自然な動作で歩き出す。唇が何かをとなえていた。
 レイヴァートはマントをはねあげて腰の後ろの短剣を引き抜く。ハサギットがいっそう高い悲鳴を上げ、小屋に背を向けて走り出した。その先にやせたマント姿の男が森から浮き出すように現れ、ハサギットのよろめく体を受けとめた。ハサギットが悲鳴をあげる。
「助けてくれ、キルシ──」
 物も言わずに、魔呪師は小剣をひらめかせ、ハサギットの左腕を肘から切り落とした。腕力などありそうにない弱い一撃に見えたが、左腕は服ごと切り離されて地に落ち、苦悶の形に歪んだ五指はみるみる黒ずんで、焼けただれたようにしぼんでいく。
 魔呪師の手がふたたび一閃し、駆け寄ろうとしたレイヴァートは後ろに跳びすさった。赤く巨大な影がかぶさってくる。木の間に転がってよけ、一転してはね起きると、眼前に見覚えのある獣が立っていた。張った肩、長い後ろ脚、奇妙なひれのような耳──先刻、結界を破る時にイユキアが顕現させた獣だ。だが今回はその体は赤黒いうろこ状の皮膚につつまれ、生々しく粘る光をおびて、ずっと実体らしく見えた。
 それでもこれは実体ではないのだ。レイヴァートは、それを理解していた。男が召喚した術律の獣だ。
 使い魔を見るのも対峙するのも、はじめてではない。吹きつけるように押し寄せてくる見えない圧力を体に満ちる闘気ではねつけながら、短剣をかまえた。長剣は背後に鞘ごと落としてきたままだ。不利とは思わなかった。短剣は間合いが狭いが、速さでは勝る。たじろぐことなく獣の動きをするどい目で見つめ、ひらいた両足の爪先に力をかけ、重心をゆっくりと左足にのせてゆく。
「レイヴァート」
 そっと、囁くような声。イユキアがすぐそばにいることに、レイヴァートはあまり驚かなかった。獣から目をそらさずに答える。
「どうする」
「まかせて下さい。‥‥息を、とめて」
 イユキアの声はおだやかだった。
 ふいに、ピィンと空間が鳴った──いや、それは音ではない。風鳴りよりもっとするどく、人の心を直接通り抜けてゆくような、ただ純粋に凝縮された響き。澄んだ無音のこだまはあたり一帯にひろがり、体が内外から同時に押しつぶされるような音の圧力に、レイヴァートは息をつめてこらえた。何もかもがゆるやかに動きをとめたようだった。ふしぎな無音の中、ゆっくりと歩み出したイユキアが獣へと近づく。何か言おうとしたがレイヴァートは声が出ない。それどころか指1本動かせなかった。
 イユキアの瞳が強い金の光をおびてまっすぐに獣を見つめていた。獣はたわめた後脚で跳躍しようとした体勢のまま、動きを凍りつかせている。ひらいた口腔は血のように赤かった。
 イユキアが手のひらを獣の顔へつきつける。そのまま腕が何の抵抗もなく獣の内側へ沈みこみ、肘まで呑みこまれたところで、何かを引き抜くように力をこめて腕をひねった。獣の姿がはじけとぶように消える。その瞬間、すべての音と感覚が戻った。
 1度に押し寄せてくる感覚のうねりに息をつまらせ、レイヴァートは両足を踏みしめる。強く、頭を上げて息を吐き出した。イユキアを見る。
「今のは‥‥」
「ローゼ殿の真似をしてみました。及びもつかない自己流ですが」
 イユキアは微笑のようなものを返した。ローゼ──ロゼナギースは、かつてイユキアの前で声を使った「音」を発し、イユキアを狙う使い魔を撃退したことがある。王城の音師として彼がつんだ研鑽の技にイユキアがいたく感銘を受けたのは、レイヴァートも知っていた。だが、よもやイユキアがそれを自分の技の中に取り入れようとしているとは、思いもしなかった──いや当然か、とも心のどこかで思う。レイヴァート自身、他者のすぐれた剣技を見ればそれを修練するのは珍しいことではない。魔呪を使う者と剣を使う者と、そこには差がないのかもしれなかった。
 短剣を鞘におさめ、レイヴァートは2人が消えた方角へ顔を向ける。
「追うぞ」
 イユキアが金の光をおびた暗い色の瞳でレイヴァートを見つめ、うなずいた。いつも水薬をおとして暗く染めている瞳は、感情や魔力のたかぶりで時おりに金のかがやきを見せる。
 レイヴァートはリーセルを振り向き、早い口調で命じた。
「小屋の中で待っていろ」
 リーセルが青白い顔を左右に振った。
「‥‥父さんが──」
 ヒュッと音をたてて短く息を吸い、あごを喉元まで引いてレイヴァートを真正面から見つめた。声は低かったが、決然としていた。
「俺も行きます」
 返事を待たずに小屋へ駆けもどり、レイヴァートが落とした長剣と剣帯をつかみあげてまた戻ってくる。レイヴァートは溜息をついたが、それ以上は言わなかった。目の届くところにいた方が守りやすいことは守りやすい。
 イユキアが、切り落とされたハサギットの左腕のそばに膝をつき、黒くただれた肉に指先でふれていた。レイヴァートは剣帯をつけながら歩み寄る。
「あの死人の腕か?」
 イユキアがうなずいた。声に珍しくはっきりとした嫌悪があった。
「死者の腕を使う。‥‥外道の技です」
 ちぢみきってねじくれた炭のような肉の中から、白い指先がキラリと光るものを引きずり出した。レイヴァートが眉をひそめる。
「それは?」
「金属の糸。針のように使います。主に傀儡の技ですね。小屋の中にも落ちていました」
 ほんの指先ほどの短い糸をレイヴァートに見せ、説明した。
「彼の血がついています。あの腕をつける術に使ったものでしょう。さっきはこれを通した呪で、彼の腕に干渉しました」
 ハサギットが急に苦しみだした時のことだ。レイヴァートは剣帯の留金を留め、うなずいた。
「助かった。追えるか?」
「切られましたから、駄目ですね。なかなか上手い。追跡はおまかせします」
 淡々とした言葉の中にあの魔呪師への素直な称賛を聞きとって、レイヴァートはかすかに苦笑した。イユキアは他者の技というものに割と単純な好奇心を持っている。こんな状況の内でさえ、多分、イユキアの内側にいる魔呪師としての彼は楽しんでいる。
「わかった。リーセル。間を歩け」
 少年を手招きし、イユキアに最後尾をまかせると、レイヴァートは森に残る痕跡を追って歩きはじめた。


 足跡はほとんどない。急いで引いていった筈なのに、石や地面の固い場所、倒れた木の幹などを踏んで痕をつけないようにしている。折れた枝もほとんどなく、進む方角にも規則性がない。彼らは慣れているようだった。レイヴァートも追跡は不得意ではないが、罠が仕掛けてある可能性も考え合わせながら痕跡をたどるのは、時間と神経を使う作業だった。
 半時間近く、何の成果もないまま森の奥へ奥へと分け入っていく。イユキアの足取りがつらそうに重くなってきたのがわかったが、彼のきびしい表情を見たレイヴァートは何も言わなかった。魔呪は極端なまでの精神集中を要求し、術を使うごとに体力は大きく削がれる。歩みがいかにゆっくりと言っても、疲労のたまった身にはつらいだろう。それでもイユキアは何ひとつ言いもせず、何かを言われたくもないという表情をしていた。
 リーセルも荒い息をついていた。森を歩くのには慣れている筈だが、精神的な緊張は肉体の正常な反応を奪う。疲労がどんどん積み重なって、体が思うように動かない。だが、少年も不平を言わなかった。父親がこの先にいると思っているのか、思いつめた目で前だけを見つめている。
 小さな岩の斜面をおりたところで、レイヴァートは苔がまだらに生えた土にくっきり残る足跡を見つけた。新しい。あの魔呪師の足跡でも、ハサギットの足跡でもない。やわらかい靴底の上に荒く編んだ縄をかけた靴は、狩猟用の山靴だ。
 レイヴァートは迷ったが、その足跡を追った。
 おそらく、戻ってこない村人のどちらかだ。足跡はひとつしかなかった。
 キルシたちの逃げる方角から目をそらすための目くらましだとはわかっていたが、レイヴァートはあえて足跡をたどった。放っておくわけにもいくまい。
 ゆるい斜面を左手に見ながら小さな藪をぐるりと回りこむと、身を丸めて倒れている男が見えた。角張った体に薄汚れた灰色の毛織りのシャツをまとい、狼の毛皮の胴長を着ている。毛皮は毛のついた方を内側に仕立てられ、すそは獣の形のままだらりと垂れていた。
 目をとじ、毛皮の肩に頬をのせて、まるで眠っているように見える。その腹から短剣が生え、根元のシャツに黒い染みがひろがっていた。
「カウル──!」
 声を上げて駆け寄ろうとするリーセルを、イユキアがするどく左手をのばしてとめる。カウルの横に膝をつき、首すじと口元に指先をあてて脈と息をたしかめてから、レイヴァートを見上げた。
「息はあります」
 レイヴァートは長剣の柄に手をかけ、油断のない表情であたりを見ている。イユキアはカウルの首の後ろをさぐっていたが、やがて指を引き、指にからむ銀の糸を見せた。今の瞬間まで男の体内にあったそれは、小さな血の滴をまとわりつかせていた。
 周囲には、ほかの人影はおろか足跡や痕跡など、何も残っていない。カルザノ──リーセルの父親の姿はどこにも見えない。レイヴァートはイユキアを見下ろした。
「1人で歩いてきたのか?」
「ええ。自分でここまで歩いて、自分で短剣を刺したのでしょう」
 あやつられていたと言うことだ、あの魔呪師に。
 イユキアはレイヴァートの手を借りてカウルを地面へ横たえ、傷回りのシャツを切り裂いてから、刺さっている短剣を注意深く抜いた。傷は深くはない。水筒の水で血止めの粉末を溶いて布に貼り、傷口に押し当てると、カウルの腰から取った革帯で傷の上を強く抑えた。
 レイヴァートを見る。
「傷そのものは大丈夫です。命に関わるほどではありませんが、体温が低すぎます。つれ帰って体をあたためないと」
「‥‥戻ろう」
 レイヴァートは低い声でうなずいた。足止めのために、カウルをこうして残していったのだ。わかってはいたが、放っておくわけにはいかなかった。イユキアも目に見えて疲れている。これ以上はあてもなく探せない。カルザノのことも、キルシとハサギットも、1度あきらめて引くべきだった。
 リーセルが「父さん」と口の中で小さくつぶやく。レイヴァートが肩に手を置くと、少年は気丈にうなずいたが、その体は小さくふるえていた。

【6】

 イユキアは木にもたれ、曲げた足をあぐらのように組んで目をとじていた。フードを目深に下ろし、銀の髪も白い顔も布の中に覆い隠している。
 夕暮れの風がざわざわと枝の間を抜け、灰色の布を揺らしたが、その中に隠れたイユキアの表情はうごかない。ただ時おり目をあけ、ぼんやりと薄闇をながめては、また目蓋をおろした。
 イユキアが座っているのは、村をのぞむ森の内側だった。村には入れないとイユキアが主張し、レイヴァートが折れた。カウルの手当ては難しいものではないから、村の薬師でことたりる。それよりも魔呪を使うところをリーセルにはっきりと見られた以上、村中にその話がつたわるまでにそうはかからないだろう。
 まじない程度のものには因習としてなじんでいる人々も、術律として目に見える魔呪の技には大きな恐れを持つ。魔呪のたぐい、そしてそれを使う者への畏怖は、人々の間に根深い。普段はそれをおさえ、敬意をもって接してはいるが、今は村人が2人も行方不明になった上、紋様を体にしるされた不気味な死体が森から出ている。1人は生きて戻ったとは言え、こうした冬の出来事が、魔呪に対する過剰な恐れを呼び醒ましてもおかしくなかった。
 それにいつ何時、イユキアが「黒館」の主であると知られないとも限らない。このあたりにイユキアの顔と名を知る者はほとんどいない筈だったが、1人でも知っていれば──あるいはイユキアの髪の色と黒館の主の詳しい噂とを結びつければ、イユキアが何者であるかはすぐに知れる。100年以上にわたってこのアシュトス・キナースで恐れられ、忌まれ、暗い技の象徴のように語られ続ける黒の館の、今の主であると。
 レイヴァートが「客」として黒館の主を遇していることが知られれば、村人は反発する。ましてや、招かれもしないのに村の中までつれていったとなれば。
 恐怖は理屈ではない。イユキアはそれをよく知っていた。敵意、恐れ、侮蔑、憎しみ──そう言ったものにイユキア自身は慣れている。だが、レイヴァートを巻きこみたくはなかった。
 やはり来るべきではなかったのかもしれないと、思う。己のさだめた範疇をこえるべきではなかった。レイヴァートの友人も、いつか噂をつなぎあわせてイユキアの正体を悟るかもしれない。銀の髪はそれだけで人を特定できるほどに希有なわけではなかったが、魔呪を使う銀髪の者となれば、黒館の主を連想する者はきっといる。
 だが、こうしてともに来なければ、レイヴァートは独力であの2人と対峙することになっていた。その思いもまた、イユキアの顔に物憂げな影をおとしていた。
 ──レイヴァートの血を欲していると、あの剣士は言った。
(罪償の血を残らずしぼりつくしてやるぞ──)
 ハサギットの言葉を思い出して、伏せたイユキアの目が光をおびる。傷つけさせる気はない。決して。レイヴァート自身であれ、レイヴァートが大切にしているものであれ。必ず──彼らを見つけ出す。
 マントの下に入れた手が、固い破片の感触をさぐった。
 足音が近づいてくる。人のものと、騎乗獣フィンカのものと。やや大股でせわしない。誰のものかはすぐわかったが、顔を上げると自分の目の中にするどいものを見られそうで、イユキアは顔を伏せたままでいた。
 足音はイユキアにまっすぐ近づき、立ちどまった。
「イユキア」
 ゆっくりと、イユキアはレイヴァートを見上げる。しゃがみこんだレイヴァートはイユキアの腕をつかんで支え、立ち上がらせた。
「大丈夫か? すまない、待たせた」
「いいえ」
 イユキアは首をふった。レイヴァートはうなずくと、のばした指先でイユキアの唇にかるくふれ、頬をなでた。
 フィンカの前鞍にイユキアを押し上げ、レイヴァートは後ろにまたがった。手綱をとり、ゆっくりと獣を歩かせはじめる。
「カウルの意識がぼんやり戻って、とりあえず話をきけた。5日前、リーセルの父親、カルザノとともに狼を追って森へ入り、3日すごした。その3日目に、罠のエサに使うために穴ウサギを獲ったそうだ。それをさばこうとしたところから、もう覚えてないと」
「‥‥血の道がひらいてしまったのでしょう」
 イユキアがつぶやく。レイヴァートは揺れる体にイユキアを軽く引きよせ、姿勢を安定させてやりながら、顔をのぞきこんだ。フードに隠れてほとんど鼻先しか見えなかったが。
「それは?」
「冬長の森は眠っています。少しの血でも、時によっては大きな揺らぎを引き起こす‥‥」
「だから、冬長の森には入るなと言われるのか?」
 イユキアはそのまま答えなかった。何かをじっと考えこんでいる気配を悟り、レイヴァートもそれ以上話しかけない。夕闇がゆっくりと色を深めた。
 ゆるい斜面を抜け、森から遠ざかりはじめた時、ふいにイユキアがたずねた。
「レイヴァート。地図はありますか?」
「どのくらいのものが要る」
 通常の地図には、街などの目印とそれをつなぐ道の分岐に簡単な地形しか記されていない。それぞれの位置や距離も正確なものとは言えないが、移動する者にとって重要なのは、地理よりも目的地にたどりつく手段だ。また、地理の正確な地図は戦略的に大事なものであり、詳細な地図が市場に出回ることはまずなかった。
 イユキアが一瞬考えた。
「‥‥方角の正確なもの。アシュトス・キナース全体の。ありますか?」
「ある。戻ったら見せよう」
「おねがいします」
 答えた時、イユキアの体が小さくふるえたのがレイヴァートの腕につたわってきた。もうかなり暗く、かぼそい月の下、獣の足元もややおぼつかない。ゆっくりした足取りで目印の大きな樫を曲がった。
 レイヴァートは回した腕でイユキアを抱きしめ、冷えた体を自分の胸へ引きよせる。
「サーエを、エギンとジノルトの家にうつそうと思う。ハサギットがまた来るかもしれんし、俺へのうらみをサーエに向けられると怖い。あそこの家は人も多いし、腕の立つ者もいる。これまでサーエを寄せてもらったこともあるから、病の扱いも知っているしな」
「あなたがサーエ様についておられるのが、一番いいのですが」
 と言って、イユキアは小さく口元に息をくもらせた。
「‥‥駄目ですか」
「俺がいなければ、お前は森に1人で入る気だろう。それに、俺はハサギットと片をつけねばならん。魔呪師などとつれだって、森でいったい何をたくらんでいるのかも気になるしな」
「あの剣士はあなたをうらんでおられるようですね」
「前代の王の近衛だった男だ。王城で、俺があの男の左腕を切り落とした。15の時」
 淡々と言って、レイヴァートはイユキアの肩を抱いた。
「大丈夫か? 疲れただろう」
 大丈夫、と答えようとしたが、イユキアはふっと力を抜いてレイヴァートに身をよせた。レイヴァートの抱擁はいつも優しい。体は冷えきって芯から疲労にこわばっていたが、レイヴァートに支えられていると身の奥で何かがほぐれていくのを感じた。
「‥‥ええ。少し」
 ぽつりと呟く。その声に何を聞いたのか、無言のまま、細い体を抱くレイヴァートの腕に力がこもった。


 サーエシアを館で数日預かって欲しいとたのむと、ジノルトは二つ返事で引き受けたが、サーエシアは大きな緑色の瞳を兄へ向けて数秒、口をきかなかった。
 レイヴァートはテーブルのそばに立ち、かるく腕組みして揺り椅子の妹を見下ろしている。イユキアは火がかき立てられた暖炉のそばにたたずんで様子を見ながら、2人がよく似ているのにあらためて気がついていた。サーエシアが無言でかるくあごを上げ、口元に強情そうな意志を漂わせて兄を見やる様には、まっすぐ人を見やって何か考えている時のレイヴァートとよく似たゆるぎなさがあった。
 サーエシアはゆっくりと頭をふる。
「‥‥本当は、何がおこっているのです、兄上?」
 レイヴァートが肩をすくめた。彼がした説明は、そのあたりを不審な人物がうろついていて村人が行方不明になっていることと、明日も1日──あるいはもっと長く──イユキアとともに森を見回って家を空けるということだけだ。
「うむ」
「兄上」
「‥‥うむ」
 イユキアが口元をおさえた。片手で笑みを隠した彼へチラッと視線を投げ、レイヴァートは少しばつが悪そうに妹を見た。まっすぐに見返される。やがて彼は、思案含みのまま言った。
「ハサギットが戻ってきた。森にひそんでいる。俺は片をつけねばならん、サーエ‥‥だから少しの間、離れていてくれ」
 数度、サーエシアはまばたきしながら考えこんでいたが、レイヴァートを見上げたままうなずいた。
「昨日、この家をたずねて来た剣士というのも彼だったのですね?」
「そうだ」
 うなずいて、レイヴァートは口を結ぶと妹の決断を待った。サーエシアはまだ何か言いたそうだったが、兄そっくりの仕種で肩をすくめると、しなやかに身をひねってたちあがった。やや気取った動きでうなずいてみせる。その場を支配するような仕種とは裏腹に、口をついたのは子供っぽい言葉だったが。
「折角イユキアとたくさんおしゃべりできると思ったのに」
 いきなり水を向けられたイユキアは当惑したが、彼がこの場に即した言葉を見つけるより早く、サーエシアは仕度をしに部屋を出ていってしまっていた。
 レイヴァートは苦い顔で見おくっていたが、すぐに真顔でジノルトへ向き直った。
「すまんが、そういうことだ。俺にうらみを持つ相手が国に戻ってきている。この家のことを知っているし、1度訪れた。サーエをここに置いておきたくない」
「うちならかまわん。お袋の編み物とエギンの帳簿整理を手伝わされることになるだろうがな」
 ジノルトは陽気に笑って見せたが、レイヴァートはきびしい面持ちのまま続けた。
「お前の家の門にも、まじないをかけさせてもらいたい。害意を抱く者の魔呪を容れないように」
 一瞬ジノルトの顔がこわばった。不安げな視線が自分へ向くのを感じたが、イユキアは炎を見ていた。ジノルトがためらいがちに問う。
「彼は──やはり、魔呪師なのか? 施癒だけなく‥‥」
「魔呪の術律も扱う」
 レイヴァートがおだやかに引きとった。
「俺が彼にたのんだ。サーエを守るためだ。たのむ、ジノルト」
「‥‥‥」
 ジノルトの沈黙を肩ごしに聞きながら、イユキアは炎のうちに黒く燃える薪を見ていた。まただ、と思う。また。
 人々はまじないや魔呪のたぐいに交わりながら生きているが、それを使う者を恐れる。その恐れを、イユキアはとがめる気にはなれなかった。自分の手は決してきれいではない。これまでも、そして多分、これからも。
 レイヴァートは何故平気なのだろう、と思った。はじめから、彼はイユキアを恐れなかった。好奇の目で見もしなかった。警戒ははっきりと見せていたが、それは敵意も底意もない正直なもので、距離を置きながらもイユキアをつめたく扱ったことは1度もなかった。
「イユキア」
 ジノルトの声に呼ばれ、イユキアはおどろいて顔を上げた。ジノルトは長椅子に座ったまま前にのりだし、イユキアをまっすぐに見つめて微笑を向けていた。
「聞いての通りだ。あんたにたのめるか? 俺の家に、守りのまじないをかけてくれるか?」
 イユキアは言葉の意味を取りかねて、相手の顔をぼうっと見つめていた。レイヴァートがひとつ咳払いのような音をたて、彼を呼ぶ。
「イユキア」
「‥‥ええ、勿論」
 イユキアは背すじをのばし、ローブの衣擦れの音をさせてジノルトへ向き直った。顔に落ちる銀の髪をかきあげ、うなずく。
「勿論。お引き受けします。あなたがたがよろしければ」
「と、いうことだ、レイ。これで決まりだな」
 ジノルトはぱんと両手を合わせ、右の口元を上げてにやっと笑った。何故か少々憮然としているレイヴァートの様子にとまどいながらも、イユキアは微笑を返した。


 サーエシアを騎乗獣フィンカに乗せ、星の光の下でレイヴァートが手綱を引いた。夜の道をジノルトが先導し、ほろのかかったランプを手に足元を照らす。
 寒くないか、とレイヴァートがしきりにサーエシアにたずね、そのたびごとにサーエシアの返答がそっけなくなっていくのが少し可笑しくて、イユキアはジノルトの横を歩きながらこっそりと微笑した。
 ジノルトの住む屋敷まで、畑と果樹園をすぎて半刻ほど歩いた。ジノルトの兄のエギンと母親が出迎え、レイヴァートが事情を──サーエシアにはじめに説いたものと同じ、やわらかめな説明を──話すと、2人はこころよく頼みを受け入れた。エギンには、もっと細かい事情をジノルトが後で説明することになっている。
 サーエシアがこの家に遊びに来るのははじめてではなく、今回の逗留中にも夕食会を行う予定があったため、分厚いカーテンの奥部屋が彼女に用意されていた。冬長の間、いつも食客として迎えている剣士も姿を見せ、見知ったレイヴァートとなつかしそうなあいさつを交わした。
 ひととおり段取りをととのえ、では、と辞そうとしたイユキアの手をサーエシアが取り、彼女はイユキアへ顔を近づけて囁いた。
「気をつけて。兄は無茶なところがあるから、あなたまでそれにつきあわないでね」
 イユキアが何か答える間もなく、腕を回して1度ぎゅっと抱きしめてから、ぱっと身を離した。後ろに立つジノルトの母親が「まぁはしたない」と言うように、だが陽気に顔をしかめてサーエをたしなめはじめる。どうするべきかわからずにイユキアが立ち尽くしていると、レイヴァートにマントの後ろを引かれ、あわてて頭を下げてその場を辞した。


 ぐるりと館の周囲を回り、イユキアは一通り守りをかけた。これは結界ではない。古い円環の律のひとつで、招かれずに内へ入る者の魔呪の力を、円環の外側へ流してしまうものだ。
「円環の内に在る者へは護りを、円環の外に在る者へは安らぎを、円環のふちに在る者へは虚無を」
 つぶやいて、イユキアはひとふさ切り落とした自分の髪を土に埋めた。これに精気の残るうちは、イユキアが戻らなくとも術は術として回り続ける。今回は、2日というところだろうか。
 とにかく正体のしれぬ者を扉をあけて招き入れぬよう、ジノルトにくり返し念押しすると、彼は真面目な顔で右拳を左胸にあて、引いた右膝を沈ませて一礼した。
「この家の守りはまかせろ。俺の誓約を持ってゆけ、イユキア」
 昨日カードをしていた際にも感じたことだが、どうも大仰と言うか、立ち回りに派手なところのある男だ。くせなのだろう。イユキアが扱いに困って曖昧な微笑を返すと、ジノルトは身をおこしてポンとイユキアの肩を叩いた。
「とにかく、森のことをたのむ。森はこの国の守りだからな。レイが言っていた、森で何かがおこっているのなら、あんた以上にたよりになる者はいないと」
「──力を尽くします」
 イユキアはしっかりとうなずいた。
 ジノルトの家で熱い蜂蜜酒を飲んだが、その熱などすぐに失せ、2人は闇にも白い息を吐きながらマントの下で身をちぢめ、畑の間を抜けるあぜ道をたどった。
 歩きながら、イユキアがふとつぶやいた。
「レイヴァート」
「ん?」
 寒いので2人ともフードをかぶっている。首元を少しすくめながら、イユキアが少しおいて続けた。
「さっき。ジノルトが拒絶するとは思わなかったのですか? その‥‥術をかけられることを」
「ジノルトがお前を恐れると思ったか?」
 レイヴァートの反問はあまりにも核心をついていて、イユキアは白い吐息をついた。
「ええ」
「魔呪を使う、というだけの理由で人を嫌ったり憎んだりできる男ではない。ジノルトは昨日、お前と話した。お前がどんな人物か知っている。無闇には畏れん」
 イユキアはフードの下で眉をひそめる。
「話したのなどわずかな時間でしたよ」
 それだけでいったい何がわかると言うのだと──我知らず含んだ棘を声の裏に聞きとったのだろう、答えるレイヴァートの声はかすかに笑っていた。
「まあ、そうだがな。そういうものが大事なこともあるのだと思う。地位や外の印象だけにとらわれず、相手を見るために。ジノルトは、だからお前を信頼した。そうだろう?」
「‥‥‥」
 イユキアはじっと考えこむ目で足元を見つめながら、口を結んで歩き続ける。やがて、レイヴァートがぼそっと言った。
「ただし、手の早い男だからな。気をつけろよ」
 イユキアが当惑した顔を向けた。
「サーエ様のことですか?」
「‥‥サーエは大丈夫。つきあいも長いし、あれはちゃんと知っている」
「では問題ないでしょう」
「俺は、お前に言ってるんだが」
 溜息をついたレイヴァートをしばらく見ていたが、イユキアは歩きながらくすくす笑い出した。冗談ごとではないぞとつぶやくレイヴァートに、また笑う。
 水のない溜め池を回りこんで道を曲がった時、ふいにイユキアが手をのばしてレイヴァートのマントをつかんだ。
「レイ」
 その呼びかけに、レイヴァートは目をほそめた。イユキアは滅多にそんなふうには彼を呼ばない。
「ん?」
「‥‥ありがとう。私を‥‥黒館の者としてだけでなく扱うよう、心をくばってくれて」
 手がはなれた。
 レイヴァートは無言のまま足をとめ、向き直らせたイユキアのあごを指でもちあげると、フードの中に顔を寄せて唇を重ねた。短く、かわいた、だが優しい唇。間近に見つめる彼の瞳へイユキアが微笑を返し、2人はまた沈黙のうちに道をたどりはじめた。

【7】

 シチューの残りと黒パンで簡単な食事をすませると、レイヴァートはマントをまとい、油燭を手に立ち上がった。もう片方の手に鍵のついた金属の輪を下げている。
「地図が見たいと言っていたな。案内する」
 案内、という言葉にけげんな顔をしたが、イユキアもマントを羽織りながらレイヴァートを追った。家の中でも火のない場所はしんと冷えている。扉を4つ通りすぎた廊下のつきあたりを左へ曲がると、目の前に両開きの扉があった。
「叔父の書斎だ。‥‥あの人は本当に変わり者で」
 油燭をイユキアに渡し、5つの鍵の中から1つを選りだしながら、レイヴァートが説明した。
「俺の母の弟だが、母と彼の間には直接の血のつながりがない。親同士の連れ子だそうでな」
「では、あなたと叔父上に血のつながりはないんですね」
「そこが面倒なところで‥‥」
 鍵穴に鉄色の鍵がさしこまれた。かなり大づくりで精巧な鍵だった。
「父方の、かなり遠い親戚でもある。ないに等しいつながりだが、完全にないというわけでもない。まあ俺は、13の時に国に戻るまで叔父の存在すら知らなかったのだがな」
 慎重に鍵を回し、錠があく音を聞いてから、レイヴァートは鍵を抜いた。両開きの扉の右だけを引いてひらく。重い扉だった。
「前にも言ったと思うが、叔父は竜を探している。それで、地図も色々とあつめていた。使えるものはあらかた旅に持って行ったようだが」
 うながされるまま中へ入って、イユキアは室内を見回した。つきあたりの壁一面に大きなカーテンが吊るされていて、油燭の炎が動くたび赤灰色の布襞の間で影が揺れる。だが、目につくものはほとんどそれだけだった。壁に並べられた棚はほぼ空で、手でひろげたほどの長さがある書き物机の上にも、何もない。まっすぐな背もたれのついた椅子は机にぴたりと寄せられたまま長く誰かが座った気配はなく、室内には、冷えたほこりっぽい静寂が満ちていた。
 本は1冊も見当たらない。それどころか、地図のような紙も巻物も見当たらない。イユキアは油燭を手にレイヴァートを見やった。
「本のたぐいは人に預けたらしい。誰かはわからんが。高価なものだし、手入れも必要だからな」
 レイヴァートは部屋を横切ると、壁全体を覆うカーテンのはじに立ち、布裏に手をさしこんだ。ガサガサさぐっていたが、目当ての紐をつかんで下へたぐる。カーテンの裏、中段あたりに等間隔で布の輪が縫いつけられ、輪の中に紐が通してある。紐は天井近くの鉤に掛けられてから輪に通されているため、レイヴァートが紐を引くにつれ、カーテンは襞を寄せながら右上に吊り上げられた。徐々に壁があらわになっていく。
 イユキアは、息を呑むように立ちすくんでいる。完全に引ききった紐を柱の鉤に巻いて留め、移動して左のカーテンも同様に引き上げながら、レイヴァートがその姿を見てちらりと笑った。
「さすがにこれは持っていけなかったらしい」
 カーテンの下にある白漆喰の壁全体に、巨大な地図が描かれていた。上下はレイヴァートの背丈ほど、左右はその倍はある。陸に丸く食い入ったルキ湾。その港町であるクーホリアから北西にのびた街道は、弓型に折れてからアシュトス・キナースの王城へ至る。王城の腹をつつむようにひろがる巨大な森の中を細い道が北の峰へと向かい、その道から早くにわかれる分岐の1本が、黒館へと続いていた。レイヴァートがたどり慣れた道。
 アシュトス・キナース全体は北東にやや長く傾いた形で、東には湾と海をのぞみ、北西は森と峰に守られている。北はサグナの大河が三つ又に分かれるつけ根に湿地が横たわり、わずかに下流に下った地には大きな商業都市であるベッツェンの円形の城壁が描きこまれていた。さらに北にのぼれば、国境の先にはギュイエルの国。
 西は、集落が多い丘陵地帯を回り込んだ細い道がいくつもからみあい、その間に森と湖がちらばっている。王の街道は西南西に向かって岩がちの斜面を抜け、谷の口の大門をくぐって、隣国イヴァンジールとの国境いへ通じていた。
 地図は、アシュトス・キナースの全土と周囲の国々をその形の中におさめていた。きわめて詳細に。おどろいて見つめるイユキアの手からレイヴァートが油燭を取り、視線の先を照らしてやった。
「これで足りるか?」
「あなたの叔父上は‥‥本当に変わった方にちがいない。どうして壁に、こんなものを‥‥」
「紙に描くには大きすぎるだろう。あちこちから地図を集めて描かせたらしい。他国のことはよくは知らんが、アシュトス・キナースの地図は正確だ。保証する。イヴァンシュールとの国境いの形は少し違うし、新しくできた道は描かれていないがな」
 イユキアは1歩下がってまじまじと地図を眺めていたが、我に返ると、視線で自分たちの今いる場所を探した。彩色も美しい地図につよく惹かれていたが、いつまでも呑まれているわけにはいかない。
 王城から南西、やや西より、細い丘陵地帯と森に囲まれた村を探し出した。この館までは描きこまれていないが、森と村がはっきりと見てとれる。イユキアは注意深く壁の表面にふれないようにしながら、黒館が接する巨大な森とこの森との距離を指で測った。次に港町クーホリアを示す。それから、王城の北にある古い神殿都市ザルウェントを見て、彼はじっと考えこんだ。
 レイヴァートは黙って見ている。
 やがて、イユキアは地図を見つめたままつぶやいた。
「レイヴァート。彼らはあの森で、血を使い、封じ地への道をひらこうとしているのだと思います。おそらく、あの森には〈杭〉がある」
「杭?」
「大きな術の焦点として地脈に打たれる、小さな術律のことです。いくつかの杭でひとつの術律を組み上げる。使われ方はさまざまで、時には何かを封じたり、強すぎる地脈を分断して術の焦点を合わせたりもします」
 イユキアは指先で王城を示した。
「王城を焦点とした巨大な術律の一部。それが、あの森にある。私はそう思います。キルシはそれを探すためにあの森にいるのです」
「いったい、どんな術だ?」
「わかりません。王城を焦点とするならば守りの技かとも思いはしますが、この術はあまりに古く、あまりに深く沈みすぎている。‥‥多分、この地にはこうして術を保つための〈杭〉が何本もある。あるいは、あった‥‥」
 イユキアの指先がすべっていくつかの森と神殿を規則的な動きで指した。
 レイヴァートは手をのばし、イユキアが示した森のひとつを指先で叩く。
「ここの森はもうない。イヴァンジールとの戦争で焼かれた。5年前」
「ええ。杭のすべてが残っているとは思いません」
「それでも術は続くものか?」
「‥‥そうですね。多分。完全な形ではなくとも」
 レイヴァートはイユキアを見つめた。森での会話を思い出していた。このアシュトス・キナースには大きな術律が仕掛けられていると、イユキアは言った。黒館もまたその一部であり、黒館に仕掛けられた魔呪の生きた焦点として、黒館は「主」を必要とするのだと。
「この術律には、黒館も関わっているのだな。お前が森で話していたように」
 イユキアは地図を見つめたままだった。
「おそらく。位置は、正しいように思える。ですが‥‥」
 溜息をつき、首を振った。
「わかりません。私には‥‥わからない、レイヴァート」
 しばらく黙った。どこかうつろなまなざしで炎の照らす地図の色だけを追っていたが、やがて、視線を動かさずにつぶやく。
「私は、前から不思議でした。そもそものはじまり、何故この地が森と森の民へ結びつき、黒館というものをつくり出し、今でもその主を必要とし続けているのか。何故、森に溜まった様々なものを黒館の主が祓うのか。‥‥何故、あれほど多くの力があの森に溜まるのか──」
 低い声だった。レイヴァートはひどく不安定な響きをそこに聞く。床にランプを置き、彼はイユキアの背中から腕を回して引きよせた。
 イユキアがレイヴァートの首すじに頭をもたせかけ、長い溜息を吐き出した。
「キルシがその答えを持っているのだとすれば‥‥」
 声が途切れる。レイヴァートは自分のマントで2人の体を包んだ。背後から耳元に囁く。
「イユキア。とにかく、この森で今何がおこっているのか考えよう。明日、どうするかを。ほかのことに気持ちをそらすな」
「‥‥‥」
「森で、お前は〈血の道〉と言ったな。それは何だ?」
「‥‥その前に、ひとつ、聞いてもいいですか」
 レイヴァートがうなずくと、イユキアは腕の中で体を回してレイヴァートの顔を見つめた。
「ハサギットがあなたに言った言葉です。彼はあなたに向かって〈罪償の血〉と言った。どういう意味ですか?」
「サーエの病をな、この地方では竜の罪償と言う。蔑視する言葉だからお前の耳に入ったことはないだろう。ふつう、人前で使われる言葉ではない」
「竜?」
「ああ」
 イユキアの顔に落ちる髪を丁寧に指先で払いながら、レイヴァートは説明を続けた。
「あれの病は、まれにこの地方に出るものだが、竜の血のためだという言い伝えがあるのだ。我々の祖先が竜を裏切り、竜を殺した時に血を浴びた。そのとき人の中に竜の血がまじり、時として彼らの血を濃く継ぐ者は、サーエのような病となって陽光から遠ざけられるのだと言う。それは、罪の代償なのだと。だからあの病の者を出した家系を、罪人の系につらなる者として、罪償の血と呼ぶ。ハサギットは、俺のことを嘲ったのだよ」
「‥‥彼らは、その罪償の血をほしがっているようでしたが」
「ハサギットの復讐だろう。俺の血が特別だとは思えん」
 イユキアを見つめ、レイヴァートが小さく喉の奥で笑った。
「それとも、本当に竜の血を引いているとでも言う気か、お前も?」
「いいえ」
 イユキアは見つめ返したままゆっくりと首を振った。
「ですが、彼らは本気でそう思っているのかもしれません。あなたの血に何かの意味があると。‥‥彼らは、あなたの血を使って、森の封じ地へ入る道をひらくつもりだったのだと思います」
「目的は?〈杭〉か?」
「おそらく。はっきりとはわかりませんが」
 床に置かれた油燭の炎がゆれる。地図にうつりこむ2人の影が大きくゆらぎ、地図を這う何かの生き物のようにも見えた。
「冬長は、森がもっとも静かになる時です。人で言えば深く眠っている状態に近い。いつもより力の脈が探しやすく、いつもより少ない力から干渉を受けます。おそらくあの魔呪師は森の脈をさぐりながら血を使って術を張り、森の一部を不安定に活性化していたのだと思います。冬長だからできたことです」
「冬長に森へ入るなといましめられているのは、そのためか」
「ええ。冬長には、森が異なる顔を見せることがある。あの村人は狩りで血を流したことによって、不安定になった森に血の道をひらき、森の歪みのひとつへ迷いこんでしまったんです。おそらく、あの魔呪師が掛けた術の近くにいたがゆえの不運でしょう。しかし、そもそも彼らは冬長に森で狩りをするべきではなかった」
 低い声は物憂げで、底にひやりとするような厳しさを含んでいた。レイヴァートは寄せた体にイユキアのぬくもりを感じながらふと、イユキアが「黒館の主」でなければ彼は何と言うのだろうと思う。彼の怒りが村人のためなのか森のためなのか、レイヴァートにはよくわからなかった。イユキアを抱きながら、独り言のようにつぶやく。
「リーセルの母親は早いうちに亡くなり、父親がリーセルを1人で育てた。頭のいい子でな、宿長の話だと、父親はどうにかしてリーセルを学舎にやって学ばせたがっていたそうだ。その金を工面しようとしていた」
「‥‥‥」
「あれほど大きな狼であれば、毛皮が高く売れると思ったのだろう」
 溜息をつき、レイヴァートは強くイユキアを抱きしめてから、身を離した。油燭を拾い上げ、
「リーセルが今日、ああまで必死だったのは、父が自分のために冬長の森へ入ったと知っていたからだ。‥‥勿論、人は掟を破るべきではないが、カルザノにはほかに方法が見つからなかったのだろう」
 イユキアは無言だった。もういいか、とたずねるとうなずいたので、レイヴァートは両方のカーテンをおろして地図を覆う。合わせ目をしっかりと重ねて地図を完全に隠してから、イユキアを振り向いた。
「彼らを探し出す方法はあるか?」
「ええ。小屋で手に入れた形代の破片が使えると思います。とにかく、明日」
 イユキアは静謐な瞳をレイヴァートへ向けたまま、うなずく。疲れた表情をしていた。書斎を出るとレイヴァートが扉の鍵をとじるまでイユキアはそこで待っていたが、鍵の回る冷えた音に重ねるように「おやすみなさい」とつぶやいて、しのびやかな足音がレイヴァートから離れていった。


 血の海。なにもかもが赤く、あたりはぼんやりとした赤い光につつまれている。見渡すかぎりの血。手も足もぬるついて、まるで動けない。
 誰の血だろう、と思った。自分の血だろうか。こんなに血が出ては死んでしまう。だが、痛みも傷も感じなかった。
 ああ──夢か。どこかうつろな自分の一部が考える。変な夢だ‥‥
 かぽ、と目の前に泡が浮いた。小さな泡が盛り上がり、膜がぱちんとはじける。わずかな波紋だけ残して消えた。またひとつ。今度はもう少し大きい。またひとつ。ボコリと、子供の頭ほどもある泡が浮き、ぬめぬめと表面から血を流しながら揺れていたが、音をたててはじけた。耳が痛くなる。
 またひとつ。ボコリと。
 今度浮いてきたのは、泡ではなかった。顔だ。それが血の中から浮き上がり、体中から血をあふれさせながら、目の前に男の姿が立ち上がった。
「リーセル‥‥」
 名を呼ばれ、リーセルは呆然と血まみれの男を見つめた。じわじわと凍るような恐怖が足元からのぼってくる。かすれた声で呻いた。
「‥‥父さん」
「たすけてくれ‥‥」
 カルザノは1歩、リーセルへ歩み寄った。腰まで血に浸かり、動くたびにもったりと深紅の波が揺れた。ふいにリーセルは、濃密な血の臭いが自分をつつんでいるのを感じる。鼻や口、目や耳など、至るところの穴から自分の内側へ血臭がしみこんでくる。体の内がぬめぬめとしたもので満たされて、吐きそうになる。
 ──これは、父さんの血だ‥‥
 カルザノの口からまた血があふれだした。信じられないほど大量の血を吐き出し、目から血の涙を流し、父親はリーセルにすがった。
「たすけてくれ‥‥おねがいだ、たすけてくれ‥‥」
「父さん──」
「‥‥たすけてくれ‥‥」
 リーセルの体も血に濡れる。父親の重みをささえようとしたが、どうにもならない。ずるずると父親の体がくずれおち、血の中に沈んだ。
「殺してくれ‥‥!」
 言葉の最後は絶叫になり、大量の血塊を吐きながらカルザノは血の中で叫び続けた。リーセルは沈んでいく父親を見ながら体を動かそうとしたが、ガタガタとふるえているだけで指1本動かせなかった。
「殺してくれ」
 その囁きは右の耳元からした。すぐそばに誰かがいる。恐ろしくてふりむけない。父親が血に沈んでいくのを見ながら、リーセルは息を喉でつまらせた。
 赤い液面の下に父親が沈み、次の瞬間、白い骨が浮き上がってきた。血の下で何かがリーセルの足をつかむ。固く細い骨の指が痛いほどに食いこんできた。骨が血をしたたらせながらゆっくりを顔をあげる。
「殺して──」
 リーセルは絶叫した。次の瞬間、血の中へ引きずりこまれていた。

【8】

 扉はかすかなきしみを上げてひらいた。
 夜明けを待つ空は、どこか青みを帯びた闇をたたえている。氷の粒をまいたような星のかがやきも、真夜中よりかすかに淡い。
 暗闇に歩み出そうとした時、背後から声がした。
「早いな」
「‥‥起きてましたか」
 イユキアはあまり驚かずにふりむいた。廊下の奥の暗闇からあらわれたレイヴァートがイユキアへ歩みよりながら、少し不機嫌そうな様子で言う。
「眠っていたが」
 こんな場合だというのに、寝起きの反応が少しおかしくなって、イユキアは微笑した。
「起こして、すみません」
「いや」
 一息で言って、レイヴァートは手にしていたマントを羽織る。彼が、何かあった時のために外装備をまとって眠っていたのがわかった。用心深さにあらためて感心しながら、イユキアは未明の空気の中へ歩み出す。思わず体がすくむほどに空気はしんと冴えていた。冷気にじかにふれる顔や指に、痛みに近いひりひりした感覚がはしった。
 ──雪は、まだふらないだろうか。
 そんなことを考えて身をすくめながら歩いていると、レイヴァートの足音がすぐに追いついた。
「彼らを探すつもりだろう?」
「そうです」
 イユキアは門に続く道を歩いていく。自分が門にかけた護りの技との干渉をさけるため、門の外で追跡の術を立てるつもりだった。
「‥‥本当は、あなたにあまり見せたくないんです。気持ちのいいものではありませんよ」
 つぶやいた。だから、1人で行おうと思っていた。
 レイヴァートの返事は相変わらずむっつりと、平坦だった。
「それは俺が決めることだ」
 前を向いたまま、イユキアは苦笑した。こういうところはじつに扱いづらい。
「私の希望は無視ですか?」
「守りが必要だろう、お前も。術を使えば消耗するし、周囲に気を配れなくなる」
 レイヴァートは息で右手をあたためながら、かすかにくぐもった声で言った。イユキアはふっと吐息をつく。
 それは、事実だ。術はどんなものであれ凄まじいまでの精神の集中を要する。それをごく自然に一瞬で行うよう、使い手はくり返しくり返し鍛練されるが、それでもやはり無防備な瞬間というのは生じる。
 それはわかっているが──と、やはり気が向かずに黙っていると、レイヴァートがちらっと視線を向けた。
「イユキア。これは、戦いだ。感情に流されて背中を無防備にするな」
 その言葉が含むきびしい響きに、イユキアは目を見ひらいた。足取りがゆるんでレイヴァートから1歩遅れる。すぐに追いつき、小さな声で言った。
「すみません。あなたが正しい」
「いや」
 門柵の前で立ち止まってレイヴァートは鎖をほどき、横棒の閂を外した。門をあけようと手をかけたところで彼は動きをとめ、ふうと息を吐き出し、背すじをのばしてイユキアへ向き直った。
 イユキアが不思議そうに見つめ返す。レイヴァートは何か言おうとしたが、結局言わずにもう1度息をつき、顔を近づけて唇を重ねた。かるい愛撫を残して、顔を離す。とまどったまま、イユキアがまばたいた。
「‥‥レイヴァート?」
「せめて俺の剣が及ぶ範囲だけでも、お前を守らせてくれ」
 レイヴァートは真剣な表情で囁いた。イユキアは少し目を見ひらく。口元で息が白くくもったが、言葉はなかった。
 レイヴァートが門柵に向き直って、門をひらいた。イユキアは無言のままレイヴァートの後ろを小さくうつむいて歩いた。
 門から少し離れたところで径から外れ、一番近い木の下へ歩み寄った。葉の落ちた枝を水平にのばしたミズキの下の地面を軽くならし、イユキアは木を背にして座ると足を組んで趺坐した。背すじをのばし、左右の手を膝に置く。レイヴァートは少しだけ離れた場所に、片膝を立てた姿勢で座ってイユキアの様子を見ていた。
 イユキアは目をとじる。心を集中させ、同時に体の力を抜いた。呼吸を継ぐごとに感覚が体を離れて大きくひろがり、レイヴァートの存在が意識のうちにはっきり入ってくる。レイヴァートの息も気配もおだやかに抑制され、見事に無駄なく周囲にとけこんでいた。それは、彼のたたずまいとよく似ている。その気配に強くふれて、より強く感じてみたいと心が動いたが、イユキアは己を制してさらに気配をひろげた。遠く、薄く、地脈に沿って大きく探ってゆく。
 次の瞬間──ひきつけられるように見つけていた。ブナの枝にとまった鳥の気配。
 イユキアは右手を上げ、口元を覆うように手の甲を丸くあてがった。数度に分け、ゆっくりと手の中に息を吹きこむ。唇は無音の詠唱をきざみ続けていた。
(空の目、天の翼、夜の使者──)
 ひらいた手の中から、鳥の形をした白い影が飛び立った。
 目をとじたまま鳥の影に意識の焦点をあわせ、木々の間を飛ばせていく。ブナの枝の下を通り抜けた瞬間、バサッと翼の音が闇にひびき、影にするどい爪がくいこむのを感じた。
 白い影は霧のように散り、自分に襲いかかった鳥の内側へ入りこむ。とらえた。鳥の心臓の律動をすくいあげ、自分の意識の焦点を一瞬でそこに移動させた。獰猛に血を求める小さな獣の心。翼がはばたきをはじめ、イユキアは飛翔感にひきずられそうになる。鳥と言えども魂は魂だ、それ自体の生命の熱さでもってイユキアの意志をはじきとばそうとする。
 浸みこませていくように、ゆっくりと己の波動を合わせた。強すぎず、弱すぎもしない引力をたもちながら、イユキアは目をあけた。鏡のように闇をたたえた夜空を見上げる。昨日から新たな水薬をさしていない目は半ば金の色にもどり、深い琥珀のかがやきの中に無限の闇がうつりこんでいた。
 近づく羽音を追ってレイヴァートが顔を回した。星の光をさえぎって、翼が舞い降りてくる。それは1羽のフクロウだった。波状の模様が黒く入った灰色の翼をひろげたままイユキアの前へおりたち、丸く黄色い目を油断なくきょろきょろと動かしながら、イユキアを見上げた。
 イユキアは短剣を引き抜き、左袖をまくりあげて腕の内側に刃をすべらせた。血が珠になって染み出してくる。短剣を置き、右手でフクロウの首根をつかんだ。鳥はわずかに羽根を動かしたが、抵抗せず、手で首を後ろに引かれるとくちばしをあけて頭を上げた。
 くちばしの上へ、イユキアが己の血を滴らせる。小さな声で言葉をとなえていた。血がくちばしをつたって口へ入りこんでいくのを確かめながら、たっぷりと時間をとった。
 手を離すと腕の傷をぬぐい、強く抑えて血止めをしてから袖を戻した。フクロウを見つめる。小さな体の中にイユキアの血が染み渡り、イユキアの感覚がひろがってゆく。世界が2重写しにぶれたように見え、鳥の視界が重なった。
 はっきりとらえたと確信すると、イユキアは手をのばして鳥を両手でつかみ、膝の上に引き寄せた。鉤爪がイユキアの膝をつかむ。鳥は従順にイユキアを見上げていた。
 イユキアはちらっとレイヴァートへ視線を流した。
「目を借りるために、片方の眼球を取ります」
 低い声にレイヴァートは少し眉を上げたが、何も言わずに見つめたままだった。警告した意味があるのかどうかよくわからないまま、とにかく彼の存在をいったん意識の外側にしめだすと、イユキアは右手の指を鳥の左目にあてた。眼窩にゆっくりと指を沈め、黄色い瞳の眼球をえぐり取る。鳥とつながった自分の感覚に、にぶい痛みと異様な指の感触が逆流した。目の奥に何かが入りこみ、ぐるりとまさぐって、えぐる。イユキアの呼吸がふるえた。
 鳥は、左の眼窩から血をあふれさせながら、ほとんど動かなかった。イユキアは血どめの葉の粉末を血のあふれる穴に押しこめ、細い針で左まぶたをとじつけた。
 マントの内側から手のひらにのるほどの土の像を取り出す。動物の形をした像には無数のひび割れがはしっている。形に、レイヴァートは見覚えがあった。キルシが使っていた獣だ。
 像は、小屋で拾い集めた破片をイユキアが元の形に継ぎ直したものだった。それに気付いたレイヴァートが感心した表情になる。イユキアは像を自分の前へ無造作に置き、古い言葉で獣の像へ呼びかけはじめた。
「獣の形をしたものよ、血のふちから呼び醒まされし虚ろな魂の器よ、己の主を思い出せ。己にふれた主の手を、主の指を、己に息を吹きこんだ主の血を、主の言葉を思い出せ。主の呼び声をきけ」
 像がカタカタとふるえはじめる。イユキアが3度目の詠唱をはじめるとギチギチと破片がきしみをあげ、内側からふくらんだかと思うと、粉々にはじけとんだ。破片ひとつ見えないほど、こまかな粉となって霧のように漂う。その霧は獣の形をしていた。曖昧な色の尾を引きながら、影は疾風のように走り出す。
 フクロウが翼をひろげ、地面から飛び立つ。するどい片目を獣の影に据え、追うものと追われるものはともに凄まじい早さで闇の向こうへと消えていった。


 イユキアは座した姿勢をくずさず、左手に鳥の眼球をつかんだまま目をとじている。集中している気配はそのままだったが、呼吸がのび、肩のこわばりがとけた。唇がゆっくりと動く。小さな声が自分への言葉だったので、レイヴァートは驚いた。
「‥‥レイヴァート。何故ハサギットの左腕を斬ったのです?」
 目はとじたままだ。レイヴァートはイユキアの横顔を見ながら淡々と答えた。
「王の前で彼が剣を抜いたから、剣を持つ腕を斬った。彼は左利きだったからな」
「近衛、だったのでしょう。あなたと同じ」
「前の王のな。当代の王に従うをよしとしなかった者のひとりだ。王はそれらの者を容赦なく遠ざけた‥‥ハサギットは、王に剣を向ける気はなかったのだと思うが、王の前で剣を抜いた。俺にはそれを許すことはできなかった」
「‥‥‥」
 イユキアの口元で息が曇った。ややあって、
「‥‥彼と、そばにいるあのキルシという魔呪使い、あの2人はおそらく〈剣〉と〈杖〉です。互いに誓約を結んでいる。〈剣〉と〈杖〉を知っていますか?」
「ああ。昔、会ったことがある」
 レイヴァートはイユキアの集中を必要以上に乱さぬよう、低い声で答える。〈杖〉と〈剣〉はそれで一対であり、魔呪を使う者とそれを守護する誓約を立てた者のことだ。特に戦いの場において、術の使い手──〈杖〉は、精神集中によって自らは無防備となる。それを武術にすぐれた〈剣〉が守る、そういうものだと彼は聞いていた。かつては多くいたらしいが、魔呪師が戦場で戦うことのほとんどない今、誓約の存在はあまり知られていない。レイヴァートにも深い知識はなかった。
 イユキアの声はしんとした響きをおびていた。
「キルシの技には、闇の匂いがする。彼の技は、外道の技だ。ああした黒魔呪の使い手を己の〈杖〉とし、相手の〈剣〉となって絆を結ぶということは、いずれ魂を喰われるということを意味します」
「そうか」
 夜の果てがうっすらと光のようなものを帯びはじめ、藍を溶いたような色が空に流れはじめる。レイヴァートはその空を見上げていたが、ぼそりとつぶやいた。
「腕を取り戻すためか」
「‥‥所詮、死者の腕。まやかしですよ」
 そのまやかしのために魂を闇に売った男のことを、イユキアがはたして哀れんでいるのかどうか、目をとじた横顔からは読みとることができなかった。それきり言葉はなく、イユキアはふたたび術の内に没頭し、レイヴァートは沈黙の内に己の心をさぐる。だが、自分の中にも哀れみを見出すことはできなかった。ただ遠く、虚しい思いがあるだけだった。


 鳥の目は疾走する獣の影を追い、鳥の翼は強くはばたいて闇の森を抜けてゆく。遠ざかるごとにか細くなってゆく鳥とのつながりを保つため、イユキアは左手に握った鳥の眼球に意識の焦点を合わせた。右の眼球と左の眼球、互いに対となって共鳴するその響きを追う。
 森はまるで眼前に次々とひらいていくようだった。その中を迷いなく抜ける。鳥の視界は形の焦点がぼんやりと曖昧で、しかも左半分の眼球が失われて視野が大きく削られていたが、先をゆく獣の動きだけは炎のように浮かび上がる。
 獣の形はどんどんと薄らぎはじめていた。そもそも、術の名残りを呼び起こしたにすぎない。1度は失った形をイユキアに無理矢理呼び出され、今やその名残りすら尽きようとしていた。だが、最後のかけらだけが、術者のもとへとひた走る。
(──やはり、獣だ)
 イユキアは淡い微笑を唇に含む。キルシはおそらくは傀儡の技を使う。それも、獣の扱いを得手とするのだろう、獣の形代を使って技をくくっている。イユキアが小屋で手に入れたのは、彼が小屋を隠す結界を張るときに使った形代の破片だ。
 はっきりとした「形」を持つだけに獣の技は力が強く、人を傷つけることに高い能力を持つ。イユキアが真っ向勝負の戦いをキルシに挑めば、キルシの方が強いだろう。
 だが獣には獣の本性があり、それは長所でもあれば短所ともなる。帰巣の本能もそのひとつだ。イユキアがあやつるまでもなく、獣の名残りは己を失いながら最後の本能でキルシのもとへ走っていく。
 ほとんど体が失せ、冬長の静謐な森にとけて消えながらも。獣は走りつづけ、最後の1歩は土に吸われるようにとけた。鳥は翼をゆるめて枝の間を上昇し、獣がたどろうとしていた道を追って、さらに木々の奥へと分け入る。イユキアは鳥の視界に焦点を合わせた。眼球を媒介にしているので、視界はきくが、音は聞こえない。
 朽木の上を横切った。鳥の気配が弱くなっているのをはっきりと感じる。血止めはしたが眼の傷は大きく、しかも限界をこえる速度で飛ばせたため、消耗も激しい。イユキアは意識を強く集中させ、鳥の視界にうつる森を見据えた。鳥の命が尽きる前に決定的な何かを見つけたかった。
 翼にぶつかる小枝に体勢をくずした。斜めの視界に、何かがうつりこんだのが見える。近い枝に身を休めさせ、イユキアはうっすらと見えてくるものに意識をこらした。
 色はまったく見えない、濃淡だけの視界だったが、地面にひろがるものがどろりとした血溜まりだということはわかった。その中にちらばる手、足、獣のはらわたのようにやわらかにちぎれた何か──そして、地面に、描かれた、あれは──
 ぐらりと視界が崩れた。鳥の体が枝から落ちたのだと気がついたが、イユキアは動くことができなかった。意識を鳥から引きはがすことができない。完全に、とらわれていた。自分の体も動かない。手の中で鳥の眼球が熱をおびるのを感じた。自分のものではない他者の力に、鳥との絆を強引に奪いとられていた。
 鳥の体を誰かが拾い上げる。残った右目の視界に、薄い笑みをうかべたキルシの姿がうつった。鳥の目を通じて、まっすぐにイユキアをのぞきこんでくる。イユキアは必死にあらがおうとしたが、神経を灼かれるような苦痛がギリギリと身にくいいるばかりで、意識の焦点を保っていられない。全身の力をふりしぼっても何の手ごたえも感じられない。
 キルシの右手に長い針が光るのが見えた。腕が振り上げられる。
 視界が完全に闇にとざされた。右目に深々と金属がつきたつ。衝撃と苦痛が精神と肉体の両方を貫き、イユキアは絶叫した。‥‥しようとした。


 イユキアの唇からかすかな音がこぼれた。小さな、だが、ただならない苦鳴。レイヴァートははじかれたように立ち上がった。
 術中の術者にふれてはならない鉄則は知っていたが、迷いなく寄り、イユキアを腕に抱く。腕の中でイユキアの体がはじけるようにのけぞった。
 眼球を持っていた左手を強く握りしめ、指の間から血を流して、イユキアは激しく痙攣する。噛んだ歯のあいだからきしむような呻きをこぼし、身を引き攣らせた。目はとじたままだ。顔を覆おうと両手があがった。
 イユキアを体で支え、レイヴァートは後ろから回した両手でイユキアの手首をつかむ。目をえぐるのではないかと心配したのだ。実際、はげしく震える指先がまぶたをまさぐろうとしたが、レイヴァートは右手でイユキアの両手首をひとまとめにし、自分の左手を下にすべりこませてイユキアの目を覆った。
「イユキア」
 耳元で強く名を呼ぶ。のけぞったイユキアの首すじから汗の匂いがするどくたちのぼっていた。ひらいた口から荒い息を吐き出し、喉を引き攣らせて息を吸う。体を、数度の痙攣が抜けた。
 両腕がだらりと落ち、イユキアの体からぐったりと力が抜けた。
 レイヴァートは耳をよせてイユキアの呼吸をたしかめ、目を覆う手を外す。囁いた。
「イユキア」
「‥‥レイ?」
 ひどくか細く、かすれきっていたが、とにかく声を聞いたことに安堵して、レイヴァートはイユキアの顔をのぞきこんだ。イユキアは焦点のあわない金色の瞳でぼんやりとレイヴァートを見上げ、荒い息でうつろに呻いた。
「レイ?」
 まるではぐれた子供が呼ぶような、たよりない声だった。レイヴァートはイユキアを左腕に支えて右手でイユキアの頬にふれ、唇からひとすじ落ちる血を親指に拭った。唇を噛んだのだ。
「俺だ。大丈夫か? 俺が見えるか? ‥‥イユキア」
 返事がない。レイヴァートは顔を傾け、荒い呼吸にひらいた唇に唇でふれた。血の味のくちづけに、イユキアが体をふるわせて何かを呻いた。頬に手をあてて、レイヴァートはもう1度くちづけ、名前を呼ぶ。
「イユキア。‥‥イユキア」
 イユキアが、のろのろと持ち上げた右手でレイヴァートのマントをつかんだ。まばたきをくりかえす目にゆっくりと光が戻ってきたが、まだレイヴァートを見てはいなかった。
 汗がにじみだす額から髪を払ってやりながら、レイヴァートはおだやかな声でイユキアを呼び続ける。やっと何度目かで、イユキアがレイヴァートを見つめた。名を呼ぶように唇が動いたが、声は出ない。起き上がろうと弱々しくもがく体をレイヴァートが抱きおこし、木にもたれて座らせた。レイヴァートの左手の甲にかきむしったような掻き傷が走っているのを見て、イユキアが溜息をついて自分の両手を見た。声は弱かった。
「‥‥すみません」
「何でもない。それより、お前は平気か」
「ええ。獣の扱いはあちらが1枚上手だっただけです」
 そうつぶやいて、イユキアは左の手のひらを見た。鳥の眼球は完全に形を失い、どろりとした血塊となって手のひらにつぶれている。レイヴァートが手布でそれを拭った。
 イユキアは立ち上がろうとする。
「場所はわかりました。行きましょう」
「イユキア」
 レイヴァートが肩に手を置いて、その動きをとめた。イユキアがまっすぐに彼を見上げる。その目はほとんど完全な金の色を取り戻していた。
「キルシは何かしようとしています。獣の血を使って、道をひらく気かもしれません。森も杭も、彼の好きにさせるわけにはいかない。私は──行かなくては」
 けわしい表情を見ていたが、レイヴァートはうなずいた。自分のマントを取ってイユキアの肩にかける。
「わかった。お前はここで休んでいろ。騎乗の準備をしてくる」
 顔をよせ、じっと顔をのぞきこんだ。
「いいか、勝手にどこにも行くなよ」
 念を押されて、イユキアは力のない苦笑を返した。
「大丈夫。おとなしく待っています。だから、急いで下さい」
「ああ」
 もう1度気づかわしげな視線を投げ、レイヴァートは身を翻して早足で去った。
 イユキアはレイヴァートのマントを体の前でかきあわせ、冷えきった体をちぢめる。木に背中を預けて目をとじた。まだ右目の奥に針が残っているような痛みがある。
 完全に目をやられたと思った。それどころか、あの次の刹那、キルシは鳥の心臓を貫いた筈だった。イユキアの心臓をめがけて。
 自分がどうやってそれを逃れたのか、イユキアにはわからなかった。さすがにキルシは獣の扱いが巧みだ。鳥の形を彼の術の中に一瞬でとらえられていた。あの瞬間、イユキアにはまるで逃げ道が見つからなかった。
 ‥‥レイヴァートか、と思う。彼が──彼の存在が、イユキアを引き戻したのだろうか。キルシの呪縛の向こうから。
 すべての神経が灼けるような激痛の中、レイヴァートが呼ぶ声を聞いたような気はした。だがあの一瞬に何がおこったのか、イユキアの記憶は苦悶に引き裂かれて曖昧だった。
 わからない。イユキアは小さな吐息をつき、それから目をあけた。
 眼前にリーセルが立っていた。少年の顔色は白茶け、唇に血の気はなく、髪は乱れ、寒さのためだけでなく全身がふるえていた。目は泣きはらして真っ赤だ。だらりと両脇に垂らした手の、指だけを鉤のように曲げていた。その手は体よりもはげしくふるえ、わなないている。
 いつのまにか夜は明け、半ばほど雲に覆われた空はぼんやりと明るい。白っぽい光がイユキアの金の瞳をはっきりと照らし出していた。獣のような目の色に、少年ははっと息を呑む。
 頬にかわいた涙の痕を見てイユキアはかすかに目をほそめたが、何も言わなかった。
 少年の腰には小振りな山刀が下がっている。ふるえる右手が山刀の柄をつかみ、また指をひらいて離し、またつかんで──リーセルは、イユキアを凝視していた。金の目の魔呪師を。
 イユキアは物憂げに目をとじ、木にもたれた。沈黙が落ちる。それきり眠ったように動かなくなった。
 やがて、絞り出すような声が聞こえた。
「父さん‥‥、を。助けて──」
 イユキアは目をあけなかった。
「それはできないと言ったら、私を殺しますか? 私を殺しに来たのでしょう、リーセル」
「‥‥父さんが──言う、から‥‥父さん‥‥」
 リーセルの体がふるえた。呪縛されてはいない、とイユキアは気配を読む。ただひたすら脅しつけられ、苦しめられて、恐怖のせいでまともな思考ができないままここまでやってきたのがわかった。夢を送られたのか。
 可哀想に。イユキアは吐息を口の中で殺す。一体彼らは、少年のまだやわらかな魂を、どれほど痛めつけたのだ? リーセルにイユキアが殺せると思ったわけはなかろうが。足止めになるとは思ったか。
 サーエシアを移しておいてよかったと思った。レイヴァートの判断は当たっていた。もしサーエシアがまだ館にいて、イユキアとレイヴァートが去った後にこれほど思いつめたリーセルがやってきたなら、何が起こったかわからない。イユキアの守りの技は、魔呪を使う者やそれにつらなる者に向けられたもので、リーセルをしりぞけることはできない。
 リーセルの呼吸だけが静かな夜明けの空気を荒く乱していた。イユキアは独り言のようにつぶやく。
「何をするにも早く決めないと、レイヴァートが戻ってきますよ。リーセル」
 少年のかすれた声がした。
「どうして‥‥目をとじているんです?」
 イユキアは目をあけたが、目蓋を伏せたまま淡く微笑した。
「あなたは、私のことが恐ろしいでしょう」
 少年は青ざめたままイユキアを見つめ、動かなかった。
 イユキアはおだやかな声で、
「恐ろしいから、殺せと言われて刃を手にしたのでしょう? 父親を救うためではなく、ただ私が怖いから、私がいなくなれば何もかも元通りになると思って」
「‥‥父さんは‥‥」
「私が死ねば、家に戻ると言いましたか」
 その声も静かで、何かを責める響きはまるでなかった。
 少年は目をしばたたいて、うろたえた蒼白な顔でイユキアを凝視した。混乱の満ちていた目にぼんやりと理性の光がともった。
 イユキアは相変わらず少年を見ないまま、顔を少し伏せて地面を見つめている。細い体をレイヴァートが残していった厚手のマントにくるみ、力なく木にもたれかかり、白んだ朝の光が照らす顔に表情はなく、その姿はひどく無力にすら見えた。
 少年の手がふるえ、山刀が鞘から半分ほど抜けた。刃が白々と陽をはねかえす。リーセルがはっきりとたじろぎ、山刀からあわてた動きで手を離した。混乱しきった目を地面とイユキアとに交互にはしらせる。
「俺、そんなこと‥‥しません。できない‥‥でも、父さん‥‥父さんが、血まみれ──で‥‥」
 膝が落ち、地面に崩れた。両手で体を支える。肩がふるえ、苦痛の声で呻いた。
「父さん‥‥」
 イユキアは物憂げに、伏せた睫毛の下からリーセルを見つめた。リーセルの手がふるえ、泣きはらして目蓋の腫れた目には涙が盛り上がり、次々と地にしたたりおちる。少年の内側から今にもあふれそうな無言の叫びを、イユキアは聞きとる。助けて、と。
 叫んでいる。声もなく。
 悪夢。イユキアへの恐怖。父親への憧憬と、その死への恐れ。だがこの少年を追いつめたものはそれだけはないと、イユキアにはわかっていた。自分のために禁を犯して森へ入り狼を追った父親を、己の手で救えない無力さ──自分自身の力のなさが、リーセルを苦しめて追いこみ、自責に心は押しつぶされそうになっている。そして、当人はそれに気付いていない。
 己の無力さは、時に何より重く、するどい。イユキアはそれをよく知っていた。
 無力なのは彼1人ではない──人それぞれに力のなさに苦しんでいるのだと、己の無力さに苦しんでいるのは彼ひとりではないのだと、そう言ってやりたかった。だがイユキアは、人にその苦しみを語る言葉を持たなかった。
 遠くで森が泣くような音がする。一瞬の風は切りつけるような冷たさで、だがイユキアは身じろぎもせずに少年の顔を見つめていた。思いつめた激情と涙でリーセルの頬は赤く熱をおび、唇は小さくふるえ続けている。
 カルザノを救うと言えば、彼を安堵させられるのはわかる。だがイユキアは、偽の希望を与えることはできなかった。キルシがもしまだカルザノを生かしているとすれば、それは術の贄として使うためでしかあるまい。ならば事によっては、自分のこの手でカルザノの命を絶たねばならない可能性すらある。術をとめ、キルシをとめるために。そして、イユキアは最後の選択をためらうつもりはなかった。
(人は、それぞれに無力だ‥‥)
 イユキアは座ったまま背すじを少しのばし、ゆっくりと少年へ語りかけた。
「私も、あなたの父親を助けたい。そのためにできる限りのことはしますが、それで充分かどうかはわかりません。だから、必ず助けるという約束はできない。わかりますか、リーセル?」
「‥‥‥」
 リーセルは顔をあげた。金の瞳と目が合った瞬間身ぶるいしたが、視線を外さず、小さくうなずいた。涙の筋が目尻から口元まで光っている。
 イユキアが続けた。
「ですが、ひとつだけ、あなたに私の誓約をゆだねましょう」
「‥‥‥」
 リーセルが大きく目を見ひらく。誓約は重い。それはただの約束ではなく、人を縛り守るべき掟となる。くわえて──少年は知らないだろうが──魔呪を使う者たちにとっての誓約は、それを口にした当人にとってさらに重く、危険なものだ。言葉を使って技を為す者たちであるがゆえに、自らの言葉に縛られる。深く、強く。
 少年と視線を結んだまま、イユキアはおだやかな口調で言葉を続けた。
「あなたの父親、カルザノ。私はカルザノを救うために己の血と命を惜しむことはありません。己の命ひとつで彼を救えるなら、救いましょう。これを我が言葉をもってあなたへ誓約する、リーセル」
「‥‥‥」
 朝の陽がイユキアの銀の髪を細く照らした。リーセルは背すじをのばして地面に座りこんだまま、一方的な誓約をさしだされたことに茫然としてイユキアを凝視している。金の瞳に対する恐怖も、魔呪を使う者への畏れも、その顔からは拭い去られていた。
 イユキアは小さくうなずいた。
「だから、もう戻りなさい。刃で誰かを傷つける前に。私は森へ行きますが、あなたは森へ入らないで下さい。人が入ると、邪魔になります」
「俺‥‥」
「戻って」
 少年のまっすぐな瞳がイユキアを見つめた。苦悶の涙は頬に残っていたが、あれほど混乱に満ちた目の奥はもう澄んでいる。見つめ返し、イユキアはうなずいた。
 無言でうなずきを返し、立ち上がったリーセルは深々と一礼した。白い息を吐きながら小走りに去っていく。イユキアは見送らずにまぶたをとじ、細い溜息を洩らした。疲労と苦痛の抜けない体を木にもたせかけ、徐々に朝の光が空気の中に浸透してゆくのを、ただ感じていた。
 しんとつめたい朝だった。マント2枚にくるまっていても、骨が凍りつきそうな気がする。マントを残していってレイヴァートは大丈夫だろうかと、らちもなく考えた。
 眠るでもなく目覚めるでもなく意識を漂わせていると、レイヴァートの腕に抱きおこされてイユキアは目をあけた。
「ほら。‥‥水を飲め」
 水筒を手渡される。かわいた喉にありがたく水を飲み、立ち上がったイユキアはレイヴァートへマントを返した。首に回したマントの留め針を留めながら、レイヴァートが心配そうにイユキアを見やる。レイヴァートは細い鎖を編みあわせた鎖胴着と手甲を身につけていた。
「どうだ、大丈夫か?」
「ええ」
 イユキアは乾燥させたサヌビキの実を取りだし、小さな粒をレイヴァートへいくつか渡すと自分も口に含んだ。焦げたような苦味が舌を刺す。一時的にではあるが、疲労感がうすれ、集中力を増す効能がある。背すじをのばし、うなずいた。
「いきましょう」
 金色の目に昂然とした意志の光を見てレイヴァートもうなずき、道に残してきた騎乗獣へと歩き出した。

【9】

 イユキアは時おり方角を指し示しながら、森に残る自分の気配を追う。あの鳥の残した気配。それをたぐろうとするたびに右目の奥が激しく痛んだが、歯を噛んでどうにか押さえつけた。幻痛のようなもので、体に直に刻まれた痛みではない──が、それだけにするどく純粋な苦痛が凝る。
「伏せろ」
 レイヴァートが囁いてイユキアにかぶさるように身を低くし、頭上の枝をやりすごした。フィンカの速度を少しゆるめ、茶色く立ち枯れた茂みが点在する斜面を降りる。ふたたび木々の間に走りこもうとしたが、イユキアの息が荒いのに気付いて背後から肩を抱いた。
「少し休む」
 イユキアの反論を封じてフィンカから飛び降り、レイヴァートは手綱を取って歩き出した。
「このまま走らせては、フィンカももたん。お前は乗っていろ」
「急がないと──」
「急いでいるから、休む。水を飲んでおけ。飲みたくなくても、口の中を湿らせろ」
 こうなるとレイヴァートに何を言っても無駄なのも、彼の方が正しいのも知っている。イユキアは言われるままに従って、水筒から水を一口含み、地面に吐き出した。寒いのに体が奇妙な汗をかいている。もう1度水を飲んだ。氷のような冷たさが喉をすべりおち、ひとつかすれた息をついた。
 レイヴァートは手綱を引いて歩きながら、目を細めて木々の間の空を見上げた。流れる雲が低い。視界に覆いかぶさるような木々の色はうすぐらく、かわいていた。
「このあたりに来たことがないからか。空気が少しちがうな」
 イユキアがまた口の中の水を吐き出し、息をついて前鞍の持ち手をつかんだ。
「いえ。彼の‥‥彼らのせいですよ。ずいぶん不安定になっている」
 冬長の、おだやかに眠る森の姿の下に、イユキアは貪欲なうごめきを感じとる。もつれ、乱れて地中の脈を外れようとうねっている、何かの息づかい。気をゆるめると、疲労した神経が呑まれそうだった。キルシにこの乱流を制することができるだろうか、と思う。道をひらくのに彼はどれほどの血を使ったのだろう? それによって何が呼び醒まされるか、彼はわかっているのだろうか? アシュトス・キナースの森の底にひそむ「飢え」を、彼は知っているのだろうか。
 ──焦っているのか。
 キルシにとって、イユキアの存在は予想外だった筈だ。イユキアの出現で何もかもを急いだか。
(あの死骸は、なぜ人目にふれるところに置いてあったのだろう‥‥?)
 頭のすみに引っ掛かっていた問いが、またイユキアの脳裏に浮上する。イユキアたちが森へ注意を向けるきっかけになった左腕のないあの死骸。あれさえ発見されなければ、森で何かがおこっていることに、イユキアは気が付かないままだったかもしれない。あの死骸があらわれなければ村人は、仲間がお狩り場から帰ってこないことをレイヴァートに告げようとはしなかっただろう。少なくとも、もうしばらくは。
 キルシは、あの死骸をもっと目にふれないところに捨てた筈だ。だが、骸は森の入り口に近いところにあり、案の定、探しにきた村人に見つけられた。それがイユキアをこの森へ引きよせた。
 ──何故‥‥
「イユキア」
 レイヴァートの声に意識を引き戻される。イユキアは方向の指示がおろそかになっていたかと慌てたが、そういうわけではないらしく、レイヴァートは手綱を引いて歩きながら言った。
「キルシにはこの森の〈杭〉を抜く力があるか?」
「‥‥わかりません。この地を〈杭〉として組まれた術律の外形すらわからないままでは。でも、術をこわしたり歪めたりするのは、組むよりはずっと簡単なことなんです」
「この森の〈杭〉が破れたら、何が起こる。王城に、何か変化があるか?」
 イユキアはじっと考え込む。しばらく獣が土を踏む音ばかりが聞こえていたが、やがてゆっくりと口をひらいた。
「たとえこの地にあるものが王城の守りの一部だったとして、すぐ何かがおこるというものではないと思います。ひずみや歪みは、どこかに生じてくるでしょうが。杭のひとつが壊れても、術全体が壊れるとは考えにくい。でもレイヴァート、そもそもキルシが何を望み、何を狙ってこの森に道をひらこうとしているのか、それも本当のところはわからない」
「ほかに何か狙いがあると?」
「そうも、思えます」
 青みをおびたもやが、木々の間を生き物のようにたゆたっている。イユキアは金の瞳でそれを見つめていた。声にはどこか不確かな響きがあった。レイヴァートはうなずき、鞍をつかんで身を騎上に引き上げると、ふたたび騎獣を走らせはじめた。


 枯れた下生えの間を這うもやを蹄で蹴散らし、行く手をふさぐ朽木を大きく回りこむ。
 すでに太陽は中天近く、2度の休憩をはさんだ彼らは森の奥深くへと入りこんでいた。イユキアが枝を見上げ、手綱をつかむレイヴァートの腕に手をかけた。レイヴァートが速度をゆるめる。
 行く手に獣が倒れていた。腹を十文字に裂かれた野犬の下の地面は血で黒々と染まっていた。そこを通りすぎてすぐ、また別の野犬の死骸を見つける。その向こうに狐らしき血まみれの骸を見て、レイヴァートが嫌悪の声でつぶやいた。
「奴らか?」
「獣の血で道をひらく気です。大量の血と死で、場をむりやり不安定にしている」
 冬の冴えた空気の中に血と獣臭がただよっていた。その奥にどろりとよどむ、奇妙な歪みをイユキアは感じとる。また別の血溜まりをさけて方向を変えながら、フィンカが喉の奥で威嚇と怯えのまじったうなりを洩らした。レイヴァートがなだめながら歩かせ、木々の間を抜けて、土がむきだしの空き地へ足を踏み入れる。
 強い気配を感じて、レイヴァートは反射的に長剣の柄に右手をかけていた。フィンカが前足をつっぱらせてとまる。
 空き地の中央に、巨大な獣の死骸が横たわっていた。黒い毛皮の獣はその巨体をバラバラにされ、黒々と地面に染みた血の痕がくっきりと模様を作り出している。レイヴァートは鞍からおり、イユキアに手を貸して地面におろした。
 レイヴァートにその場にいるよう手で示し、イユキアは獣に歩みよる。裂かれたような手足は、血に黒く描かれた大きな円環の中に、規則的な位置どりで配置されていた。円環の中は直線で複雑に分割され、やはり血で紋様が描きこまれていた。
 金の目をほそめて、紋様を観察する。今朝の記憶がぼんやりとよみがえった。キルシをこの場所まで追った。円環の外には首を落とされたフクロウの死骸も見える。イユキアが使い、キルシが殺した鳥──もっとも、キルシが殺さずとも、術が終わればイユキアがこの鳥の命を終わらせただろう。ここで、キルシはイユキアを罠にかけたのだ。
 リーセルの父親の死骸があたりにないのが幸いだった。イユキアは彼の血が道をひらくのに使われるのではないかと危惧していたが、キルシは呼び集めた獣を使ったのだ。もっとも、安堵するわけにはいかない──単に、カルザノには別の運命が用意されているということだ。意味もないのに生かしておくわけがない。
 円環の中央には、切られた熊の首が座っていた。口に黒ずんだ棒のようなものをくわえさせられている。それを見つめるイユキアの目はきびしかった。地面に血で描かれた紋様の種類は、イユキアにとって予想外のものだった。
 森に、血の道をひらくだろうことは予想していた。そこまでは。
 レイヴァートが木の幹に手綱をかけ、円紋から注意深く距離を取って回りこんだ。右手を長剣にかけ、油断なく周囲に注意をくばっている。
「どんな術かわかるか?」
「‥‥呼びかけの、円紋です。絆をつないだものを呼んでいる」
「絆?」
「骨の‥‥絆」
 それだけをつぶやき、イユキアはさだめられた足どりで円紋の境をこえて内側へ入った。急いでいたためか、それとも余力がないのか、キルシは術への守りを置いていない。いや、とイユキアはまだ痛む右目をすがめる。キルシはイユキアを仕留めたと思っているのだ。幸運だった。今ここでキルシの獣と戦うには、消耗しすぎている。
 円紋の流れをたぐりながらバラバラの手足をまたぎ、胴を回りこみ、中央の頭へ近づくと、イユキアは手をのばして熊の口がくわえている棒を取った。血に濡れている。いびつに曲がって黒ずんだ、それは骨の形をしていた。血と黒ずみの下には黄ばんだ地色が見えた。時経る前は白かったのだろう。片端はへし折れて短剣のようにとがり、逆側はこぶのようにふくらんで丸い。骨の表面はざらついて、紋様の刻みにびっしりと覆われていた。
 イユキアは、指でそれをなぞる。紋様は後から刻みこまれたものではなく、生まれた時から骨に刻まれているものだと、彼は知っていた。この骨が何の骨であるのか。
 これを絆にして、キルシは道をひらいたのだ──
 絆の、骨。
(‥‥骨)
 何故この骨が、キルシの手にある? そして何故、これを使って呼びかけを行った?
 骨は、その内側に種族としての記憶を持っている。連綿と受けつがれてきた種としての名前、種としての絆。
 イユキアの背すじにぞくりと冷たいものが這う。キルシはここで呼びかけの円紋を描き、骨を通して絆を呼んだ。何のためだ? 通常それは、何かを召喚する時に行う技だが、この骨は今や召喚することの不可能なものだった。この召喚に応えうるものは今や地上には存在しない。その筈だ。
(まさか──この森に──)
 いるのか? そんな筈はない。では、どうして。せわしなく考えをめぐらせて立ちつくすイユキアを、レイヴァートの声が呼んだ。
「イユキア。彼らはどこへ行った?」
 イユキアは手にした骨から視線を引きはがし、レイヴァートへ顔を向けて背をのばした。そう。とにかくキルシを探し出し、ハサギットを探し出さねばならない。カルザノもそこにいる筈だった。
「今から追います。‥‥道を、ひらきます」
 キルシがたどった道ならば、自分にもたどれる。手中の骨の冷えきった感触に意識を集中しながら、イユキアは場と対応する言葉を慎重にえらびはじめた。


 世界は幾重にも重なりあい、弱い干渉をくり返しながら、小さな波動が重なりあってひとつの大きな波動を生み出してゆく。共鳴し、揺らぎ、離れ、溶けあう。時という巨大な波動の内側で。
 やわらかな膜に包まれたおのおのの世界はさだまった形をもたず、さだまった位置を持たない。それは時に強く重なりあい、また離れる。水にうつった影と光が揺らいで重なりあうように。
 森の奥深くの封じ地は、そうした影が重なりあう境界の地だ。そこは森というひとつの巨大な波動が胎内にはらんだ、深みの場所。そこがこの世のものなのか、イユキアにはよくわからない。だが異界というわけでもないのはわかる。はざまであるのかもしれないし、人がふれられるようにこの世界へ重ね合わされた異界の影であるのかもしれない。
 黒館の主となり、森の民に請われるまま森の祭司となってから、イユキアは数度この深みへ足を踏み入れたが、道をひらくのはいつも森の民の手だった。森の律動に沿った方法、しかるべき暦のしかるべき時間と場所で。すべてが森の秩序の内だった。
 これは、ちがう。キルシが強引に森に引き起こした流れの歪みが森を不安定に活性化し、あちこちにはざまのような薄い境界を出現させた。カルザノとカウルが狩りの最中に迷いこんだような空間の溜まりが、森の中にあらわれては消えている状態だ。
 術をかけ、冬長の森をさぐって──キルシは「場」を探していたのだろう。弱いところ、ひずみがより集まって大きなひずみを生むところ。その場所に呼びかけの骨をたてた。
 獣の技ならばキルシの方が強い。だが骨の技、1度死んだ者たちを扱う技ならば己の方が強いと、イユキアは知っている。骨の向こうにあるのは死者の言葉であり、死者たちはイユキアにとって生者たちよりもなじみ深い相手だった。骨。死。物言わぬものたち。とまった時間。かわいた感触。熱も冷たさも持たない。
 深く、深く‥‥古い力と古い絆をたぐり、それを自分の舌を通してもう1度言葉の形に作り直し、世界に示す。
 骨の絆の向こうに、その地はある。


 イユキアは目をあけた。道がひらいたのがわかっていた。キルシがひらいたようにではない。同じ骨を使ったが、イユキアがひらいた道はキルシの道と異なる、もっとおだやかに森の流れに沿う道だった。
 ふらつきかかる体を、そばに立つレイヴァートが上腕をつかんで支えた。2人が立っていた円紋も周囲の獣の骸も、白砂に吸いこまれてなにもかも失せていた。
 ──白砂。足の下にやわらかく崩れる感触に、イユキアは呆然と立ちすくむ。白砂。周囲を見回した。樹々のように見えていた影は、すべてよじれた巨大な白い杭だった。頭上に高く、樹冠のように先端が拡がったものもあれば、剣のようにするどいものもある。丸みをおびたもの、ひらべったいもの──
 そのすべてが、骨だった。イユキアは金の目をみひらく。見わたす限り、なにもかもが骨。骨の森だ、ここは。靴底で白い砂がかわいた音をシャリッとたてる。白い砂。骨のように白い。そのすべて、足の下にひろがり見渡すかぎり大地を覆ったすべての砂が、細かく砕けた骨だった。
 生きるものの気配はなく、イユキア自身の気配と息づかいも骨の砂と骨の樹の静寂に呑みこまれ、ゆっくりと凍てつく。無限の時のひろがり、境界の存在しない巨大な虚ろが、浸みるようにイユキアの内に入りこんでくる。
「‥‥イユキア」
 耳元に囁かれ、イユキアは息をつめた。世界が反転する。何もかもが逆流し、裏返った。感覚の迷走に耐えながら、イユキアは自分をつかむ腕の感触に意識を集中させた。世界から自分を引きはがすような痛みが全身を抜ける。
 頭を振って息を吐き出すイユキアを、レイヴァートが見つめていた。表情はいつもとあまり変わらないが、目の中に心配そうな光があった。
「大丈夫か?」
「ええ。少し‥‥骨の記憶にふれてしまって」
 イユキアはうなずいて、背すじをのばした。
 レイヴァートの視線がイユキアの手元をちらりとかすめた。
「それは何の骨だ?」
「古い、とても古い獣です。今の言葉での名はない」
 イユキアはレイヴァートに合図して、獣の骸を回りこむと血の円紋の外へ歩き出した。そうか、とつぶやく声が背中に聞こえる。
(人は誰でも嘘をつく──)
 骨は失せ、森はふたたび元の姿をとりもどしていた。冬の木々の青みをおびた灰色の枝がからみあい、暗い影の中をどこまでもひろがっている。
 その影の間に、さっきまではなかった淡い道があった。木々がひらいて奥への道をつくっている──いや、木々が動いたというより、そこだけ空間が引きのばされて、その分隙間がひらいたかのように見える。視界の歪みにレイヴァートは目をほそめたが、異様な現象の境い目を見切ることはできなかった。
「これが道か」
「そうです。封じ地へと続く‥‥」
 数歩行ったところでぴたりと足をとめ、イユキアはレイヴァートを振り向いて騎士の顔をじっと見た。何か言おうとしているのを察し、レイヴァートは黙って見返している。
「レイヴァート。ひとつ、お願いがあります。この道を覚えておいて、私が戻れと言ったら必ず戻って下さい。迷わず、途中で立ちどまったりしてはいけない」
 表情の動きはほとんどなかったが、レイヴァートはイユキアの言葉の意味を正確に悟ったらしい。あっさりした口調でたずねた。
「お前を待つな、ということか」
「ええ」
「わかった」
 反論せずにうなずく。こういうところは騎士だった。命を賭ける場での決断が早く、ためらいがない。この場での主導権を握っているのがイユキアだと心得て、イユキアの判断を信頼している──だから、従うのだ。イユキアにはそれがわかった。
 イユキアがそれをたのむのは、いざと言う時にレイヴァートに迷ったりためらったりされると、自分の行動に制限が出るからだ。そのことが、互いの身をあやうくするかもしれない。それはさけたかった。
 イユキアへ1歩近づき、レイヴァートがのばした手でイユキアの頬へかるくふれた。かわいた唇を親指でかるくなぞる。
「お前に従う。だがハサギットは俺の相手だ」
「ええ。お願いします。カルザノも、この先にいる筈です」
 レイヴァートが身を傾けると、一瞬だけふたりの唇がふれた。イユキアは瞼をとじることなくレイヴァートの目を見つめる。揺らぎもよどみもない、静かな深緑色の目。心の中にざわめくものが吸いこまれるように音を失い、精神が鎮まるのを感じた。
 それきりどちらも何も言わない。木々がつくりあげた細い径を早足で進むイユキアをぴたりと追いながら、レイヴァートは鞘から長剣を抜いて柄を握りこんだ。


 道の先から明るい光がさしてくる。その光は奇妙に重く、水のようにたゆたって、赤い。イユキアの手の中で骨がぬくもりをおびた。それは奇妙な熱だった。命のぬくもりではない、もっと異なる、粘ついた感覚。
 赤い光が木々を染め、赤い影を2人の上へまだらに投げかける。蜘蛛の巣のような影と揺らぎを地面に踏みこえ、イユキアが前へ出ようとした時、レイヴァートが肩をつかんで引き戻した。すでに右手は長剣を握っている。イユキアに体をすりあわせるように前へ出て体を入れ替えるまでに一瞬、かまえた長剣はつんざくような音を響かせて斬撃を受けとめた。
 ハサギットの剣はずしりと重く、骨にまでひびく。赤い光を背にして浮き上がった黒衣の剣士を、レイヴァートは強く見据えた。ニヤリと笑ったハサギットが両手で剣を斜め上段にかまえる。
 キルシによって斬り落とされた筈の左腕が、元通りについていた。レイヴァートの目に嫌悪が浮かぶ。全身に闘気が満ち、手にした剣にすべての意識を集中させると、彼は裂帛の気合いとともに大股に踏みこんだ。
 首すじを狙って正確に叩きこまれた剣をはねあげ、ハサギットは打ち返そうとするが、レイヴァートが早い。斜めに上がった剣の角度をかえず、肘をたたむように凄まじい早さで斬りおろした。寸前にハサギットは後ろへ跳んで、剣先にはマントの肩の感触しか残らない。さらに大きく踏みこんで左から横なぎの一閃をおくりながら、レイヴァートはイユキアが背後をすりぬけていくのを感じた。見ている余裕はない。
 長くのびた剣の腹を、ハサギットが剣で叩き落とそうとする。2本の剣は互いを押し付けあいながらすべって激しい音を鳴らし、レイヴァートの剣がハサギットの剣でぐいと下へ押しこまれた。ハサギットがそのまままっすぐ突きこむが、レイヴァートは斜めに引き上げた剣で突きを流し、ふたたびのびてきた剣尖を下がりながら柄元でとめる。
 その瞬間、ハサギットが、両手持ちの剣柄から右手を放すのが見えた。レイヴァートの首すじをするどい警告がはしる。
 片手になった分だけ間合いがのびる。ほとんど予備動作なく、ハサギットが左手1本で深く突きこんだ。のびた腕をさらに深くのばす動作ではほとんど力がこもらない筈だが、その剣はおそろしく早かった。レイヴァートは右足を軸に体を回し、間一髪でかわすが、ハサギットの剣はレイヴァートのマントを突き通していた。
 ふっと笑って、ハサギットは剣を引いた。幅広の両手剣を左手1本でもてあそびながら、レイヴァートへ血ばしった目を据えて笑みを深くする。
「10年たってやっと俺を殺す気になったか、レイヴァート」
 レイヴァートは答えずに、息を体の内へ溜めた。これだけ近くで剣を交わすと、ハサギットからたちのぼる邪気がはっきりと感じとれる。それをはねのけるために強い集中と闘気の充実が必要だった。
(俺を殺せ、小僧──)
 あれは、レイヴァートが15の時。後ろ盾もなく剣技会で勝ったわけでもない15の少年を、王は近衛として己のそばに置いていた。王城は現王の即位から5年の時を経て、若い王が実権を握りつつある中、前王の方針を強く支持する者たちとの対立はとけずに緊張が続いていた。そんな中で王がレイヴァートを重用したのは、王城にゆかりのないレイヴァートが権力や血筋のしがらみを持たないがゆえだろうと、今ならレイヴァートにも理解はできるが、その時はわけもわからず、15の彼はただ王を守ろうと必死だった。
 そんな中、ハサギットが王を挑発した。それまでも時おり王の前を横切ったり、礼拝に集団で姿を見せなかったり、ささいな挑発は重ねられていた。ハサギットは前王の近衛だった。通常、王は王位とともに近衛も継承するが、今の王はそれをよしとせずすべての近衛の任を解いた。
 ハサギットは傷ついていたのだろうか? 憎んでいたのだろうか、王を──新たなる王城の主を? レイヴァートは彼の腕を斬ったことを後悔はしなかったが、しばらくは時おりハサギットのことを考えていた。あれが何のためだったのか。あの時たしかにハサギットは酔っていた。それも酒にではなく、ケドゥの水煙管に。だが王の前で考えもなく剣を抜くほどに酔っていたとは思えない。どれほど酔っても、近衛であった者が王の前で考えなしに剣を抜くことなどありえない。
 王を殺そうとしたのではない。それはレイヴァートもわかっていた。殺気もなく、距離もあった。いたってふざけた調子でハサギットは剣を抜き、誰もが息を呑んで凍りついた一瞬、レイヴァートが踏みこんでハサギットの左腕──剣の腕を、はねた。
 剣を握ったまま、ハサギットの左腕は床石に落ちた。
 血溜まりに膝をついたハサギットは汗ばんだ顔でレイヴァートを見上げ、かすれた笑いに喉を引き攣らせた。その目は真剣で、寸前までのふざけた様子などかけらもなかった。
(俺を殺せ、小僧)
 レイヴァートは王を見たが、王は無表情で何も言わずに歩き出し、ハサギットの横を抜けた。許可が出されていないと判断し、レイヴァートは刃の血をぬぐって剣を鞘におさめ、王を追った。
 ハサギットが審問のすえにアシュトス・キナースを追放されたとレイヴァートが聞いたのは、それから半月後のことだった。
 それから10年、冬長の地に亡霊のように立ち戻った男は、失ったはずの左腕に剣をかまえて笑う。目に憎悪をたぎらせて。
「お前の左腕をもらうぞ、レイヴァート‥‥」
 帰ってきたのか。そのために。

【10】

 剣の音を背後に聞きながら、イユキアは木々に囲まれた大きな泉のふちへ歩みよった。
 泉──これは泉なのかどうか、イユキアは迷う。風もなく揺らぎ続ける水面は赤黒く、見るからにどろりと粘っていた。血臭がたちのぼる泉のふちの地面は、黒く焦げたように変色していた。
 泉の中央、血の水面から白い杭状のものが空へ向かってつき出している。いびつに傾いだそれが巨大な骨なのだと、イユキアは見た瞬間に悟っていた。まるでその骨が大地をつらぬき、傷からあふれる血がそこに溜まったかのような光景だった。
 イユキアの手の中で、あの古い骨が熱をおびている。同族の──同種の骨だ。同調を感じとる。
 ドクリとイユキアの心臓が大きく脈を打つ。骨に共鳴している──させられている。
(解き放て)
(放て)
 遠い意志がこだまのようにひびく。
(まだ──生きているというのか‥‥?)
 熱い波のように打ちよせる鼓動に強く感応しそうになる己を制し、手の中の骨の共鳴も律しながら、イユキアは泉へ歩みよった。赤い水面が淡い冬の陽光をはねかえし、赤い反射光がイユキアの目の金にうつりこんでいた。
「ほう──死んではいなかったか」
 キルシが泉のふちから顔を上げて微笑した。イユキアはきびしい表情で彼を見つめる。キルシの足元には狩人のまとう毛裏の長着姿の男が崩れていた。リーセルの父、カルザノだろう。目をとじて意識はなく、身を丸めて倒れた男の左腕には、肘から先がなかった。
 ハサギットの左腕が誰の腕なのか、イユキアは悟る。予想はしていたが、リーセルの真剣な表情がちらりと脳裏をかすめた。
 カルザノの首には、キルシの短剣の薄い刃があてられていた。すでに肌には浅い傷がひらき、とがった細い刃に血がすじになってからみついていた。
 イユキアの目が強くひややかな光をおびる。妖しいほどの金のかがやきを見つめて、キルシがつぶやいた。
「成程。金の目‥‥お前、そうか、ユクォーンの者か」
「あなたは?」
 問う声はやわらかだったが、温度がなかった。
「あなたはどこで生まれ、どこでこの骨を手に入れたのです」
「言えば俺に力を貸すか? ここに何が眠っているのか、それが何の骨なのか、お前は知っているのだろう? ‥‥魔呪を使う者ならばふれたいだろう」
 キルシが遠い風のように囁く。イユキアを見つめる目は飢えていた。
「竜に‥‥」
 振られた短剣から血の珠がとび、赤い泉に呑みこまれた。ざわりとあたりの気配がざわめく。イユキアは脈動に応じる骨を握りしめた。背後で鉄と鉄のぶつかる音がする。その澄んだ響きが、レイヴァートの戦いの音が、引きこまれそうになるイユキアの意識の芯を支えた。
 イユキアはあごを引き、静謐な眸でキルシとその足元のカルザノを見つめた。
 カルザノはぴくりとも動かない。左腕を切られたのはおそらく昨夜。傷口を布で包まれ、上から紐できつく縛って血止めされている。顔は土気色で、キルシが首の傷をひらいてもあまり血は出なかった。血管が縮んでいる。このままでは遠からず死ぬ。
 イユキアは背後をちらりと見る。レイヴァートとハサギットは互いにゆずらず激しい剣をかわしていた。ハサギットの左腕がくり出す異様な力の打込みをレイヴァートが巧みに受け、流し、打ち返す。その戦いには迷いがなかった。
 キルシへ視線を戻し、イユキアはうなずいた。
「ええ。私も竜を知りたい」
 自分が手にするのも、泉の中央で地面を貫いて立つのもともに竜の骨だと、キルシに言われるまでもなくイユキアは知っていた。そして、男は正しい。魔呪を使う者ならば、誰でも竜にふれてみたい。その圧倒的な力を知りたい。知への渇望が心をうずかせる。
「ならば、力を貸せ」
 イユキアはほそめた金の目でキルシを見つめた。その目にキルシが何を見るか、自分の目がキルシに何を見せているか、彼には自信がない。ただイユキアは背中にレイヴァートの剣の音を聞いていた。
「‥‥ふたつ、条件を呑んでもらえるのなら」
「ほう?」
「レイヴァートの血を使わないこと。そしてもうひとつ」
 カルザノを指でさした。
「彼の血も」
「だめだな。覚醒には、血が要る」
 もう1度短剣を振って、刃先から滴った血が泉に呑みこまれると、キルシは舌打ちした。イユキアにもわかる。場の反応がにぶいのだ。カルザノの血をほとんど受け容れていない。このままではキルシは彼を殺す。血だけではなく生命そのものを、直接の贄とするために。
 イユキアは左腕をさし出し、手首が上になるよう腕を返して袖をたくしあげた。キルシの黒い目を見つめる。魔呪師の目──渇望、飢え。己の知らない世界を求めてしまう者の目だ。自分も同じ目をしているのだろうと、思った。そうした欲望のない者が魔呪の才を手に入れることはない。
「あなたがレイヴァートの血を欲しがったのは、彼が王城と王に絆の深い者だからでしょう、キルシ? 彼は王と王城に忠誠の誓約を立てた、王の近衛だ。森の魔呪に干渉するために、あなたはレイヴァートの血と王城との絆を使おうとした」
 キルシは言葉を発さなかったが、目の奥に揺れた一瞬の炎がイユキアの言葉を肯定していた。イユキアは右の人さし指をのばして左腕にあてる。鳥に術を使う時につけた傷が生々しい色に残る、その上を爪先でなぞりながら、キルシを見つめて囁いた。
「私の方がずっと絆は深い。王城と森をつなぐ絆である黒館と、その主の存在は、あなたも知っているでしょう」
 爪が傷の上を正確になぞった。白い肌にふたたび傷がひらき、血の珠がつらなって浮き上がる。朱のつぶを指先にすくいあげ、イユキアは右手を振った。宙をとんだ血の粒が泉に落ちる。瞬間、ドクリと巨大な脈動があたりの空間をふるわせた。それははっきりと意志を持った脈動だった。
 骨と同じように血にも記憶がある。そして、熱が。それが術律に干渉し、新たな律形をつくる。魔呪師ならばまちがえようのないざわめきが泉から沸き上がった。
 キルシが呆然とイユキアを見つめた。
「‥‥そうか。お前の力は、黒館の──」
 もう1度、深くなぞった腕から血が赤く這い出し、肌をつたって滴った。黒い土に染みて呑みこまれる。イユキアは金の瞳でまっすぐにキルシを見つめていた。
 黒館の力。その不可思議な存在に、キルシが惹きつけられているのがわかった。イユキアの血は彼が挑む術に力をもたらすだろうし、さらにイユキアを殺せば、自分こそが黒館の新たな主となって黒館の力を手に入れられるかもしれない──力を求めるキルシの心が、その好機をのがす筈がない。これは賭けだが、イユキアには確信があった。
 間はわずかだったが、イユキアと濃厚なまなざしを交わしたキルシはカルザノの首から短剣を引いた。レイヴァートの方角へあごをしゃくる。
「あの騎士は、ハサギットの獲物だぞ」
「彼らの問題は彼ら自身にまかせておけばいい。私たちには関わりがない」
 ひとすじの表情も動かさず、イユキアは答えた。
「あなたは血が必要だ。私がそれを供する。ここに眠るものを目覚めさせ、呪縛するために」
 キルシは口のはじを持ち上げた。まだ足りないだろうか。イユキアは静かに言葉を継ぐ。
「どうします。不安ですか、私の血を使うのが。不安なら私を呪縛しますか? それともそんな力も残っていませんか。道をひらくのに、あなたは随分と力を使った筈だ」
 挑まれたと感じたか、キルシはするどい眸でイユキアをにらむと、カルザノの体を振り払うように横へ押しやって立ち上がった。大股に歩みより、イユキアの腕を乱暴につかむと傷に唇をあてる。血をすすった。
(獣を使う者よ、血を使う者よ、道を外れた外道の者──)
 傷口から血が流れ出し、乱暴な圧力が逆に流れ込んでくる。骨までからめとろうとする力だ。イユキアは目をとじて呪縛される苦痛をこらえながら、背後の剣の音を聞いていた。レイヴァートが防戦一方になっているのが、ハサギットの激しい打ちこみの音でわかる。
 キルシは傷に口をつけたまま、唇を動かして呪の言葉をつむいでいた。傷から流れこむ呪縛を骨の芯に感じながら、イユキアはふと小さな微笑を口元にうかべた。外道、か。己の欲のために求道の道を踏み外した魔呪師のあさましさをそう呼ぶが、それを言うならイユキアもそうだ。罪を重ねてこの地にいる。道を外した者を外道と言うなら、己のこの身も外道だった。
 急激に全身の力が抜けて世界が遠のき、イユキアは膝から地に崩れた。剣の音が聞こえなくなる。キルシが流しこんだ魔呪が体の内側にはっきりと根を張りはじめた。顔を上げ、キルシを見上げて、彼はかすれた声で言った。
「カルザノを‥‥彼を、外へ出して下さい」
「じき死ぬ男だぞ」
「まだ救える」
 キルシが血の痕のついた唇を歪めて笑みをうかべた。目が血に酔っている。
「こんなささいな男を救いたいのか。愚かだな。お前ほどの力を持つ者が‥‥」
 体を横から蹴られ、イユキアは倒れる。支えようとたよりなくのばした手がぬるりとした水面に呑みこまれ、イユキアは血の色をした泉の淵から中へ倒れこんでいた。泉の内側には底がなく、まるで縦に掘り抜いた穴に落ちるように、イユキアの右上半身と顔がまともに血に沈んだ。口から泡がこぼれる。
 血かと思ったものは、血の形をした魔呪の流れだった。イユキアが冬至の日にセグリタに渡した「水」と同じだ。あれは水の性質を持ってはいるが、水ではなく魔呪を形として固定したものだった。血の魔呪はひやりとイユキアの体をつつみ、イユキアの生気を吸いとって深みにひきずりこもうとする。意識と体を同時に呑みこもうと──
 どうにか意識の焦点を保つイユキアの髪がつかまれ、血の中からぐいと引き上げられた。喉にキルシの短剣があてがわれる。髪と肌から血の色をしたぬめりをしたたらせながら、イユキアはキルシを見上げた。
 キルシが囁く。
「覚醒には命が必要だ。血には血を、命には命を。代償なくして息吹はない。その男を救うならば、誰の命を使う?」
 血のつたう唇で、イユキアが静かに囁き返した。
「あなたはとうに、ご存知でしょう」
 銀の髪を赤く染める血が額をつたって目に入り、視界が真っ赤に染まる。赤く。脈動する光の向こうに遠く遠く、イユキアは翼ある獣の影を見る。
(アシュトス・キナースの森に、竜などいない‥‥)
 だがそう言ってもキルシは信じまい。竜の骨で道をひらき、竜の骨が立つこの封じ地へたどりついた以上、彼はここに竜が眠ると信じる。竜の覚醒を求める。血を流し、死をまきちらして。


 ハサギットの左腕がくり出す剣撃には凄まじい力がこめられていた。魔呪でつなげた腕のためか。レイヴァートも膂力には自信があるし、王城でも腕力だのみに彼を打ちこめる相手はそうそういない。だがハサギットの剣を受け続けた手は重く痺れはじめ、剣はギザギザに刃こぼれしていた。
 まともに正面から受ければ剣が折れる。レイヴァートは自分から打ちこまず、相手の斬撃をそらすことに集中した。邪気にとらわれないよう体の内側に闘気をめぐらせ、ハサギットの動きを読む。足取り、視線。振り上げる腕の動き。人間離れした速度で打ちおろされる剣の軌跡。
 まるで軽い木剣を扱うように、ハサギットは両刃の重剣を片手で振り回す。
 かつて王城でまだ互いが騎士であった時、ハサギットと修練で打ち合ったことがあるが、レイヴァートはまったくこの男に勝てず、しばしば修練用の刃引きの剣で叩きのめされて終わった。力も、技も、かなわなかった。
 それをハサギットも思い出していたか、顔の前に剣を立てて男はちらりと笑った。息もはずませず、青白い顔に汗ひとつかいていない。
「お前は俺には1度もかなわなかった、レイヴァート。──よくもあの時、あんなふうに踏みこんでこれたものだ‥‥」
 上がりそうになる息をととのえながら、レイヴァートはハサギットの動きに油断なく目をくばる。息を大きく吐いたなら、体の中に抑えこんでいる闘気が外に出てしまう。そうすれば一気に疲労が全身にあふれてくるのがわかっていた。これをいつまで抑えておけるかわからない。腕は半ば痺れ、心臓は乱れて激しい脈を打ち、体の芯に鈍い重さが生じている。
 あの時。どうしてあんなふうに踏みこみ、ためらいなく剣を振ったのか。ハサギットにはわからないのだろうか?
(お前は、わからなかったのか──)
 かつては知っていた筈だ。いつ見失ったのか。
 気合いとともに、ハサギットがふたたび打ちこむ。追いつめられないようレイヴァートは左後方へゆるい弧を描きながら下がり、斬撃を打ちかわした。ハサギットは両腕で構えていたかと思うといきなり左腕1本で打ちこみ、レイヴァートの距離感を狂わせようとする。その剣はすべてを叩き伏せようとする荒々しい怒りに満ちて激しかったが、かつてのハサギットの剣ではなかった。騎士の剣ではない。ただ凄まじい力だけをたのみにふるう、邪気に満ちた剣だった。
 レイヴァートの額から汗がつたう。体のあちこちに浅手の傷を負っていた。痛みは軽く、行動をさまたげられるような傷ではないが、疲労のせいか、闘気が傷口から流れ出してしまうような感覚が彼を悩ませはじめていた。全身が重い。それを見てとったハサギットが歯を見せて笑った。
「お前は俺にはかなわんよ、レイヴァート。あの時のようにはな‥‥」
 振りおろされた剣をよけてレイヴァートは大きく下がり、体をひねって半身にかまえた。視界の左側にぼんやりと赤い光をとらえる。白い骨が中央からつき出た赤い泉。そのそばに、膝をついたイユキアが見えた。こちらに背を向けた姿は、血に濡れそぼっていた。
 斜めに打ちおろされた一撃を、レイヴァートは両手に構えた剣で受けとめる。まともに衝撃を受けた腕にビリビリと痺れがはしり、剣がきしむのを感じた。合わせた剣をさらに強く押しこみながら、ハサギットが唇を歪めた。
「よそ見か? 心配するな、ヤツの面倒も見ておくさ」
 レイヴァートはするどく息を吐き、剣を打ち払うと前へ踏みこんでハサギットの肩を狙う。その剣を遠くはじかれ、腕がのびて体が右に大きくひらいた。無理に体の前へ引き戻した剣には力がなく、ハサギットは余裕をもってその剣を横へ払った。レイヴァートが大きく体勢を崩す。ハサギットの顔が笑みに歪んだ。
 ハサギットが大きく踏みこみ、レイヴァートの左肩めがけて剛剣を振りおろす。それをとめようとしたレイヴァートの剣はハサギットの剣にまともにぶつかり、激しい音が鳴ってレイヴァートの手から剣が落ちた。剣身半ばで刃はまっぷたつに折れていた。
 仕留めた──と、二の剣を送ろうとしたハサギットの足がとまる。その左肩を、レイヴァートの短剣が深々とさしつらぬいていた。
 ぴたりと男に身をよせ、左手首をつかんで剣を封じたレイヴァートは、間近にハサギットの目を見つめる。剣を取り落とすところまでも計算された誘いの動きだったと、ハサギットは気付いたかどうか──以前のハサギットなら惑わされない動きだっただろうが、己の力への慢心がハサギットの目を狂わせた。よもやレイヴァートが己の剣を自ら手放したとは思っていなかったにちがいない。一瞬、動きに隙ができた。
 左手に握った短剣に力をこめ、ねじりこむと、ハサギットが苦鳴をあげた。レイヴァートは歯をくいしばり、膝裏を足で払ってハサギットの体を地へ叩きつける。短剣を抜きながらはね起き、ためらいなくハサギットの左手首を短剣で地面に貫きとめた。
 荒い息をついてハサギットの手から長剣を奪い、レイヴァートは一瞬ハサギットを見つめる。お前はわからなかったのだな、と心の中で呟いた。あの時あんなふうに踏み込めたのは、修練では負けつづけたハサギットを恐れず剣を振ったのは、自分の命よりも守るべきものがあったからだと言うことが。
(そして今も──)
 口に出しては何も言わず、レイヴァートが振りおろした剣の分厚い刃は、ハサギットの左腕を上腕から断ち切った。


 地に崩れたまま、ハサギットはうつろな眸でレイヴァートを見つめた。その口からしゃがれた笑い声が洩れはじめる。レイヴァートは大きく呼吸しながら、2つに折れた自分の剣を拾い上げた。
 イユキアの方へ心配な視線を走らせようとした時、いきなりハサギットの声が悲鳴にはねあがった。地面に倒れた体がはげしく痙攣し、火にあぶられる虫のように苦悶にのたうった。
「キルシ──」
 名を呼ぼうとひらいた口にどす黒い血があふれ、顔中にとびちる。肌はみるみると黒ずんで木の皮のようにしなび、肉がしぼんだ。見ひらいた両目から血の涙がしたたって、耳元まで赤黒いすじを引くのを、レイヴァートは凝然と見つめた。ハサギットから、何かが吸いだされていく。血。生命。
 絶望的な呻きを最後に、ハサギットの声が途切れた。枯れ尽くしたような体だけが数秒動きつづけていたが、それも静かになる。男は死んでいた。

【11】

 イユキアは膝をついたままキルシを見上げた。手の中で、小さな骨が灼けるような温度で脈打つのを感じる。まるで何かの心臓が動きはじめたように。
 ハサギットの苦鳴を聞きながら、キルシは唇のはじを軽くもちあげた。
「前王の近衛。かつての王城の守り。──贄にはなるだろう」
「封じの」
 ひっそりとした言葉が血まみれのイユキアの唇からこぼれる。彼は目をとじていた。キルシが何か言おうとして──彼は凍りつく。茫然とイユキアを見おろした。
「馬鹿な──貴様‥‥」
「血はあなたのもの。骨は私のもの」
 イユキアはゆっくりととなえる。全身をキルシの呪縛がしめつけるのを感じたが、苦痛は無視できた。ぼんやりと感覚が遠くなる。そう。イユキアの血はキルシとの約束通り、この地に流れる。だがイユキアを骨まで呪縛することは、キルシにはできない。
 ──逆に、呪縛されたのは彼だ。イユキアはキルシが己にかけた呪縛の道を逆に使い、血を通して、キルシの内に魔呪を張った。
「私の血はあなたのもの。あなたの血はあなたのもの。私の骨は私のもの。あなたの骨は私のもの」
 歌うようなふし回しで詠唱し、イユキアは金の目をひらいてキルシを見上げる。キルシが何かとなえているのが見えたが、ほとんどその声は彼に聞こえなかった。体に入りこみ根を張ろうとする力を抑えつけながら、イユキアは森に満ちる声に耳を傾ける。冬長の森──眠っている筈の森が、胎内にひそむ傷を思い出したかのように苦悶の声を上げている。己を貫く骨の存在に気付いたかのように、身をよじろうとする。
 赤い水面が大きく揺れ、ざあっとしぶきを噴き上げた。自分のものではない痛みを、イユキアは感じる。キルシが目ざめさせ、顕在化した。封じられる苦痛。
 キルシが何か叫び、短剣をふりあげる。詠唱を続けるイユキアにそれを振りおろそうとした瞬間、彼の左目を剣が柄まで貫きとおしていた。折れた剣の柄元をレイヴァートが投げたのだ。キルシは剣の勢いのまま後ろへ倒れ、もがき、それでも起き上がろうとした。駆けよったレイヴァートが、短剣をさしこむように魔呪師の心臓を貫く。息がとまったことを確認し、イユキアを振り向いた。
 イユキアは詠唱をとめずに続けながら、地面に崩れたカルザノの体をさし示し、それから道を指した。息を吸いながら同時に吐き、一瞬たりとも声を途切らせずに言葉をみっしりと編みあげていく。森を寝かしつけるようにやわらかに、高低とりまぜた音色のようなひびきの言葉。眠れ、と。もう1度。遠く、遠く、何もかもを夢にして。森はとじる。冬長の眠りを取り戻して。
 ふたたび泉が鳴動した。
 レイヴァートは心配そうにイユキアを見つめたが、何も言わずカルザノの体をかつぎあげ、示されたまま、ゆらぎ出した道の向こうへ走り去った。迷わず。約束の通り。イユキアの唇が微笑を刻む。イユキアもまた、誓約を守った。リーセルに、父を守ると誓ったあの言葉を。
 道がとじてゆく。イユキアは手にした骨がうごめくのを感じた。目醒めたいのか? それとも遠い夢を見ているのか? もはや死にたえた、遠い種族の夢。その夢を体の深くに感じながら、イユキアはゆっくりと森の記憶をとじてゆく。
 大地が無数の虫のようにうごめき、やわらかに融けた。横たわるハサギットとキルシの体が沈みはじめ、まるで流砂が呑むように彼らは森へ呑みこまれていく。生命の贄として、封じの代償として。
 赤い泉も大地の内側へ消えはじめ、みるみるうちにその下の乾いた地面があらわれた。イユキアが手を入れた泉には底がなかった筈なのに、そうして姿を見せた土の底はひどく浅かった。中央から天につきたつ白い骨は、イユキアの言葉に共鳴してふるえていた。
 イユキアの詠唱は時おり2重3重のひびきをおびて、こだまを引きながらゆっくりとふくらんでいく。それはまるで歌のようだった。
 血には血を、命には命を、骨には骨を──
 巨大な骨に亀裂がはしった。網の目のようなひびが全面を覆い、ピィンと金属的な音をたてて骨は粉々に砕けた。白い砂となって一面にふりそそぐ。次から次へとふる砂が雪のように地につもり、大地をうずめ、赤く染まったイユキアの髪にからみ、肩にさらさらとつもった。
 長く続く詠唱の中、イユキアは白い骨の砂が一面にしきつめられた大地を見つめる。身の内にするどいねじれを感じた。キルシの死と妄念が彼の内側へ喰い入ろうとする。血を奪ってゆく。
(血には血を、骨には骨を)
 イユキアは右手に細い骨を握った。黄色く変色してあちこち黒ずんだ古い骨を、白砂の覆う大地へ放り投げる。骨は杭のように砂を貫いて立った。
 その瞬間、ほとんど自分の体が貫かれたような苦痛が走った。膝をついたまま、イユキアはただ詠唱を続けるしかできない。言葉を重ね、音色を重ね、そこにある何かを繭のようにくるみあげる。幾重にも。どれほどの時間がたったのか、言葉の中にすべてを見失ったが、術の核だけは離さなかった。
 最後の言葉をつむぎ終わり、のめった体は砂に倒れた。白砂の下に自分の体が沈みはじめるのを感じたが、イユキアにはもう体を引き上げる力が残っていなかった。血が流れ去り、からめとられる。ひどく眠い。まだ体の中にキルシの呪縛が残っていた。
 レイヴァートに言わなかったと、ぼんやり思った。森を抜け、カルザノをリーセルの元へつれ帰れと。彼はどうしているだろう。迷うことなくイユキアの言葉に従った。イユキアを信じ、信頼していたからだ。
 とじた道の向こうでイユキアを待っているだろうか? イユキアを、探すだろうか。
(レイ──)
 名を呼んで、目をあけ、イユキアは体にからみつく不可視の鎖を払うようにもがいた。砂は粘泥のように重く、体をはなさない。唇をうごかして音のない旋律をきざみながら、キルシが身の内に刻んだ呪縛をひとつひとつ剥がしはじめた。骨から肉をはぎとるような苦痛に頭の芯がぼやける。今にも失いそうな意識をつなぎとめ、ただ旋律に集中した。言葉をつむぐ余裕はない。
 「音」が魔呪として強い力を持ち得るということをイユキアに教えたのは、ロゼナギースが見せた技だった。呪を唱えるためだけでなく、「音」それ自体が魔呪として立ち得るのだと。音に関してロゼナギースほどの技はないが、物心つくより前から魔呪を扱うことを叩きこまれたイユキアだ。ロゼナギースの技を見てから、季節ひとつのうちにある程度の形を自分なりにつくりあげていた。
 その音にすがりながら、イユキアは最後の呪縛をはぐ。体の奥で何か砕けるような音がして、イユキアは白砂の上に倒れていた。呻いて、立ち上がろうとしたが、体はどうにも重く、イユキアはやっとのことで仰向けに身を返す。砂がきしむ音をたてた。
 視界のすみを獣の影がよぎる。倒れたまま頭をねじって顔を向けた。
 巨大な狼が数歩先に立ち、赤い目を光らせてイユキアを見つめていた。


 はじめの日に出会った狼──そしてカルザノたちが森に追った狼だ。大きさは通常の狼の2回り以上大きく、分厚い毛皮につつまれた全身はまだらな灰色で、牙を見せる口元は黒っぽい毛に覆われている。耳はぴんと立ち、太い四肢を踏みしめ、鉤爪を砂にくいこませて、イユキアを威圧的に見下ろしていた。牙が白く光る。
 たわめた後脚が砂を蹴り、ふわりと宙を駆けた。イユキアの体にドンと衝撃が走り、強く砂に押し付けられる。喉元を獣のあたたかな息が這い、首すじに牙がくいこんだ。
 イユキアは動かない。逃げようとして体力を消費せず、目をとじて、その瞬間を待っていた。殺す瞬間、相手は必ず無防備になる。その一瞬にすべてを賭けるつもりだった。彼が生き残れるかどうかはわからないが、相手を逃がしはしない。それだけを考えていた。
 狼の荒い息が肌をなぶった。濡れた感触が喉に熱い。
 数秒、どちらも動かなかった。
 やがてイユキアがつぶやいた。
「殺さないなら、どいてもらえませんか。‥‥ナルーヤ」
「‥‥‥」
 狼は奇妙に人間くさい動作で鼻を鳴らし、牙を外した。数歩下がって尾をくるりと巻き、その場に尻をおろして座る。赤い目でイユキアを見つめたまま、喉の奥で奇妙なうなり声を洩らした。それは人の声ではなかったが、イユキアには言葉としてはっきりとどいた。
「俺を殺す気だったろう」
 傲慢な声の響きはたしかに、1度顔を合わせた黒魔呪師のものだ。港町クーホリアの一画、魔呪の使い手たちがつどう小路の宗主。扉上にしめされた焼き印の形から、その道を通称「コウモリの通り」と呼び、そこに棲む呪師たちも「コウモリ」と呼ばれていた。
「あなたこそ。‥‥この森で、何をしていたのです。あの骸を村人が見つけられる場所に置いたのも、私に森の夢を送ったのも、あなたでしょう? 私を、この森へ呼ぶために」
「俺が獣足だとわかっていたのか」
 人から獣へと形を変える者、あるいは獣の内に入りこんで体を借りる者のことを、獣足や獣頭などと呼ぶ。イユキアは金の目をほそめた。髪と顔には血の残りがまだらに絡みつき、乾きはじめていた。
「あなただとは、気がつきませんでしたが。人だろうとは思っていましたよ」
「ふぅむ」
「何が目的です」
「俺が片づけるにはいささか手数がかかりそうであったのでな。お前が来るならば、その方がたやすかろうと思ってなあ、黒館の」
 イユキアの力を見ようという心持ちもあったのだろう。他者の力を見たいという好奇心は、つねに魔呪を使う者の心をとらえる。イユキアは少し黙ってから、たずねた。
「いつ気がついたのです。キルシがこの森で何をしようとしているのか」
「ずっと知っていた」
 イユキアに聞こえてくるナルーヤの声はそっとやわらかだった。
「あれは昔、コウモリのひとりであった。10年の前だ。ハサギットが腕を斬られてアシュトス・キナースを追われる時、ともに去った。俺の持っていた骨を盗んでな。いつか戻ると思っていた。戻ったら骨を取り返そうと思っていた」
 ちらりと赤い目が砂の中央を見る。キルシが道をひらくのに使った小さな骨はイユキアの手で砂につきたてられ、根元の砂の中からはじわりと赤い血が染み出しはじめていた。いずれまた、泉のように、血は深く溜まるのだろう。眠るものを眠らせたまま。
「‥‥キルシは気がつかなかったんですか。この森には、竜などいない。あなたはわかっているのでしょう?」
「ふむ。キルシはこの森に竜の骨が立てられていることを探り出したのさ。それで、竜がここにいると信じた。もともとアシュトス・キナースには、竜の骨を使って竜を封じたという言い伝えがあってな」
 獣の喉で音が鳴った。それが笑いなのかどうか、イユキアにはよくわからなかった。
「あれは、王を殺す気だった。森に眠る力を呼び覚まし、竜の力を手に入れれば、王を傷つけられると信じたのだろうな」
「竜の力」
 つぶやいて、イユキアは小さく顔をしかめる。そんなものがこの森にあるとして、キルシは本気でそれを制御できると思っていたのか。人の身で、人のものではない力を? 愚かだった。
 ナルーヤがつぶやく、
「挑んでみたくもあったのだろうよ。王は、王城の魔呪に守られて、ほかの力はとどかん‥‥」
 ふっと、狼は黙った。赤い目の奥にともる光が強まる。イユキアは倒れたまま、体の内にゆっくりと力をめぐらせ、物憂げに獣の気配をさぐった。
 ナルーヤの言葉は撫でるようにやわらかだった。
「そうか。そなたはちがうか、黒館の主。黒館の力、黒館の魔呪ならば、王を傷つけられるか?」
「‥‥‥」
 イユキアの金の目がにぶい曇りをおびる。否定しようとしたが、ナルーヤ相手に嘘をつくには彼は疲れすぎていた。沈黙で答える。
 獣の息の向こうに金属的な笑いが聞こえた。
「成程。黒館は、王城と王の喉元へつきつけられた刃のようなものだな。いつでも王を傷つけることができる。黒館はそもそも、そのために作られたのかもしれん。いざという時に王を殺すために。それを、あの騎士は知っているのか? お前が王への凶器となると?」
「‥‥‥」
「お前が言えないなら、言ってやろうか」
 イユキアは無表情に獣を見つめている。ふいにその顔がするどさをおびた。
「ご自由に。私はあなたとは取引をしない」
 獣がまた喉の奥で笑った。
「そう、かまえるな。あの男を取って喰いやしないさ。おもしろい男ではあるがな。──乗れ、道をひらいてやる」
「‥‥‥」
 背中へ長いあごをしゃくり、イユキアの前で背を低くして後ろ膝を折る。イユキアが動かずに見つめていると、牙を見せた。
「それとも道をひらくだけの力が戻るまでここにいるか? 愚か者、歩けもしないその身で意地を張って朽ちるか?」
 小さなため息をついたが、イユキアは重い体をのろのろと起こすと毛皮にすがって立ち上がり、狼の背中に体をかぶせた。毛皮はやわらかく、冷えてはいたが内側に強靱な筋肉を秘めて、イユキアを支える。うつ伏せに乗りはしたが、しがみつく力もほとんど残っていなかった。どうにか狼の首に腕を回し、交差させた手首をつかむ。それがやっとだった。
 狼はゆっくりと身をおこし、背中を揺らさないよう静かな足取りで木々の間を歩きはじめた。


 自分のマントを外してカルザノをくるみ、レイヴァートはカルザノの傷をあらためた。肘の上からすっぱりと切り落とされた左腕の傷口に、ろくな手当ての跡はなかったが、傷は汚れてもいなかったし、血もとまっていた。まだ断面はやわらかく、黒っぽくかわいた肉と白い骨が見えている。
 水袋の水で傷口を洗い、油薬を布にのばして、その布で傷を2重にくるんだ。本来ならワインで洗いたいが、酒の手持ちなどあるわけがない。
 体は冷えきっていたが、カルザノの息はゆっくりとして、おだやかだった。脈も遅いがしっかり打っている。術で眠らされているのではないかと見当をつけながら、レイヴァートは枯れ木を集めて小さな火をおこした。イユキアを待つ意味もあるが、せめてカルザノの体をあたためておきたい。獣の死骸が散った円紋の空き地が木々をすかしてのぞめる場所に火をつくると、カルザノを運んで火にあたらせた。
 男の顔は青白く、こわばったまま目をとじている。数滴の水を唇に落とすと、かすかに口が動いて飲みこんだ。レイヴァートは息をつき、男の体に均等に熱があたるように体勢を変えると、自分の体の傷をあらためた。腕にいくつか浅手がある。水で拭い、油で練った血止めの薬草をすりこんだ。熱をもっている傷はない。ハサギットは剣に毒を塗るような真似はしていなかったらしい。
 当然か。彼がほしがったのは、レイヴァートの左腕だった。毒が回っていては役に立つまい。
 白い息で手のひらをあたため、レイヴァートは木々の間から空き地を見る。イユキアが道をひらき、彼が通り抜けたはずの場所に、もはや誰かが通れるような間隙はなかった。
 短剣を鞘から抜き、血脂を丁寧に拭い落とした。長剣は封じ地に折れたまま残してきたため、腰の鞘が空なのが落ちつかない。
 レイヴァートはまたカルザノの息をたしかめ、きびしい表情で空を見上げた。白っぽい空にぼんやりと陽光の暈がかかっている。冬長の太陽は頭上に遠く、中天をはるかにすぎて傾きはじめていた。暮れる前に森を抜けるためには、そろそろ戻らねばならなかった。
「‥‥イユキア」
 呟いて、レイヴァートは立ち上がった。レイヴァートが「道」を抜けて戻ってから、森は風もないまま数度ざわめいたが、今はぴたりと静かになっていた。朝に感じた、奇妙に殺気だった気配は散らしたように失せている。いつもの冬長の森、眠るような静寂だった。
 カルザノがいなければ、イユキアを待つこともできる。だがリーセルのもとにカルザノをつれ帰らねばならない。そしてそれがイユキアの望みでもあると、レイヴァートにはよくわかっていた。
 イユキアがここへ戻った時のために何かしるしを残そう、と周囲を見回した時、ちらりと視界のすみで何かが動いた。レイヴァートはすばやく短剣を引き抜き、体を回す。
 木の幹のつらなりの間から、大きな狼が近づいてくるのが見えた。その背中に伏しているイユキアの姿に、レイヴァートは息をつめる。油断なく両足をひろげて距離と呼吸をはかった。
 レイヴァートが気付くと狼は足をとめ、赤い目でこちらを見ながら体を左右に揺らした。イユキアの体がすべりおち、まるで意識のない様子で地にころがる。レイヴァートが1歩出たと同時に獣はすばやく身を翻し、大きな後脚で思いきりよく跳躍して尾を揺らしながら木々の間へ消えていった。
 レイヴァートはイユキアへ駆けより、動かないイユキアの体を抱きおこした。イユキアの髪も顔も乾いた血が覆い、マントもローブも肩から胸元まで赤黒く染まっている。傷を探して指でふれたが、イユキアの血ではなく赤い泉の水だと悟り、レイヴァートはほっと息をついた。イユキアを腕に抱いて顔をのぞきこむ。首すじにあてた指で脈がしっかりと打っているのをたしかめ、低く呼んだ。
「イユキア。‥‥イユキア」
 イユキアがぼんやりと目をあけ、レイヴァートを見上げた。まばたきする。うつろな口調でつぶやいた。
「‥‥ごめんなさい‥‥」
 何を言っているのかわからなかったが、レイヴァートはイユキアの唇に手をあてた。
「いい。しゃべるな」
「カルザノ──は‥‥」
「大丈夫だ。お前と一緒につれて戻る」
 イユキアの体にはまるで力が入っていない。青白い顔は幽鬼のように見えた。起き上がろうと弱々しくもがくイユキアの頬をなでながら、レイヴァートは強い口調で言う。
「動くな」
 何か言いかかる唇をまた指でおさえた。
「しゃべるな。もう、いいから。黙っていろ」
 するどい、怒ったような声だった。動きをとめてレイヴァートを見上げ、イユキアが淡い微笑を見せた。それは疲れきっていたが、たしかにイユキアの微笑だった。レイヴァートは乾いてはりついた髪をイユキアの頬から丁寧にはがし、動かない体を腕の中に引きよせて抱きしめた。冷えた体を抱かれ、イユキアが吐息をついて、また何か言おうとする。レイヴァートはその顔をのぞきこみ、つめたい唇へ自分の唇を重ねて言葉を封じた。
 イユキアは目をとじ、体の力を抜いた。重ねた唇からぬくもりが体へ染み入ってくる、その流れに身をゆだねていた。レイヴァートの体温が心地いい。力を使い果たした体はこごえるように冷えきって、息のひとつごとに見えない針にさし貫かれるように全身が痛む。自分を抱くレイヴァートの腕と、重ねられた唇だけがあたたかかった。そこから流れてくるぬくもりが穏やかにひろがって、体の芯の痛みがほどけていく。あたたかな感覚に、陶酔の吐息がこぼれた。
 レイヴァートからつたわる熱を、イユキアの体はむさぼるように呑みほした。意識と体がゆっくりとあたたまり、世界が色と手ざわりを取り戻しはじめる。体からこわばりが抜け、指先までもに熱がつたわるのがわかった。
 唇が離れ、イユキアは物足りなさに溜息をつきながら、瞳をあけてレイヴァートを見あげた。レイヴァートは奇妙な表情でイユキアを見おろしている。とまどっているようだった。
 瞬間、気がついて、イユキアは言葉を失った。茫然としたまま右手を上げ、自分の顔にふれ、唇にふれる。さっきまでこごえて重かった腕はやすやすと動いた。
 レイヴァートの手を借りて起き上がる。重い疲労はあったが動作にさまたげはなく、体の芯はぼんやりとあたたかかった。
 地面にへたりこみ、イユキアはレイヴァートを見つめる。手をのばし、レイヴァートの腕にふれて、かすれた声で言った。
「大丈夫ですか? あの──あなたは‥‥」
「俺は大丈夫だが」
 レイヴァートはうなずいた。
「じゃあ、気のせいではないんだな。お前こそ大丈夫か?」
「ええ‥‥」
 言葉が続けられないイユキアを立ち上がらせると、レイヴァートはたずねた。
「この場所はもう済んだか?」
 イユキアは目をふせ、黙ったままうなずく。
「そうか」
 レイヴァートはもう1度イユキアを抱き、軽く唇を重ねた。血に汚れた銀の髪をなでる。微笑した。
「戻ろう」
 イユキアは何か言いかかったが、結局口をとじ、レイヴァートの肩に頭をのせて小さくうなずいた。


 イユキアとカルザノをフィンカの背にのせ、レイヴァートが手綱を引いて木々の間をたどった。イユキアはカルザノの体をかかえて左手で持ち手の革帯を握り、右手の指を男の首すじにあて、何かつぶやいている。時おりそれを途切らせて黙ったが、言葉は発さず、レイヴァートも何も言わなかった。
 1度だけ、レイヴァートがたずねた。
「あの狼は?」
「‥‥もう、森からは去ったかと」
 イユキアが低い声でこたえた。それ以上の言葉はない。レイヴァートがうなずき、それきり2人はまた黙った。冬長の陽は傾いて森は長い影で覆われ、空気はしんと冷えはじめる。
 途中から昨日たどった獣道に入り、村への近道を取って、太陽がまだ空にあるうちに森の入り口へたどりついた。ほっと息をついたレイヴァートは、森の入り口の茂みの横に座りこんでいる少年の姿を見つけ、立ちどまった。
「リーセル」
 少年ははじかれたように立ち上がり、騎獣へ走り寄る。イユキアがかかえた父親の姿──左腕が断たれたその姿に息を呑み、見上げたイユキアの姿にまた息を呑んだ。水で多少は拭ったが、まだ肌にも髪にも赤い血の色がこびりついている。凄絶な姿だった。
 イユキアはカルザノの体を獣の背に倒し、レイヴァートの手を借りて獣の背から降りた。少年へ向き直る。
「手当ては施しました。命には別状ありません。傷口を焼かなくても大丈夫。2日ほどで目を覚まします。その間、体をあたためて、これを湯に溶いて少しずつ飲ませて下さい。蜂蜜をまぜて」
 手渡された油紙のつつみを受け取って、リーセルはまだ言葉を失っている。レイヴァートがイユキアの肩にふれた。
「待っていろ。すぐ戻る」
 血まみれで、金の瞳で、イユキアが村人の前へ姿を見せるわけにはいかない。血に染まったマントのフードを引き上げたイユキアへ、リーセルが頭を深く下げた。
「あの‥‥ありがとうございました。すみませんでした、俺──」
 右手の指をあげて、イユキアはリーセルの言葉をとめる。無言でうなずき、少年の肩に手でかるくふれた。
 レイヴァートは眉を上げたが何も言わず、騎上に伏せた男の体を動かさないよう気をつけながら、鞍にのぼった。カルザノの体をかかえ、イユキアに小さくうなずいてから、ゆっくりと獣を走らせはじめる。リーセルはもう1度イユキアに頭を下げ、ぱっと身を翻してフィンカを追った。

【12】

 言葉通り、レイヴァートはカルザノを宿長に引き渡してすぐにイユキアを迎えに戻った。カルザノの左傷についてはくわしくはふれないまま、狼に食われたということで片をつけるよう、それとなく忠告を残す。魔呪師に腕を取られたとなれば、悪い噂がたつ。生き残った以上、彼は片腕でこの村で生きていかねばならない。
 宿長は忠告を受け入れるだろう。森で実際に何があったのか、彼が知りたがっているとは思えなかった。ただ森の出来事にこれ以上わずらわされずにすむことにほっとしていた。
 イユキアをフィンカの鞍に押し上げ、後ろににまたがってレイヴァートが手綱をとる。2人ともに無言だったが、鞍上で互いによりかかるように体をよせていた。
 夕暮れの中を館へ戻り、レイヴァートは鍵をあけてイユキアとともに中へ歩み入った。窓をすべて板と布で封じてあるために中は暗い。油燭をともして居間に入り、レイヴァートは暖炉に火をおこしはじめた。
 細い焚き付けに火をうつし、燃え残りの燻り木をのせて火を充分大きくしてから、薪をのせていく。火かき棒で火の位置をうごかしながら、レイヴァートが言った。
「リーセルと何か約束したのか。‥‥誓約か?」
 とがめるような口調ではなかったが、火の方を向いた彼がどんな表情をしているのか、床に座りこんで身を丸めたイユキアからは見えなかった。
「彼が、何か言いましたか」
「それについては、何も。ただ何度もお前に礼を言っていた」
「そうですか。彼は‥‥彼らは、どうなります?」
 火を動かす手をとめ、レイヴァートは少しのあいだ考えこんでいた。
「お狩り場に入ったことを不問にするわけにはいかないだろう。だが、カルザノはすでに報いを受けたように、俺には思える。機会をとらえて、陛下にそう申し上げるつもりだ」
 イユキアは小さくうなずき、かかえた膝にあごをうずめて黙りこんだ。大きくはぜる音がして、火の中で木が半ばから割れた。細かい火炎が巻き上がり、炎がいっそう大きくなる。レイヴァートは火炎の色を見つめていたが、つぶやいた。
「父親をつれ帰ると? そう約束したか」
「‥‥それは私と彼との、話です」
「確かにな」
 うなずき、吐息をついてレイヴァートは立ち上がった。イユキアの頭にポンと手を置く。
「火にあたってろ。台所で湯を沸かしてくる」
「レイヴァート。私はあなたに話がある──」
「後で聞く。とにかく、血を洗おう」
 血がかたまった銀の髪に指でふれ、レイヴァートは部屋から出ていった。イユキアは言われた通りに火の前にうずくまる。冷えきった体には炎の熱がひどく強烈に感じられる。肌がじりじりとあぶられるような時間がすぎると、やっと体の内側にその熱がとどきはじめた。イユキアは汚れたマントを脱いでたたみ、引きよせた膝に頬をのせる。ぼんやりと炎を見つめた。
 赤く踊る火炎と影を見ていたら、うつらうつらしてしまっていたらしい。肩にレイヴァートの手が置かれ、ゆすられて、イユキアは目をさました。まだぼんやりしたまま台所につれていかれる。
「本当なら風呂の方がいいんだがな。ちょっと手間がかかるから、こっちで」
 レイヴァートはそんなことを言いながら、台所の石の床に沐浴用の大きな平桶を据え、大鍋に沸かした湯を手桶に汲んで水でうすめた。火をおこしたかまどに近いので、その熱気であたたかい。
 ぼうっと立っているイユキアを見た。
「服を着たまま湯浴みするか?」
「‥‥あ」
 まばたきして、イユキアはたじろいだ。レイヴァートがちらっと目に笑みをはしらせ、
「大丈夫だ。見慣れてる」
「‥‥‥」
 イユキアは怒ったように表情を消して目を伏せ、それでも言われた通りに服に手をかけて脱ぎはじめた。たいがいこんな顔の時は、どうしていいかわからない時だと知っているので、レイヴァートは気にしなかった。服を受け取って椅子の背にかけ、裸になったイユキアを平桶の中にしゃがませると、手桶でぬるま湯をかけた。ざっと埃を洗い流してから、石鹸を手にしてイユキアの髪を洗いはじめる。血がこびりついた細い髪に指をくぐらせて泡を丁寧にすべらせた。
 自分でやる、とイユキアが小さな抵抗を見せるが、レイヴァートは意に介さなかった。髪から汚れを落とすと、今度は湯でしぼった布を手にして首から肌を拭っていく。
 イユキアの左腕、その内側には傷が赤く残っていた。血はとまっている。レイヴァートは湯を流してそっと傷を洗った。
「痛くないか」
 イユキアが無言でうなずく。
「ほかに傷はないか? どこか、痛むところは?」
 イユキアは首を振った。髪に泡をつけたまま、すっかり抵抗はあきらめた様子で桶の中に座りこみ、レイヴァートにされるがままになっている。そうやってふれられ、洗われるのが心地よさそうでもあった。
 胸元から腹部へ布がすべると、たじろいだ表情で背後のレイヴァートを見上げたが、レイヴァートは布を持つ手を脚の内側へすべりこませた。内腿を布でなでる。囁いた。
「ここ、まだ痛むだろう」
「‥‥少し」
 騎乗に慣れないイユキアの内腿は軽くすれて赤くなっている。イユキアを見つめながら、レイヴァートは布を置き、ゆっくりと脚をなでた。手のひらを這わせ、張りの残っている筋肉をほぐしながら指先で揉む。巧みな指の動きに筋肉の緊張がほどけ、イユキアが溜息をついた。目をとじる。
 ふいにレイヴァートが強くイユキアを引き寄せ、背後からきつく抱きしめた。両腕を回して濡れた肌を抱き、首すじに唇をつける。石鹸を香りづけたラベンダーの香りがした。泡のまじった白いしずくが、イユキアの髪からレイヴァートの頬をつたっていく。
「‥‥あなたが濡れる」
 イユキアがかすれた声でつぶやいた。
「どうせ、俺も後で洗う。だがお前が風邪を引くな」
 笑って体を離し、レイヴァートはイユキアの上から湯を数回流して泡を洗い落とした。かわいた布を頭からかぶせて拭いてやる。そのままひょいと体ごとすくいあげ、抵抗を無視して居間まで運ぶと、火の前にイユキアをおろした。
「何か飲むか?」
 着替えのローブをまといながら、イユキアは首を振る。レイヴァートは火の前にソファを寄せた。
「あたたまって休んでいろ。俺は、サーエの様子を見てくる。あっちで何か食うものをもらってきた方が早そうだしな。腹も空いた」
 ソファに座らせたイユキアに毛布を渡した。ぼんやりとしているイユキアのあごを指ですくい、金の目をまっすぐにのぞきこむ。
「大丈夫か? 聞こえてるな?」
「平気です。少し、ぼうっとして‥‥」
「休め」
 額にくちづけ、レイヴァートは火の横へ戻った。火かき棒を手にして火をととのえはじめる。イユキアはソファにかけられた大きな鹿皮の上で体を丸め、毛布に顔までもぐって目をとじた。


 どんなふうに眠りにおちたのか、まったく覚えていない。いつも魔呪を使った後に残る体の奥のこごえもなく、何も考えず、何の夢もなく、悪夢も声もなく、ただ眠っていた。それはひどく深い、静かな眠りだった。
「‥‥イユキア」
 肩に手を置かれ、イユキアは目をあけた。レイヴァートがのぞきこんでいる。イユキアが起きたのを見て、唇にかるくくちづけた。心地よさに目をとじて眠りに戻りそうになったイユキアの髪を、指で引く。
「寝るな。食事だ。昨日、ほとんど食ってないだろう」
「‥‥昨日?」
 少し不満げな呻きを喉の奥で洩らし、イユキアは起き上がった。部屋の窓は覆われて外の光も闇も見えず、光といえばテーブルの油燭と暖炉の炎だけだ。そしてイユキアは、いつもなら持っている時間の感覚を完全に失っていた。
「ああ。じき夜が明ける。よく眠っていたな。とにかく1度起きて腹に何か入れろ。調子は?」
 レイヴァートは部屋着に着替え、目の詰まった毛織りのシャツの上に毛糸で編んだガウンを羽織っている。あまり見たことのない格好にイユキアは小さく目をみはったが、ひとまず言われた通りに起き上がった。もつれた髪を指で梳きながら、手の下であくびを殺す。イユキアは普段、あまり眠らない。これほど長い時間眠ったのがいつ以来か思いだせないが、まだ眠かった。体は少し気怠いが、重苦しい疲弊感は自分でもおどろくほどきれいに消えていた。
 レイヴァートは毛布をどかしてイユキアの横に腰をおろし、前の床へ食事をのせた盆を置いた。
「乳粥をもらってきた。食べやすいしな」
 わざわざあたため直したのだろう、小さな木の椀が2つならんで湯気をたてている。その横に干しイチジクと水のグラスもあった。片方の椀と木のスプーンを取ってレイヴァートが食べはじめる。少しためらったが、言われてみればたしかに空腹を感じて、イユキアも椀を手にした。
 つぶした木の実を山羊乳と水で煮た粥に、干し青菜と魚の燻製を刻んだものが入っている。塩味の奥にかすかな甘味のついた粥は舌を焼くほど熱い。
 口元でさましながら、レイヴァートが言った。
「サーエに会って、大体説明してきた。‥‥お前を巻きこむなと、怒られた」
 丁度口に粥を入れていたイユキアがむせかかった。レイヴァートが水のグラスを取ってやる。受け取ってどうにか咳をおさめ、イユキアはため息をついた。
「巻きこまれたのは、あなたですよ」
「そうか? まあ、お互い巻きこまれたようなものだな。とにかくお前がいてくれてよかった、イユキア」
「‥‥‥」
 小さく微笑して、イユキアはまた食べはじめる。粥を食べ終わると、レイヴァートに渡された干しイチジクを素直に口に入れて噛んだ。ねっとりとした甘さが口の中にひろがっていく。時間をかけて食べた。
 簡単な食事を終えて片づけてから、イユキアはレイヴァートの傷をあらためた。レイヴァートは面倒そうだったが、とりあえずイユキアに従う。本人の言葉どおり浅手で、問題がない傷だとイユキアが確認してから、ひととおりの治療を施してやっとそれも片づいた。
 弱まっていた炎の中にブナの薪を放りこみ、レイヴァートは新しい火をかきたてた。火の前に置いてあたためておいた壺からワインを杯に注ぐ。蜂蜜で甘くしたワインを飲みながらのんびりとしていると、イユキアがつぶやいた。
「すみませんでした」
「──何をあやまる?」
 レイヴァートはけげんそうに左横のイユキアを見るが、イユキアは炎の色を見ていた。まばゆい赤にかがやく炎は大きく揺らぎながら時おり黄色い粉のような光を散らす。イユキアの目はその色をうつして、さらに深い金の光を溜めていた。
「森で。‥‥気がついたでしょう。あなたの‥‥生気を奪った」
 レイヴァートはワインを一口飲んだ。
「あれは、そういうことなのか」
「‥‥そうです」
 うつむいたイユキアの声は消えるように小さかった。森で自分にふれたレイヴァートのあたたかさを思いだす。自分の中へ流れこんできた、何とも言えないあのぬくもりの感覚も。
 ワインの杯をつかむ指に力がこもり、赤い酒の表面が小さくふるえた。
「あんなことを‥‥してはいけなかった。するべきではない、まちがったことです」
「お前が意図したわけではないだろう。どっちにしても、俺はかまわん。お前がそれで少しでも癒えるならな」
 本当に何とも思っていないような声だった。イユキアは長い溜息を吐き出す。
「あなたはわかっていない。もっと用心するべきです。ひとつ踏み外せば‥‥大変なことになる」
 レイヴァートはそれには何も言わず、ワインを飲みながらイユキアを見つめていたが、おだやかにたずねた。
「イユキア。俺はこれまで、ふれただけで生気を奪うような、そしてそれが術者を癒すような術を聞いたことがない。それに、お前は何の言葉もとなえなかったし、何かの術をかけようとしていたわけでもない。こういうことがあるものなのか?」
 イユキアはワインを見つめたまま考えこみ、やがて、ゆっくりと口をひらいた。
「‥‥ないことでは、ないのだと、思います。あまり表には出しませんが。誓約で絆を結んだ相手から、魔呪師がそんなふうに生気を分け与えられる、ということはあります」
「そうか。それが〈杖〉と〈剣〉か?」
 レイヴァートが目をほそめた。
「彼らは誓約によって結ばれている。誓約には、その絆も含まれているんだな?」
「そう‥‥必ずしもそうではありませんが、たいてい、その筈です。魔呪を使うと消耗する。特に、人を傷つけるような力を放つ者の消耗は大きい。そうして力の弱った魔呪師を守り、時に生気を分け与える。それが〈杖〉と〈剣〉の関係です。かつて、魔呪師が傭兵のように戦いの場で己を売っていた時代につくり出された誓約で、そのころは大勢の〈杖〉と〈剣〉がいたそうですが」
「キルシとハサギットはその絆を結んでいたな」
 その声は静かだった。イユキアはうつむいたままうなずく。炎の燃える音にも消されそうなほど小さく、つぶやいた。
「‥‥見たでしょう。ハサギットが最後、どうなったか。キルシは絆を使い、ハサギットの命までもを吸い取った。ああいうことすら、おこりうるんです」
「お前が、俺を?」
 はっきりと笑いがにじんでいるのを聞きとって、思わず顔をあげたイユキアがレイヴァートをきっとにらんだ。
「笑いごとじゃありませんよ」
「笑ってない‥‥悪かった、悪かった」
 左手をのばし、イユキアの肩へ回してなだめるように叩く。そのまま指でイユキアの肩に乱れた銀の髪をいじりながら、レイヴァートはかたい表情のイユキアの横顔を見た。
「しかし、お前と俺の間に誓約はないだろう」
「‥‥ええ」
「じゃあどうして、あれが起こった?」
「それは──多分」
 イユキアはそこで黙った。何か小さな声でつぶやいたようでもある。レイヴァートが聞き返しても微妙な表情のまま黙りこんで、言おうか言うまいか明らかに迷っていた。レイヴァートはそれを眺めてワインを飲んでいたが、飲み干した杯を手の中でもてあそびながら、不意にたずねた。
「俺がお前と寝ているからか?」
「‥‥‥」
 イユキアは火を見つめたまま顔を動かさなかったが、炎がてらす頬に赤みがのぼった。少し不機嫌そうに唇を結んでいる。困らせると、彼は大抵そんな顔をする。レイヴァートはイユキアの右頬に唇をあて、まだうつむいている顔を間近に見つめ、囁いた。
「それとも、俺がお前を愛しているからか?」
「レイヴァート──」
 それ以上言わせずに唇をふさいだ。ゆっくりとイユキアの唇に残るワインを味わい、舌で唇の内側をなぞる。イユキアが呻いた。ひらいた口の中へ舌をしのばせ、あたたかな口腔をやわらかになぶって、深くイユキアのくちづけを求めた。拒むように身を引こうとしながらも、イユキアは求めに応じて唇をひらき、レイヴァートを受け入れる舌は情熱的だった。
 息をついて体を離し、レイヴァートはイユキアの手からワインを取ると自分の空杯とまとめて床の盆に戻した。イユキアの肩をつかんで自分に向かせ、ふたたび強い唇を重ねる。背に腕を回して抱きしめ、イユキアをソファに倒し、肘掛けに頭を押しつけながらむさぼるように唇を奪いつづけた。イユキアが呻きながらレイヴァートの体に腕を回し、背中へ夢中な手を這わせる。長いくちづけが濡れた音をたて、2人の間でよじれた服が衣擦れにきしんだ。
 乱れた息をつき、レイヴァートはイユキアを見おろす。イユキアの頬をなで、濡れた唇を親指でなぞった。
「あの一刻だけでもお前の〈剣〉になれて、俺は光栄だ、イユキア。それだけでいい」
「‥‥レイヴァート」
 イユキアは陶酔したような金の目でレイヴァートを見上げて、名をつぶやく。くちづけに酔った──どこか甘えた目。レイヴァートは体の深いところがドキリと熱い脈を打つのを感じていた。一瞬に、ほとんど追いつめられるほど。
「イユキア」
 囁く声が抑えきれずにかすれた。
「‥‥お前が欲しい」
 イユキアが何か言おうと濡れた唇をひらいたが、吐息にふるえただけで言葉はなく、ただレイヴァートを見上げていた。金の瞳の奥にはげしい光がゆらいだ。
 イユキアの腕がレイヴァートの首にからみ、引きよせた。自分から唇を合わせ、口をひらいてレイヴァートを求める。指がレイヴァートの髪をまさぐり、レイヴァートの顔を強く自分へ押しつけた。レイヴァートはさらに激しくくちづけを与えると、濡れた唇でイユキアの首すじを愛撫しながら、服を脱がせはじめた。

【13】

 ──わかっていない。
 多分。
(あれがはじめてではない‥‥)
 レイヴァートは覚えていないだろう。イユキア自身、今回のことがあってやっと思いあたったことだ。あれがどういうことだったのか、あの時、何がおこっていたのか。
 こうして体を重ねるより以前、ただ黒館の主と王城の騎士としての関わりを保っていた時、レイヴァートはやはりイユキアにふれ、イユキアを癒した。あれが何であったのか──イユキアはあの時、気付くことができなかった。あまりにも予想外のことだった。
(レイヴァートは気付いていない‥‥)
 あの時、何の絆が彼らをつないだ? 何故──あんなことがおこったのか。わからない。レイヴァート以上に、イユキアには理由がわからなかった。誰かとそんな絆を結んだこともない。レイヴァートとは、尚更。
 ──彼は、王城のものだ。
 レイヴァートが、ソファにかかっていた毛皮を暖炉の前に引きおろした。その上に横たえられながら、イユキアは炎が濃く影をつけたレイヴァートの姿を見上げた。服を取り去ったレイヴァートの右半身が炎にはっきりと照らされ、左半身には濃い影が踊っていた。息をつくたびに、きたえられた胸の筋肉が大きく動く。レイヴァートの息はかすかに荒く、首すじのはりつめた線が息のたびに揺れた。
 深緑の目が炎をうつして光る。自分を見おろす目に、イユキアは飢えた情熱を見る。まっすぐにイユキアだけを求めてくる目だ。見つめられると、くちづけを受けた時のように体の芯が甘くしびれた。飢えと乾きがあまりにもはげしく呼びさまされて、心がきしむようだった。
(どうして──)
 レイヴァートの指が頬から銀の髪を払い、ゆっくりと身をかぶせて唇を重ねた。肌が重なる感覚にイユキアはぞくりと息をつめる。それだけで我を失ってしまいそうだった。
 頬から首すじへと唇を這わせながら、ふっとレイヴァートが笑いをこぼす。息が耳元にかかり、イユキアが身をふるわせた。レイヴァートは顔を上げ、微笑を含んでイユキアを見つめた。
「いや。この冬で1年になるかと思ってな。はじめてお前を抱いてから。‥‥冬の終わりだった。覚えているか?」
「‥‥忘れませんよ」
 イユキアはうるんだ声で囁き返した。忘れないだろう。あんなふうに身が灼けるような思いをしたのは、はじめてのことだった。ほかの誰かと身を重ねたことがないではなかったが、レイヴァートに抱かれてイユキアははじめて人と肌を合わせる幸福を知った。‥‥そして、快楽も。
 額から頬へ、そしてあごへ指でなでおろしながら、レイヴァートは思い出す口調でつぶやく。
「はじめて会ったのは‥‥夏か。あの時、何て淋しそうな顔をしているのかと思った‥‥」
 あごを指先でなでられ、イユキアの睫毛がふるえた。人さし指の背が唇をなぞると、素直に口をあけてレイヴァートの指を口に含む。酔ったような表情のまま、丁寧な舌を指へからめて、レイヴァートを見上げた。どこか淫靡な表情と仕種に、レイヴァートが長い溜息を吐き出す。
 指が動き、イユキアはさらに入ってきた指を強く吸いあげた。いつも剣の手入れをしている手には、かすかに鉄と油と皮の匂いがする。その香りが唾液とともに口の中にひろがった。レイヴァートがいつも漂わせている匂いだ。
 口の中をさぐる指へ、執拗に舌の愛撫を続けた。イユキアの息が荒くなる。自分の行為に感じていた。瞳が潤むのを見おろして、レイヴァートが愛しそうに目をほそめた。
「はじめのうち、お前はまるで、俺を嫌っているようだったし。随分と用心したものだったな」
 イユキアは少し目を見ひらいたが、何も言わずに──言えずに──吐息をこぼしてレイヴァートの指をかるく噛んだ。小さな反論。レイヴァートが微笑して指を抜き、濡れた指の背でイユキアの頬をなでる。そのままゆっくりと、首すじ、肩、腕、胸元と手のひらをなじませるように肌へ這わせると、イユキアが呻いた。重ねた体にレイヴァートの昂ぶりがはっきりと押し付けられ、自分のそれもまたレイヴァートの体に押しつけられている。炎に照らされたためだけでなく、互いの体は熱かった。
 レイヴァートが首すじから肩へ舌を這わせ、鎖骨のくぼみを舌先で執拗になぞった。イユキアは呻いてレイヴァートの背へ腕を回す。炎に熱せられた空気は2人が動くたびに揺らぎ、冷気が汗ばんだ肌をひやりとなでた。
「レイ‥‥」
 名を呼んで、イユキアは首をのけぞらせる。胸元をすべったレイヴァートの唇が乳首を含み、執拗に舌先でこねあげた。甘い痺れが全身にひろがる。軽く歯を立てて引かれると、イユキアは頭を左右に振ってレイヴァートの肩を強くつかんだ。
「駄目──、あっ‥‥」
 今からささいな抵抗も願いも受け入れられるわけがない。それにイユキア自身、そんなことを望んでもいなかった。レイヴァートの愛撫は強さを増し、もう一方の乳首をたっぷりと口に含みながら右手でイユキアの脚を割り、そそりたつ楔を握りこむ。
「んあっ」
 息をつめたが、甘い声がイユキアの唇からこぼれた。レイヴァートの手で数回しごかれると、楔は先端からにじむ先走りの滴で濡れていく。体のすべての感覚がそこと、レイヴァートの含む乳首にあつまっていくような気がした。両方に生じる快感が体の奥で入り混じり、交錯して、もっと強いうねりを生む。楔の先端にゆるく爪をたてられて、イユキアは悲鳴をあげて腰をよじった。
「やっ、ああ‥‥、くっ‥‥」
 するりと手が離れ、レイヴァートが身をおこした。愛撫をねだるようにイユキアの腰が浮く。その膝をつかんで両手で左右にひろげ、動きを抑えこみながら、レイヴァートは炎が照らすイユキアの姿をじっと見つめた。細い体は、にじむ汗とレイヴァートの唾液に光り、赤い陰影に照らされて、のけぞった首もとに残したばかりの愛撫の痕が見えた。
 骨がもともと細く、腕も脚も華奢で、尻も痩せている。肘や膝の関節ははっきりと骨張った形を見せていた。ただ細いというより、どこか脆そうな、その肢体にはまるでまだ少年の体のようなところがあった。愛撫を散らした胸元が荒い息のたびに大きくふくらむ。
 見られているだけの状態が続き、羞恥の声を洩らしたイユキアが膝をたて、脚をとじようとする。膝頭にあてた手でその動きを易々と封じ、さらに大きくひらかせて、レイヴァートはじっくりと眺めた。どうにも愛しく、扇情的な姿だった。上気した肌にはつよい陰影が落ち、イユキアが身じろぐたびに影がゆらぐ。脚のつけ根の淡い茂みからそそりたつものはたしかに男のもので、硬くはりつめた形が炎に照らされている。視線で感じたのか、先端からまたとろりと滴があふれた。
「や‥‥」
 イユキアが頭を横に倒して呻く。感じている声だった。顔にもつれた髪がおちる。
 膝をつかんだまま親指で膝頭の内側をなぞると、イユキアがまた悶えた。
「レイ‥‥っ!」
 レイヴァートの唇が笑みを刻んだ。溺れはじめている。快感に我を失いかかる、そのぎりぎりの姿がどうしようもなくそそった。ゆっくりと身をかぶせ、背中に腕を回してイユキアを抱きおこした。すがりつくイユキアの体を強く抱きしめ、首のつけねに唇をかぶせて吸う。イユキアが細い呻きを洩らしてレイヴァートの背に指先を這わせた。
 腕を解いてイユキアを座らせると、レイヴァートはひらかせた膝の間にひざまずいた。顔を伏せ、イユキアの昂ぶりを口に含む。イユキアはその行為に少し慌てたような声をあげたが、レイヴァートが含んだものに舌をからめて口腔でしごくと、その声は快感に熱く潤んだ。
 左腕で力の入らない体をささえ、こらえるように頭を振ったが、ゆるやかに吸われるとイユキアの唇から細い呻きがこぼれた。大きくひろげた自分の脚と、つけねに頭をうずめたレイヴァートの姿が炎の色に照らされている。レイヴァートが動き、くわえる角度を変えられて、イユキアはまた上ずった声をあげた。
 口の愛撫は、もちろんはじめてではない。レイヴァートは自分の欲求だけを追い求めることなく、イユキアの快感を満たすことを常に大切にしていたし、最初はとまどったイユキアも今では彼の愛撫を受けることに恥じらいはなかった。だが、自分のものへレイヴァートが行為をくわえている姿をこうして見るのははじめてだった。そそりたつ自分のものを舐める舌に、あからさまに濡れた音をたてられ、全身がかっと火照りをおびる。
 顔を少し上げ、先端を含んで舌で形をなぞりながら、レイヴァートが上目でイユキアを見てちらっと笑った。彼の目にも興奮の光がある。イユキアがあえいで脚を揺らすと、敏感な先端を舌先でつつきながら、茎に添えた指で裏側をなぞった。強烈にこみあげてきた快感に、イユキアの脚の筋肉が強く張り、こらえた呻きを洩らす。
 レイヴァートがやわらかく頭を動かし、舌を這わせて、また深く呑んだ。彼の口の熱さがそのままイユキアのものをつつみ、熱が体の芯にじかにつたわってくる。
「ん‥‥ああっ‥‥」
 あえぐイユキアの肌に汗が光り、快感にひらいた唇は上ずった息を吐いた。レイヴァートが左の足首をつかんでさらに足を大きくひらく。イユキアの右手がのび、濃密な愛撫を続けるレイヴァートの頭にふれた。首すじから頭へ逆に指先をはしらせ、指の間に髪をからめて激しく乱す。その指がぐっと黒髪を握りしめ、細い呻きをあげると、イユキアの全身に強い緊張がはりつめた。
「──っ‥‥」
 レイヴァートの口の中へ達した精を放つ。体を数度ふるわせ、ぐったりと首を折った。レイヴァートはイユキアの楔を口に含んだままゆっくりと吐精を呑みこみ、顔を離さずに、しばらく舌をからめて愛撫を続けていた。熱い口の中で、イユキアのものはまた立ち上がり、硬くなっていく。
「や‥‥、レイ‥‥」
 拒絶の声ではない。求める声だった。
 髪をつかんでいたイユキアの左手がレイヴァートの首すじに落ち、汗にすべって、肩に爪をたてた。顔を上げ、レイヴァートは太腿の内側へ顔を寄せてくちづけた。軽く吸って、自分がつけた痕へ舌を這わせる。わずかな愛撫にも、敏感になったイユキアの脚はビクリと震え、肌が反応する。それを楽しんでいると、イユキアにまた髪を引かれた。
 レイヴァートは体を起こし、熱をおびたイユキアの目をのぞきこんだ。ずっと水薬をさしていないので、瞳は完全な金の色に戻っている。内側に炎をはらんだような瞳にさらに火の色がうつりこみ、激しいほどの輝きをおびていた。
「イユキア」
 囁き、イユキアの顔に落ちかかる髪をやさしい指先でかきあげる。首すじをやわらかく吸いながらイユキアの体を敷皮へ倒すと、レイヴァートは左手でイユキアの右膝をすくい、膝を大きくひろげさせた。
 イユキアは逆らうこともなく、ただ陶然と酔った表情でレイヴァートを見つめた。さらに深い愛撫への予感を共有するこの一瞬、レイヴァートはイユキアに許されているのを感じる。もっと深くふれてもいいと、ふれてほしいと、求められている。体の芯が粘るような熱をおびた。
 レイヴァートの指がイユキアの後ろをさぐる。イユキアをじっと見つめたまま、彼の指はゆっくりとイユキアの内側へ入りこんで、浅く慎重に戻した。イユキアが息を吐いて体の力を抜くのをたしかめながら、もう1度やや深く沈める。
「あ‥‥」
 体の奥へ入りこんでくる感覚に、イユキアが唇から小さな呻きを洩らした。内を圧迫する違和感が奥へすすんでくる。それ自体は快とも不快ともつかない感覚だったが、その向こうにある快感を知る体にはどこまでも甘い先触れだった。体の内をふれられるたびに、ぞくりとして指を締めつけてしまう。いったん動きをとめたレイヴァートはイユキアの力が抜けるまで待ち、またゆっくりと動かしはじめた。熱いうずきを残して、指が引かれる。
 ゆっくりと、今度は奥まで沈められた。また引いて、丁寧な愛撫を施し、指をふやす。その間も時おりイユキアの胸元や肩へくちづけを落とした。
 いつものように、レイヴァートはやさしく時間をかける。イユキアはじわじわと昂ぶらされ、焦れてくるのを抑えられない。レイヴァートが焦らしているわけではない。すべて与えられるのがわかっていても、今すぐに欲しい。言葉にならない声をこぼして腰をゆすった。
 指が不意に強く内襞を擦り、敏感な一点を刺激しはじめた。乱れる愉悦を知る体は、痺れるような快感に強烈に反応する。
「ああっ!」
 指の腹でさらになぶられた。同じ場所を幾度も擦られ、執拗な快感に体は一気に追い上げられる。髪を乱して頭を左右へ倒しながら、イユキアがとぎれとぎれにレイヴァートを呼ぶ声は、完全にかすれていた。
「レイ──‥‥ああ、レイっ‥‥」
 散々翻弄してから、指が抜かれる。満たすものが消えた脱力に、イユキアがあえいだ。さらに強い快感への期待で、レイヴァートを追うまなざしはどうしようもなく淫らだった。イユキアに荒々しく体をかぶせ、レイヴァートが唇を重ねた。汗に濡れた体を強く押し付け、肌を擦りあわせながら舌で深く口腔をさぐりぬく。顔を離し、彼は低い声で囁いた。
「欲しいか、イユキア」
 陶然とうるんだ目でレイヴァートを見上げ、イユキアはためらいなくうなずいた。脚をレイヴァートにからめ、呻く。
「‥‥お願い‥‥」
「俺もだ」
 熱い囁きを返し、レイヴァートはイユキアの膝をかかえて足を大きくひらいた。充分な時間をかけたが、それでも慎重にイユキアの内へ己を沈めていく。
 硬い怒張に貫きあげられる、圧倒的な感覚に、イユキアが身をそらせて敷布の毛布をつかんだ。口をあけて大きくあえぐ。肌を汗の珠がつたった。腰の奥がじんと熱くてたまらなかった。その熱がやさしく、だが強引に体を押しひらいて、深いところへ満ちてくる。
「ん‥‥あああっ‥‥、ああっ」
 首をきつくのけぞらせる。ゆっくりと奥までみなぎる、その一瞬ごとに快感が生じた。
 貫いて、レイヴァートが動きをとめ、深く息をついた。イユキアは官能に溺れた目でレイヴァートを見上げる。彼が自分の内側にいるのだということが、まだどこか信じられなかった。己の内側にみなぎる脈動が、彼のものだということが。
 ──レイヴァートは知らないだろう。はじめから、惹かれていた。黒館の主を畏れるでも見下すでもなく、ただレイヴァートが端然とイユキアの前へあらわれたあの日から。自分でもたじろぐほど、心がレイヴァートに傾いてゆくのがわかった。
 だから、何も見せまいとしてふるまったのだ。距離を置き、あきらめようとした。それしかできなかった。望みをかけたこともない。ふれてはいけない相手だと思った。こんなふうに深く身を重ねることがあるなどと、夢にも考えなかった。
 それとも、やはりふれてはいけない相手だったのだろうか。快楽に酔った頭のすみで、イユキアはぼんやりと考える。昨日も、その前の時も、レイヴァートを傷つけるほど大きく力を奪わなかったのは、単なる幸運にすぎない。いつか、もっと危機的な、イユキアの命があやういほどの状況で同じことがおこったなら、どうなるのか、自分を制御できるのか、イユキアには自信がなかった。
 3度目はない。あってはならない。決して。
「愛している、イユキア」
 囁く声に、イユキアは息をつめる。体の真芯が熱く乱れた。答えられずにレイヴァートを見上げる。イユキアをのぞきこむ男の目はただ真摯でひたむきだった。何もかもを投げ出して、そのまなざしにすがってしまいそうになる。
(いつかは、離れる──)
 王を守るべき王城の騎士と、魔呪の使い手であり体現である黒館の主と。同性であること以上に、あまりにも異なるものに縛られた2人だ。いつかは離れる、とイユキアは呪文のように自分にくり返した。いつかは。どんな形であれ、終わる。
 それがいつかはわからない。ただその時に、レイヴァートをあきらめられるだけの強さが己にほしかった。引きとめずに彼の手を離し、彼を解放するだけの強さが。
(いつかは‥‥)
 ゆっくりとレイヴァートが腰を動かし、体の深みを乱されたイユキアの喉から甘い呻きがこぼれた。レイヴァートの体を膝で強く締めつける。一呼吸おいて、ぐいと深い角度で突き上げられた。強烈な快感に全身が熱く痺れ、ほとんど声も出なかった。
 レイヴァートの荒い息が聞こえる。彼の鼓動を、重ねた体と自分の奥の両方に感じた。誰よりも近く。信じられないほどに深く。受け入れ、貫かれる。
 今、この瞬間だけは、イユキアはレイヴァートのものであり、レイヴァートはイユキアのものだった。腕をのばしてレイヴァートの背に回し、力強い筋肉の律動を感じながら、イユキアは満たされる官能に溺れる。レイヴァートの突き上げに全身でこたえ、法悦の声をあげて腰をゆすりあげ、ただレイヴァートを求めた。頭の芯が白熱し、なにもかもが押し流される。自制もためらいもなかった。この瞬間だけがほしかった。
 レイヴァートの楔に容赦なく深みをえぐられ、強く突き上げられて、とめどなく淫らな声がほとばしった。互いに互いをむさぼりながら、動きは激しくなってゆく。
 大波のような快感の末、絶頂に押し上げられた。かすれきった声を上げ、首をきつくのけぞらせたイユキアは、熱い飛沫がレイヴァートの体との間にはじけるのを感じる。強烈な解放感にすべてを見失い、レイヴァートにしがみついて身をふるわせた。
 体が甘くしびれたようで、もう動けない。レイヴァートの背に回していた腕がずるりと落ちた。レイヴァートがゆっくりとした動きでまた深みを貫き、イユキアの肩に顔を伏せて動きをとめた。荒い呻き声が聞こえる。体の奥に熱い精がほとばしるのを感じながら、イユキアはもう1度喉をそらせ、長い法悦の声をあげていた。


 少しの間、どちらも動かなかった。
 やがて、レイヴァートが胸を大きくあえがせながら、イユキアの内から己を引き抜く。イユキアが小さく身じろいだ。
 座って息をととのえ、レイヴァートは身をかぶせてイユキアの額にくちづけると、布を取りに立った。
 戻ると、イユキアは上体をおこして座りこんでいた。汗にまみれた肌が炎に照らされ、艶のある光の中に愛撫の痕がはっきりと浮き上がっている。髪は肌にもつれ、口元は唾液のすじで濡れ光り、目元には涙の痕が残っていた。
 まだ茫然とした瞳でレイヴァートを見たが、手をのばして布を受け取り、体を拭った。レイヴァートもざっと体を拭い、火の前に置いたままだったワインを一口飲んだ。杯を手渡され、イユキアも大きくあおる。その手はかすかにふるえていた。
 暖炉の炎は少し弱くなっていた。熱くなった肌が部屋の冷気を感じとってたちまち冷えてくる。イユキアの体を抱きよせると、もう1度毛皮の上へ倒し、レイヴァートは体の上へ毛布をひろげた。イユキアに唇を重ね、ゆっくりと味わうようなくちづけを与える。
 顔が離れる。体を寄せて横たわると、イユキアがかすれきった声でつぶやいた。
「‥‥今日、帰るんでしょう?」
「ああ」
 レイヴァートは気まずい表情で返事をした。そろそろ夜が明けている頃だ。王城に報告にも行かねばならないし、そもそも、イユキアの帰還の予定日でもあった。
「すまん。‥‥あまり無理をかけるつもりはなかったんだが、つい」
 イユキアが横目でレイヴァートを見る。クスッと小さく笑った。
「私がフィンカから落ちたら、あなたのせいだ」
「落ちないように縛っておいてやろう」
「そうして下さい」
 レイヴァートの肩に頬をよせ、体に腕を回してイユキアはレイヴァートにすがる。レイヴァートが強く抱きしめ返した。
 イユキアが、かすれた声でくり返す。
「‥‥そうして下さい」
 まだ火照りにざわめく肌を抱きしめて、レイヴァートはイユキアの鼓動を腕の中に感じている。情事の残り香が肌から強く匂いたった。肌の内にあるこの熱を知っているのはレイヴァートだけだ。これほど甘えた声を聞くことができるのも。
「いいものだな」
 と、つぶやいた。けげんそうに見上げるイユキアへ、
「いや。冬長に誰かとこうしていられるというのも」
「誰か、いたでしょう」
 イユキアにしては、珍しいことを言う。レイヴァートの過去の恋人のことなど1度も話題にのせたことはない。レイヴァートは左で頬杖をついて、イユキアの顔を間近に見下ろした。まだ快楽の名残りに酔いしれたまま、どこか頭が回っていない様子でぼうっとレイヴァートを見ている姿が、ひどく可愛らしい。右手をのばしてイユキアの頬にあて、親指で頬のまるみをなでた。いつもこれくらい警戒がとけていればいいのだが、と思う。
「いない。誰も。俺は、人を抱いたことはあっても、こんなふうに誰かとすごしたいと思ったことはない。お前だけだ、イユキア」
 イユキアがはっきりとたじろぎ、目をそらした。
「‥‥すみません。変なことを聞いて」
「何も」
 レイヴァートは微笑する。また体をかぶせて抱きしめ、囁いた。
「あとでまた洗わないとな、体」
「‥‥自分で洗いますよ」
「それは残念」
 からかったレイヴァートを、イユキアがにらむ。
「見慣れていると、言ったくせに」
「だが、何度見てもいいものだ」
「‥‥馬鹿」
 顔を赤くして横を向き、ぼそっとつぶやいた。レイヴァートが笑い出す。そっぽを向いたままのイユキアのあごに指をかけて自分へ向かせ、軽口まじりに機嫌をとる。イユキアもそのうち笑い出し、レイヴァートの肩に頭をもたせかけた。
 他愛もない、ばかばかしい会話を続けながら、2人は毛布の下で互いの体をよせあわせる。他愛もない、ばかばかしい、わずかな時間。炎のあたたかさと互いのぬくもりが心地よかった。
 雪がふればいい、とイユキアは思う。このまま何もかもを忘れるほど。すべてを抱きこむように。白く。容赦なく。
 雪がふればいい。この冬長をうめつくすほど。

【14】

 短く眠った後、身支度をしてかるい食事を取り、イユキアはジノルトとエギンの家を訪れた。サーエシアの具合を診るためだ。レイヴァートはその間に街道警備の詰め所までフィンカを走らせ、ハサギットとキルシの死をあらためて報告に行く。
 ジノルトはレイヴァートが「誓約破りの剣士を返り討ちにした」ことを素直によろこび、イユキアへまじないの礼を言った。
 レイヴァートの妹はさすがに兄に似て、事情を汲むのが上手い。森で何があったのか、イユキアがどう関わったのか、一切聞こうとしなかった。が、しきりにイユキアといっしょにいられないまま冬長の訪問がすぎたことを残念がる。「お話したかったのに」と。あんまり落胆していたので、イユキアはレイヴァートと2人の帰還途上、前鞍に座って揺られながらつぶやいた。
「私と話したところで、おもしろいとは思えないんですが。何か思いちがいなされているのでは‥‥」
 イユキアの体に回した手で手綱を取りながら、レイヴァートがふっと笑った。フィンカはゆるい速度でのどかな丘陵の間を抜けている。
「竜の罪障の話をしたろう」
「ええ」
 サーエシアの病──陽光に極端な拒絶反応を見せるあの病のことを、侮蔑の意をこめてそう呼ぶのだと。
 イユキアは前を向いたままうなずく。随分と慣れたが、速歩をしている騎上で後ろを見るのはまだ怖い。
「だから、サーエには友人と呼べるものがほとんどいない。言い伝えを信じる者はあれを避けるし、信じない者も信じる者の目を気にして関わりを避ける。俺が、人付き合いがあまりないのも悪いのだがな。人があまり寄らん」
「‥‥‥」
「お前は、サーエの病に惑わされず、あの子を見ている。だから、あれはお前が好きなのだろうと思う」
 やさしい声だった。フードの中で、イユキアが目を伏せる。白い吐息が冬の風に散った。
「本当なら、城下よりはあの叔父の家で暮らした方が本人も楽しいかもしれないが。あまり目のとどかないところへやるのも心配でな。勝手な話だ」
「‥‥叔父上のほかに、血筋の方はいらっしゃらないのですか?」
「遠縁ならいないことはないだろうが。探しもしないし、つきあいのある者はいないな。俺は子供の頃はほとんど国には戻らなかったし」
 その話はイユキアも聞いている。レイヴァートは13でアシュトス・キナースへ戻るまで、国の外で育った。
 少しの間考えこんでいたが、イユキアはためらいがちにたずねた。
「‥‥レイヴァート。叔父上が竜を探しに旅立たれたのはいつですか?」
「ん。たしか‥‥多分、11年くらい前だな。それからほとんど帰らん。あれは俺がアシュトス・キナースへ戻ってはじめて叔父と会った、その半年ほど後だった」
「手紙が来ると言ってましたが、定期的に?」
「3月から半年に1度くらいな。王城に、とどく」
「あなた宛に?」
「だけではないようだが」
 微妙に言葉をにごし、少し間があってからレイヴァートは言葉を続けた。騎上でもあり、イユキアはフードをかぶっているので、とどくように声はやや大きい。
「たしかに、俺も思ったことがある。叔父は、王城の命を受けているのではないかとな。帰還せずとも荘園も取り上げられず、女を管財人にすることも認めて、王城が叔父に示す厚情はあつい。竜探しが王城の命によるものであるならば、それもわかる。お前が考えているのもそのことか?」
「‥‥ええ」
「竜がまたどこかにいると思うか? いや、そもそも竜とは一体何だ?」
「天地の獣」
 とは言ったが、イユキアはすぐに首を振った。
「はっきりとはわかりません。それが、本当は一体何なのか。私も‥‥昔、竜を探したいと思ったこともありますが」
「本当か?」
「魔呪にかかわる者ならば誰でも、言い伝えにある圧倒的な力に興味を持ちます。子供が1度は風邪を引くようなものですよ」
 かすかな微笑を含んでイユキアはつぶやき、それきり会話は途切れた。
 レイヴァートが軽く合図し、手綱を打って速度を上げた。揺れるイユキアの体にしっかりと身をよせながら、
「随分上手になったな」
「‥‥ありがとう」
「春になったら遠乗りに行こうか」
 イユキアは返事をしなかったが、レイヴァートの腕にふれる体はやわらかく、レイヴァートの動きに合わせて自然に動いていた。冬の風がとおりすぎていく中、互いにふれたところだけがあたたかかった。


 王城へまっすぐ向かうアシュトス・キナースの主街道へ道が入っていく手前で、イユキアは獣の背から降りた。後鞍から自分の荷をとり、心配そうに見おろすレイヴァートへ微笑を向ける。
「ここからなら森にも近い。大丈夫ですよ」
「‥‥ああ」
 レイヴァートはうなずいた。王城へまっすぐ戻らねばならないのは確かだったが、何ともしがたい心残りですぐには身が動かない。イユキアが暗く染めた瞳でレイヴァートを見上げ、何か言おうと唇が動いたが、その視線はふっと宙へ泳いだ。
「‥‥雪」
「え?」
 レイヴァートも視線を追って顔を上へ向ける。冬の、やけに白っぽい空には不ぞろいな雲がいくつか流れているが、雪の空ではない。だがたしかにイユキアの言うとおり、ちらちらと白いかけらが羽毛のように落ちてくるのが見えた。
 手袋で受けると、たちまちに形を失ってとけ、革の表面にほんの小さな沁みを残す。それは風花だった。遠い空にふる雪が、風に飛ばされてきたものだ。ほんのわずかな、遠い雪の気配のようなもの。
 イユキアが白い息をついた。血に汚れたマントは荷の中で、彼はレイヴァートから借りた旅装の茶色いマントに全身をつつんでいる。そのマントにも淡い光がいくつかとまっていた。
「また寒くなりますね」
「ああ。そうだな」
 レイヴァートも口元に息をくもらせ、手綱を取った。風花は、まるで幻だったかのようにあっというまに消え失せる。レイヴァートは獣の腹へ踵を入れると街道へ向けて走らせはじめた。遠ざかる姿をほとんど見おくることなくフードを深くおろし、荷を肩にかけたイユキアは、黒くひろがる森の方角へ道を外れて歩きはじめた。


 冬の泉は透徹した色の内に深い闇を呑み、まるで黒い鏡のようだった。木を丸くくりぬいた椀に泉の水を汲んで手渡され、一口飲んで、イユキアはそれを相手に返した。氷を呑んだようにつめたい。舌が痺れる。
 森の長老は同じように一口飲み、残りを地に捨てた。ひとつは客に、ひとつは自分に、ひとつは森に──と、いうことだ。骨ばった手足を白っぽい長衣ひとつにつつんだだけの姿だったが、森長は寒さを苦痛と感じていないようだった。
 泉のそばの地面に互いにあぐらを組んで向き合った。イユキアは茶色いフードを首のうしろへおろして白い顔をあらわにしている。他に人影はなかったが、木々の間に森の民がいることはわかっていた。
 長が静かに言った。
「南西の森の祓えを行ってくれたようだな。感謝する」
 イユキアの頬を微笑にも足りない揺らぎがかすめる。やはり知っているのだ、長は。
「あの森に、森の民はいないようでしたが」
「はぐれ者が知らせにきてな」
「何故森の民はあの森を去ったのです?」
「我らも随分と数を減らした、黒館の主。幾度も、さまざまなゆえあって減ってきていたが、5年前イヴァンジールとの戦いで焼かれた森を守ろうとして、また多くが死んだ。‥‥今、はぐれ者以外の民はこの森にしかおらん」
 冬長の森はどこまでも静かに彼らの声を呑みこみ、ゆらぎもこだまも返らなかった。イユキアは、暗い色の瞳で物憂げに長を見つめる。
「遠見の民のように、あなたがたも去りつつあるのですか?」
「さて、な。それが運命ならばそうなるのであろう」
「運命」
 温度のない声でぽつりとつぶやき、イユキアはゆっくりと背すじをのばした。森の民は小柄なので、イユキアより目の位置が低い。長はどっしりと落ちついたまなざしでイユキアの視線を受けとめていた。
「あの魔呪師は、森に竜が封じられていると信じたようです。竜の力を得るために〈杭〉を抜こうとしていました。‥‥長。あなたはあの森に何が封じられているか、ご存知ではないのですか?」
 すぐには答えず、長の黒い目がイユキアを見つめていた。イユキアは白い指で空間をなぞる。
「中心の眼に王城。蒼灼の位置にこの森。黒瞶に黒館。紫龕にはザルウェントの神門。その符軸を内環する位置に森が3つ。ひとつは、あなたの言われたイヴァンジールに焼かれた森。ひとつは、あの南西の森。ひらいた扇の要には港町クーホリア。これらは全体でひとつの魔呪を描き出しているのではありませんか?」
 指をおろし、長を正面から見つめた。
「クーホリアの丘に遠見の骨が埋められていたのも、その術の一環でしょう。術律の流れをまとめ、王城へと反照させるために、遠見を骨と為して使った」
 クーホリアの海をのぞむ丘から前年の冬に掘り出された古い頭蓋骨は、額に小さな穴がうがたれていた。第3の眼。双眼では見えないものを見るために、遠見の一族は額に穴をあけ、貴石を埋めこんでいたと云う。
 イユキアは1度、王城に招かれてその骨を検分している。その時、どこか奇妙なものを感じていた。どこか、完全な骨ではないような。
 ひとつ呼吸をおいて、そっと続けた。
「あの場所に骨は、2つ埋められていたのではありませんか? ひとつはその目で海を張り、ひとつは内を向いて王城を張っていた」
「何のために王城を張る」
「竜を、封じるために」
 互いの瞳の奥にあるものをさぐって、どちらも目をそらさない。イユキアの声は泉の表面のようになめらかだった。
「私ははじめ、この地にかけられた術律は王城を守っているのだと思っていました。王城を守り、王を守るための魔呪だと。ですが、それでは竜の骨を地脈に打つ理由がない。あれはたしかに竜を封じるために打たれた杭だった」
 長を見つめて、わずかに間をおく。森長の口元にあるかすかな表情が笑みなのかどうか、イユキアにははかりかねた。
「竜は王城に封じられているのでしょう。森にあるものは、封じの術の、ほんの一部にすぎない。そして王も黒館の主も、竜の番人としてこの地にあるのではありませんか?」
「我らがその答えを持つと思うか、黒館の主」
「この身はかりそめの祭司にすぎない。森と森の民こそが、この地に張られた術の要。‥‥ほかに答えを持つにふさわしい者がいるとは、私には思えない」
 急速に夕暮れがおちてくる。うすぐらい森をゆるい風が抜け、イユキアの白い息を散らした。
 今度ははっきりと、森長は微笑した。きびしい顔の、さびしげな笑みだった。
「遠見も去り、我らも数を減らした。そなたに答えられる者はここにはおらぬ」
「あなたがたの物語を黒館の者に分け与える必要はないと言うことですか」
 ひっそりとした声でイユキアがつぶやいた。その表情はただ静かだった。
「私の存在も、あなたがたにとっては森と城をつなぐ〈杭〉の1本にすぎないのでしょうから。長、私は、竜の骨から記憶を読んだ。竜は王城にいる。あなたがたがそれを知らぬはずはない」
 森長は指先であごの先をなで、考え深い目でイユキアを見つめた。
「知らぬのだよ。口伝には言うがな、竜が王城に眠ると。──だが我らはそれが真実かも知らぬし、竜が何であるのかも知らぬ。それほど長い時間がたってしまった。王城にならば記録もあろうが、我らと王城との距離もひらいた‥‥」
「‥‥‥」
「森のひとつはイヴァンジールに焼かれ、遠見の骨も掘り出された。そなたの言うのがたしかならば、竜を張るべき2つの骨の片割れはどこかへ失われたということになるな。ほころびが生じているのであろう」
「術律が解けつつあるということですか」
「永遠に保たれる魔呪などあるまい」
 呟いて、森長は地に左腕をついて立ち上がった。イユキアも応じて立つ。白い息を長くつき、彼はこごえる指でレイヴァートのマントの胸元をかきあわせた。
「竜が目ざめるかもしれないと?」
「眠るものが竜であるならば、な。おそらく当代の王はそれを考えている」
 イユキアがゆっくりまばたきしながら、表情の消えた目で森長を見つめたが、何も言わなかった。
 イユキアを導くように先に立ち、長は立ち枯れた下生えを踏みこえて、細くくねる獣道をたどっていく。
「かの御人は、王城の深くにある扉をひらく心づもりでいるようでな。いずれほころびるものならば、己が手でほどいてしまおうということやもしれぬな」
 その声にも読めるような感情はなく、イユキアは黙ったまま冬の固い大地を踏みながら歩き続けた。ふいにヒュイッと鳥の声のような音がひびき、口笛を吹きながらセグリタが木々の間から姿をあらわした。少年は先刻あずかったイユキアの荷をかついでいる。
「こっちだ、イユキア」
 ぱっと長と先導を変わって、イユキアが礼を言おうと見回した時は、すでに森長の姿は灰色の森に消えていた。森の民の動きを森の中でとらえるのは難しい。セグリタにつれられるまま歩いていくと、どこか見知った木々の景色が周囲にあらわれ、森を抜ける道に出ていた。
「どうだった、冬長」
 セグリタが少しばかり拗ねたような口をきく。考えごとをしていたイユキアはまばたきしたが、すぐに少年へ微笑を向けた。
「そうですね。少し、疲れましたね」
 ふーんとつぶやいて、セグリタは木々の間から空を見上げ、鼻を数回うごめかせた。夕暮れの空は濃い紺青にかわり、淡い星がまたたきはじめている。
「明日からもっと寒くなるね。雪がふるかも」
 イユキアは前を見たまま、その言葉に小さくうなずいたが、瞳は遠くを見ていた。


 短剣を使って布を幾度も裂いた。単調な作業、単調な時間。
 漆喰で煉瓦をかためた暖炉の中では炎が燃えていたが、暗い部屋の中の唯一の光は、冬の重苦しい空気の前でいかにも無力だった。
 イユキアは暖炉の前に置いた小さな平椅子に腰をかけ、布を裂いていた。椅子は拳2つ分ほどの高さしかない。膝の上に細切れになった布が積まれると、イユキアは指でそれをすくいあげ、炎の中へ1枚ずつ投げ入れはじめた。大きく揺らぐ炎が布地をなめ、包み、やがてめらめらと燃え出すのを見ながら、ゆっくりとその動作をくりかえす。
 布の一部は黒くかわいてゴワついていた。イユキアのマントだ。あの封じ地で血に濡れたそれを、イユキアは丁寧な仕種で時間をかけ、残らず火にくべた。布地の焼ける、獣臭めいたにおいが煙とともにたちのぼり、煙突を抜けていく。炉床に灰が黒く散った。
 最後の1枚が燃え尽きるまで、イユキアはじっと炎を見つめていた。
(‥‥永遠に保たれる魔呪などあるまい──)
 そう。それはたしかに森長の言うとおりだ。そしておそらく同じことを、王城の王も考えている。いつか封印はほどかれると。その先にあるものを、きっとあの王は見据えている。
 レイヴァートの叔父は本当に竜を「探し」に行ったのだろうか?
 イユキアは炎を見つめながらまとまりのない考えをめぐらせる。封じられているものがいつかは解放されると、そう見据えたのならば、王は別のことを命じたのではないのだろうか。
(竜を御する方法を知る者は、誰もいない‥‥)
 パチンと樺の枝がはぜた。炎が一瞬ふくらみ、強まった熱気がイユキアの肌をなでた。首のつけ根にふっと熱がともるのを感じ、イユキアは膝を引きよせて身をちぢめた。目をとじる。レイヴァートはいつでもそこに印を残した。左の首の根元、やや肩に近く、鎖骨の上。今でもまざまざと唇の熱を感じとれるほど、幾度も。その場所を唇で愛し、己の存在を刻んだ。
 襟の下を指でさぐり、指先に愛撫の熱を思い出しながら、イユキアはふいに喉の奥でつまった呻きを洩らした。裂かれるような痛みが身の内に凝結して息ができなかった。
 王はいつから、このことを考えていたのだろう。
 王城は竜を封じ、王はその封印の番人となる。そしておそらく竜との絆ゆえに、王は他のあらゆる魔呪から守られる。
 ──黒館の力を除いて。
(お前が王への凶器となる──)
 ナルーヤの言葉がよみがえった。そう。王はいつから知っていたのだろう。王は封印の番人だが、黒館の主はその王を張る番人なのだ。王権から離れ、王を殺すだけの力を与えられて。
「‥‥レイヴァート」
 小さな声で呻いて、イユキアはかかえた膝に額をおとした。体のすみずみまで痛みが満ちて、息ができない。春も終わり、空気が夏のはなやぎをおびはじめていたあの日。レイヴァートは妹の治療のために黒館を訪れた。だが、はじめにそれをすすめたのが王その人であったと、イユキアは知っていた。レイヴァートが自ら言ったのだ。王が黒館の主の人となりを知りたがった、と。
 そのすすめと、病身の妹への思いから、レイヴァートは黒館を訪れた。
(王はいつから知っていた‥‥)
 黒館の主が、王への番人であると。
 だから、己の信頼する近衛を近づけたのだ。イユキアが何者であるか探り出し、王城とつながりをつくるために。彼らがこれほど近づくとは予測しえなかっただろうが。
 額に拳をあて、イユキアは動かなかった。
 レイヴァートは知るまい。──知っていたはずがない。己がそもそも、黒館の主への番人という役割をおびて動かされたのだとは。知っていたら一線を越えたはずがなかった。
 炎の前に座っているのに体の芯が凍るようにつめたい。そろそろと息を吐き出し、手をのばしてテーブルにたたんで置かれた茶色のマントを引きよせた。ひろげて羽織り、身をつつむ。炎を凝視し、レイヴァートのマントをきつく身に巻いて、体を小さくちぢめた。
 肌がまだレイヴァートをおぼえているのがわかった。重ねた彼の体の熱さ、愛しむような指先、耳元に囁く声のひとつひとつを。
 レイヴァートの肌にもこんなふうに自分が残っているのだろうかと、イユキアはぼんやり思う。イユキアの体がおびた熱を、彼の肌はおぼえているだろうか。思い出すだろうか。
 目をとじて苦痛をこらえていたが、やがて、イユキアはふっと微笑した。それでもこの冬長の記憶は、幸福だった。彼の傍らで、彼の声と言葉を聞き、仕種を見た。友人に話しかける声、カードをめくる手、暖炉の火をととのえようと身をかがめる背中。──イユキアはレイヴァートばかり見ていた。ささいなふるまいのひとつまで。今まで見たことのないレイヴァートを見ていた。
 そばにいられることが幸せだと思った、そのことだけは真実だった。イユキアにとっても、そして願うならば、レイヴァートにとっても。
 雪がつもり、やがて消えても、大地はその雪の記憶をどこかに宿して残す。冬の記憶は深くに眠ったまま消え去ることはない。そんなふうに、醒めても残るものはあるだろうか。この身に──あるいは、心に。
 ゆっくりと目をあけ、イユキアは暖炉のほそい薪が燃えつきるまで、炎の色を見つめていた。火が消えると、火かき棒を手にして灰を中央に高く寄せ、半球状の鉄蓋をかぶせた。
 名残りの熱はたちまち貪欲な冷気にくいつくされ、室内は冬の空気に満たされた。マントをかきあわせながら立ち上がり、イユキアはふと窓に目をやる。雪はいつふるのだろう。
 数秒、凝然と窓枠の外の闇を見つめていたが、表情のない顔を戻すとイユキアは足音を立てずに歩き出した。
 どうでもいいことだ。もはや雪を望んでも待ってもいない。今はただ、静かに眠りたかった。

-END-