【My Favorite】2.

 髪の水滴を拭いながらエースが歩み寄ると、先にシャワーを使ったサーペントは一人用のカウチに丸まって眠っていた。湿った髪が頬から首すじに丸く落ちているのを、エースは指先でかきあげ、頬にそっと唇をあてた。
 カウチのそばの床に腰をおろし、あぐらをかいて、ビールのプルトップをあける。泡の冷たい爽快感が喉をすべりおちていくのを楽しんでいると、サーペントがつぶやいた。
「勲章、もらったんだって?」
「らしいな。聞いたか」
 今のサーペントが自分でニュースを読むはずがない。ちらっとエースが横目で見ると、サーペントは目をとじたままだった。ゆったりとしたスウェットの襟口が大きく開いているせいで、首のつけ根にエースが残した痕がはっきりと見えている。エースは膝をついて身をおこすと、同じ場所にかわいたキスをおとした。
 サーペントが小さな溜息をこぼし、目をとじたまま、自分を抱くようにもっと身を丸める。髪をなでてから、エースはまた元の体勢に戻ってビールを飲みはじめた。
 また、サーペントがつぶやいた。
「お前の墓があるんだって?」
「墓?」
 きょとんとして、エースはサーペントを見た。それからふいに納得した表情になって、
「ああ。メリーはわかっていないだろうが、あれ、俺が "死ぬ" 前からあったぞ」
 さすがにサーペントが目をあけ、眉をひそめた。
「イジメか罰ゲームか?」
「いや。‥‥特別クラスの卒業課題で」
「士官学校の?」
「その後。任務と並行していくつか教育過程を受けてた。それで、情報操作のクラスにいたとき、偽造の死亡証明書とフェイクのデータで軍の墓地の区画が買えるかどうかためしてみた」
 サーペントが頭を上げ、右手で頬杖をつき、左手で頬に落ちかかる髪をかきあげながらエースを見つめた。エースはビールを一口飲み、うなずいてみせる。
「そういうことだ」
「買って、そのまま、放っといたのか?」
「友達と金出しあって無名の墓碑だけたてた」
「どーして」
「その時はおもしろいアイディアだと思ったんだ」
 その答えに、サーペントが笑った。目をとじて丸い体勢にもどる。エースがまた髪をなでた。指先で頬をなで、唇をなでる。
「元気だったみたいだな。何か変わったことは?」
「何も」
 もぞもぞと、体を動かす。さらに小さく丸まった。目をとじたまま、
「エース。‥‥あと十日くらいかかるかもしれない」
「いつまででもいいさ」
 頬に手をあてて、エースはまた額にキスをした。何日かかろうと、本当にいつまでかかろうと、どうでもいい。このヴィラは一ヶ月借りてあるし、長引きそうなら場所を移すだけだ。サーペントは退屈するだろうが、今の彼には都市の喧騒は神経にさわる。
 片目をあけて、サーペントがエースを見た。
「お前、楽しんでるだろ。俺が弱ってるから」
 エースは思わず笑って、目の上に落ちたサーペントの前髪を丁寧な指先でかきあげてやった。
「弱ってるのか。そりゃ気がつかなかった」
「‥‥弱ってるよ」
「さっきはそうは見えなかったな」
 激しかったセックスのことをからかうように口にのせると、サーペントは溜息をついて腕をのばし、エースを引き寄せた。逆らわずに体を寄せたエースを強い力で抱きしめながら、低い声で囁く。
「お前、ひどい」
「ああ。悪かった」
 同じように低い声で、エースはあやまった。本当はサーペントを残して行きたくはなかったが、どうしてもエースは出かけなければならない用があった。それはサーペントも納得したうえで、彼はまるで気にした様子を見せなかったが、エースの不在は、思った以上に彼を不安定にさせたらしい。情事の名残りというわけでもなく、サーペントの体は熱かった。
 首の後ろに指が強くくいこんだ。耳元でサーペントの声が呟く。
「お前がいないと、息ができない」
「‥‥!」
 エースは青い目をみはったが、サーペントの腕にかかえられて頭を上げることができない。目をとじ、サーペントの肩に頭を預けた。髪を怠惰になでられながら、相棒の息づかいを聞く。それはいつもより少し浅い。
 もしかしたら、完全に「一人」でいた方がマシだったのかもしれない。お守りなどおかずに。しかしエースは不安だったのだ、彼を一人きりで残しておくのが。今の彼は「弱く」はないが、大きな部分が徹底して欠けている。
 体調が乱れるのも精神的に荒れるのもサーペントにとっては珍しいことではなかったが、今の状態は具体的な病状をともなうだけに厄介だった。
 主な症状は、文字が読めなくなることだ。いや、文字そのものの形状認識はできるが、文章としてのセンテンスをそこから読み取ることができない。知能の問題ではなく、情報の意味を汲み取ることに全く心がはたらかなくなるようだった。外界のデータをはっきり認識しようとしなくなる。何が周囲で起きているのかははっきりわかっているが、そのことを自分の中で順序立てたり分析したりする気がない。
 サーペントがかつて常用していたブレインクラック系のドラッグの副作用ではないかと、エースは疑ったことがあったが、サーペント当人の話によれば子供の頃からたまにそう言うことはあったらしい。その状態に陥ると、どこかにころがりこんではっきりと目が醒めるまで「だらだらしていた」のだと、彼は言った。まあ色々と無茶をしていたんだろうな、とエースは思う。
 エースと組んでから、サーペントにこの症状が出るのは二度目だ。その前にも思えば一度、心当たりはある。前回の時になだめすかして病院で検査させてみたが、実際、脳の器質上の問題ではないらしい。ならば精神的なものだろうか。そうかもしれない。だがこれを「病」と言っていいのか、エースにはよくわからなかった。
 大体、当人が病とは思っていない。サーペントは単なる体調の変化のようにしか考えていないし、不便だという以外に何の感慨も持っていなかった。ただ、世界が大きく欠けているというアンバランスな感じはあるらしく、そのせいだろう、行動がいつもにも増して不安定になる。感情は、むしろにぶいのだが。
 エースの首から腕をほどき、サーペントはごそごそ寝返りを打って本格的に丸くなった。上から薄い毛布をかけてやり、エースはまたそばに座りこんで、黙ったままビールを飲む。二本目が空になるころには、サーペントは卵のように丸まって寝息をたてていた。


 日が傾いたころ、釣果の入ったクリールを下げてメリーとクリスが帰ってくると、エースはリビングのソファで資料を読んでいた。
 メリーが恐る恐るリビングを見回す様子に小さく笑う。
「二階で寝てる。悪かったな、面倒かけて」
「いや‥‥こっちこそ、悪ィ」
 ばりばりと頭をかいて、メリーは籐椅子に腰をおろした。クリスはエースに挨拶だけして、さっさと魚を手にキッチンへ行ってしまう。
 エースがうっすらと笑みを浮かべたまま脚を組み、資料の束を放り出した。
「成程。貧乏クジすまなかったな、メリー」
 メリーは首を振る。エースに「できる限りサーペントと二人きりにはなるな」と言われていたのだが、クリスが勝手に釣りに出かけた──と言うより、逃げ出した──ので、仕方なく残ってあの羽目になったのだ。
「いや。こっちがマズった。あんたが来なかったらちょっとヤバかったかも」
「大丈夫。死にゃしないさ、いいとこ骨折られるくらいだ」
 そう具体的に保証されると余計に怖い。あの瞬間のサーペントの殺気を思い出し、メリーは溜息をついた。たしかに、一対一だとどうにも逃げ場のない感じがした。それを見こしてエースは二人組の彼らを残していったのだろうか、と思う。
 それにしても‥‥
「あいつ、大丈夫か? 何か前と随分雰囲気かわってたけど」
「一過性のもんだよ」
 おだやかに言って、エースは煙草の箱をテーブルから取る。それ以上の何が問題なのかエースは彼らに説明しなかったし、メリーもクリスも必要以上の詮索はしなかったが、サーペントの様子がどこか奇妙なことだけはわかる。エースがそれを心配していることも。そして、サーペント当人がそのことをちっとも気にしてない──ということも。
 サーペントは何も気にしない。いや、サーペントは何も気にしないのだろうと、メリーはずっとそう思っていた。人のことも、自分のことも。今日のサーペントの怒りを見るまで。
 彼の痛覚があんなところにあるとは、意外だった。
 投げられた煙草の箱を受けとめ、礼を言ってメリーは一本くわえ、またとんできたオイルライターを受けとめた。火をつけながら、ぼそっと言う。
「サーペントさ。‥‥あんたに悪いと思ってるんだな、あれでも」
 別の物事に気をとられていたらしいエースが、物凄い勢いで顔を上げるのが見えた。何をそんなに驚いているんだ、と思いながら、メリーは言葉を重ねる。
「俺、軍属のころのお前の話してて、あいつを怒らせたんだ。逆ギレ。あれ、後ろめたいんだと思うよ。お前が軍をやめたことに対してさ」
「メリー‥‥」
「良心なんかひとっかけらもないよーな顔してても、やっぱりどこかにあるもんだよな。正直、意外だったけど、見直したよ」
「メリー」
 もう一度さえぎって、エースはしみじみと首をふる。
「それは、ちがう」
 じゃあどうして、とメリーが問おうとした時、クリスがドア口から顔をのぞかせた。
「サクラマス。ムニエルとフライどっちがいい、エース?」
「フライ」
「小玉ねぎと人参のグラッセ」
「プラスして、オニオンリングがあると嬉しい」
「了解」
 ひらりと手をふって、クリスはまた姿を消す。メリーがしみじみうらやましくなるマイペースっぷりだ。大体、「メリー」と「クリスマス」なんていうふざけたコードネームで仕事に登録したのもクリスの仕業だった。
 畜生──と思っていると、ふいにエースに「サイモン」と本名で呼ばれ、メリーははっと背すじをのばしてエースへ向き直った。エースは指先に煙草をはさんだまま目を細めていたが、どこかまだしみじみとした調子でつぶやいた。
「後ろめたさとか罪悪感とか。そういう可愛げは、あいつ、まったくないぞ」
「そうなのか?」
「そう。俺も一度くらいはそう思ったこともあるけどな。‥‥ないぞ。意外にも良心はあるけど、あまり一般的じゃないところについているしな。ないも同然と言うか、ない方がマシと言うか」
「‥‥そんな相手とよくいっしょにいられるな。人間として欠けてないか?」
 言ってから「しまった」と思ったが、エースはメリーの言葉におもしろそうに笑って、煙草の灰を足元のビールの空き缶へ落とした。
「どこも欠けてない人間なんか、つきあってても面白かないだろうな」
「‥‥物には限度ってものがあるだろうがよ‥‥」
 エースの機嫌まで損ねたくなかったので、メリーはごにょごにょと口の中でつぶやいた。聞こえただろうが、エースは知らん顔で煙草を吸っている。このあたりはやはり相棒より数倍大人だ。
 そう思った拍子に、サーペントが怒った「本当の」理由をエースが説明していないのを思い出した。後ろめたさからくる逆ギレだとばかり思っていたが、じゃああれは一体何だったのだろう。
「あのさ。じゃ、どうしてあいつ、あんなに怒ったんだ?」
「ん──」
 エースは微妙な表情で新しく開けたビールを飲んでいる。どこか面倒そうな、かと言って満更でもなさそうな、そしてそのどちらも押し殺したような、あえて分類すれば「無表情」に近い。
 そんな曖昧な彼の顔を、メリーはこれまで見たことがなかった。思わず目をぱちくりさせる。
「あんたの結婚話を持ち出したから、か? 実はそんなにウブだとか?」
「いや。嫉妬、じゃない。多分」
 やけに歯切れが悪くなったエースの顔をじぃっと見ていたが、メリーはふいに眉をひそめた。
「なんであんたが照れてるんだ」
「‥‥そう見えるか」
「見える。あんたでもそんな顔するんだな」
 否定も肯定もせず、エースはおかしな表情のままビールを飲んでいる。さっぱりわからないまま、しかし何か得難いものを見ているような気分でメリーが凝視していると、上の方で小さな物音がした。はっと顔を上げると、サーペントが頬杖をついて彼を見おろしていた。
 リビングの中央からはは半透明のアクリルで作られた華奢な螺旋階段が二階へのびているのだが、その上段にサーペントが肩に毛布をかけて座り込み、にっこりしながらメリーを見ている。今の音はわざとたてたのだ、と言うことがわかって、メリーはあわてて椅子からはね起きた。いつからそこで聞いていたのだろう。エースはまるで驚いたそぶりを見せなかった。
「俺、クリスを手伝ってくる」
 ん、とエースがうなずくのを待たずに早足で歩き去り、キッチンへ逃げるように駆けこむと、手を小麦粉まみれにしているクリスが振り向いてニヤリと笑った。
「また一戦おっぱじまったか?」
 露骨な言葉にメリーは溜息をつき、あごで示された包丁を手に取るとおとなしく玉ねぎを切りはじめた。


 サーペントはのったりと立ち上がり、毛布を引きずりながら一段ずつ降りてくる。エースは黙ったままビールを干し、ソファのはじによって場所をあけてやったが、サーペントはその足元の床に膝をかかえて座りこんだ。エースの膝にもたれかかる。
「おい‥‥」
「なーんで誰もわからないかなぁ」
 毛布にくるまって丸くなりながら、サーペントは至って憮然とした口調で吐いた。エースは溜息をつき、のばした右手でサーペントの髪をかきまぜる。
 その顔をサーペントが逆から見上げ、強い眸をしてまっすぐに見つめた。
「お前は今のが絶対断然、いいって。何でそんなことがわからないかなアイツも。昔のことばっか言って」
 まじまじと断言されて、エースはまた長い溜息をついた。「軍人」を嫌いなのか「軍人時代のエース」を嫌いなのかはよくわからないが、そのあたりを持ち上げられるとサーペントは得体のしれないゴネ方をする。
 サーペントが不満そうに口をとがらせる。
「何だよ」
「いや。‥‥わかったから、いちいち喧嘩を売るな」
「だってムカつく!」
 これはこれで可愛いんだけどな、などと救いようのないことを考えながら、エースは黙ったままサーペントの髪をなでつづけた。猫のように満足げな呻きを喉の奥でころがし、サーペントは丸くなった体をエースの足にぴたりと寄せて眸をとじる。警戒のかけらもない、エースを信頼しきった表情に見えた。
 そんな顔を見ると、サーペントが自分を愛しているのではないかと思うことがある。ただの行きがかりでもなく、執着でもなく、保身の本能でも、快楽の相手でもなく。
 愛されているのかもしれないと、思う。サーペントが自分を憎からず思っているのはたしかで、そしてそれは多分恋なのだろうと、そこまではエースも確信があったが、それ以上のことになると状況は至ってつかみどころがなかった。サーペントにもそれはわかるまい。彼はわかろうともしないだろうが。
 吐息を口の中で殺して、エースはサーペントの頬骨を親指でなぞった。愛している。いっしょにいられる。今のところそれで充分。すべてを奪ってやりたいが、そんなことが無理なのはよくわかっている。
「夕飯はサクラマスのフライ。それまで寝てろ」
「オニオンリング」
「ついてる」
「うん」
 じつにうれしそうに笑う。本当にこの顔を見ているとだまされる、とエースは思う。とんでもなく用心深いくせに、こんなに無防備な顔をして。黙ったままなでていると、サーペントはまた無邪気に目をとじ、呟いた。
「エース」
「うん」
「俺は今のお前が一番好きだよ」
 ──悪党め。
 とは、言えず、エースは宙に視線をとばした。心臓をつかまれる。どうしようもない。
「‥‥わかったから、それは嬉しいから、メリーにつっかかるな。手を出すな」
「わかった。今日は我慢する」
 不穏な言い方だったが、エースに反論の隙を与えず、サーペントはエースの膝にもたれてうつらうつらしはじめた。動けずに、エースは腕組みしてソファによりかかる。足にかかる重みが心地よく、いつしかそこにつたわるサーペントの呼吸に自分の息を合わせていた。
 ゆっくりと吸って、吐き出して、くりかえしているとひどく安らいだ気分になってくる。
 十日、と頭のすみで数える。十日。サーペントはそれくらいかかりそうだと踏んでいるらしい。もっと早くリカバリーするのではないかという気はしているが、何にしてもいい機会だ。いつも以上に相棒を甘やかしながら楽しくすごすとしよう。まるで普通の恋人同士のように。彼は退屈して文句を言うだろうが、今回ばかりはきっとエースに折れてくる。
 淡い微笑を浮かべ、エースは煙草に火をつけた。この先に何があろうと、何が待とうと、今この瞬間の相棒は彼にもたれかかって何も考えず、悪夢も見ずに眠っている。それ以上に望むことなどなかった。今は、まだ。

END